灰は、音を立てずに降る。
アラサカ・タワーが光に呑まれてから、数か月が経っていた。
あの夜、コーポ・プラザの中心で起きた爆発は、タワーを根元から消し、周囲の街区ごと焼き払った。死者の数は、いまだに確定していない。爆心の周辺は立入禁止区域として封鎖され、汚染された土と瓦礫だけが残っている。そこから舞い上がった灰が、夏の終わりから街じゅうに降り続けていた。その向こうの空は、タワーが落ちてから一度も、本来の色に戻っていない。
連邦政府は、事件をアラサカによる核テロと発表した。それが真実かどうかを確かめる術は、街の誰も持っていない。確かなのは、アラサカがこの街での足場をほとんど失ったこと。そして、戦争の潮目がそれで変わったことだけだった。
ローグはフィルターマスクの縁を押さえ直し、通りを北へ折れた。
電力は区画ごとに戻ったり戻らなかったりで、戻った区画のネオンも灰を被って色が鈍い。すれ違う人間は皆、口元を覆って足早だった。
顔を上げなくても、コーポ・プラザの上に何もないことは分かっている。わざわざ確かめる理由はなかった。
裏通り。シャッターの降りた修理屋が、今のセーフハウスだった。前の拠点は、核のあとすぐに引き払っている。アラサカの残党がどこまで情報を握っているか、分からなかったからだ。
拳で三回叩く。間を空けて、二回。
内側で、ロックの外れる音がした。
中は暗かった。灯りは卓の上に一つだけ。その輪の中に、港湾区画の地図と端末が広げてある。
ローグはマスクを外し、肩の灰を払った。
スパイダーは部屋の奥に座っていた。首筋の神経ジャックから伸びたケーブルが端末に繋がり、目は開いているのに、こちらを見ていない。ここ数週間、彼女はアラサカの残存回線に潜り続け、ある男の動きだけを追っていた。
壁際には、シャイタンが立っていた。予備の全身は塗装の艶がまだ新しく、灰の積もる街の中で、この部屋の何よりも明るい色をしていた。
「揃ったね」
スパイダーがケーブルを抜いた。
「始める」
地図の上に、桟橋の一つが拡大される。
「ケイ・アラサカは、船での脱出を企んでる。出発は二日後。この機会を逃したら、次はない」
ケイ・アラサカ。アラサカの現CEOであり、この戦争を指揮してきた男だ。本来なら、タワーが落ちた時点で本国へ引き上げていたはずだった。それができなかったのは、核の後始末のせいだ。北米支社の撤収、資産の処分、連邦との交渉。トップが不在のまま放り出すには、残された問題が大きすぎた。
「空は」
「使えない。連邦はケイをテロの首謀者として仮手配してる。空港も空路も押さえられてる。残ってるのは海だけ」
「護衛は」
「船上に二十。港側の警備は撤収済み。荷の積み込みが明日の夜。乗船は出航の三時間前」
数字だけが、地図の上に並んでいく。
主語を削り、形容を削り、残った数字だけを相手の前に置く。結論を先に言い、理由は訊かれるまで足さない。以前のスパイダーは、こういう話し方をしなかった。ローグは、この並べ方をする人間を一人しか知らない。
あいつの話し方だ。
ローグは、何も言わなかった。
「ミリテクは」
代わりに、それだけ訊いた。
タワーから持ち出したオルト・カニンガムのデータは、契約どおりミリテクに引き渡した。受け取った部隊と連絡が取れなくなったと聞かされたのは、その数日後だった。それ以来、ミリテクからは何の説明もない。
「繋がらない。受け渡しの部隊ごと、まだ消えたまま」
スパイダーの指先が、端末の縁を一度だけ叩いて止まった。
「オルトがどこにいるのか、誰も答えない。答えられる人間が、もういないのかもしれない」
声の高さは、最後まで変わらなかった。
壁際で、シャイタンの関節が小さく鳴った。
「二日か」
シャイタンが言った。
「十分だ」
ローグは地図から目を外した。
「ホントにやる気かい」
スパイダーは答えなかった。端末の表示を一枚めくる。桟橋の見取り図が、船内の区画図に切り替わった。
「散々言ったけど、止めるなら今だよ」
「くどいよ、ローグ」
「くどくもなるさ」
ローグは椅子の背にもたれ、腕を組んだ。
この計画を持ち出したのは、スパイダーだった。依頼人はいない。ミリテクも連邦も、ケイの首に値を付けてはいない。戦争の大勢はもう決まりかけていた。アラサカは北米での足場を失い、本国では日本政府からの圧力が強まっていると聞く。放っておいても、ケイはいずれ表舞台から消える。
「報酬は出ない。依頼人もいない。わざわざ船に乗り込んで、三人で二十を相手にする理由がどこにある」
「知ってる」
「なら――」
「言ったでしょ」
スパイダーが顔を上げた。この部屋に入ってから、初めてだった。
目の下の影が濃い。頬の線が、夏の頃より削げている。それでも、こちらを見る目は揺れていなかった。
「これは、あいつ等へのレクイエム。諦める気はない」
レクイエム。
ネットランナーの口から出るには、ずいぶん古い言葉だった。冗談めかす余地を、どこにも残していない言い方でもあった。
ローグは壁際へ視線を流した。
「あんたは」
「俺は乗る」
シャイタンの返事は早かった。
「理由は要らない」
それきりだった。
ローグは組んだ腕を解かなかった。頭の中では、段取りが勝手に組み上がっていく。船上に二十。こちらは三。荷の積み込みに紛れれば、乗り込む隙はある。数字だけ見れば、やれない仕事ではない。
やれない仕事ではないことが、止める理由にならなかった。
あいつ等、とスパイダーは言った。
名前は出さなかった。出さなくても、卓の周りには椅子が足りない。
一人の顔は、すぐに浮かんだ。仮面のように動かない顔。最後に見たのは、屋上の包囲の中だった。
もう一人の顔は、浮かべる前に、ローグのほうが目を閉じた。
閉じたところで、無駄だった。
AVが屋上を離れた直後、ジョニーは機体から飛び降りた。ヴォイドと二人でスマッシャーを相手にするためだ。止める間もなかった。
増援の降下部隊を見て、ローグたちは一度だけ引き返した。できたのは、上空からの援護までだった。降着して二人を拾う余裕はなかった。離脱したあとも、スパイダーはアラサカの回線を聞き続けていた。
ジョニー・シルヴァーハンドの身柄を確保。遺体を回収機で搬出。
傍受したその一報を頼りに、回収機を追った。
追跡の途中で、背後の空が白くなった。
振り返ったのはスパイダーだけだった。ローグは機首側の窓から、前を行く回収機の灯を見ていた。衝撃波が機体を揺らし、計器が一斉に跳ねても、その灯を視界の真ん中から外さなかった。
撃ち落とさず降ろすために、スパイダーが回収機の操縦系を奪った。降着地点は湾岸の倉庫街。護衛は四人。片付けるのに、一分かからなかった。
貨物室の床に、遺体袋が一つだけ固定されていた。
ジッパーを引く。顔を確かめ、識別を確かめ、運び出せる状態かを確かめる。何度もやってきた順番を、指は覚えていた。
左の肘から先が、なかった。
手が、そこで止まった。
断面は焼けて黒い。腹と肩に弾の跡。それから首筋に、細い穴が一つ。何かを刺して、抜いた跡だった。尋問か、処置か。考えるより先に、目が顔へ戻っていた。
ジョニーの顔だった。
それ以上のものは、そこになかった。罵倒の途中で止まった口でも、眠っているだけの瞼でもない。形だけが、置かれていた。ローグの知っている男は、こんなに静かだったことが一度もない。
かつて、隣で何年も暮らした男だった。
ローグは、目を逸らした。
ジッパーを最後まで閉じる。運ぶよ、と言ったのは自分の声だった。背後でスパイダーが何か言いかけて、やめた。
その先は――
ローグは目を開けた。
灯りは、さっきと同じ位置にあった。
スパイダーは、もう端末に戻っていた。
区画図をめくる指が速い。乗船口、通路、船室。警備の巡回周期を書き込み、消し、また書き込む。夏の前なら、作業の合間に軽口の一つも挟んでいた。今は、端末の駆動音しか聞こえない。
ローグは、その横顔を見ていた。
ヴォイドの最期を、誰も見ていない。傍受したアラサカの回線は、一名が崩落孔から落下した、とだけ告げていた。その数分後に、タワーは光に呑まれた。爆心の真下で生き延びられる人間はいない。ローグの頭の中の勘定でも、答えは一つしか出なかった。
タワーで失くしたものは、二人とも同じだ。ただ、ローグはこの稼業で人を見送ることに慣れていた。慣れていたから、取り乱したのは貨物室での数分で済んだ。
スパイダーは違った。
ネットの中で、自分より先を行く人間に、彼女は会ったことがなかった。あいつに会うまでは。最初は腕前を確かめるように付きまとい、そのうち、確かめる以外の理由で隣にいるようになった。本人が口にしたことはない。口にされなくても、同じ女として見ていれば分かることだった。
それから、スパイダーは笑わなくなった。仕事の話以外は、ほとんど口を開かない。ケイの居場所を追うことだけが、今の彼女を端末の前に座らせていた。
端末の隅に、戦術リンクの一覧が開いたままになっていた。
ローグ。スパイダー。シャイタン。その下に、もう一行。
灰色の文字で、応答なし、とだけ出ている。
消すなら一操作で済む。スパイダーなら、目を向ける必要すらない。それでもその一行は、夏の終わりからずっと、そこに残されていた。
――絶対帰ってきて。約束。
屋上でそう言った声を、ローグはキャビンの中で聞いていた。
スパイダーの指が止まった。一覧を閉じ、区画図に戻る。
「警備の交代は四時間おき」
声は、さっきと同じ高さだった。
シャイタンが、地図の前へ歩み寄ってきた。
足音が軽い。前の体は、階段を上るだけでコンクリートを鳴らした。同じ型の予備のはずなのに、重さの乗せ方が違う。床を踏むたび、ほんの少し遅れて沈む。
タワーで体を失ったシャイタンは、バイオポッドだけの状態で回収された。予備の全身に換装したのは、それから間もなくのことだ。脳を収めたポッドが無事なら、体は替えが利く。全身義体のボーグとは、そういうものだった。
「乗り込みは、積み込みに紛れる。そうだな」
「そう」
「なら俺が先頭だ。二十なら、半分は俺がやる」
「段取りはまだ――」
「半分は俺がやる」
同じ言葉を、同じ抑揚で、もう一度。
ローグは頭の中の段取りに、数字を一つ書き足した。こちらは三。モーガンがいれば、四だった。タワーを出たあと、作戦の完了を二言三言確かめ合ったきり、あの男は街から消えた。ミリテクも行方を掴んでいないらしい。使える駒は、この部屋にいる分だけだ。
シャイタンが、天板の端に手をついた。
金属が、指の形にわずかに凹んだ。本人は気づいていない。視線は区画図の船室に据えられたまま、一度も外れなかった。
ローグは、その手を見ていた。
換装してから、シャイタンは変わった。以前は、ポッドさえ無事なら何度でも立ち上がれると、笑いながら言っていた。戻ってきてから、その話をしなくなった。代わりに、夜中にひとりで関節を一つずつ動かしている姿を、ローグは二度見ている。この暗殺計画を一番熱心に進めているのも、シャイタンだった。何かに集中していなければならない理由が、本人にはあるのだろう。
サイバーサイコシス。その言葉を、ローグはまだ口にしていない。
天板の上で、指が一度だけ跳ねた。
シャイタンは、跳ねた指をもう片方の手で押さえた。押さえる動きのほうが、跳ねた動きより速かった。
「……問題ない」
誰も、訊いていなかった。
*
決行の前の晩、シャイタンは装備の確認に出ていった。
部屋に残ったのは二人だった。スパイダーは端末の前から動かない。区画図の上を、巡回の線がもう何十回目かになぞられていく。あの会議のあと、彼女が席を離れるのを、ローグはほとんど見ていなかった。
ローグは合成コーヒーを二つ淹れ、一つを端末の横に置いた。
「ちゃんと寝てるのかい」
「寝てるよ」
返事は早かった。目は画面から上がらない。
「いつ」
「……一昨日」
ローグは、それ以上訊かなかった。
「終わったら、寝る」
スパイダーが言った。誰に向けたのか分からないほど、小さな声だった。
「終わったら、ね」
ローグはカップに口をつけた。スパイダーのカップには、最後まで手が伸びなかった。湯気が細くなり、消えるまで、ローグは向かいの席で黙っていた。
*
二日後の夜、港は灰の下で黒かった。
戦争が始まってから、この港を出入りする船は大きく減っていた。核のあとは、なおさらだ。今夜灯を点けているのは、一つの桟橋だけだった。積み込みのクレーンが動き、桟橋の先へ荷を運んでいる。海面に積もった灰が、波が来るたびにゆっくり形を変えた。
倉庫の陰で、三人は足を止めた。
隣でスパイダーが端末を閉じる。手つきに迷いはなかった。シャイタンは、もう半歩前に出ている。
引き返すなら、ここが最後だよ。
ローグは口を開きかけて、閉じた。セーフハウスで二度言って、二度とも同じ答えが返ってきた言葉だった。
桟橋の先に、船がいた。
シー・ヴァイパー。ケイ・アラサカの脱出船。
灰の降る海の上で、その船体だけが白く、灯を纏っている。
*
船への潜入は、拍子抜けするほど簡単だった。
荷の積み込みに紛れて桟橋を渡り、貨物用のハッチから船内へ入る。巡回の周期はスパイダーが割り出したとおりで、船内の監視カメラは乗り込む前から彼女の手の中にあった。船上の護衛は二十。予定と一人も違わなかった。
タワーと比べれば、遊びのようなものだった。あそこでは、階を一つ上がるごとに誰かが削れていった。今夜は、三人とも傷一つ負っていない。
物足りない。
その考えが頭の隅をよぎったことに、ローグ自身が驚いた。プロの考えることではない。仕事は簡単なほどいい。それが、この稼業で生き残ってきた人間の常識だった。それなのに、仇の喉元まであと数歩という今になって、手応えのない前座ばかりを相手にさせられている。どこかにぶつけたくて、腕が勝手に力を溜めていた。
最後の護衛が、通路の角から姿を見せた。
ローグは銃を使わなかった。距離を詰め、頭を掴み、首を捻る。必要以上の力が入ったのは、自分でも分かった。骨の折れる音が、狭い通路に響いた。
崩れた体を床に下ろし、ローグは深く息を吸った。
隣のシャイタンは、何事もなかったように周囲を確かめている。作戦会議の席で見た指の跳ねは、今夜はまだ出ていない。
スパイダーは――
ローグは、その横顔に目を留めた。落ちくぼんだ目が、通路の奥の扉から離れない。瞬きが少ない。作戦を詰めていたときと同じ目だった。いや、それよりも深いところで、何かがまだ燃え残っていた。
危ういな、とローグは思った。
だが、何も言うつもりはなかった。ここにいる三人は、もう失くすものを持っていない。どんな結末になろうと、今更だった。
これは、ただのつまらない復讐劇だ。
*
ケイ・アラサカは、執務室を兼ねた船室にいた。
扉を開けた瞬間、足元の感触が変わった。床一面に敷かれているのは、草を編んだ厚い敷物だった。畳という名前を、ローグはどこかで聞いた覚えがある。壁は木と紙で仕切られ、隅の低い台に、花が一輪だけ活けてあった。船の中とは思えない部屋だった。ナイトシティで生きてきたローグの目には、どれも見慣れないものばかりだ。
部屋の中央に、男が一人で座っていた。
背筋を伸ばし、膝を揃えて、畳の上に。黒い着物。四十を少し過ぎた年頃。報道の映像で何度も見た顔だが、実物は思っていたより小柄だった。前には背の低い書生机が置かれ、資料の束が整えて積まれている。
護衛はいない。武器も見えない。外の通路で何が起きたのか、知らないはずはなかった。
男は、立ち上がらなかった。
ただ、こちらを見ていた。扉の前に並んだ三人を、一人ずつ。
「私が乗船してから三十分と十秒。随分早いお出ましだ。もう少し、かかると思ったが」
取り乱した様子は、どこにもなかった。ケイは机の上の資料を一瞥し、ふん、と鼻を鳴らした。
「何用かね。私には、ひどく時間がない」
スパイダーが、一歩前に出た。
「あんたを終わらせに来た」
ケイは、眉一つ動かさなかった。
「そうだろうな」
その視線が、最後にスパイダーを捉えた。
「タワーのネットランナーだな。コアを汚したのは、君か」
スパイダーは答えなかった。
コアを汚したのは、ローグたちのチームではない。タワーの中では、自分たち以外の誰かも動いていた。スパイダーがその経緯をどこまで掴んでいるのかは、ローグにも分からない。ただ、ここで訂正する気がないことだけは、閉じたままの口元から読み取れた。
「見事な仕事だった。あれで、我々の戦争は終わった」
称賛とも皮肉ともつかない声だった。ケイは机の資料に手を置き、その表紙を指でなぞった。
「北米の資産は、すべて凍結された。本国は、私の帰りを待ってなどいない。待っているのは、私を切り捨てるための手続きだけだ。父は――」
ケイは、そこで一拍だけ言葉を切った。
「父は、敗者を家に入れない」
サブロウ・アラサカ。百歳を超えてなお、あの巨大企業の頂点に座り続けている老人の名は、ローグも知っていた。戦争に負けた息子を、あの男がどう扱うのか。想像するのは難しくなかった。
「だから、急いでいる。本国の港に着くまでに、片付けておかねばならないことが山ほどある」
「片付けなら、俺たちがやってやる」
シャイタンが前に出た。銃口が持ち上がり、ケイの額へ向く。
ケイは、銃口を見なかった。
「撃つかね。それもいい」
視線は、スパイダーに据えられたままだった。
「だが、君はそれでは足りないという顔をしている」
スパイダーは、すぐには答えなかった。
ローグは、その横顔を見ていた。この二日間、スパイダーは乗り込みの手順を一つ残らず口にしてきた。巡回の周期も、護衛の数も、乗船の時刻も。だが、この部屋に入ってから何をするつもりなのかだけは、一度も言っていなかった。
「この船に、積んでるでしょ」
スパイダーが言った。
「タワーから切り離して持ち出した、予備。ソウルキラー」
ケイの目が、この部屋に入ってから初めて、わずかに細くなった。
「なぜ知っているとは、敢えて問うまい」
ケイは机の資料から手を離した。
「あれは、私が責任を持って本国へ運ぶはずのものだ。タワーで失ったものの中で、唯一手元に残った」
「知ってる」
スパイダーの声は、相変わらず平らだった。
「だから来たの。あんたを撃って終わりにする気はない」
スパイダーは、もう一歩前に出た。畳の縁を踏む足音が、やけに大きく響いた。
「あんたたちは、何人のランナーをあの装置で焼いた。オルトも、その一人。逃げる背中から捕まえて、中身だけ抜き取って、檻に入れた」
ケイは何も言わなかった。
「あんたに残ってる道は三つ。ここで撃たれて死ぬか。本国へ帰るか。自分で終わらせるか」
スパイダーは、指を一本ずつ折った。
「撃たれれば、アラサカのCEOはテロリストに殺された負け犬で終わる。本国に帰っても、待ってるのは切り捨ての手続きだけ。さっき、自分でそう言ったよね」
三本目の指は、折らずに残した。
「あんたの国じゃ、責任は自分の手で取るものなんでしょ。腹を切って」
ケイは、スパイダーの顔を見たまま動かなかった。
「その装置は、あんたたちの戦争そのものだよ。ランナーを焼いて、魂を檻に入れて、それで勝とうとした。その装置を、最後まで運ぶ責任を負ってたのは、あんた。なら、責任の取り方も一つしかない」
一拍。
「自分の装置を、自分に使いなよ。焼かれたランナーたちと同じ場所へ、自分の手で行けばいい」
部屋の空気が、そこで止まった。
ローグは、ようやく理解した。
撃ち殺せば、ケイ・アラサカは被害者になる。殺したこちらは、ただのテロリストで終わる。だがケイが自分の手で、自分の会社の装置に焼かれるなら、話が変わる。それは敗者の死ではなく、責任を取った者の死になる。ケイにとっては、名誉を守る唯一の道だった。同時にそれは、あの装置に焼かれてきたランナーたちと同じ場所へ、仇を送ることでもあった。
レクイエム。殺すためではなく、送るために、スパイダーはこの部屋まで来たのだ。
ケイは、長く黙っていた。
視線が、スパイダーから外れる。部屋の隅の、一輪だけの花へ。それから、自分の膝の上へ戻った。
「……よかろう」
その返事を聞いた瞬間、ローグの隣で金属が軋んだ。
シャイタンだった。銃口がケイの額に向いたまま、引き金にかかった指が、命令していない動きで震えている。
「ふざけるな」
低い声だった。
「そいつが自分で選ぶのか。俺たちは、何のためにここまで――」
ローグは、シャイタンの前に立った。
銃身を掴み、下へ押す。義体の腕力に、生身の力で敵うはずはない。それでも銃身は下がった。シャイタン自身が、下げたのだと分かった。
「シャイタン」
名前を呼んだだけだった。
シャイタンは、震える指をもう片方の手で押さえた。セーフハウスで見たのと同じ動きだった。
「……分かってる」
ケイは、そのやり取りを最後まで黙って見ていた。それから、机の上の資料を脇へ寄せ、その下から一枚の紙と、筆を取り出した。
「少し、時間をもらう」
「何をする気だい」
ローグが訊いた。
「辞世を詠む。死ぬ前に、句を一つ残すのが、我々の国の作法だ」
筆が紙に下りる。迷いのない運びだった。ローグには読めない文字が、上から下へ、静かに並んでいく。
書き終えると、ケイは筆を置き、それを読み上げた。
海鳴りや 死を笑ひ見て 鴎鳴く*1
日本語だった。ローグには、一語も意味が分からなかった。
装置は、部屋の奥の押し入れに収められていた。
ケイ自身が立ち上がって襖を開け、中から金属のケースを引き出した。思っていたより小さい。旅行鞄ほどの大きさで、表面にはアラサカの社章が刻まれている。タワーの中枢で動いていた装置の、退避用に切り分けられた片割れだった。
ケイはそれを畳の中央、自分が座っていた場所の正面に置いた。
ケースが開く。中には端末と、細い有線が一本。
「確認するよ」
スパイダーが言った。
「好きにしたまえ」
スパイダーは膝をつき、自分のケーブルを端末の外部ポートに差した。目が一度だけ遠くなり、すぐに戻る。
「本物。外への送信経路はない。焼いたら、中身はこのケースに閉じ込められる」
「当然だ。持ち出し用の系統だからな」
ケイは、もとの位置に座り直した。背筋を伸ばし、膝を揃える。最初に見たときと、寸分違わない姿勢だった。
手が、有線を取った。
着物の襟をわずかにくつろげ、首筋の接続口へ、ためらいなく差し込む。端末の画面に、文字の列が流れ始めた。
「始める前に、一つだけ」
ケイが言った。視線は、まっすぐスパイダーに向いていた。
「この装置を、どうするつもりかね」
「沈める」
スパイダーは即答した。
「あんたごと、海の底へ」
ケイは、ほんのわずかに口元を動かした。笑ったのかどうか、ローグには判断がつかなかった。
「海鳴りの中か。悪くない」
ケイの指が、端末の上で一度だけ動いた。
最初の数秒、何も起きなかった。それから、ケイの体がわずかに前へ傾いだ。倒れはしない。背筋は伸びたまま、膝も揃ったまま、ただ顎だけが少しずつ下がっていく。
唇が、動いた。
「……ミチコ」
声と呼べるほどの大きさはなかった。ローグの知らない名前だった。誰の名前なのか、問いかける相手は、もう答えられる場所にいなかった。
それきり、声は出なかった。
震えも、痙攣もない。抵抗の気配が、どこにもなかった。焼かれる者は暴れるものだと、ローグは聞いていた。網の中で逃げ場を探し、最後まで足掻くものだと。この男は、逃げなかった。自分の装置の中へ、自分の足で降りていった。
スパイダーは、端末の画面から目を離さなかった。流れる文字の列を、瞬きもせずに追っている。
やがて、文字が止まった。
画面の中央に、短い一行が表示される。ローグには読めない文字だった。
「……転写、完了」
スパイダーが読み上げた。
ケイ・アラサカの体は、座った姿勢のまま、もう動かなかった。首は前へ垂れ、両手は膝の上に置かれている。その形は、詠み終えた句の紙の前で、深く一礼しているようにも見えた。
部屋の隅で、一輪の花だけが、何も変わらずに立っていた。
*
ケイ・アラサカの死は、数日後に報じられた。
予定の時刻、船は自動航行に従って桟橋を離れていた。沖合を漂っているところが見つかったのは、翌朝のことだった。船内には、護衛二十人の遺体。船室の一つで、CEO本人が座ったまま息絶えていた。
アラサカは声明を出した。ケイ・アラサカは、敗戦の責任を自ら取った。それが公式の見解だった。護衛たちの遺体については、何の説明もなかった。どの報道も、海の底に沈んだ金属のケースについては一行も触れていなかった。
指揮官を失ったアラサカに、戦争を続ける力は残っていなかった。
その年の暮れ、日本政府からの圧力を受けて、アラサカは降伏した。第四次企業戦争は、そこで終わった。
勝った側のミリテクも、無傷ではなかった。核の直後、合衆国大統領エリザベス・クレスはミリテクを国有化し、その軍事力ごと政府の手に収めていた。企業が国を巻き込んで戦った戦争は、国が企業を飲み込む形で幕を下ろした。
アラサカへの処分は重かった。連邦はアラサカの国内での営業許可を取り消し、サブロウとケイの親子をテロリストに指定した。調査委員会は、タワーの核爆発をアラサカ自身の仕業と結論づけた。その結論はのちに何度も疑われることになる。だが少なくとも、公式の記録はそう書き残している。
アメリカから締め出されたアラサカは、日本国内だけの企業へと縮んだ。その状態は、少なくとも十年続いた。
東京で、ケイの葬儀が営まれた。
大阪にいた末娘の華子が、葬儀のために戻った。父と袂を分かっていた次男のヨリノブも、このとき姿を見せた。父との和解を取り持ったのは華子だった。長男の死は、ばらばらになっていた家族を、一度だけ同じ場所に集めた。
その参列者の中に、ケイが最期に名前を呼んだ娘がいたのかどうか。
それを知る者は、いない。
*
ローグは、銃を置かなかった。
戦争が終わっても、ナイトシティから仕事は消えなかった。赤く濁った空の下では、企業が去った空白を奪い合う連中がいくらでもいた。汚れ仕事を請け負う人間は、いくらいても足りなかった。ローグはその後も長く、ソロとして生きた。腕も名前も、まだ十分に通用した。
変わったのは、仕事の選び方だった。誰と組むかを、以前よりずっと時間をかけて決めるようになった。そのうち、自分で銃を握るよりも、銃を握る人間と依頼人を引き合わせる仕事のほうが多くなっていった。
依頼人の名前に、企業が並ぶことも増えた。かつてのローグなら、席を立っていた相手だ。だが、この街で上へ行くには、企業と握手できる手が要る。それを拒んで消えていった同業者を、ローグは何人も見てきた。手を組む相手を選ぶ基準から、昔の恨みは少しずつ外れていった。
どの企業と手を組んだのか、ローグは訊かれても答えなかった。
ソロたちの溜まり場だった最初のアフターライフは、戦争のさなかに失われた。何年も経ってから、新しいアフターライフのカウンターの奥に、ローグの姿があった。
あの店では、派手に死んだソロの名前を酒に付けるのが流儀だった。棚には、どれだけ年月が経っても、ジョニー・シルヴァーハンドの名を冠した一杯が置かれていた。
ジョニーの遺体の行方を、ローグは誰にも話さなかった。湾岸の倉庫街から運び出したあの袋がどこへ行ったのか、知っているのは彼女一人だった。
訊かれれば、いつも同じ答えを返した。
「あいつは死んだよ。それだけさ」
*
スパイダー・マーフィーは、あの船を降りた夜から、少しずつ街から消えていった。
しばらくは、仕事の依頼にも応えていた。応える数が減り、やがて回線そのものが繋がらなくなった。最後に彼女と話したのはローグだった。何を話したのかと訊かれると、ローグは覚えていないと答えた。
ネットには、その後も噂だけが流れた。どんな防壁でも抜ける女がいる。名前も顔も変えて、どこかの街の地下で潜り続けている。噂の真偽を確かめた者はいない。
ローグが最後に彼女の端末を見たとき、隅には、まだあの一行が残っていた。
【応答なし】
シャイタンは、それよりも早く街を離れた。
船の上で取り上げられた引き金は、行き場を失ったまま彼の中に残った。指の跳ねは数を増し、やがて押さえる手のほうが間に合わなくなった。サイバーサイコシス。ローグが口にしなかったその言葉は、半年もしないうちに、誰の目にも明らかになった。
ナイトシティを出る前に、シャイタンは一度だけローグのもとへ顔を出した。行き先は日本だと言った。
「俺の戦争は終わらない」
ローグが何か言う前に、もう一度。
「終わらない。永遠に」
同じ言葉を、同じ抑揚で。それきり、振り返らなかった。
それから数年、日本でアラサカの施設が襲われるたびに、所属不明の全身義体の影が報じられた。捕らえられたという話は、一度も聞かなかった。破壊されたという話も、確かなものは一つもなかった。
ポッドさえ無事なら、全身義体は何度でも立ち上がる。かつてシャイタン自身が、笑いながら言っていたとおりに。
*
アダム・スマッシャーの名前は、戦争が終わったあと、しばらく誰の口にも上らなかった。
タワーの瓦礫の底で、あの巨体がどうなったのか。核の熱がすべてを溶かしたのだと、多くの人間は考えた。アラサカ自身も、それについては何も語らなかった。
噂が流れ始めたのは、何年か経ってからだった。
爆心の撤去作業に紛れて、所属を明かさない一団が地下深くまで掘り進めていた。彼らが運び出したものの中に、焼け焦げた金属の殻が一つあった。人の頭ほどの大きさだったという。
それがバイオポッドだったのかどうか。中身がまだ生きていたのかどうか。確かめた者はいない。噂を口にした作業員も、その後どこかの街へ移っていった。
街の裏側には、それ以来、同じ話がしつこく残り続けた。
あの男は、まだどこかで目を開けている。
*
ジョニー・シルヴァーハンドの名は、記録の上ではテロリストとして残った。
アラサカ・タワーを襲撃した武装集団の首謀者。連邦の報告書も、企業の声明も、彼をそう書いた。核の責任がアラサカに帰せられたあとも、その一行が消されることはなかった。
だが、街の記憶は、少し違う形をしていた。
戦争が終わって間もなく、ネットに一本の映像が流れた。出所は誰にも分からない。タワーの屋上を捉えた、監視カメラの記録だった。
映っていたのは、見上げるほどの鋼鉄の巨体と、それに挑む男だった。左の銀腕を吹き飛ばされ、血を撒きながら、それでも男は止まらなかった。残った右腕で爆薬を巨体の胸へねじ込み、倒れたまま銃を構え、撃った。
アラサカが誇った最強のボーグが、自らの開けた穴へ沈んでいく。その瞬間まで、映像は途切れずに残っていた。
生身の男が、アダム・スマッシャーを倒した。その話は、映像が削除されるより早く、街中に広まった。
映像には、もう一つの人影が映っていた。黒いコートの男。画質は粗く、顔は分からない。とどめの一撃が放たれた瞬間も、カメラが捉えたのは一筋の光だけだった。誰なのかを知る者はおらず、やがて誰も話題にしなくなった。語り継がれたのは、銀の腕を持つ男の名前だけだった。
サムライの曲が、再び街に流れ始めた。崩れた壁に、彼の顔が描かれた。テロリストを英雄と呼ぶことを、誰も咎めなかった。
正しかったのか、間違っていたのか。その議論に、街は興味を持たなかった。
企業に中指を立て、最後まで笑っていた男がいた。それで十分だった。
本物のサイバーパンクとは何か。この街の人間に訊けば、今でも同じ名前が返ってくる。
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タワーが消えた夜から、ナイトシティの空は赤く濁った。
爆発で死んだ者は五十万。その後の火災と汚染で、さらに二十五万が死んだ。巻き上げられた粉塵と灰は大気に留まり、夕焼けとも朝焼けともつかない色が、昼も夜も街の上に貼りついていた。空の赤が薄れるまでには、二年近くかかった。
その時代の名前だけは、あとまで残った。人々は戦後の十年あまりを、
街の中心は、長く立入禁止のまま放置された。人は爆心を避けて外縁へ流れ、焼け残った区画はどこも人であふれた。企業が去った空白をギャングが埋め、配給の列と銃声が同じ通りに並んだ。
それでも、街は死ななかった。
二〇三〇年代に入ると、再建がようやく本格化した。瓦礫が片付けられ、新しい建物が少しずつ空を取り戻していった。途中、大きな地震が街を揺さぶり、再建は何度も足踏みした。人々はそのたびに、崩れた分だけ積み直した。やがて郊外では、宇宙港の建設が始まった。
半世紀近くが過ぎたころ、統一戦争の終結とともに、アラサカは再びこの街へ戻ってきた。彼らが新しい拠点に選んだのは、かつてのタワーが立っていた場所だった。
新しい塔の足元には、崩れた旧タワーの一部が、記念碑として残された。
その前を通る人間の多くは、もう、あの夜に何があったのかを知らない。
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暗がりの中で、ヴォイドは床に横たわっていた。
どこかの廃ビルの、どこかの階。窓は板で塞がれ、隙間から差し込む光は、昼でも赤みを帯びている。外では、灰がまだ降り続けているはずだった。ここへ来てから何日経ったのか、数えるのはやめていた。
体は、生きていた。
大穴の底へ落ちた数分後に、光が来た。皮下装甲が熱を受け止め、予備の心臓が鼓動を引き継ぎ、遮蔽機構が浴びた線量を勝手に計算していた。瓦礫の隙間で、システムは生き延びるための手順を、ヴォイドの意思とは関係なく一つずつ実行していった。
目を覚ましたとき、視界には一行だけが表示されていた。
生命維持、継続。
そのまま死ねればよかった。あの暗がりで光に焼かれて、それで終わればよかった。だがこの体に積んだクロームは、ヴォイド自身が把握していたよりも、ずっと出来が良かった。
屋上で、何もできなかった。加速は尽き、ランチャーは撃ち尽くし、最後は片腕の男に突き飛ばされて落ちた。押し返せたはずだった。片手で足りたはずだった。それなのに、踵は縁を割った。
それから先は、もっと悪かった。
帰る方法なら、いくらでもあった。回線は焼けても、街の地図は頭に残っている。ローグの居場所も、スパイダーの潜る回線の癖も。足を向ければ済む話だった。
足は、一度もそちらへ向かなかった。
あの男が死んだのは、自分が落ちたからだ。どの面を下げて戻れる。約束したのに。帰ってくる、と言ったのに。
言い訳は、毎日少しずつ形を変えた。行き着く先だけが、いつも同じだった。
ヴォイドは、動かなかった。
視界の隅で、回線のアイコンが灰色に沈んでいる。核の夜に、連絡先も、履歴も、戦術リンクの一覧も、すべて焼け落ちた。いま、そこには何もない。誰の名前も、誰の番号も。何もしなくていい理由として、その空白はちょうどよかった。
着信音が、鳴った。
一度。二度。
ヴォイドは、首だけを動かした。
まっさらなはずの回線に、一行の文字が浮かんでいる。
スパイダー・マーフィー
着信音は、止まらなかった。
暗がりの中で、ヴォイドの目はその名前を映していた。瞬きもせず、何を考えているのか分からないまま。
ただ、光を反射し続けていた。
//SIGNAL_LOST
Stare into Death's eyes, laughing.
The Seagulls cry above.
私生活が忙しく更新が滞り申し訳ありません。
今後もかなり不定期に更新していきます。ご容赦ください。