CyberPunk: EDGE CASE   作:エネーロ

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2026/7/17 ケンイチの名前を間違えているのを修正(サブロウ→ザブロウ)


#19 The Sentinel / 名もなき番兵

箸が、また止まった。

 

ミチコの視線は皿の上ではなく、窓の外――金網の向こうに広がる庭の芝を追っている。

 

今日で三度目だ。

 

ケンイチ・ザブロウは壁際に立ったまま、その視線の先を目だけで追う。

異常なし。庭師が水撒きのホースを引きずっているだけだった。

 

「――お嬢さん」

 

短く声をかける。ミチコの肩が小さく跳ねて、また箸が動き出す。

 

「ごめんなさい、ケンイチ。ぼーっとしてた」

「ぼーっとする分にはかましまへん。ただ、飯は冷めますで」

 

味噌汁からもう湯気が立っていない。

 

ケンイチはそれだけ言って、また窓の外へ視線を戻す。

庭師の他には誰もいない。

 

ナイトシティの北、丘陵地の外れ。

登記上は貿易会社の保養所ということになっているこの屋敷から、コーポプラザの摩天楼は見えない。

 

それでいい。

 

見えないということは、向こうからも見えないということだ。

 

塀の高さ、監視カメラの死角、風向き――目に映るもの全部を、頼まれもせず数え続けるのはもう十一年目になる。

四歳の誕生日に彼女の前に立たされたあの日から、数えるという行為は呼吸と同じくらい体に馴染んでしまった。

 

「ケンイチも座って食べたらいいのに」

「立ってる方が性に合うてます」

 

嘘ではない。だが本当の理由でもない。

 

皿の前に座れば、視線の先を数える仕事が一拍遅れる。それだけの話だった。

 

ミチコが味噌汁に口をつける。

ぬるくなった汁の匂いが、換気口の風にわずかに乗って流れてくる。

ケンイチはその匂いを吸い込みながら、今日も何も起きない一日が、あと何回積み重ねられるのかを考えていた。

 

懐で端末(ターミナル)が震えた。

 

画面に浮かんだ表示は、私用のものではない。本家からの呼び出しコードだ。

 

ケンイチは食事を続けるミチコの後ろ姿を、一秒だけ長く見た。

 

「お嬢さん、ちょっとだけ外します」

「おつかい?」

「まあ、そんなもんです」

 

嘘だった。本家からの直接呼び出しなど、十一年でそう何度もない。

部屋の外に控える若い衆に目配せだけで場所を託し、ケンイチは廊下を歩き出す。

振り返りはしなかった。振り返れば、また数えるものが増える。

 

 

車で一時間。丘を下りるにつれ、フロントガラスの向こうでスモッグの層が厚くなっていく。

 

コーポプラザの検問(チェックポイント)は三つ。

ゲートの認証、地下駐車場のスキャン、エレベーターホールの生体照合(バイオメトリクス)

ケンイチはそのひとつひとつを、癖のように数えながら通り抜けた。

 

屋敷の塀とは比べものにならない厚みの守りだ。それでも、数える手間は変わらない。

上昇するエレベーターの中で、耳の奥がわずかに詰まる。

扉に映る自分の顔は、いつも通り、何も語っていなかった。

 

 

書類の束の上に、影が落ちた。

 

ケイは顔を上げず、指先だけでページをめくる。

 

紙の匂いに混じって、淹れたばかりの茶が湯気を上げている。誰の分かは分からない。

 

「入れ」

 

短い許可に、ケンイチは一礼して踏み込む。

 

絨毯の厚みが足音を吸い、応接室特有の静けさだけが残った。

窓の外では酸性雨がガラスを流れている。音は、しない。

 

「ミチコお嬢様の護衛状況、ご報告に上がりました」

「聞こう」

「この一月、異常はありません。学校の送迎、外出時の同行、いずれも予定通りです」

 

ケイはようやくページから目を上げた。

 

「報告書には、もう目を通している」

 

その一言で、ケンイチはようやく理解する。今日呼ばれた理由は、この報告のためではない。

 

ケイは何も言わず、机の端末を操作した。

地図が浮かぶ。北米西海岸、いくつかの座標に赤い印が灯っている。

 

「先月まで、この周辺の接触記録は月に一件あるかどうかだった。今月はすでに三件」

「――ミリテクの、偵察ですか」

「偵察にしては数が多すぎる。それに」

 

ケイは別のファイルを重ねる。

表示されたのは、ここひと月で立て続けに沈んだデータ拠点(ベース)の一覧――警備部隊ごと消し飛ばされた記録が、日付順に並んでいる。

 

「うちの拠点を食い荒らしている連中がいる。ミリテクの息がかかっているのか、別口か、まだ確証はない。だが両方が同じ時期に動き出しているのは、偶然にしては出来過ぎている」

 

ケンイチは一覧を目でなぞる。

拠点の数を数え、警備部隊の損耗を数え――途中で、数えるのをやめた。

 

数字の並びが、もう「損害」ではなく「戦績」の顔をしていた。

ストリートで名前が売れていく類いの、数字の並び方だった。

 

「スマッシャーの修復は、三割を超えたあたりで足踏みしている。当分は使い物にならん」

 

淡々とした声には、恨み言めいた響きすらない。ただの在庫管理の口調だった。

 

「守りを厚くする段階に来た。今のままの布陣では、いずれ手が回らなくなる」

 

ケイは手元の書類を閉じ、指先で角を揃える。それから初めて、両手を机の上で組んだ。

 

「お前に頼みたいことがある。タワーの防衛――それも、本丸だ。表向きの戦力にはしない。スマッシャーが表看板でいる限り、お前の名は出さん」

 

ケイの視線が初めて、書類ではなくケンイチの顔に据えられる。

 

「奴が壊れた時のための、もう一枚の札だ。……ブラックハンドが自ら出てくるようなら、当てられるのはお前の他にいない」

 

その名前に、上着の内側で指先がわずかに重くなった。

ケンイチは何も言わず、先を促す。

 

「――ミチコお嬢様の護衛は」

「他の者に任せろとは言わん。だが、片手間で務まる仕事ではなくなる」

 

ケイは椅子の背にわずかに体重を預ける。

 

「アラサカの盾が薄くなれば、真っ先に狙われるのはお前の抱えているものだ。分かっているはずだ」

 

その言い分に、返す言葉が一瞬詰まる。

詰まったこと自体が、ケンイチにとっては初めての経験だった。

 

「――お断りします」

 

言葉は思っていたより先に口から出た。ケイの片眉が、わずかに上がる。

 

「理由を聞こう」

「護衛は、分けるもんとちゃいます」

 

一度言葉にしてしまうと、あとは勝手に出てくる。

 

「片手間で務まらん言うんは、そちらの方や。人間一人分の注意力を、二つに割ったら、どっちも半端になる。それやったら最初から、別の人間立てた方がなんぼかマシです」

「お前でなければならん理由は」

 

「――四歳の時から、あの人の傍にいてます」

 

四つの誕生日、庭で転んで泣いた膝の傷、初めての登校日に手を離すのを渋った朝――数えきれないほどの朝と夜を、誰かに説明する気にはなれない。

それだけで十分だった。

 

指先が、無意識に上着の内側――いつも収まっている得物の位置を確かめていた。

 

その動きに気づいて、ケンイチは自分でも驚く。誰かに向けての確認ではない。

ただ、何かに掴まっていないと立っていられない時の癖だった。

ケイは何も言わず、指先で机の縁をなぞる。

 

その沈黙が、ケンイチには一番堪えた。言葉で押し返してくる相手より、黙って待つ相手の方が厄介だと、こういう時いつも思い知らされる。

 

「四歳の時、か」

 

ケイは初めて、机の書類ではなく窓の外を見た。雨の筋がガラスを流れていくだけの、音のない景色を。

 

「あの子の母親が誰か、聞いたことはあるか」

「――存じません」

「日系のアメリカ人だ。血筋は純粋だが、国籍まではどうにもならん」

 

一拍置いて、ケイは続ける。

 

「――私の娘だ。お前も承知のことだろうが、こうして言葉にしたことは、これまでなかったな」

 

平坦な声のまま、その一言だけがわずかに硬い。

十一年、儀礼的な報告と指示だけを交わしてきた仲で、ケイが自分の口で「娘」と言うのを、ケンイチは初めて聞いた気がした。

 

「父はそれを許さない」

 

サブロウ・アラサカを指しているのだと、ケンイチは遅れて気づく。祖父にすら存在を隠された娘――その重みが、今さらのように部屋の空気を変えた。

 

「戸籍上、あの子はこの国のどこにも存在しない。学校の記録も、医療記録も、名義はすべて別人のものだ。あの子の存在は、今も本家には伝わっていない」

 

十一年、あの屋敷の外にミチコの名が漏れたことは一度もない。塀の高さも、監視カメラの死角も、すべてはその一点のために積み上げられてきた仕事だった。

 

「今、あの子が何も知らずにいられるのは、アラサカという器がまだ形を保っているからだ」

 

ケイの声は、また元の平坦さに戻っている。数字を読み上げるような口調に。

 

「器が傾けば、戸籍も、名義も、塀も、まとめて消える。残るのは、荒坂(アラサカ)の血を引いた小娘一人だけだ。表の世界に晒された荒坂の名を、誰が庇う? ミリテクか、政府か、それとも――」

 

言葉はそこで途切れる。答えを持っているようには見えなかった。ケイ自身、そこから先を考えたくないのかもしれない。

空調の効きすぎた部屋の中で、ケンイチはうなじだけが妙に冷たいのを感じていた。

 

「守るべきものが増えたわけではない。お前が今まで守ってきたものの、輪郭が広がっただけだ」

 

ケイは書類の束を引き寄せ、またページをめくり始める。

 

机の端で、茶はもう湯気を立てていなかった。

 

ガラスを流れる雨の筋が一本、窓枠の下へ消えるまで、ケンイチは何も言わなかった。

 

「――お受けします」

 

短い返事だった。ケイは書類から顔を上げず、頷きだけを返す。

 

「タワー防衛班の名簿には載せない。表向きは、これまで通りミチコの護衛のままにしておけ」

「承知しました」

「詳細は追って、防衛主任から伝える」

 

 

下降するエレベーターの扉に、自分の顔が映っている。表情筋はほとんど動いていない。長年そうやって作ってきた顔だった。

スマッシャーとは、まともに口を利いたことすらほとんどない。

それでも、あの義体の名前を耳にするたび、ケンイチの中で何かが小さく反応する。

あの男は、名前を売って生きている。恐怖そのものになることで飯を食う道具だ。

ケンイチは逆だった。名前が売れた瞬間、仕事そのものが終わる。

表に出るか出ないかの違いだけで、どちらも荒坂の名を背負わされた道具であることに変わりはない。

 

道具に、休日はない。

 

大阪の実家に顔を出さなくなって、もう何年になるか。正月に電話をかけても、母親は「元気ならそれでええ」としか言わない。それ以上は聞かない方がいいと、お互い分かっている。

エレベーターの扉が開く。ケンイチは、閉じていた拳の中の力を抜いた。

 

守るものの輪郭が広がったところで、やることは変わらない。屋敷に戻れば、夕飯の時間だ。塀の高さと、カメラの死角と、あの人の箸が止まる回数を――今日もまた、数え続けるだけだ。

 

 

 

 

ケンイチが退室すると、部屋にはまた紙をめくる音だけが残った。

 

ケイは端末を操作し、防衛計画のファイルに一行を書き加える。名前ではなく、記号だけの登録。表に出ない駒が、また一つ増えた。

ふと、隣のフォルダにミチコの学校行事予定表が紛れ込んでいるのに気づく。誰かの整理ミスだろう。消去する前に、行事の日付だけを一瞥してから、指先でファイルを閉じた。

 

机の端の茶は、とうに冷めきっていた。結局、誰も口をつけなかった。

 

守りは、これで厚くなった。数字の上では、そのはずだった。

 

だが、器そのものが傾いた時、この計算のどこまでが意味を持つのか――その先を考えるのは、今日のところは後回しにした。

 

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