非常階段に、靴音が四つ、規則正しく反響していた。
先頭をジョニー・シルヴァーハンドが往く。手すりを掴み、一段飛ばしで駆け上がりながら、銀の腕の駆動音とともに吐き捨てた。
「カッコつけやがって」
ローグもスパイダーも、応えなかった。
弾倉の擦れる音。乱れた呼吸。踊り場を折り返すたび、四人分の音だけが上へ運ばれていく。最後尾にあるはずの重い金属音――シャイタンの足音が、そこにない。
ヴォイドは殿を走りながら、視界の端を流れる数字を処理していた。屋上まで残り八階。五階。三階。AVの離陸シークエンス完了まで九十秒。背後、階下の熱源はなおも接近中。心拍は一定。感情に割く演算は、残っていなかった。
*
蹴破ったドアの向こうは、風と轟音だった。
アラサカ・タワーの屋上。着陸パッドではAVがローターを回し、吹き下ろしが粉塵を外周へ掃いている。
「急げ!」
ローグが叫ぶ。ジョニーが機体へ飛び込み、スパイダーがデータケースを抱えたままキャビンへ滑り込む。最後に残ったローグが振り返り――そこで止まった。
ヴォイドは動いていなかった。
ドアを抜けて数歩。着陸パッドの手前で足を止めていた。突風がコートの裾を叩くが、重心は揺れない。タラップへ向かう動作を、ヴォイドは開始しなかった。
キャビンから三対の視線が刺さる。ジョニーが眉を寄せ、ローグが目を細め、スパイダーが身を乗り出す。なぜ乗らない。誰かが口にするより早く、答えは足元から来た。
床が、隆起した。
爆音ではない。地鳴りだった。コンクリートの層が内側から押し上げられ、亀裂が放射状に走る。次の瞬間、ヴォイドとAVの間の床面が、数百キロの瓦礫ごと真上へ爆ぜた。
粉塵の中を、それは這い上がってきた。
四メートル。二トン。分類器が階下で照合を諦めた輪郭――
「逃がすと思ったのか?」
金属を削るような合成音声が屋上を渡る。装甲のいたるところが焼け、かすかに抉れていた。階下からここまで、床という床を砕いて直上してきた道程を、傷の数が語っていた。
排熱の陽炎が巨躯を包む。右腕のマニピュレーターが持ち上がった。
掴まれていたのは、無骨な金属殻。
シャイタンのバイオポッドだった。
「シャイタン!」
キャビンからスパイダーの声が裂ける。だが、ポッド表面のステータスランプは沈黙し、外部スピーカーからは何も返らない。ローターの風だけが通り過ぎ、ポッドは鉄塊のように静かだった。
「同じボーグだから、少しは歯ごたえがあるかと思ったがな」
スマッシャーは手の中のポッドへ単眼を向けた。
「とんだガラクタだった」
投擲は無造作だった。ゴミを捨てる軌道で、数十キロの金属殻が宙を飛ぶ。
ヴォイドは一歩も退かず、両腕でそれを受けた。脚部のリニア・アクチュエータが唸り、靴底がコンクリートを削って火花を散らす。
重い。
表面には真新しい凹みと焼け跡。だがシステムが拾う微弱な生体信号は、内部の脳髄がまだ死んでいないことを告げていた。外部接続は全損。生きている。ただ、それだけだ。
*
ヴォイドはポッドを抱えたまま、AVへ向き直った。タラップの縁まで歩き、身を乗り出したスパイダーへ、重量を静かに預ける。
「シャイタンを頼む。スパイダー」
受け取った腕が沈む。スパイダーは震える指でポッドの表面に触れた。応答はない。
ポッドに触れていた指が、止まった。スパイダーの顔が上がる。ヴォイドと、その背後で煙を吐く穴とを見比べた。
「待って、もしかしてだけど――」
「俺がヤツにケリをつける」
振り向かない。背後の大穴からは駆動音が唸り続けている。AVの計器が離陸限界を赤で刻んでいた。ミリテクの航空支援が切れるまで、アラサカの防空網が目を覚ますまで、残り数十秒。
キャビンの奥で、ローグが舌打ちした。ヴォイドを見、穴を見、計器の赤を見た。二秒。それだけだった。
「……頼んだよ、ヴォイド」
「ああ」
取り決めは、それで完了した。
「ヴォイド」
スパイダーがポッドを脇へ置き、タラップから身を乗り出した。両腕が首に回り、背伸びした唇が頬に触れる。熱と、微かな香水の匂い。
「生きて帰ってきて」
耳元で囁く声に、いつもの軽さはなかった。
「これが終わったら――私の前から、いなくなっちゃうんじゃないかって。ずっと、そう思ってた」
風が声の端を攫う。細い腕に、力がこもる。
「絶対帰ってきて。約束」
ヴォイドは目を伏せた。参照できる動作ログが、どこにもなかった。それでも腕は動いた。壊れ物を扱う速度で、彼女の背中に回る。
「ああ、分かってる」
自分の声が、聞き慣れない響きを持っていた。
「帰ってくるさ」
嘘は、どこにも混じっていなかった。スパイダーは一度だけ強く抱き返すと、自分から身を離し、キャビンの奥へ退いた。
ローターの回転数が跳ね上がり、AVが浮上を始める。
*
風圧が増す中、スマッシャーは動かなかった。頭部をわずかに傾け、浮上する機体を追いもしない。センサーの焦点は、ヴォイド一人に据えられたままだった。
「感動的だな。一昔前のメロ映画のようにな」
スピーカーが嘲りを鳴らす。ヴォイドは機体が高度を上げていく気配を背中で測りながら、口の端を歪めた。
「お前みたいなやつが映画を見るなんて意外だよ」
ドン、と着地音が隣で鳴った。
視線を流す。黒い防弾ベスト。鈍く光る銀の腕。ジョニー・シルヴァーハンドが、遠ざかるAVのキャビンから飛び降りていた。
「どいつもこいつも、カッコつけやがって」
ジョニーはマロリアンを回し、弾倉を叩き込んだ。
「主役は俺だ。ヴォイド、忘れたわけじゃないだろうな」
頭上を離脱していく機影の方角から、ローグの怒声が聞こえた気がした。通信は切れている。生身の声が届く距離でもない。だが、あの女帝の怒りなら、空間を歪めてでも届きかねなかった。
「足を引っ張るなよ」
「おいおい、それは俺の台詞だ」
ジョニーはスマッシャーを見据えたまま、肩をすくめた。
「それにしても、スパイダーといつの間にそんな仲になりやがった。堅物ぶってた割に隅に置けねえな」
「……答える必要を感じない」
「お前に女心の扱いが分かるかよ。手伝ってやるって言ってんだ」
「手伝う……? ローグとの交際期間に浮気した回数は」
「五回からは数えてねぇ」
「……クズが」
生の声での掛け合いだった。この街で最も死に近い場所で、システムは警告を積み上げ続けている。それでも、隣に立つ男の熱が、演算の列に不規則なリズムを混ぜていた。悪くない、と処理される類のリズムだった。
「お喋りは終わったか」
大鬼が一歩、前へ出た。コンクリートが砕け、屋上が揺れる。単眼がジョニーの銀腕を、次いでヴォイドを順に捉えた。
「ジョニーボーイ、お前がこの戦いについてこれるとは思わんが――まあいい。ひと思いに殺してやろう」
「やってみやがれ、ブリキ野郎が」
ジョニーは銀腕でマロリアンを構えた。
*
返答は、右腕のオートショットガンの咆哮だった。
散弾が床を抉り、空調ダクトを千切り飛ばす。ジョニーは弾幕の間を跳ぶ。戦術支援は、その足取りを今も『トップソロ』の分類で飾り立てる。
踏み込み。マロリアンの銃口が、兜に似た頭部装甲へ向く。大口径の徹甲弾、三連射。
甲高い金属音が三度。火花。装甲表面の削れ、深度二ミリ。
スマッシャーは被弾に反応も返さず、三本爪の二脚を深く沈めた。
次の瞬間、二トンが弾けた。
時速八十キロ。背部ラックからモノソードが抜かれ、風を裂いてジョニーへ迫る。
「まじかよ……!」
防御の銀腕が間に合わない。システムが衝突までの残時間を刻む。〇・四。〇・三――
割り込んだのは、黒いコートの背中だった。
ヴォイドの脚部アクチュエータが限界駆動し、床材を砕きながら、刃ごと質量を正面で受け止めた。
「ハハハハッ、その矮躯で俺を止めるか!」
火花越しに笑声が震える。
「ヴォイドとか言ったな。モーガン以外で俺を正面から止めたのはお前が初めてだ!」
両腕のクロームが軋みを上げる。
「アラサカからは、接触した場合は生け捕りを命じられているが――興が乗った。ここでお前もすり潰す!」
巨躯の奥で、一段低い駆動音が起きた。背部ポートから陽炎が噴く。スマッシャーのサンデヴィスタンが起動する――そのコンマ数秒前。
ヴォイドも、自分のサンデヴィスタンを起動した。
風の音が消えた。
舞う瓦礫が空中で止まり、世界が極彩色に引き伸ばされる。その中を、モノソードの刃がヴォイドの首へ這い進んでくる。
遅い。
ヴォイドの積むサンデヴィスタンは、半世紀先の代物だ。アラサカの試作機との世代差が、そのまま時間の差になっていた。
だが、背筋を冷たいものが走った。体はついてきていない。それなのに、単眼のセンサーだけが、極彩色の中を動くヴォイドを正確に追い続けている。
(――何を積んでいる)
思考を打ち切る。両腕と脚部の出力を上限へ。モノソードを振りかぶって開いた胸部へ、ゴリラアームの拳を叩き込んだ。
衝撃が静止した空気に波紋を作る。二トンの巨体は、数センチ浮いただけだった。
(重すぎる)
解除はしない。追撃へ移る。頭部、胸部、腹部、肩。継ぎ目らしき部位へ、秒間数十発。戦闘プログラムに任せた連打。手応えは、どの一発にもなかった。
色が、戻った。
タワーの灰色と、夜風の音が世界に帰ってくる。スマッシャーのサンデヴィスタンは、とうに切れていた。
「なんだ、なにが起きた」
位置関係が跳び、遅れて打撃音が束になって鳴る。極彩色の外に置かれていたジョニーが目を剥いた。
ヴォイドの眼前の装甲は、ひしゃげてはいた。それだけだった。
「グッ……ふ、フハハハハ。なるほど、確かに俺クラス――いや、俺以上の体か」
数メートル滑ったスマッシャーが、肩を揺らした。
「だが、この大鬼のプロトタイプは装甲戦車を超えるスペックだ! ヴォイド、貴様がいくら優れたクロームを積もうが、火力が足らん。その腕、そこらのソロならミンチにできるだろうが――このアダム・スマッシャーを貫くには少々力不足だったな」
ヴォイドは無言で奥歯を噛んだ。ゴリラアームの出力自体は、あの装甲を割る数値を出している。足りないのは力ではない。質量だ。
体高四メートル、概算重量二トン超。対するこちらは二百キロ。拳の運動エネルギーは装甲を凹ませ、余剰はすべて巨体を押すことに食われる。踏み込んで殴るたび、答えは同じ式に収束した。
背後に回り、関節部を直接圧壊させる手はある。問題は、その隙をサンデヴィスタンだけで作れるかだった。
「ヴォイド、お前でも無理なのか」
ジョニーがマロリアンを構え直し、横目で問う。
「出力だけなら俺のほうが上だ。だが、重量差が埋まらない」
「殴っても埒が明かねえってことか」
「関節をへし折るしかない」
「サンデヴィスタンのクールダウンは」
「もう使える。だが――」
言葉の途中で、視界がぶれた。
両目と鼻から、血が一筋ずつ落ちる。
損傷レポートが視界の隅に並ぶ。網膜毛細血管、再破裂。神経系、過負荷域。連続起動の熱が、生身の側から焼き始めていた。
「お前、それ……」
「気にするな」
手の甲で血を拭う。
「……そうかよ」
拭う間も、演算は回り続けている。全力のサンデヴィスタン、肉体が保つのはあと三回。手足を全部捥ぐには、足りない。
頭部への集中攻撃は捨てる。大鬼のセンサーは全身に分散している。シャイタンと同じボーグである以上、胸部のバイオポッドと機体全体を潰さない限り、あの視界は死なない。クイックハックは接続先が存在しない。スタンドアロン。物理ポートは装甲の奥。
質量攻撃――ここは屋上だ。あの晩の港湾のように、頭上から落とせる十数トンはどこにもない。
残るのは関節部。すべてをそこへ賭けるしかなかった。
コンマ数秒の演算の果て。ヴォイドは視線を前へ向けたまま、隣の男に言った。
「ジョニー」
「なんだ」
「俺を信じられるか」
ジョニーは一瞬だけ目を丸くし、鼻で笑った。
「ハッ――お前、そんな臭い台詞どこで覚えやがった」
撃鉄が起きる。
「上等だ。信用してるぜ。とっくの前からな」
前方で、大鬼が左腕のオートショットガンとモノソードを構え直す。
三者の視線が交わった。
狂犬と幽霊は、同時に地を蹴った。
ご期待にお答えできているかはわかりませんが、最後まで突っ走ろうと思います(寝不足)