しばらくの張り詰めた対峙の後、傷つき、体力を激しく消耗したジンオウガは、数の差もあって、これ以上の戦闘は不利と踏んだのか、大きく跳躍して岩壁の向こうへとその巨体を翻した。エリアからの撤退――逃走だ。
武器を収め、レミリアは未だに頭を離れないジンオウガの「瞬間超帯電」の異常さについて、隣の緑髪のハンターに問いかけた。
「……ねえ。あなたたち、何か知っているの? 段階を無視していきなり超帯電状態になるなんて、聞いたことがないわ」
リグルは弓を背負い直し、逃げていったジンオウガの方向を見据えながら、静かに指摘する。
「今年は、雷光虫の大繁殖期なんです」
「雷光虫……?」
「ジンオウガ自身は少量の電気しか出せなくて、大半の電気は雷光虫に由来すること、知ってますよね。つまり、今回異常なのはジンオウガじゃなくて、雷光虫の方です」
「生態系の異変のこと?」
「いいえ、そこが今回のタチの悪いところなんです」
「……」
レミリアは静かに耳を傾ける。
「元々、各地域にはそれぞれ雷光虫の繁殖期があるんです。ベルナ村は4年に1回、ココット村は5年に1回、ポッケ村は2年に1回、ユクモ村は3年に1回」
「ま、まさか……!」
レミリアの頭脳が、その数字の持つ恐るべき意味を瞬時に弾き出した。
――4, 5, 2, 3。そのすべての数字が交わる、最小公倍数。
ゾワリと、レミリアの背筋を冷たい高揚感が駆け抜けた。
古びた生態系の記録。
文字の羅列でしか見たことのなかった「仮説」が、いま目の前で獰猛に牙を剥く凄絶な怪物の姿となって、完全に一本の線で繋がったのだ。
「ええ。今年はすべての地域の繁殖期が完全に重なる年なんです。――60年に1回の大繁殖期!!」
「そうか……」
60も経ったら、こんな現象があるなんて、流石に誰もが忘れちゃうわね……とレミリアの中に納得した。
普通人の一生に匹敵するほどの年月。
例え長寿の種族でも、直近60年以内の記憶しかないだろう。
現役のハンターたちでも恐らく数人しか経験したことがなく、ギルドの古い資料を引っ繰り返しでもしない限り存在すら知る由もない歴史の裏側。
それを今、自分たちはその身で体験している。
「わざわざギルドの古い資料を引っ繰り返しでもしない限り、存在すら知る由もありませんよ」
「ふーん……あんたたち、随分と詳しいじゃない」
驚きが去った後、レミリアの赤い瞳に浮かんだのは、純粋な好奇心と、目の前の緑髪のルーキーに対する明確な「評価の改め」だった。
少し感心したように目を細める。
「普通、ただ資料を見ただけじゃ、こんな異常事態で即座に実感できるわけがないわ」
「僕たちの村の近くでも、同じような個体が暴れたんです。だから、この時期のジンオウガとの対峙経験が、僕らにはある。まあ、当時は先輩ハンターも一緒でしたけど」
リグルはそう言って、レミリアの赤い瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「どうでしょう、ここは一時的に手を組みませんか?」
その提案に、レミリアはフッと鼻で笑ってシャドウジャベリンを背中に担いだ。
「もういいわ。興ざめだわ。クエストの権利は特別に譲ってあげる。あとは好きにしなさい」
「えっ?でも……実績の問題が――」
リグルは真面目な顔で懸念を示した。酒場でレミリアに「実績が足りないルーキーは受注できない」と言われたことを、実直に気に病んでいたのだ。
「クククッ、そんなの嘘に決まってるわ」
レミリアは口元に意地悪な笑みを浮かべた。
「ルーキーだろうが、ベテランだろうが、他人のクエスト受注を止める権限なんて、あたしたちにはないわ」
「えええええええ⁉」
「ま、あとは精々がんばることね」
レミリアの言葉を受け、リグルは呆然としながらも、ハッと我に返って、チルノとルーミアに向き直り、鋭く指示を飛ばした。
「よ、よし! チルノ、ルーミア! エリア『8-1』に誘導しろ! そこにあらかじめ罠を設置してある!」
「よっしゃあああああ! 絶対逃がさんぞおおお!!」
いつの間にか大剣をしっかりと背負い直していたチルノが、手柄を確信してパタパタと勢いよく走り出す。
ルーミアはその場ですぐには走り出さなかった。
彼女は、姉の撤退命令を受けたフランの方へと、ゆっくり歩み寄る。
ルーミアはただ自身のポーチからハチミツの瓶を取り出すと、無造作にフランの前に差し出した。
「……?」
フランが怪訝そうにルーミアを見上げる。
「これ、ギルドの携帯食料と混ぜるとうまいらしいよ。あげる」
「はあ? ……なによそれ」
フランが完全に呆気にとられている間に、ルーミアは「じゃあねー」とばかりに手をひらひらと振ると、パタパタと先行したチルノの後を追いかけて走っていってしまった。
「ちょっと、待ちなさいよ……っ」
引き留める声は、小さく掠れて届かない。
フランは手渡されたハチミツの瓶を両手で持ったまま、その場に釘付けになっていた。
遠ざかっていく、バチバチと緑の火花を散らすジンオウガの防具。
小柄な体躯に不釣り合いな巨大な太刀を背負い、軽快に段差を飛び越えていくルーミアの後ろ姿を、フランはただ、ポカーンと口を開けたままじっと見つめていた。
水飛沫を上げる賑やかな足音が遠ざかり、その金髪の影が、切り立った岩壁の向こうへ完全に消え去るまで。
フランはその場から一歩も動くことなく、彼女たちの姿が消えた暗い通路の先を、ずっと、いつまでも目で追い続けていた。
「なんなんだ、あの子……」
ぽつりと呟いたフランの声だけが、静まり返った渓流に虚しく響いていた――。