「よし、ルーミア、お前はそっちだ!」
「あい」
薄暗い分岐路。短いやり取りの直後、チルノの足音が右の通路へと遠ざかっていく。
ルーミアは速度を落とすことなく、迷わず左の狭い岩肌の通路へと滑り込んだ。
一歩足を踏み入れた通路は、ひんやりとした静寂に包まれていた。
聞こえるのは、自身の軽い足音と、湿った岩肌を伝う水滴の音だけ。
だが、彼女の五感はすでに、大気をピリピリと震わせる独特の「不穏な気配」を捉えていた。
(……いた!)
通路が開けた瞬間、巨影が視界を遮る。
岩壁に背を預け、荒い息を吐き出している雷狼竜――ジンオウガだ。
先ほどの大放電の反動か、全身の超帯電状態の光は幾分か弱まっている。
しかし、こちらの接近を察知した怪物が獰猛な眼光を向け、低く、地響きのような唸り声を上げた瞬間、エリアの空気が一気に爆発寸前の緊張感で満たされた。
「グルルゥッ……!」
ルーミアの身体が、無言のまま滑るように前に出る。
背中から引き抜いた冷たい刃が、薄暗い岩場で妖しくきらめいた。
ジンオウガが前脚を大きく振り上げ、連続叩きつけてくる。
巨体に見合わぬ凄まじい速度。だが、ルーミアは攻撃のテンポを完璧に捉えた。
紙一重。風圧で髪が激しく揺れる距離でその連撃をいなすと、すれ違いざまに太刀を一閃した。
ズシャァァッ!
先ほど、雷光虫弾を受けたの手はまだ痺れてる。
確かな手応えがその痺れた手のひらへ伝わる。
ジンオウガが痛みに吠え、すぐさま長い尻尾を激しくぶん回して反撃に出るが、ルーミアはすでにその攻撃軌道のさらに外側へと着地していた。
ジンオウガが猛攻を仕掛け、ルーミアがそれを最小限の動きでいなし、鋭い刃音と共にカウンターを刻み込む。その張り詰めた攻防が、暗い岩場で何度も繰り返される。
一歩、また一歩。
一見、ジンオウガが怒りに任せて攻め立て、ルーミアが押されているようにも見える。
しかし怪物は、目の前の小さな影を仕留めようと躍起になるあまり、自分が徐々に「ある場所」へと後退させられていることに、まだ気づいていなかった――。
(……そこだ!)
ジンオウガの猛烈な爪撃をバックステップでかわしながら、ルーミアの視線が地面のわずかな違和感を捉えた。
不自然に敷き詰められた枯れ草と土。リグルがあらかじめこのエリアに仕掛けておいた『落とし罠』の隠し場所だ。
他二人はまだ到着していない。だが、待つ必要はなかった。
ルーミアはすぐさま自力での誘導に切り替える。
わざと大きく隙を晒すように太刀を構え直し、ジンオウガの正面へと躍り出た。
案の定、完全に頭に血がのぼった雷狼竜は、罠の存在など微塵も疑わず、その巨体を大きく沈め込んで突進の体勢に入る。
あと、一歩。
ジンオウガが地面を蹴り、その前脚を罠の真上へと踏み下ろそうとした、まさにその刹那――。
「ニャァッ?」
エリアの隅の茂みから、小さな黒い影が文字通り「転がり込んで」きた。
ハチミツの瓶を両腕で抱えているメラルーだ。
よりによってその泥棒猫が滑り込んだのは、ルーミアとジンオウガのちょうど真ん中――すなわち、落とし罠のド真ん中の上だった。
「……っ!?」
常に冷静沈着ていたルーミアの眉が、この時ばかりは大きく跳ね上がった。
息を呑む音が、静かなエリアに小さく白く弾ける。
想定外。今まで冷静に応戦してきたルーミアの瞳が珍しく泳いだ。
そこからの数秒間、エリアの時間が奇妙に完全停止した。
優秀なハンターほど、イレギュラーの対処に慎重になる。
時にそれが仇になるのは、レミリアたちに限った話ではないらしい。
巨大な顎を開き、前脚を掲げたまま硬直するジンオウガ。
罠の上でハチミツを抱えたまま腰を抜かし、状況をよく理解していない黒猫。
そして、今まさに罠を作動させようと一歩を踏み出していたルーミア。
まりにも異様で、あまりにも噛み合わない構図。
互いの視線が交差し、誰もが次の最適解を見つけられないまま、張り詰めた静寂だけがエリアを支配していた。
「グルルゥッ!!」
狂暴な咆哮が爆音となって炸裂し、フリーズしていた時間が凄まじい速度で動き出す。
ジンオウガには、足元の黒猫の命も、ハンターの刹那の葛藤も関係ない。
邪魔な羽虫どもをまとめて圧殺すべく、雷光を纏った凶悪な前脚が、容赦のない質量となって上空から一気に振り下ろされた。
その爪がメラルーを肉塊に変える、まさにコンマ数秒前。
「……っ!」
ルーミアは地面を蹴った。
脳内の最適解を力ずくで投げ捨て、純粋なハンターの野生だけで身体を突き動かす。
構えていた得物も迷わず地面に投げ捨てると、無防備な両腕を伸ばし、腰を抜かしていたメラルーの小さな身体を胸の中へと強引に抱きすくめた。
ドササササァァァンッッ!!!
直後、真上からジンオウガの巨躯が容赦なく圧しかかる。強烈な衝撃。
それと同時に、ジンオウガの体重を察知した地面のネットが悲鳴を上げ、一気に弾け飛んだ。
リグルが仕掛けた落とし罠の完全な作動――しかしそれは、誰もが予期せぬ最悪の形での陥落だった。
狂暴な怪物と、巻き込まれた黒猫、そしてそれを身を挺して庇ったハンターが、一塊の泥泥とした塊になり、地面が崩落していく。
「ウオオオオオンッ!」
罠のネットに四肢を絡め取られたジンオウガが、狭い穴の底で狂ったように暴れていた。
その巨大な質量がのたうち回るたび、土壁がゴソゴソと削れて崩れ落ちていく。
そしてその穴の縁に、ジンオウガの腹と土壁に挟まれて、逃げ場の一切ない最悪の隙間に、ルーミアと黒猫はいた。
「グッ……!」
ギチ、ギチ、と骨が軋むような、容赦のない圧迫感。
息を吸おうにも、ジンオウガの分厚い肉壁が肺の膨らみを拒絶する。
胸の中にガッチリと抱きしめられたメラルーが、恐怖で「にゃ、にゃあ、にゃあ……っ!」と引き攣った悲鳴を小さく上げている。
「見えたぞ!リグル」
「ルーミア!早く捕獲を――って、えええええ!?」
遅れてエリアへと滑り込んできたリグルとチルノが、勢い余って前のめりになりながら、開いた口が塞がらない様子。
地上の光を背負って現れた2人の視線の先、落とし罠の穴のは、予想外の光景であった。
罠に囚われたはずのジンオウガが、身動きの取れないストレスから完全に暴走。
青白い毛並みを限界まで逆立て、最悪の全方位大放電を放とうと凄まじい密度の電力をチャージし始めていたのだ。
バチバチバチバチッ!!!と、至近距離から漏れ出す電火が、挟まれているルーミアの肌を焦がさんばかりに狂い咲く。
「任せろおおお!」
先頭を突っ走るチルノの辞書に「躊躇」の文字はなかった。
砂煙を巻き上げながら、足を極限まで回し、穴の縁へと猛ダッシュをかける。
「おおおう!」
「頼んだぞッ!チルノー」
走りながら、チルノは腰のポケットの中へと手を突っ込んだ。
指先に触れたのは、丸くて冷たいギルド支給のアイテム――『捕獲用麻酔玉』。
これを二発、爆発する前に、何とかジンオウガに叩きこん込まないと。
いざポケットから麻酔玉を掴み出し、腕を振りかぶろうとした、まさにその最後の瞬間――。
ツルッ。
「あ」
チルノの指先から、球体が無情にも滑り落ちた。
「嘘だろ……っ!?」
この土壇場のやらかしに、リグルは両手で完全に顔を覆った。
「にゃにゃにゃにゃ、にゃにゃにゃーーーっっ!?」
ジンオウガのお腹の下から、迫り来る数万ボルトの雷光を察知した黒猫が、ルーミアの胸の中でひっくり返った声を上げて失禁せんばかりに大パニックを起こしている。
麻酔玉は足元。怪物の放電はまさに今、臨界点を迎えていた――。
「けっ!」
刹那、チルノは持ち前の勢いと野生の勘だけにすべてを任せ、彼女は軸足を強く踏み込むと、地面の麻酔玉を足の甲で力任せに引っつかまえた。
蹴り上げられた二つの捕獲用麻酔玉が前方と向かって宙を舞う。
「――くらえええええええ!!!」
チルノの勢いはそれでは止まらない。
先行してジンオウガの背中へ蹴り飛ばした麻酔玉の真後ろから、自身の全体重と勢いをすべて乗せた足裏を踏んづけにいった。
ドッゴォォォォンッッッ!!!
チルノの足裏とジンオウガの背中の甲殻、その中間に挟まれた二つの捕獲用麻酔玉が、凄まじい衝撃でプレスされて、圧砕される。
直後、通常の数倍はあろうかという、濃密なピンク色の睡眠煙がぶわっと爆発的に立ち込めた。
怪物の叫びも、雷光のバチバチのノイズも、すべてがその桃色の煙の中に強引に飲み込まれた。
やがて、渓流の川風がサラサラとエリアを吹き抜け、煙をゆっくりと消散させていった。