いつものアトランティス。VIPルームの喧騒は今夜も変わらない。ローグは煙草をくゆらせながらウェイランドの愚痴に相槌を打ち、ジョニーはSAMURAIのバンド活動で不在だった。壁際、誰に指図されたわけでもなく自然とそこに座る
スパイダー・マーフィーはその隙を見逃さない。
「ねえ、ヴォイド。今日もそんな隅っこで壁の花?」
答えを待たず、彼女はグラス片手に距離を詰め、遠慮なく肩を寄せる。柔らかい体温と、わざと寄せた吐息交じりの声。ヴォイドの反応を試すような、いつもの悪戯だ。
「……離れろ、スパイダー」
短い制止。だが、その声にほんの一瞬――コンマ数秒にも満たない間――張り詰めていた緊張の糸が緩む瞬間があった。眉間の皺が消え、いつもの読み取れない仮面の奥に、素の困惑のようなものが覗いた気がした。
スパイダーの目が、それを見逃すはずがない。
だが、次の瞬間にはもう遅い。ヴォイドの瞳の色が僅かに変わり、いつもの凪いだ無表情が音もなく塗り直される。まるで何事もなかったかのように。
「……ふぅん」
スパイダーは声を出さずに笑った。這い出た素顔を隠すその手際は日々上達しているが、今のは間違いなく本物だった。
(――何度見ても、飽きないわね)
こういう瞬間に出会うたび、彼女はいつも同じことを考える。自分がどうしてこの読めない男にここまで執着しているのか、その根っこを辿れば、結局いつも同じ場所に行き着く。
*
まだネットに繋ぐという行為そのものが特別だったころから、スパイダーにとってネットは息をするのと同じくらい当たり前のものだった。物心つく前から端末に触れ、九歳になる頃にはもう一端のネットランナーとして完成していた。
初めての成功体験は今でも鮮明に覚えている。日本製の中古サイバーデッキを一台、盗品市場で手に入れ、ゼータテックのサイバーウェア販売所のセキュリティに挑んだ夜のことだ。当時最先端だったデッキを一台、まんまと奪い取ったあの瞬間の高揚――心臓が喉から飛び出しそうな緊張と、その先にあった全能感にも似た快感を、彼女は一生忘れることはないだろう。
ネットの中でなら、自分は誰にも縛られない。現実の肉体や、性別や、年齢や、そういう全てのしがらみから解き放たれて、ただ純粋な技術だけがものを言う世界。まだ幼かったスパイダーにとって、それは救いにも似た発見だった。
レイシィ・バートモスと知り合ったのは、そんな彼女がまだ十代の半ばだったころだ。ひょんなことから彼の父親絡みの厄介事を片付ける手伝いをしたのがきっかけだった。
それ以来、彼女は彼に師事することになる。世紀の天才、いや鬼才と呼ぶべき男の網の内側は、スパイダーが独学で積み上げてきたものとは次元が違っていた。ネットウォッチをハックして嫌がらせを仕掛けたり、彼と彼の仲間たちと共に――今でも誰かに話せと言われても口が裂けても言えないようなこと――を成し遂げたりした日々は、間違いなく彼女の青春そのものだった。
今やストリートで彼女の名を知らないランナーは存在しない。それは誇りだ。だが同時に、自分に比肩する者などもういないと言われているようで、ふとした瞬間に覚える寂寥感がある。それを否定すれば嘘になる。
レイシィ・バートモスは死んだ。
ストリートには彼の死についての様々な噂が今も流れているが、スパイダーは彼が死んだのだと確信している。噂を疑う余地などない。
死ぬ直前、彼女は彼のプライベートなネットスペースに呼び出された。愛を囁かれ、二人だけの至福の時間を過ごし――そして、
あの瞬間、彼女を包んでいたのは紛れもない達成感だった。バートモスは死んだが、その代わりに彼が遺した「ペット」たちが
だが、現実は残酷だった。彼女が愛したネットはただ際限なく浸食され続け、
――失望。
レイシィの死と、自分たちの反抗が結局は何も変えられなかったことへの失望。レイシィが変えようとした世の中が、結局ピクリとも動かなかったことへの失望。その二つが、かつてのスパイダーの胸に、消えない澱として沈んだ。
ミリテクのキャンプでジョニー・シルヴァーハンドと知り合ったのも、ちょうどそのころだった。
彼の反
その予感が僅かに揺らいだのは、ミリテクの特殊任務で手酷くやられた時のことだ。それがたった一人のネットランナーの仕業だと知った瞬間、忘れかけていた熱が、久しぶりに胸の奥で息を吹き返した気がした。
――幽霊。亡霊。空っぽ野郎(これはジョニーが勝手に名付けたあだ名だったわね)、様々な噂をぶら下げたその相手のことは、スパイダーも耳にしたことはあった。だが、所詮は自分に劣る程度のランナーだろうと、彼女はどこかで高を括っていた。
その慢心は、実際に彼のランニングを目にした瞬間に粉々に砕けた。
冷徹で、現実的で、そして一切の容赦がない。
レイシィが破天荒で、破滅的で、めちゃくちゃであるがゆえに予測不能で創造的だったのなら――それこそが彼の強みであり、彼女が愛した魅力だった――ヴォイドはその対極にいた。正確で、精緻で、芸術的とすら言える美麗なランニング。その技量の底が、スパイダーには見えなかった。
一目惚れと言っていいだろう。良き師であり親友だったレイシィにデートに誘われた時ですら、こんなに胸が高鳴ったことはなかったかもしれない。
スパイダーは現実世界の肉体になど頓着していない。彼女にとってはネットの世界がすべてで、それ以外を必要と感じたことなど、数えるほどしかなかった。
それなのに、ヴォイドはあれだけの技量を持ちながら、ネットと現実、どちらの世界にもさして頓着していないように見える。ネットでのデートに誘っても、つれない反応が返ってくるだけ。現実世界では、普段どこにいるのかすらチームの仲間にも明かさない、生粋の秘密主義者だ。
ただ一度だけ、思いきって色仕掛けを試したときのことだ。ほんの一瞬、彼が纏う無表情に亀裂が走り、たじろぐような素振りを見せた。すぐにいつもの仮面に戻ったが――あれを見て、スパイダーは確信した。彼の秘密主義は、生まれつきの気質などではない。無理やり繕っている、何かの上澄みに過ぎないのだと。
それ以来、現実世界でヴォイドと顔を合わせるたび、彼をからかうのが彼女のちょっとした日課になっている。肉体には頓着しないと嘯きながらも、こと自分の
*
――今夜も、収穫はあった。
団らんの喧騒に戻ったスパイダーは、グラスの中身を揺らしながら、まだ上機嫌の抜けきらない笑みを浮かべていた。視界の端では、何事もなかったかのように壁際へ戻ったヴォイドが、いつもの無表情でチームの会話に相槌の代わりの沈黙を返している。
負けず嫌いは、彼女の数少ない自覚した欠点の一つだ。ランナーとしての実力でも、恋の駆け引きでも、一度でも隙を見せた相手を逃す気にはなれない。
そして今、あの読めない男は――ランナーとしても、恋のターゲットとしても――スパイダー・マーフィーの中で、紛れもない執着の対象になっていた。