2026/7/15 文体の修正
いつものアトランティス。VIPルームの喧騒は今夜も変わらない。ローグは煙草をくゆらせながらウェイランドの愚痴に相槌を打ち、ジョニーはSAMURAIのバンド活動で不在。壁際――誰に指図されたわけでもなく、自然とそこが定位置になった場所で、
スパイダー・マーフィーはその隙を見逃さない。
「ねえ、ヴォイド。今日もそんな隅っこで壁の花?」
答えを待たず、グラス片手に距離を詰め、遠慮なく肩を寄せる。柔らかい体温と、わざと寄せた吐息交じりの声。反応を計測するための、いつものpingだ。
「……離れろ、スパイダー」
短い制止。だが、その応答が返るまでのコンマ数秒。張り詰めていた糸が緩み、読み取れない仮面の奥に素の困惑が覗いた――ように見えた。
見逃すわけがない。
次の瞬間にはもう遅い。瞳の色が僅かに変わり、凪いだ無表情が音もなく上書きされる。何事もなかったかのように。
「……ふぅん」
スパイダーは声を出さずに笑った。塗り直しの手際は日々上達している。でも、今のは間違いなく素のログだった。
(――何度見ても、飽きないわね)
どうしてこの読めない男に、ここまで執着しているのか。ルートを遡れば、行き着く先はいつも同じノードだ。
*
ネットは、物心つく前からそこにあった。呼吸の仕方とプロトコルの読み方、どちらを先に覚えたのか、もう思い出せない。
九歳の記憶で確かなのは、一つだけ。盗品市場で手に入れた日本製の中古デッキ――前の持ち主の脂で滑るキーと、焼けた基板の匂い。あの夜、彼女はそれを抱えて、ゼータテックの販売所のネットに潜った。
最初のICEに三分。二枚目は四十秒。三枚目を抜けたところで指が震えているのに気づいて、震えたまま最短ルートを引いた。在庫リストの最新型デッキ一台、配送先を書き換えるだけの単純な仕事。ログアウトして、染みだらけの天井を見上げて、それから声を殺して笑った。心臓だけが、まだ全力疾走を続けていた。
――我に支点を与えよ、されば地球をも動かさん。*1
ずっと後になって、古代の数学者のその台詞を旧ネットの書庫で拾ったとき、彼女は九歳のあの夜を思い出して吹き出した。なんだ、二千年前から答えは出てたんじゃない。あたしの支点は、あの脂で滑る中古デッキだった。
体も、性別も、年齢も、あの中では誰も照会してこない。応答するのは技術だけ。世界の正しいバージョンを、彼女はあの夜に見つけてしまった。
レイシィ・バートモスと出会ったのは十代の半ば。彼の父親絡みの厄介事を、ひょんなことから片付けてやったのがきっかけだった。
それ以来、彼に師事した。世紀の天才――いや、鬼才と呼ぶべき男の網の内側は、独学で積み上げてきた彼女の全部を根本から書き換えた。ネットウォッチをハックして仕掛けた嫌がらせの数々。それから――今でも誰に訊かれても404しか返さない、いくつかの夜。あれが青春だったと笑って言えるくらいには、彼女ももう大人になった。
今、ストリートで彼女の名を知らないランナーはいない。名前を照会すれば、返ってくるのは畏怖と羨望だけ。……比肩する誰かの名前は、もうどのノードからも返ってこない、という意味でもあるけれど。
レイシィ・バートモスは死んだ。
ストリートに流れる噂のどれが真実かなんて、彼女には確かめるまでもない。死ぬ直前、彼のプライベート・スペースに呼ばれたのは彼女だ。愛を囁かれ、二人だけの時間を過ごし――そして
解き放たれる瞬間、彼女は乾杯すらした。彼の遺したペットたちが企業のタワーを内側から食い荒らし、この世界をカーネルごと書き換えてくれるはずだった。
書き換わったのは、ネットの方だった。彼女の愛した海は際限なく浸食され、企業どもは殻に閉じこもり、むしろ肥え太った。
『我は死となれり。世界の破壊者となれり*2』――大昔、爆弾を作った物理学者が呟いたという聖句も、その出典の叙事詩も、皮肉なことに彼女のローカルにはまだ残っている。
旧ネットごと燃えたはずの言葉たちが、火を点けた張本人の手元にだけ、綺麗なままアーカイブされている。
彼女の引用癖を、気取りだと笑う奴は笑えばいい。あれは蔵書だ。もう誰もアクセスできない図書館から、燃える前に持ち出した数千行。声に出して誰かに聞かせる趣味はないけれど。
あれ以来、スパイダーは自分のデッキからレイシィ由来のコードを一行残らず消してある。今でも動くのは分かっている。動くからこそ、手元に置いておけなかった。
ミリテクのキャンプでジョニー・シルヴァーハンドと会ったのは、そのころだ。反企業の思想に共感した――ということにしている。
破滅に向かって全力で歌う男の横顔に誰を重ねていたかなんて、自分のログにすら書き残す気はない。それでも接続を切らずにいたのは、どうせこれも無駄に終わるという予感ごと付き合うのが、彼女なりの弔いだったからかもしれない。
その予感が揺らいだのは、ミリテクの特殊任務で手酷くやられた夜だ。デッキの遮断回路を三つ焼かれて、それがたった一人のランナーの仕業だと知った瞬間――死んだはずのポートが、久しぶりに応答した気がした。
――幽霊。亡霊。ストリートで転がっている通り名は、あの日あの場所で、命名の瞬間ごと彼女も直接立ち会っている。ジョニーが酔った勢いで名付けた「空っぽ野郎」も込みで、全部この耳で聞いた。人づての噂じゃない、一次ソースだ。それでも――目の前でナニかを叩きつけられていたはずのその男が、後日ストリートで積み上げていく戦績を又聞きするたび、正直、自分に劣る程度のランナーだろうと高を括っていたのも、本当のところだ。
その慢心は、実物のランニングを目にした瞬間に粉々になった。
冷徹で、現実的で、一切の容赦がない。レイシィが破天荒で、破滅的で、めちゃくちゃであるがゆえに予測不能で創造的だったのなら――それこそが彼の強みで、彼女が愛した魅力だった――ヴォイドはその対極にいた。
正確で、精緻で、削れる工程がもう一つも残っていない。あれは芸術というより、証明だった。そして、その証明の底が彼女には見えなかった。
一目惚れ、でいいと思う。良き師であり親友だったレイシィにデートに誘われた夜より心拍のログが跳ねていたのだから、他に呼びようがない。
スパイダーは現実の肉体になど頓着していない。彼女にとってはネットが本体で、それ以外を必要と感じたことは数えるほどしかない。
それなのに、あの男ときたら。あれだけの技量を積んでおいて、ネットにも現実にも大して頓着していないように見える。ネットのデートに誘えば、つれない応答が一行きり。現実では、普段どこにいるのかすらチームにも開示しない、生粋の秘密主義者。
ただ一度だけ、思いきって色仕掛けを試したことがある。ほんの一瞬、無表情に亀裂が走り、たじろぐ素振りが漏れた。すぐに仮面は戻ったが――あれで確信した。あの秘密主義は生まれつきの仕様なんかじゃない。無理やり走らせ続けている、何かの上に被せた表層プロセスに過ぎない。
それ以来、現実で顔を合わせるたびに彼をからかうのが日課になっている。肉体に頓着しないと嘯いてはいても、こと自分の
*
――今夜も、収穫はあった。
団らんの喧騒に戻ったスパイダーは、グラスの中身を揺らしながら、まだ上機嫌の抜けきらない笑みを浮かべていた。視界の端では、何事もなかったかのように壁際へ戻ったヴォイドが、チームの会話に相槌の代わりの沈黙を返している。
負けず嫌いは、自覚している数少ない欠点だ。ランナーとしての腕でも、駆け引きでも、一度隙を見せた相手を逃す趣味はない。
怪物と戦う者は、自らも怪物とならぬよう心せよ。深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いているのだから*4――。
使い古された警句だ。ストリートの三流ランナーですら、粋がって署名に使う。
でも、と彼女はグラスの縁越しに、壁際の無表情を盗み見る。
覗いた深淵が覗き返してくれるなら、それは脈があるってことじゃない?
哲学者先生には悪いけれど、次の悪戯はもう決めてある。