もう少し!!!!
白い廊下に、足音だけが規則正しく反響していた。
天井の照明は等間隔で、影ができない。床は染み一つなく、掃除の行き届いた清潔さではなく、最初から汚れというものを知らない色をしていた。空調の冷気が頬を撫でる感触だけが、この階が生きている証だった。
ジョニーが先頭を切る。銃口を左右に振るが、悪態の一つも漏らさない。屋上から数えて、これで何度目かの静けさだが、これまでのそれとは質が違った。誰も、軽口の一つも挟まなかった。
数十メートル進んだところで、音が鳴った。
低く、滑らかな駆動音。振り返ると、今しがた通り抜けてきた曲がり角の向こうで、隔壁が一枚、警告灯も回さず降りていく。
「――また閉じたよ」
ローグの声に、驚きはなかった。数える響きだけがあった。
さらに数十メートル。同じ音が、もう一度。二枚目。
ヴォイドは足を止めず、通過した区画をログに数えていく。一つ。二つ。三つ。開いた道を進むたび、後ろの扉が順番に落ちる――退路を、一歩ずつ後ろから刈り取っていく作りだった。
誰も、それを指摘しなかった。指摘したところで、選べる道は一つしかない。
(……律儀なことだ)
隔壁が四枚目を数えたところで、通路の先に、初めて分岐のない直線が見えた。奥の壁に、扉が一つ。
スパイダーがデッキのケーブルを解きながら、前を向いたまま言った。
「――ここだね」
シャイタンだけが、一度も振り返らずに歩いていた。閉じていく背後の音に、興味の欠片も見せなかった。
*
扉の向こうは、空気の匂いが違った。
オゾンと、冷却液の金属臭。天井まで届くサーバーラックが同心円状に並び、その中心に、接続用のチェアが一つ。ケーブルの束が蜘蛛の巣のように垂れ下がり、末端のジャックだけが薄青く発光していた。
「――ここにオルトはいる」
スパイダーが先に踏み出す。デッキを提げた手の甲に、青白い光が反射していた。
ジャックの規格を、彼女は一瞥で言い当てた。型式、世代、脆弱性のある実装バージョンまで。声の速度はいつも通りだったが、指先がケーブルの被膜を撫でる時間だけが、必要な長さより半拍長かった。
背後で、また一枚。隔壁の落ちる音。
ローグがそちらへ銃口を振り向け、すぐに戻す。数える相手が、また一つ増えただけだった。
「入るよ」
スパイダーがチェアに腰を下ろし、有線を首筋のポートへ導く。慣れた手つきに、一切の迷いはなかった。
ヴォイドは室内の死角を洗い直しながら、彼女の背中を視界の隅に置いた。有線を握る指の力だけが、いつもの軽さから外れていた。
*
スパイダーの瞼が閉じている。指一本、動いていない。
有線一本で繋がった体は、椅子の背に沈んだきり、外形の動きを一切見せない。動いているのは彼女の内側だけだった。
壁面のモニターに、ダイブの外形が抽象化されて映る。侵入経路を示す光の筋と、それを塞ごうと収束していく赤いブロックの群れ――言語化すればその程度の情報しか、こちらには読めない。
こめかみの血管が、一度だけ強く脈打った。
唇が、微かに動いた。
「――指貫で捜すもよし、根気で捜すもよし、か」
声には、余裕しかなかった。
「あいにく、こっちはフォークより物騒なデーモン持参でね」
赤いブロックの群れが、彼女の周りで縮まっていく。壁の中身が変わっていくスピードに、こちらの目が追いつかない。呼吸だけが、わずかに速くなっていた。
「ふぅん――重い割に、鍵は単純」
嗤う声。恐れの気配は一片もなかった。
背後で、また隔壁が一枚落ちる音がした。ローグの視線がそちらへ流れ、すぐに戻る。ジョニーは扉に背を預けたまま、動かない。シャイタンは無言で通路の奥へ銃口を向けている。
誰も、彼女の集中を破らなかった。
*
ジャックの光が、赤から青へ変わった。
抽出完了の合図だった。スパイダーの瞼が開き、椅子の背から体を起こす。こめかみの有線が抜ける音は小さく、拍子抜けするほど呆気なかった。
傍らの機材ラックから、スーツケース型のデータケースが排出される。抽出したエングラム一式を格納するための、相応の容積を持った筐体だった。
「――持ってきたよ」
スパイダーがケースの取っ手を握り、床から持ち上げる。重量のわりに、彼女の腕はそれを軽々と扱った。
「オルト――」
呟きは短く切れた。ケースの角を握る指に、一段強く力がこもる。それだけだった。
ローグが振り返り、来た道へ視線を戻す。
「戻るよ。長居する趣味はないんだ」
答えたのは、沈黙だった。
通路の先、ここまで五人が通り抜けてきたはずの道に、隔壁が幾重にも重なって降りている。一枚や二枚ではない。見える限り、すべて。
「……全部閉まってる」
スパイダーの声から、さっきまでの余裕が抜けていた。ケースを足元に置き、デッキを構え直して最寄りの隔壁の制御系へ有線を伸ばす。指先がケーブルの被膜を探り、接続点を探し当てる。
「解錠、試す。だけど――」
言葉が途切れた。
「これ、一枚ずつ別の鍵がかかってる。しかも全部、内側からの操作を弾く設定」
単純な力業では開かない造りだった。彼女は一枚目の制御ノードに狙いを絞り、意識を潜らせ直す。表示された残り時間の見積りは、誰にとっても短いとは言えない数字だった。
ジョニーが扉の縁に肩を預け、通路の奥へ銃口を流す。
「呑気に鍵開けしてる間、こっちは何もねえと思ってんじゃねえだろうな」
「思ってないよ。急いでる」
一枚目が、鈍い音を立てて開いた。
二枚目に、スパイダーの意識が移る。
その時――遠く、通路の向こう側で、何かが軋んだ。金属と金属が擦れる、重い音だった。
シャイタンの銃口が、初めて動いた。
*
緩衝区画の壁際に、影が立っていた。
見上げるほどの高さ――目算で四メートルは超えている。装甲の厚みからして、二トンを下らない量感だった。歩幅一つで床の複合材が軋む。肩から伸びる砲身の束は屋上で見た規格とは明らかに別物で、腰の駆動脚も新造の光沢を保ったままだった。継ぎ目という継ぎ目に、量産前の未成熟な意匠がのぞいている。
ヴォイドの分類器は、該当データを一件も返さなかった。性能も、耐久も、駆動系の型式すら――手持ちの情報は、外形の印象だけだった。
正面のセンサー群が、こちらへ向く。走査音が短く鳴り、光の帯が五人の輪郭を順に舐めていった。
「――ジョニーボーイに、いつぞやの雌猫」
低く、軋むような合成音声だった。声質だけが、以前のままだった。
「知らん顔もあるが――な」
走査の帯が、ヴォイドの上で止まった。長く、二周、三周と重ねられる。
「そうか。お前が、報告書の」
砲身の束が、旋回を止めてこちらへ揃った。
「まさかランナー風情が、俺と同等の戦闘力評価を得ているとはな」
一拍。センサーの奥で、何かの演算が回っている気配だけが伝わってくる。
「が――なるほど。それがお前の体か」
光学センサーの色が、わずかに変わった。
「面白い。どれほどの腕か、見せてもらおうか」
初弾が放たれるより早く、ヴォイドの体は横へ跳んでいた。直後、いま立っていた床が抉れ、断熱材の白い粉が舞い上がる。威力も、弾種も、未知数のまま受けるわけにはいかなかった。
「散れ!」
ローグの声で、五人が同時に散開する。
シャイタンが最初に応射した。狙いは正確、着弾も正確――だが装甲の上で火花を散らしただけで、巨体は揺らぎもしなかった。
シャイタンの二射目も、三射目も、同じ場所で弾かれた。
装甲の継ぎ目を的確に撃ち抜いているにもかかわらず、火花以上のものが返ってこない。据わったような重心は、被弾のたびに軋むだけで揺らがなかった。
「ローグ! ケースを先に出せ!」
ジョニーの声が飛ぶ。答える間もなく、ローグは肩でスパイダーの背を押した。
「行くよ! ジョニー、殿だ!」
三人が、緩衝区画の反対側――撤退線へ向かって走り出す。データケースを抱えたスパイダーの足音が、遠ざかっていった。
ヴォイドも体を退路へ向けた。数字は単純だった。この場に残る意味と、先行した三人の護衛に回る意味を、同時に天秤にかける。
「行け」
シャイタンの声が、それを遮った。振り向きもせず、銃口を向けたままだった。
「俺の得物じゃ、あれの装甲は抜けん」
弾倉を叩き込む音が、言葉の続きだった。
「先に行った三人の道を、お前が見てやれ。俺はここで足を止める」
「――お前一人では」
「一人で十分な仕事だ」
短い返答だった。それ以上の説明を、この男はしない性分だった。
判断材料を並べる。数字の上では、シャイタンの提案が最適解だった。単独では抜けない装甲を、二人がかりで抜けるという保証もない。ならば、一人が足止めに専念し、もう一人が先行者の生存率を上げる方が、合計の生存確率は高くなる。
結論は出ている。出ているのに、体が一拍、遅れた。
「――了解した」
言葉にした瞬間、迷いは処理の外へ追いやられていた。ヴォイドは踵を返し、三人が消えた通路へ走り出す。
背後で、シャイタンの銃声が続いていた。
*
三人の背中に追いつくまで、通路一本分。
だが意識の一部は、まだシャイタンの回線に繋いだままだった。三正面を同時に処理したあの時と同じやり方――足は撤退線を追い、視覚はローグたちの死角を洗い、そして残る一系統だけを、置いてきた男の生体反応へ流し込む。
心拍、百四十二。呼吸数、変化なし。弾倉残数、二。
誰にも共有していない数字だった。ローグにも、ジョニーにも、スパイダーにも。この回線を覗いているのは、ヴォイドだけだった。
弾倉残数、一。
砲撃が一度、大きく響いた。シャイタンの生体反応が、一瞬だけ跳ねる。着弾はしていない。至近弾の衝撃波だけが、数値を揺らしていた。
『間合いを、詰められた』
弾倉残数、ゼロ。
回線の向こうで、金属同士が噛み合う音がした。拳か、あるいは得物を捨てて素手で組み付いたか、判別する材料はなかった。ヴォイドの足は止まらない。止めれば、この情報を受け取っている意味がなくなる。
『――聞こえているか』
シャイタンの声だった。息は乱れていたが、言葉の芯は揺らいでいなかった。
『俺はアラサカを憎み、人生をささげてきた。今もこれからもそれは変わらん』
短い沈黙。銃声はもう、鳴っていなかった。
『――ヴォイド』
名前を呼ばれた。
『あとはまかせた』
続きは、なかった。
『――同じボーグとは思えんな。ガラクタだ』
スマッシャーの声が響く。
雑音の後、回線が、途切れた。
心拍も、呼吸数も、弾倉残数も――すべての表示が、同時に灰色へ変わった。
ヴォイドは、その灰色を見たまま、走り続けた。
*
撤退線の合流点に、三人の影があった。
ローグが銃口を通路の奥へ向けたまま、こちらへ顎をしゃくる。スパイダーはデータケースを両腕で抱え込み、壁に背を預けて肩で息をしていた。ジョニーは弾倉を叩き込みながら、視線だけをヴォイドの後方へ流す。
四人。
数えた数字が、頭の中で止まった。合わせるべき五人目の位置に、何もなかった。
「――シャイタンは」
ローグの声は、平静を装う響きすらなかった。ただ、事実を確認する速度だけがあった。
ヴォイドは答えなかった。答える言葉を、まだ処理が用意していなかった。
通路の奥、来た方角から、重い足音が近づいてくる。一定の間隔で床を鳴らす、死神の歩幅だった。
「――時間がない」
ジョニーが先に口を開いた。それだけだった。悪態も、皮肉も、なかった。
スパイダーがケースを抱え直し、撤退線の先へ足を向ける。振り返らなかった。振り返る余裕を、誰も持っていなかった。
四人は、走り出した。
灰色に染まったままの回線表示だけが、ヴォイドの視界の隅に残っていた。
消す操作を、ヴォイドはしない。
できなかった。