壁面のモニターが、市街の火を映している。
一つではない。三区画、同時。ウォーターフロントの倉庫街、シティセンターの高架下、サント・ドミンゴの工場地帯。群衆の頭数、掲げられた横断幕、燃やされる社旗――音声を切った映像の中で、火だけが規則正しく揺れていた。
「地上警備より、増援要請が上がっています。反企業デモが同時多発。統率された動きです。背後関係の分析は――」
「前座だ」
ケイ・アラサカは映像から目を離さない。
「本命は空から来る。地上の頭数は据え置け」
部下が端末に指示を流し込む。その手元を待たず、ケイは次を求めた。
「地下の状態は」
「センサー網、全系統正常。経路は――ご指示の通り、生かしたままです」
「積荷は」
「隔離区画に。配置も、ご指示の通りです」
配置、という語の中身を、部下は口にしなかった。防衛班の名簿に載っていない男が一人、あの区画の前に立っている。データ経路の防衛には一個中隊を割いた。積荷の前には、一人だけを置いた。
数字だけを見れば、均衡を欠いた配分だった。ケイはその不均衡を、修正する気がなかった。
「
部下の指が、端末の上で一瞬止まった。
「試作号機、最終接続試験に入っています。ですが――神経負荷が、規定値の三倍を超過したままです。搭載パーツの半数は試験段階のもので、適合演算を通ったのは、あの男ただ一人。正直に申し上げて、あのような不確実な代物を、どう運用なさるおつもりなのか」
「どうでもいい。急がせろ」
ケイは初めて、モニターから部下へ視線を移した。
「ミリテクは必ず、こちらの最高戦力に見合う駒を当ててくる。ブラックハンド本人か――あるいは、例の個体か。分析班が総掛かりで、いまだプロファイルを埋め切れていない、あれだ」
一拍。
「未知数には、未知数を当てる。在庫の中で釣り合う駒は、あれしかない」
部下は復唱だけを返した。
空調の風が、うなじを撫でていく。ケイは椅子の背から体を起こし、正面のディスプレイを切り替えた。市街の火が消え、湾岸の防空レーダーが広がる。
沿岸、南南西。識別信号のない飛行反応が、複数。
ケイは通信端末に手を伸ばした。動作に、速度はなかった。予定表の次の行に目を落とすだけの、そういう手つきだった。
「――全部署へ通達。第二種警戒体制へ移行」
*
ローターの振動が、奥歯まで届いている。
機内に会話はなかった。三十分前まではあった。ローグが装備の最終確認を指示し、スパイダーが軽口を一つ挟み、ジョニーが鼻で笑った。アラサカ・タワーの灯が窓の面積を侵し始めてから、誰も口を開いていない。
眼下で、市街が燃えていた。
三区画。オレンジの光点の周りに群衆が渦を巻き、投光器の白がそれを薙いでいる。
『アルファ、こちらウェイランド。第三ポイント、着火。群衆はざっと六千。機動隊と社の警備、地上の目は全部こっちに釘付けだ』
『降りるなら、今のうちだぞ』
「上出来だ」
ローグが短く返す。
「終わったら深追いするんじゃないよ」
『分かってる。撤収線は三本引いてある』
回線が切れた。ジョニーが窓の外の火を一瞥し、何も言わずに視線を戻した。
「――対空グリッド、起きた」
スパイダーの声から、軽さが抜けている。
「タワー外周、砲塔十二基。レーダー連動で……この高度に入った瞬間、挨拶が来る」
「ヴォイド」
ローグの一言で足りた。
意識をグリッドへ沈める。
タワーの防空網は多層で、指揮系統は上層の管制ノードに束ねられ、そのノードは互いを監視し合っていて、一つを落とせば残りが即座に穴を塞ぐ構造をしており、だから落とすのではなく、北面の砲塔群が参照する敵味方識別の応答テーブルに、レーダーの更新周期の狭間を縫って、一行だけ偽の登録を流し込む――
視界の右下に、熱量警告が一度灯って、消えた。
二系統並列。まだ浅い。
引き際、グリッドの全体像が像を結んだ。上層から地下まで、防御の厚みがそのまま読める。データ経路は氷の壁。電力系は二重化。ただ一箇所――最深部の一区画だけが、何も返さなかった。防壁があるのではない。信号そのものがない。物理的に切り離された空白。
対電子戦の遮断措置。そう分類して、意識を引き上げた。
「北面、通った。ただし偽装の照合は三十分周期だ。次の照合までに降りる」
「十分だよ」
ローグが降下フックを掴んだ。
「全員、降下用意!」
機体が傾く。開いた側面ドアから風が殴り込んできて、機内の温度が一度に下がった。眼下、タワーの屋上が近づいてくる。ヘリポートの標識灯、換気塔の列、伏せた影のような警備の配置。
*
降下二十秒前。開いたドアの縁で、ヴォイドは眼下の配置を数え終えた。
「俺が先行する!」
風に負けない程度の声量で告げる。
「単独降下で制圧まで四十秒。全員での交戦なら二分半、被弾リスクは頭数の分だけ増える。数字の上では――」
「却下だ」
ジョニーが遮った。ドアの反対側で、マロリアンの薬室を確かめている。
「数字の話はしてねえ。ここから先は全部、俺の獲物だ」
薬室が閉じる。金属の噛み合う音が、ローターの轟音の下でも聞こえた。
「てめえの指先一つで終わる戦争なんざ、つまらねえにも程がある。この手でぶっ壊すから意味があるんだよ」
「合理性の欠片もない理屈だ」
「ロックンロールってのはそういうもんだ」
「二人とも、そこまで」
ローグが降下ラインを掴んだまま割って入る。
「ヴォイド、あんたの弾は温存だ。本命は下にいる。屋上ごときで切るんじゃないよ」
戦術的には、それが正解だった。ヴォイドは反論を打ち切った。カテゴリ分類だけが残る――ジョニーの理屈は非合理。ローグの理屈は合理。結論だけが同じ場所にある。
「降下!」
ラインが夜へ流れた。
着地の衝撃より先に、シャイタンの初弾が鳴った。
降下中の射撃だった。ヘリポート東側、遮蔽に入りかけた警備員が崩れる。着地、二歩、二発目。無駄弾がない。十四年分の弾道が、この屋上のために引かれていたような撃ち方だった。
ジョニーは正面から行った。
投光器の白の中へ、遮蔽も取らずに踏み込む。マロリアンが三度吠え、三つの影が沈む。動作検知の警報が屋上に響き渡り、それがそのままこの男の入場曲になった。応射が集中する。集中した分だけ、他の全員の射線が空く。
「東、クリア」
「西、二枚残り――取った」
ローグの声が交通整理を続ける。彼女自身の射撃は最小限で、その最小限が毎回、膠着した一点だけを崩していく。
ヴォイドは換気塔の列を移動しながら、割り当ての仕事を進めた。
一つ目。外壁保守用のウインチ基部に、掌サイズの起爆パッケージを貼り付ける。磁着の鈍い音。信管、待機。
二つ目。ヘリポートの給油配管の継手。三つ目。通信中継塔の根本。
指定の設置点を回る間、交戦には二度だけ参加した。スパイダーの警告した死角からの増援と、ジョニーの背中へ回り込んだ一人。二発。それ以上は撃たなかった。撃たないことが、今夜の自分の仕事の半分だった。
「設置完了。三点、信管待機」
「こちらも終わり」
スパイダーが屋上階の保守端末から顔を上げる。
「昇降系、掌握した。下りのルート、開通」
最後の銃声から、十秒が経っていた。硝煙の匂いが風に流され、投光器だけが誰もいなくなった床を照らしている。
制圧、完了。所要二分十秒。
ジョニーが空の薬莢を蹴り、階段室の扉へ顎をしゃくった。
「――行くぞ。ここからが本番だ」
*
九十二階の廊下は、消火剤の霧で白かった。
天井のスプリンクラーが誤作動したまま止まらない。霧の向こうで銃口炎が瞬き、シャイタンの応射がそれを黙らせる。床を蹴るたび、濡れたカーペットが重い音を立てた。
「突き当たり右、階段室! 左は封鎖されてる!」
スパイダーの声に従い、五人は右へ折れる。
三フロア下でも、同じことが起きた。正面の防火扉が降りていて、東側の通路だけが開いている。開いた側から警備が湧き、応戦し、押し通る。その繰り返し。
抵抗は激しい。数も装備も、屋上とは比べものにならない。
だが、とヴォイドは弾倉を交換しながら思考の一角に処理を回す。
封鎖の位置を、時系列で並べ直す。降下地点からの動線に重ねる。パターン照合、三巡。
封鎖は侵入を止めていない。侵入経路を、削っている。
通れる道が常に一本だけ残る。その一本を繋いでいくと、一筆書きの線になる。自分たちは今、その線の上を最短で走っている――走らされている。
「次、八十七階の機械室を抜ける! サブネットのアクセス階まで、あと五フロア!」
スパイダーが経路を読み上げる。ヴォイドはその座標列を、いま抽出した一筆書きに重ねた。
一致した。
彼女の演算に誤りはない。現存する通路の中で、あれが最適解だ。問題は、その「現存する通路」を選定したのが、こちらではないという一点だった。
告げるべきか。判断材料を並べる。確証はない。物証もない。代替経路はすでに封鎖されている。仮に告げたところで、取れる行動は現経路の続行だけだった。
言葉にする価値のある情報が、一つもない。
結論が出る前に、体が先に動いていた。機械室の手前、曲がり角の死角へ先行し、クリアリングを済ませる。
「クリア」
短く告げる。それ以外は、告げなかった。
ストリートで、こういう仕事を何度も見てきた。逃げ場を一つずつ潰して、獲物が自分の足で袋小路へ歩いていくよう仕向ける追い込み漁。仕掛ける側は何度もやった。掛かる側の景色は、こう見えるのか。
機械室を抜けると、業務用エレベーターのホールに出た。スパイダーが保守端末に有線を挿し、ケージを呼び寄せる。巻き上げ機の唸りが、シャフトを昇ってくる。
扉が開いた。五人分の重量で、ケージがわずかに沈む。
ローグが操作盤の前に立った。
「アクセス階まで、直通かい」
「直通。ただし階の隔壁は、着いてから開ける」
「上等」
扉が閉まる。下降が始まり、階数表示が減り始めた。
減っていく数字を、ヴォイドは見ていた。誰かが決めた順番の通りに。
*
異変は、数字で始まった。
『ベータ、こちら統制。定時報告を送れ』
作戦統制の音声が、全部隊共通の回線に流れる。下降するケージの中、五人が同じ声を、それぞれの耳の奥で聞いていた。定時報告の間隔は十分。ベータの前回送信から、十三分が経過していた。
『ベータ、こちら統制。応答せよ』
応答の代わりに、回線が開いた。
開いた瞬間から、音が壊れていた。銃声。反響からして狭い通路。誰かの怒鳴り声が別の誰かの声に潰され、途切れる。
『――剣』
一語だけ、明瞭に聞こえた。
『違う、囲め、囲――』『一人だ、たった一人――』
ノイズが全部を塗り潰した。それから、何も。
回線は開いたままだった。開いたまま、何の音もしなかった。
「……ベータの現在位置は、地下だろう」
ローグが低く言う。誰への問いでもなかった。
『全部隊へ、こちら統制。映像をリレーする。ベータ・シックスの記録、途絶直前の三十秒』
統制の声とともに、共有視界に映像が流れ込んだ。
地下の保守通路。非常灯の赤だけが照明で、床は薬莢と、動かない装備の輪郭で埋まっている。撮影者の呼吸が荒い。銃口が通路の先へ向く。先には誰もいない。振り向く。誰もいない。もう一度、前へ――
視界が斜めに割れた。
上半分と下半分が別の方向へ流れ、赤い非常灯が二重にぶれて、信号が死んだ。
最後のフレームまで、誰も映っていなかった。撮影者は、自分を両断したものを一度も見ていない。
ケージの中で、口を開く者はいなかった。階数表示だけが減り続けている。
『統制、こちらオメガ・ツーワン。現場に到達』
別の声が割り込んだ。
『生存者、ゼロ。全周に射撃痕――応戦はしている。だが人員の損傷は、全員、刃によるものだ。銃創は一つもない』
「銃を持った十二人が」
ジョニーが眉を寄せた。壁にもたれた姿勢のまま、動いていない。
「一人も当てられずに、全員斬られたってのか」
「ベータは抽出屋だ。荒事の専門じゃない。だとしてもね」
ローグの指が、装備ベストの胸元をまさぐった。いつもなら煙草を挿している位置だ。今夜そこに収まっているのは予備弾倉で、指は摘まむものを見つけられないまま止まった。
「こんな仕事をする奴に、アタシは心当たりがないよ」
『統制、こちらオメガ・ツーワン。周辺捜索に移行する。抽出データの端末が残って――』
声が、切れた。
途切れ方に、前置きがなかった。ノイズもない。回線そのものが、真ん中から断たれたような沈黙だった。
『オメガ・ツーワン、こちら統制。応答せよ』
統制が呼ぶ。二度。三度。
数字だけが、また積み上がっていく。ベータの十二人。ツーワンの四人。
回線に、新しい声が入った。
『全部隊へ、こちらオメガ・シックス』
モーガンだった。
雑音の少ない、静かな声だった。静かなまま、続いた。
『――やり口に、既視感がある。俺がバックアップに入る。アルファは引き続き、任務を遂行しろ』
『オメガ・シックス、こちら統制。指揮系統は――』
『副長に預ける。以上だ』
回線が切れた。統制も、それ以上は何も言わなかった。
ケージが減速を始める。アクセス階が近い。
誰も、モーガンの「既視感」の中身を訊かなかった。訊いたところで答えない声だったし、答えを聞く時間も、もうなかった。
*
ケージが止まり、扉が開いた。
アクセス階の手前、機械設備の並ぶ緩衝区画。人の気配はない。配管の中を流れる冷却液の音だけが、壁の向こうで続いている。五人は射線を分担しながら、隔壁前の通路を進んだ。
移動の間、ヴォイドは思考の残り半分で照合を回し続けていた。
刃だけで部隊を消す使い手。その水準の剣士を、記憶の中から検索する。ストリートの伝説、業界誌の常連、裏の被害報告に名前の挙がる腕利き――該当する名前は数えるほどで、その全員が、所在も所属も一致しない。
照合は、空振りに終わった。
該当なし。この盤面に、自分の知らない駒が置かれている。
結論だけなら単純だった。相当なやり手のソロが、表に名前を出さない条件でアラサカに雇われた。それだけの話だ。ストリートでは毎日起きている種類の取引で、珍しくもない。
そう分類した。分類したはずの結論が、収まりの悪い音を立てていた。
これまで、盤面の駒は全部知っていた。配置が変わることはあっても、駒そのものが増えたことは、一度もなかった。
「ヴォイド」
隣に並んだスパイダーが、正面を向いたまま言った。
「隔壁の開放、三十秒もらう。その間の守りはよろしく」
「了解した」
「――ん。いい返事」
語尾に、わずかな笑いが乗った。
「帰ったら、その調子で返事の練習もしようね。この前の続きから」
この前の続き。
検索するまでもなく、口の端の一点が参照された。処理は今回も完了しなかった。適切な返答の候補が三つ生成され、三つとも、口に出す前に棄却された。
沈黙が答えになった。
スパイダーは何も言わず、デッキのケーブルを解きながら、少しだけ歩調を速めた。後ろ姿の肩が、笑いの形に一度だけ揺れた。
通路の先、隔壁の前で五人は足を止めた。
隔壁は、目の前で開いた。
スパイダーが有線を挿す前に、だった。
アクセス階の全周を覆う遮蔽区画――その唯一の物理開口部が、警告灯も回さず、駆動音だけを低く響かせて左右に割れていく。扉の断面に、装甲と遮蔽材の層が幾重にも見えた。その向こう、廊下が奥まで照明を点している。無人の廊下は白く、静かで、掃除が行き届いていた。
同時に、ヴォイドの視界の隅で受信表示が一つずつ落ちた。外部回線、消失。測位信号、消失。区画の口をくぐった電波が、内側へは一歩も入れない造りだった。
誰も、踏み出さなかった。
「……開けてないよ、私」
スパイダーの声が硬い。有線の端子が、彼女の指先で行き場を失っている。
ヴォイドは廊下の奥を走査した。熱源なし。動体なし。センサーの応答は正常――正常すぎた。ここまでの全フロアで鳴り続けていた警報が、この階には存在しない。
背後で、音がした。
振り返る。今しがた抜けてきた緩衝区画の入口で、別の隔壁が降りていく。駆動音は同じ低さで、同じ滑らかさで、床と噛み合って止まった。
退路が、閉じた。
同時に、館内の警報が――遠くのフロアで鳴り続けていたあの音が、一斉に止んだ。
静寂が落ちる。
耳が拾うものは、空調の風と、五人分の呼吸だけになった。開いた隔壁の先で、白い廊下が待っている。追い込み漁の袋の口が、これだった。入れば閉じる。入らなくても、もう戻れない。
ジョニーがマロリアンを一度、掌の上で回した。
「ご丁寧なこった」
シャイタンは無言で、開いた隔壁の縁に射線を這わせている。
ローグが息を一つ吐いた。紫煙の代わりに、白い呼気だけが空調の風に散った。
「……歓迎されてるね」
誰も笑わなかった。
五人は、開いた口の中へ踏み出した。