開幕は、消えることからだった。
地を蹴った二歩目で、ヴォイドは光学迷彩を起動した。装甲表面を屈折制御が走り、黒いコートの輪郭が夜景に溶ける。
「ほう――消えたか」
見積りは四秒。それだけあれば、足りる。
走査の軌道がコンマ二秒乱れた。その隙間へ、逆側からジョニーが飛び込む。
「よそ見してんじゃねえぞ、ブリキ野郎!」
『右へ三歩。屈め。跳べ』
指示を、ジョニーは一切疑わずに実行する。四メートルの巨体の、死角から死角へ。オートショットガンの旋回が追いつくより早く、次の死角へ。
――俺を信じられるか。
あの問いの中身が、これだった。大質量の至近を回り続けるという、指示が一拍遅れれば挽肉に変わる機動。並のソロなら三秒で死ぬ。だがジョニーの足は、ヴォイドが引いた線の上を、笑いながら踏み続けていた。
「ちょこまかと……羽虫どもが!」
そして、大鬼は曲がれない。
ジョニーを追って巨体が回るたび、慣性のすべてを脚部の関節が受け止め、駆動音が半音ずつ跳ね上がっていく。負荷の集中点が、左膝に灯った。
(ここだ)
サンデヴィスタン、起動。一回目。残り、二回。
極彩色の中、ヴォイドは迷彩を解きながら左脚へ組み付いた。両腕の出力を全開放し、膝の関節を逆へ捻じり上げる。クロームが軋み、装甲の継ぎ目がミリ単位で口を開ける。
加速が切れ、世界に音が戻った。
呼ぶまでもなかった。開いた継ぎ目には、もうマロリアンの銃口が突き込まれている。
「そらよッ!」
三発、零距離。
徹甲弾が関節内部のローターを噛み砕く感触を、ヴォイドは組み付いた両腕で聞いた。
「グッ……小癪な真似をォ!!」
二人が同時に離脱する。振り返った先で、スマッシャーの左脚は膝から下の角度が狂っていた。駆動系は、死んでいる。
「ハッ、見たかよ! いくら装甲が分厚かろうが、支えられなきゃ意味がねえ!」
ジョニーが吠える。だが、巨体は倒れなかった。
死んだローターを、油圧が力ずくで代行する。作動液を霧状に噴きながら、狂った角度のまま、左脚が床を踏み抜いた。
「……面白い」
単眼の光量が絞られた。愉悦の色が消え、純粋な走査の色に変わる。
「その体、あとで丁寧に毟ってやる」
視界の隅を、残った手札が流れていく。サンデヴィスタン、残二。起爆パッケージ、残四――数十分前、この屋上を制圧した際に撒いた分。配置座標は、まだ生きている。
遊びの時間が終わったことを、ヴォイドは理解した。マロリアンを構え直すジョニーの気配も、同じことを告げていた。
*
そこからの戦闘は、帳簿の形をとった。
オートショットガンの掃射が屋上を薙ぐ。ヴォイドは射線の外周を走り続けた。
散弾がコンクリートと配管を裂き、破片が頬を掠める。口の中に鉄の味が滲んだ。呼吸が浅くなっている。回避は成立している。だが、成立の代金が一射ごとに引き落とされていく。神経系負荷、七十二パーセント。視覚野の右下では、夜景がそこだけ粗い粒子に変わり始めていた。サンデヴィスタンのせいだけではない。慣れない近接戦闘が、精神を削っていた。鎮静システムは興奮を抑えても、疲弊までは隠せない。
「どうした? 逃げ回るだけか!」
砲声の合間に、嘲りが飛ぶ。
「初めの威勢はどこへ行った!」
答えず、走る。戦術リンクの別枠に流れるジョニーの数字は、とうに橙域へ入っていた。左肩の裂傷、続く出血。それでも、移動速度だけは落ちていない。
『おいヴォイド、次はどこだ。右足か? 腰か?』
『息が上がってるぞ、ジョニー』
『うるせえ。こいつは武者震いだ』
体のすべてが限界を告げているのに、当の本人は、承知の顔で数字を無視している。ヴォイドは修正座標を送る。
問題は、こちらの消耗だけではない。
大鬼の単眼だ。
序盤、センサーはヴォイドの現在地を追っていた。いまは違う。銃口が、移動の半歩先へ置かれ始めている。
検証に、フェイントを一つ挟む。右へ二歩、急制動、左へ。
散弾は、制動の地点に来た。
「……ほう。今のを避けるか」
声から嘲りが消え、値踏みの響きだけが残った。
(読み始めたか)
この屋上に立った直後の交錯で、加速の内側を動くヴォイドを「目で追った」眼。あれは追跡ではなく、採取だったのだ。加速の初動。制動の癖。方向転換の周期。観測データが、いま照準に反映され始めている。
ヴォイドの戦闘経験は浅い。戦闘プログラムの付け焼刃で動けはするが、それまでだ。対する大鬼の中身は、姿がどれほど変わろうと歴戦のソロ。積み上げた場数が、半世紀分の性能差を喰い潰しにかかっていた。
こちらは消耗し、あちらは学習する。二本の曲線が交わるまで、数分。以降、回避は五割を切るだろう。
残された僅かな猶予。
その使い道は、とうに決まっている。
*
急所の在り処は、割れている。
大鬼の胸部装甲、正中線からやや左。継ぎ目の奥に、バイオポッドの熱源反応。機体全体を沈黙させる、唯一の一点。
問題は、その継ぎ目が一度もこちらを向かないことだった。
スマッシャーは死んだ左膝を軸に据え、トルソーを常に半身に保っていた。胸を斜めに逸らし、正面の円弧を塞ぐ。そして右腕は――抜き放ったモノソードを、畳んだ肘ごと胸の前へ引きつけたまま、微動だにしない。
(……迎撃の構えか)
加速中のこちらを、あの単眼は確かに捉えていた。体が追いつかないだけで、見えてはいるのだ。なら、追う必要はない。見えた初動の延長線上へ、最短の一撃を置けばいい。速さで勝てない相手から、速さそのものを奪う構えだった。
「サンデヴィスタンを使うがいい」
半身のまま、スマッシャーが言った。
「狙いは俺のコアだろう。……来い。この俺が二度も同じ手を食うかどうか、その身で確かめろ」
シミュレーションが回る。
一、正面からの関節連撃――回数不足。二、単眼を潰して死角から組み付く――センサーは全身分散、死角が存在しない。三、ランチャー全弾を胸部へ――この角度では装甲厚を抜けない。四。五。六。
港湾の夜、ヴォイドは盤面の終わりを一手で宣告した。いま、何百と走る演算のどこにも、あの宣告へ至る枝がない。
(なら――こじ開けるまでだ)
読まれるのは、承知の上だ。読みと着弾の間には、世代差の一瞬がある。そこへ滑り込む。
サンデヴィスタン、起動。二回目。残り、一回。
極彩色の中を、右膝へ走った。左と同じ手順。組み付き、捻じり、ローターを露出させる――計画の三手目で、世界が裏返った。
大鬼のモノソードが、到達点で待っていた。
反応を競う勝負ですら、なかった。追ってきたのではない。置いてあったのだ。加速の初動から進路を読まれ、終点へ刃が振り下ろされる。回避は半分だけ間に合った。半歩の分だけ刃筋が逸れ、平の衝撃を左肩の皮下装甲が受け止め、二百キロの体が屋上を二度跳ねて転がる。
「ヴォイド!!」
ジョニーの声が、遠くで聞こえた。加速が切れる。
左肩、損傷率は予測を下回った。切断は、半歩の差で免れている。ただ、刃を逃れた分の衝撃が骨格に居座り、駆動のたびに鈍く響いた。
「驚いたぞ。見た目より頑丈だ。……だが、言ったはずだぞ。二度は食わんと」
単眼の光が、転がった先のヴォイドを静かに照らす。誇張も嘲りもない、答え合わせを終えた声だった。
「次に使えば――今度は肩では済まさんぞ」
口の端の血を拭い、ヴォイドは立ち上がった。応えず、視界の隅に別のレイヤーを呼び出す。
屋上平面図。明滅する光点、四つ。
陽動のために自らの手で撒いた種が、まだそこで眠っていた。
*
第二プランの送信に、一秒もかからなかった。
光点のうち三つを結ぶ線の上へ、大鬼の突撃を誘い込む。それだけだ。
『ジョニー。次の直線、俺の引く線から半歩も外れるな』
『ハッ――今さらだろ』
ジョニーが跳ねるように駆け出し、大鬼の正面で挑発的に振り返った。
「こっちだ、鉄屑! その足で追いつけるもんならなあ!」
「明け透けな陽動だな。だが、まずは貴様から始末するとしよう」
大鬼が喰いついた。死んだ左膝を油圧で引きずり、二トンの慣性が直進に変わる。曲がれない巨体が、曲がる必要のない獲物を得た瞬間だった。
一つ目。右足の接地に合わせて、起爆。
「なに……!?」
爆圧が足首の関節を横から殴り、駆動音が悲鳴に変わる。二つ目、左腰部。三つ目、右膝裏。
「爆弾だと……貴様、いつの間に――!」
装甲は抜けない。抜く必要がなかった。開幕からこちら、負荷を積み上げ続けた関節部だけが、内側から順に音を上げていく。腰の旋回系が止まり、右膝が出力を落とし、半身の構えを支えていた軸が三点、同時に折れた。
だが、無償ではなかった。
誘導の最終区間、ジョニーは大鬼の射界を正面から横切っていた。関節が砕ける寸前のオートショットガンが、最後の掃射を吐く。
左の銀腕が、肘から先を失って宙を舞った。
「があッ……!」
その一瞬だけ、眼前の光景が記憶と重なった。
腕を失い、仰け反るジョニー・シルヴァーハンド。夜。塔の上。知っている光景だ。それはジョニー自身が見た、彼の最期の記憶。薙ぎ払われ、抵抗空しくとどめを刺される。
記憶の中の男は、そこでアラサカに敗北を喫した。
しかし。
目の前の男は、走った。
『ジョニー――!』
制止の送信は、受信される前に置き去りにされた。ジョニーは血を撒きながら四つ目の光点へ走り、右手一本で起爆パッケージを配管ごと引き剥がす。振り向く。構えの死んだ大鬼は、もう迎撃の角度を作れない。
「舐めんじゃねえぞ――」
突撃。
「まだまだ食い足りねえだろ、これでも食らいな!!」
残った右腕が、パッケージを胸部の継ぎ目へ叩き込み、捻じ込む。
「離れろ、腐れ肉がァ!!」
大鬼の裏拳がジョニーを薙ぎ払った。二度バウンドし、転がり、それでも右手はマロリアンを離していない。
倒れた姿勢のまま、銃口が持ち上がる。
「……
一発。
爆光が大鬼の胸を内側から殴り、継ぎ目が破孔に変わった。
*
破孔は、まだ煙を吐いていた。
正中線のやや左。内側から殴られた装甲が外へ捲れ、奥で火花が断続的に明滅している。露出したフレームの先、熱源反応までの間に、遮るものはもう何もない。
「……やってくれる」
スマッシャーの語気には怒気も驚愕もなかった。ただ自らの損傷度を確かめるようにぐるりと頭部を動かす。腰の死んだトルソーを、右脚の油圧だけで捻じる。だが、半身の構えはもう作れない。関節という関節が悲鳴を上げ、巨体は自重に縫い留められていた。
「だがな、詰めが甘いぞ。貴様らの悪運も――ここまでだ」
単眼が、倒れたままのジョニーを焼くように照らす。右腕のマウントが軋み、銃口がそちらへ旋回を始めた。
その旋回は、終わらなかった。
サンデヴィスタン、起動。三回目。残り、ゼロ。
極彩色が世界を塗り替える。視界を埋める警告文を、ヴォイドはすべて未読のまま破棄した。引き伸ばされた時間の中、火花の明滅が静止し、捲れた装甲の一枚一枚が輪郭を持つ。
十二メートル。八。四。
単眼が、その速度域の内側でヴォイドを捉えた。種の割れたはずの初動が、迎撃の間に合わない速度で懐へ入ってくる。銃口を戻す時間も、腕で破孔を塞ぐ時間も、この世界のどこにも残っていない。
「――貴様! サンデヴィスタンがもう使――」
ゼロ距離。
(――悪いが、ここまでが俺の
港湾の夜、施設中のスピーカーで響かせた宣告。二度目のそれは電波にも音にも乗せず、引き金の感触だけに変えた。
全弾、連続射出。
加速が切れ、音が世界に追いついた。籠もった爆発が胸郭を内側から連打し、継ぎ目という継ぎ目から閃光が漏れる。声は、最後まで続かなかった。単眼の光量が二度明滅し、油圧の唸りが一斉に途切れる。
巨体が、傾いだ。
支える関節は、どこにも残っていない。大鬼は自らが穿って登ってきた床の大穴へ、後ろ向きに沈んだ。瓦礫を巻き込み、階下の闇が巨体を呑む音が、三度、四度と反響して、途切れる。
システムは「目標反応喪失」とだけ表示した。撃破とも、死亡とも、表示しなかった。
夜風が、屋上に戻ってきた。
*
静寂に、音が付いてきた。
大穴の縁に立つヴォイドの視界へ、己の体たらくが数字として並ぶ。
サンデヴィスタン、残回数ゼロ。神経系負荷の超過は主機関へ波及し――心停止、検知。予備心臓、稼働開始。
心臓が一つ死んだことを、システムは二行で報告し終えた。残りの項目は、どれも赤かった。
歩み寄ると、ジョニーは瓦礫に背を預けて座り込んでいた。左の肘から先はなく、断面は爆風に焼かれている。それでも、マロリアンはまだ右手の中にあった。
「……よお」
顔は蒼い。口だけが、いつもの角度で歪んでいた。
「見たか、ヴォイド。主役の仕事ってやつをよ」
「ああ。……見たさ」
ジョニーの目が大穴の縁を一瞥し、夜空へ戻る。
「ハッ……あっけねえもんだな、死神サマも」
「軽口が叩けるなら軽傷だな」
「おいおい、もっと労われよ。こっちは腕が飛んでんだぞ」
答える口とは別の場所で、撤収経路の再計算が走っている。降下地点まで、負傷者一名を搬送して十一分。予備心臓が保つ時間の、内側にぎりぎりで収まる。
収まる、はずだった。
聴覚のノイズの底で、周期音を拾った。フィルタが三度掛け直され、音源が分離される。
ローター音。複数。北北東から、急速に近づいてくる。
システムが照合を終え、視界に分類を貼り付けた。
敵性増援。機数、六。