雨音の迷宮   作:P-PEN

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新章 ビヨンド・マイ・セルフ

 

 

 

 突き抜けるような青空から、容赦のない陽光が降り注いでいる。

 

 環境庁神祇部・境界対策課の本部敷地内。その一角を占める広大な屋外運動場は、実戦的な遮蔽物や不気味な呪力擬似装置がひしめく通常の「訓練場」とは違い、ただ白線が延々と続く見晴らしの良い陸上トラックだった。

 

 タッ、タッ、タッ、と。

 乾いたクレーの土を力強く蹴る足音が、規則正しい一定のリズムを刻んで響き渡る。

 

 トップを快走しているのは、御伽ヒメだ。あの日、特葬班の切り札である九鬼鼎から授かった「天才の欠点」という啓示。それを経てからのヒメは、頭脳による最適解の算出を一時的に遮断し、こうした愚直な「稽古」を日々のルーティンへと組み込んでいた。

 

 しかし、やはり彼女の持つ本物の天才性は、地道な基礎体力の練成においてすら牙を剥く。

 

 走り始めてから僅か数周。ヒメは己の肉体が最も効率よく酸素を取り込める呼吸の周期を掴み、重心のブレを最小限に抑える完璧な体重移動を感覚だけで完遂していた。恐るべき加速力と、燃費の良すぎるスタミナ。額に薄っすらと汗を浮かべながら、彼女はトラックの風を切って平然と、どこか楽しそうにトップを引っ張っている。

 

 「はぁ、はぁ、……っ! まだ、いける……っ!」

 

 ヒメのすぐ斜め後ろ。死に物狂いの形相で、しかし決して遅れることなく執念で喰らいついているのは、特葬班の同僚――三田懿音だ。

 

 元結界班所属の彼女は、前線への強い憧れとは裏腹に、耐久力E-という致命的な虚弱体質を抱えている。本来ならとっくに膝を突いて白目を剥いていてもおかしくない運動量。明るいとび色の髪を振り乱し、白い肌を真っ赤に染めながら、彼女は文字通り根性だけで走っていた。

 

 事実、彼女は耐久力こそ皆無だが、瞬間的な結界構築を可能にする高速戦闘用の機動力そのものは極めて高い。機動を維持するための特殊な筋肉のバネと、前線に立ち続けるという意地が、彼女の足を寸前のところで前へと進めさせている。辛そうな声を漏らしながらも、その走りのペースには一切の乱れがない。

 

 カツン、カツン、カツン。

 

 懿音の隣で、人工的な金属音を硬質に響かせながら、一定の歩幅を保っているのはフリーデリンデ・シュラハトベルクだ。かつて大規模界異によって片手片足を失った彼女は、独自に開発したタクティカル義肢「義手聖装」と義足を細かく調整しながら、ストイックな無表情でトラックを駆けていた。

 

 かつて母国ドイツの修道会にいた頃、フリーデは「修練にかける情熱が欠けている」と同胞たちを辛辣に切り捨ててきた。だが、今、自らの横を走る面々は違う。

 

 天才でありながら自らの傲慢を捨て、愚直に泥臭いベース作りに励むようになったヒメ。そして、壊れかけの身体を悲鳴のような呼吸で震わせながらも、執念だけでついてくる懿音。

 

 (……素晴らしい。これこそが、神の前に立つ祓魔師のあるべき模範だ)

 

 フリーデは、青い空を見上げる凛とした横顔のまま、内心で深く感心していた。特葬班という、界異の穢れすら利用する異端の部署。最初は目付け役として、いつでも粛清するつもりで潜り込んだ。けれど、今ここにいる少女たちは、誰よりもストイックに「強さ」の本質へ向かって足跡を刻んでいる。

 

 カツン、とフリーデの義足が強く土を蹴り、特葬班の三人は一般の祓魔師たちが待つ、次なる混戦のストレートへと突入していく――。

 

 

 

 「は、はぁ……っ、うそ、だろ……」

 

 「なんだあいつら……っ、化け物か……!?」

 

 同じトラックで訓練を行っていた一般のタクティカル祓魔師たちは、完全に死屍累々の様相を呈していた。特葬班の刻む過酷な超ハイペースに巻き込まれ、一人、また一人とトラックの端で膝を突き、這いつくばるようにしてバテて倒れ込んでいる。エリートの矜持をへし折られ、泥を舐めるようにして荒い息を吐き出す彼らの視線の先を、一際軽やかな足音が通り過ぎていく。

 

 「あはは、貴方達もう終わりなの? 境対の精鋭って聞いてた割には、ちょっと物足りないわ」

 

 ヒメは額に微かな汗を浮かべる程度で、弾む息すら楽し気だ。今、彼女の瞳にあるのは、ただ純粋に、限界の先を目指して身体を動かすことへの本質的な心地よさだった。鼎の言っていた、凡人が流す血と汗の『感動』。まだその手前ではあるけれど、地道な稽古が肉体を、そして魂を確かに強くしていく感覚が、ヒメの心をこれ以上なく弾ませていた。

 

 だからこその、無邪気で、容赦のない煽り。

 

 「ちょっとヒメ、煽るようなこと言うのはやめてよ。ただでさえ私達は注目されてるんだ……あーもう、胃が痛くなってきた」

 

 とび色の髪を振り乱した懿音が、必死の形相で並走しながら細い声を絞り出す。几帳面で心配性な彼女は、一般祓魔師たちの突き刺さるような視線と、これ以上自分のサポート業務が増えるかもしれない未来を危惧して、精神的な胃痛に顔をしかめていた。

 

 「フン、この程度でへこたれるなど、それこそ修練が足りない証拠でしょう。情けない」

 

 カツン、カツンと正確なピッチで義足を響かせ、フリーデが冷徹に追撃の言葉を言い放つ。彼女のストイックすぎる基準からすれば、トラックの端で這いつくばる男たちは、祓魔師としての情熱そのものが欠如しているようにしか見えなかった。

 

 「フリーデまで!? 隊長助けてくれ! 新人たちが化け物だ」

 

 懿音が天を仰ぐようにして悲鳴を上げる。特葬班の先鋒として共に戦う、あの頼れる隊長の背中を恋しく思っての叫びだったが、ヒメは楽しげにポニーテールを揺らしながら、事も無げに返した。

 

 「咎討なら鼎さんと狩衣と装備を身に着けたまま津軽海峡横断遠泳(オーシャンズセブン)をやってるわよ。あの海峡に遠泳する時にだけでる界異が出現したんだって」

 

「なんでそんな遠くで、無茶苦茶やってんのよあの人達は――っ!?」

 

 懿音のツッコミがトラックの青空に虚しく響く。いかにも特葬班が行かされる現場の見本のような状況だった。

 

 

 

 そんな特葬班の漫才じみたやり取りを余所に、ヒメたちはさらにトラックを周回し、完全にへばって動けなくなっている一般祓魔師たちの真横へと再び差し掛かる。

 

 一歩ごとに確かな土の感触を足裏に感じながら、ヒメは走りの速度を落とすどころか、むしろ彼らの視線を一身に集める位置で、悪戯っぽく、しかし底抜けに晴れやかな笑みを浮かべてハッパをかけた。

 

 「そんなところで泥を這ってたら、界異にお尻から食べられちゃうわよ? ほらほら、天才の私がわざわざペースを落としてあげてるんだから、少しはついてきなさいよっ!」

 

 以前のヒメであれば、その言葉はただの「特葬班の鼻持ちならない天才による、傲慢な嫌味」として切り捨てられ、周囲の反感を買うだけで終わっていただろう。

 

 だが、今のヒメの走りには、泥臭い基礎練習を心の底から楽しんでいる圧倒的な熱量と、一歩一歩の地道な「稽古」を自身の血肉に刻み込もうとする、不思議な説得力が宿っていた。

 

 何より、トラックの端に倒れ込む一般祓魔師たちの目を引いたのは、彼女の背後で死に物狂いになっている同僚たちの姿だった。

 

 耐久力に致命的な脆さを抱え、今にも心臓が止まりそうなほどに呼吸を震わせながらも絶対に足を止めない三田懿音。そして、大規模界異によって失った手足の重いタクティカル義肢を軋ませ、肺を酷使しながらも、誇り高く背筋を伸ばして走り続けるフリーデリンデ。

 

 (――あの連中が、あそこまで根性見せて、必死に走ってるんだぞ)

 

 (天才ですら、あんな風に一歩一歩を積み上げてるっていうのに、ここで俺たちが倒れたままでいてたまるかよ……!)

 

 格上の天才たちが流す本気の汗と、その圧倒的な走りの影に隠された執念を間近で見せつけられ、へばりついていた男たちの心に、祓魔師としての、そして凡人としての意地とプライドが強烈に引火する。

 

 「――クソっ、特葬班の化け物どもが……っ! 言うじゃねえか……!!」

 

 泥のついた拳で地面を強く叩き、一人のタクティカル祓魔師が、屈辱と闘志の入り混じった咆哮を上げて勢いよく立ち上がった。それに引きずられるようにして、周囲で倒れていた男たちも次々と歪んだ膝を伸ばし、「うおおお!」と腹の底から声を絞り出してトラックへと足を踏み出す。全身の筋肉を悲鳴を上げさせ、息を詰まらせながらも、彼らは遠ざかっていく特葬班の背中を、ヒメの走る眩しい影をがむしゃらに追いかけて、死に物狂いで走り出した。

 

 

 背後から迫りくる、地鳴りのような足音。それは、決して洗練されてはいないけれど、泥臭くも力強い、無数の凡人たちの執念の響きだった。

 

 フリーデリンデは前を見据えたまま、その不敵な口元を微かに、しかし心の底から満足そうに綻ばせた。

 

 「ほう、少しは骨のある者が残っていたようだな。あれほど無様に転がっていたというのに、再び立ち上がるとは。……ふふ、見直しましたよ」

 

 「ちょっと、フリーデがそうやって嬉しそうにスピード上げるから、みんな急にペース上げ始めちゃったじゃないのよぉ! 私が一番最初に脱落しちゃう、もう、バカばっかり……っ!」

 

 懿音のいつもの愚痴と悲鳴がトラックの空に響き渡る。けれど、その文句とは裏腹に、彼女の足取りは不思議と先ほどよりも力強さを増していた。どれだけ泣き言を言おうとも、彼女の前線への根性と執念は、死に物狂いで追いすがってくる一般祓魔師たちの熱量に、決して引けを取ってはいない。

 

 (きっとこれだ。肉体と意志がぶつかり合う、この熱量――)

 

 先行して風を切るヒメは、背中に受ける嵐のような足音の地響きを聞きながら、胸の鼓動をかつてないほど高鳴らせていた。

 

 鼎から授かった「限界を超えていくための本質」。それは、こうして仲間と汗を流し、泥臭く追いすがってくるライバルたちと競い合いながら、全身で土を蹴り、一歩一歩を肉体に刻み込んでいく。その泥臭い瞬間の全てが、御伽ヒメという天才の、新しくも決して揺るぎない強さの土台へと形を変えていく。

 

 黒瀬澄という、死の底から還ってきたあの人の背中に、いつか生者のままで追いつくために。

 

 「よーし、まだまだ上げていくわよ! 遅れないでついてきて!」

 

 青空の下、運動場全体を包み込んだ熱い足音の嵐が、少女の眩しい決意と確かな強さの予感と共に、どこまでも高く、どこまでも響き渡っていった。

 

 

 

 

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