CyberPunk: EDGE CASE   作:エネーロ

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#08 The Show Must Go On / 狂犬の舞台(ステージ)

 第四次企業戦争。のちにそう呼ばれることになる、たった二つの巨大企業同士の戦争の激化は、世界中を破滅的な混乱の渦に陥れている。発端は、二つの海洋開発企業によるただの資産争奪戦だった。だが、彼らが互いの首を絞めるためにミリテクとアラサカという二大軍産複合体を雇い入れた瞬間から、事態は企業の枠を超えた世界規模の代理戦争へと変貌した。その余波は、このナイトシティですら例外ではない。

 

 弾丸が飛び交うストリートの抗争や物流インフラの麻痺もさることながら、真に凄惨な戦場と化しているのは、目に見えない電子の海──グローバル・ネットワークの深層だった。

 アラサカとミリテクの精鋭ランナー部隊は、互いのデータ・フォートレスを根絶やしにするため、あらゆる安全保障の倫理規定を無視し、自律型の殺人(キラー)プログラムや致死性のウイルスを無尽蔵に解き放った。企業(コーポ)の無限の資金力と最先端の技術力によって、ただネットワーク上の生命を刈り取るためだけに最適化された『軍用デーモン』たち。それらは当初の標的を破壊し尽くした今もなお、飢えた野良犬のように暗号化された海を徘徊している。

 さらに悪いことに、ネットウォッチの監視網すら崩壊しつつある深層域では、両陣営の放った悪意あるコード同士が干渉し合い、誰も制御できない予測不能な変異すら起こし始めていた。現在、ネットワーク全体が、急速に不可逆的な死の領域へと汚染されつつある。

 今や、些細な稼ぎのために不用意にジャック・インしただけのストリートのランナーですら、防壁(ICE)を抜けられた次の瞬間には脳髄を焼き切られ、現実世界で口から煙を吐く冷たい肉塊へと変わり果てている。

 

 シティセンターの地下深くに隠された、アラサカの極秘データセンター。

 ミリテクからこの施設のデータ抽出依頼(ビズ)を請け負ったヴォイドは、遠隔からのハッキングを行わなかった。

 跋扈する軍用デーモンを回避し、あるいは無力化して深層へ潜ることも不可能ではない。だが、無数に群がるノイズの処理に思考領域(リソース)を割き、アラサカの強固な防壁(ICE)と正面から殴り合うのは、どう計算しても非効率極まりなかった。

 歩いてローカルから直接抜いた方が手っ取り早い。それが、ヴォイドが単身での物理的な潜入(ジャック・イン)を選択した理由だった。

 

 そしてその判断は、極めて正確だった。

 光学迷彩(オプティカル・カモ)を作動させ、施設内を歩くヴォイドの姿は、文字通り『幽霊(ゴースト)』だった。

 アラサカが誇る最高峰の軍用セキュリティも、天井の監視カメラも、巡回する重装甲の警備ドローンも、彼の視界に入った瞬間にハエのように沈黙する。

 誰一人殺さず、警報一つ鳴らすことなく、ヴォイドは予定時刻を大幅に巻き、まるで深夜のダイナーにでも立ち寄るかのような気軽さで最深部のサーバー・ルームへと到達していた。

 

 パーソナルリンクを接続し、目的のデータを抜き取る。

 視界の端でプログレスバーが滑らかに進行し、[100% - DOWNLOAD COMPLETE]の緑色の文字が明滅した。

 ミリテクの連中が提示した莫大な報酬(エディ)に見合わない、ただの散歩。完璧な仕事(ビズ)だった。あとは来た道を戻り、姿を消すだけだ。

 ヴォイドがリンクを引き抜き、踵を返そうとした、まさにその瞬間だった。

 

 鼓膜を圧迫するような暴力的な爆発音と共に、最深部を隔てていた分厚い防爆扉が、軍用のC−6爆薬によって内側へひしゃげながら吹き飛んだ。

 熱風と土煙がサーバー・ルームへ雪崩れ込み、同時に、施設中の警報サイレンが一斉にけたたましい絶叫を上げ始める。

 

「チッ……最近のアラサカは随分と分厚い扉を使いやがる。おいスパイダー、回線は生きてるか?」

 

 もうもうと立ち込める硝煙の中から、しわがれた独り言が響く。

 ジョニー・シルヴァーハンドが煙を振り払うように現れる。

 ここまでアラサカの警備網の死角を突き、邪魔な警備兵をサイレントキルで沈めながら単身で潜入してきたジョニーだったが、最深部を隔てる規格外の防爆扉を前にしては、準備していた軍用爆薬を使わざるを得なかった。

 もっとも、息を殺して鼠のように立ち回るのは、そもそもこのロッカーボーイの性に合っていない。むしろ、派手な爆音と共に忌々しい障害物をぶち破れたことで、ようやく鬱憤が晴れたとばかりにマロリアン・アームズを握り直す。

 そんな彼の耳元で、インプラント越しの音声が不快なノイズ混じりに応えた。

 

『……ジョニー、聞こえる!? アラサカの防壁(ICE)、予想以上に分厚いわ! ていうか遠隔だと通信経路(ノード)間に巣食ってる野良デーモンが鬱陶しすぎて、そっちの深層まで処理(リソース)回しきれないんだけど! ああっもう、どいつもこいつもクソコードばっかり残しやがって!』

「上等だ、スパイダー。扉は開いた。あとは俺の仕事だ」

 

 世界でも上から数えたほうが早い凄腕ランナーのいら立ちを含んだ早口の通信を切り、ジョニーが銃身を下げて薄暗いサーバー・ルームへと足を踏み入れた瞬間。彼の視線が、暗闇の中で静かに佇む影と交差した。

 無人のはずの最深部。明滅する非常灯の暗がりに、ひとつの人影が静かに佇んでいるのを、ジョニーの義眼が捉えた。

 生存者の警備兵か、それともアラサカの伏兵か。ジョニーは一切の躊躇なくマロリアンの銃口を跳ね上げ、その正体不明の影の眉間へとピタリと狙いを定める。

 

「……誰だ。そこを動くな」

 

 低くドスの効いた声で誰何するロッカーボーイに対し、暗闇の影は両手を上げることも、命乞いをすることもなく、ただ絶対零度の声で応じた。

 

「相変わらず、随分と派手な『ノック』だな」

 

 冷え切り、どこまでも平坦で抑揚のない声。

 そのひどく陰気で耳障りな声色に、ジョニーは舌打ちをして銃口をわずかに下げた。

 

「……ああ? なんでお前がこんな所にいやがる。空っぽ野郎(ヴォイド)

 

 数日前に自らが名付けたばかりの『幽霊』の姿を認め、ジョニーは心底不快そうに眉をひそめる。

 施設中の警報がけたたましく鳴りやまぬ中、赤色の非常灯の下で、銀腕のロッカーボーイと暗闇の幽霊は相対した。

 

(……最悪のケースだな、これは)

 

 ヴォイドの冷え切った思考が、即座にこの状況の裏側を弾き出す。

 ミリテクが仕組んだ、最低の二重作戦(ダブル・ブラインド)。隠密と、陽動兼破壊。どちらかが失敗しても、あるいは両方が成功しても、企業(コーポ)側としてはどちらでもいいのだろう。そして同時にこれは、先のバッドランズにおける三つ巴の乱戦で、アラサカとミリテクの双方をコケにしたことへの意趣返し──ジョニーに対しては、任務をしくじったことへのツケ払いか──を含んだ報復プログラムでもあるのは明白だった。

 何より、ヴォイドの冷徹な仕事のスタイルは、目の前に立つ狂犬と致命的に相性が悪い。 自分一人であれば、誰一人殺さず、警報一つ鳴らすことなくこの地下施設から悠々と立ち去れたはずだった。しかし、ジョニーが正面から防爆扉をぶち破ったことでアラサカの警戒態勢は最高レベルへと引き上げられ、安全な脱出ルートは完全に塞がれてしまった。

 その仕事のあまりの雑さと、よりにもよってこの銀腕の男と鉢合わせた不運。ヴォイドの内心は盛大に毒づき、面と向かって文句の一つも叩きつけてやりたい衝動に駆られる。だが、その意地(エゴ)は決して表層には浮かび上がらない。男の肉体は極めて冷淡に、一切の感情を排した氷のような無表情を保ったまま、ただ淡々と応じた。

 

「ミリテクの依頼(ビズ)だ。こっちの仕事はとっくに終わっている。……『遅すぎる陽動(お前)』が、わざわざ警報を鳴らして退路を塞ぎに来る前にな」

 

 皮肉気なヴォイドの言葉に、ミリテクが仕組んだ最低の二重作戦(ダブル・ブラインド)。その意図を瞬時に察したジョニーは、短く鼻で笑った。

 

「ハッ、スーツを着たクソどもめ。俺をただの陽動()にするつもりだったか」

 

 ジョニーは銀色の義手でマロリアン・アームズを構え直すと、ヴォイドの背後にある巨大なメインサーバー群へと一切の躊躇なく銃口を向けた。

 

「まあいい。アラサカのツラに泥を塗れるなら、誰の囮だろうと知ったことか。……アラサカ連中に、目に物言わせてやる。ここは丸ごと吹き飛ばす」

 

 鼓膜を圧迫する暴力的な発砲音と共に、アラサカの機密が詰まった強固な筐体が次々と破砕され、無数の火花を散らしていく。

 

(……正気かよ。自分が使い捨ての駒にされたって分かってるのに、アラサカをコケにできるってだけで、この死地で喜んで暴れ回る気か?)

 

 ヴォイドは内心で深く嘆息した。そのあまりにも破滅的で無軌道な思考回路に底知れぬ嫌悪感を抱き、本気で『関わり合いたくない』という強烈な忌避感に襲われていた。

 自身が生き残るかどうかなど微塵も関係ない、純粋な反逆の狂気。目の前の男の行動原理はぶっ飛んでいる。これ以上、こんな狂人に付き合う理由なんてどこにもなかった。

 

「……好きにしろ。俺の契約(ビズ)は完了している。せいぜい楽しめ」

「あ? おい待て──」

 

 ジョニーが引き留めようと声を上げた次の瞬間、ヴォイドの姿は陽炎のようにブレて、完全に空間へと溶け込んだ。光学迷彩(オプティカル・カモ)による完全なステルス。足音ひとつ、気配ひとつ残さない異常な隠密性能に、ジョニーは思わず目を丸くする。

 

「……マジで幽霊みてえにあっさり消えやがった。気味の悪い野郎だぜ」

 

 誰もいない空間に向けて悪態をつきながらも、数秒でサーバー群が完全に沈黙したのを確認したジョニーは、マロリアンの弾倉を乱暴に入れ替えて踵を返す。

 

「よし、スパイダー。メインサーバーは吹っ飛ばした。離脱ルートを──」

『あー……ジョニー? バッドニュースだけど、聞きたい……?』

 

 耳元の通信インプラントから、ノイズ混じりのスパイダーの声が響く。先ほどまでの苛立ちに焦りが混じり、通信状態の悪化からかその声はひどく遠くなっていた。

 

「ああ? なんだ。さっさと言え」

『あんたも分かってると思うけど、派手にやりすぎたせいでアラサカの防壁(ICE)が最高警戒レベルで再構成されちゃったのよ。こっちからそっちのルートをこじ開けるには……ちょっと、いや、かなり時間が必要ね』

「チッ。こっちは悠長に待ってる暇はねえぞ。急げ」

『だから今やってるっての! でも物理切断されそうっ……クソッ、どいつもこいつも馬鹿みたいに分厚い壁を張りやがって! しかもあの死んだイカれ野郎(レイチ)の置き土産まで群がって──! ジョニー、とにかく自力で持ちこたえ──』

 

 スパイダーの忌々しげな悪態を最後に、無機質な切断音と共に回線が完全に途絶えた。

 アラサカが外部からの接続を物理的に遮断したのだ。敵地のど真ん中で、ジョニーは完全に『目』を失った。

 

 

 *

 

 

 そして、ひしゃげた防爆扉の向こう側。明滅する赤色の非常灯に照らされた通路の暗がりから、音もなく『それ』は現れた。

 

 漆黒の流線型アーマーに身を包んだ、ひとつの影。頭部には不気味に赤く発光する多眼のオプティクス・バイザーが輝いている。迷彩機能のノイズを微かに纏いながら、重力など存在しないかのように天井へ蜘蛛のごとく張り付き、一切の足音を立てずにジョニーの退路を塞ぐように音もなく降り立った。

 空気を切り裂く鋭利な金属の摩擦音。両腕から展開された単分子のマンティス・ブレードが、赤色灯の下で鈍く煌めいた。

 

 アラサカの特務暗殺部隊──企業(コーポ)が飼育する、正真正銘の『ニンジャ』だ。

 

「……ハッ、マジかよ。ストリートのホラ話じゃなかったってわけか」

 

 その人間離れした異様な動きを初めて目の当たりにし、ジョニーの背筋に氷のような悪寒が走った。

 

 アラサカのニンジャという単語は、暗黒街で最も恐れられる死神の代名詞だ。

 極限まで高められた肉体と、軍用規格の反射神経加速装置(サンデヴィスタン)。重装甲の機動隊を一部隊丸ごと相手にするよりも、たった一人のニンジャに捕捉されることの方が、生存確率は遥かに低いと噂されてはいたが。

 

(なるほど、こいつは確かに死神の類だ)

 

 ジョニー自身、自分が戦闘の頂点に立つ最強の傭兵(トップ・ソロ)ではないことなど、誰よりも理解している。

 かつて中米紛争の最前線を生き延びた元兵士であり、引き金の絞り方は知っている。だが、本質はあくまで反逆の歌を叫ぶロッカーボーイだ。モ-ガン・ブラックハンドのような超人的な戦闘力もなければ、全身を殺戮兵器に改造したサイボーグでもない。

 たった一人。だが、今のジョニーにとっては、決して抗うことのできない死神の鎌そのものに等しい。単独で、しかも案内人の支援すら絶たれた状態でこいつと殺し合うのは、狂犬の勇姿などではない、単なる自殺行為だった。

 

 血と硝煙の悪臭が、密閉された地下空間に濃密に澱んでいる。

 たった一人で逃げ場のない死地を作り出した暗殺者を前にして、ジョニー・シルヴァーハンドはしかし、不敵な笑みを浮かべて銀腕で銃を構え直した。

 

「上等だ。死神のツラに鉛弾を叩き込んでやるよ!」

「──オラァッ!!」

 

 ジョニーの野獣のような咆哮と共に、マロリアン・アームズの重低音が空間を震わせる。

 放たれた大口径の弾丸は、しかし、天井の暗がりを這う漆黒の影を捉える直前で、残像だけを残して虚空に吸い込まれた。

 

 背後から、空気を切り裂く鋭利な摩擦音が迫った。

 振り返るよりも早く、ジョニーは本能だけで身を屈める。直前まで彼の首があった空間を、凶悪な単分子のマンティス・ブレードが青白い火花を散らして薙ぎ払った。

 回避と同時に、ジョニーは体勢を崩したまま銀色の義手を跳ね上げ、至近距離からマロリアンの引き金を絞る。

 

 だが、応えたのは空虚な金属の摩擦音だけだった。

 弾切れだ。

 

「……チッ、クソッタレが!」

 

 舌打ちと同時に、ジョニーは役目を終えた重い銃を、迫り来るニンジャの顔面へと力任せに投げつけた。バイザーに激突して一瞬だけ敵の動きが鈍った隙を突き、銀腕の拳を強引に装甲の隙間へと叩き込む。

 肋骨を軋ませる鈍い感触。だが、ニンジャは怯むことなく、即座にもう片方の腕からブレードを展開し、ジョニーの胸元へ向けて無造作に突きを放ってきた。

 

 避ける隙はない。ジョニーは咄嗟に身をよじり、心臓への直撃を避ける代わりに左肩を差し出した。

 肉を裂き、骨を削る不快な感覚と共に、熱い血飛沫が宙を舞う。

 激痛に顔を歪めながらも、ジョニーは刃を突き立てられたまま相手の腕を掴み、頭突きを顔面に叩き込んで強引に間合いを切り離した。

 

 よろめきながら後退し、予備電源室の冷たい壁に背中を預ける。

 息は上がり、左肩からは止めどなく血が流れ落ちている。足元には空の弾倉が散乱し、腰のホルダーに予備の弾薬は残っていない。

 対する漆黒の暗殺者は、無傷のまま通路の暗がりから彼を見据えていた。赤く発光する多眼のバイザーが、血の匂いに群がるハイエナのように不気味な明滅を繰り返している。

 

(……ここまでか。まあ、悪くねえステージだったぜ)

 

 ジョニーは血混じりの唾を吐き捨て、血に濡れた銀色の義手を力強く握り込んだ。

 後悔はない。だが、コーポの犬どもに背を向けて死ぬ気も、大人しく実験台(モルモット)になってやるつもりもなかった。最後の一滴までこの反逆の血を振り撒き、死神の喉笛に喰らいつく。それが、ジョニー・シルヴァーハンドのロックだった。

 ニンジャが、トドメを刺すべく音もなく跳躍した。

 

 *

 

 薄暗いサーバー・ルームの片隅。光学迷彩(オプティカル・カモ)に身を包んだヴォイドは、ジョニーとの会話を打ち切ってその場を離れたように見せかけ、実はまだ同じ空間に留まっていた。

 

 理由は単純だ。ジョニーの起こした爆破によってアラサカの防壁(ICE)が最高警戒レベルへと引き上げられた結果、強力なジャミングが展開され、スパイダー・マーフィーと同様にヴォイドもまた外部ネットワークとの通信を完全に遮断されていたからだ。

 外の警備の動向も探れず、先ほど通ってきたルートの隔壁も物理的にロックされている。下手に動くより、ほとぼりが冷めるまでこの暗がりに息を潜め、警備が緩むのを待つのが最も生存確率の高い選択だ。ヴォイドは極めて冷徹な損得勘定の末、そう判断を下し、ただ静観を貫いていた。

 

 暗闇に完全に溶け込んだまま、ヴォイドは数メートル先で繰り広げられる死闘──いや、一方的な処刑の儀式を冷ややかに見下ろす。

 手を貸す理由はない。彼がここで死のうと生き延びようと、自分が関わったところで巨大企業(コーポ)が支配するこの狂った世界の大勢は変わらない。あの伝説の男がここで果てる運命ではないことは知っているがゆえに、自分が無用なリスクを冒す合理的根拠にはならなかった。

 

『──お前は空っぽだ』

 

 数日前。アトランティスの密室で叩きつけられた、あの傲慢で苛立たしい言葉が、不意に脳裏でリフレインする。自分がただの傍観者であり、損得の計算でしか動けない空虚な存在であるとでも言うような響きが、ノイズとなって耳にこびりついて離れない。

 

(……クソッタレが)

 

 それは、感情を抑制するシステムですら処理しきれない、人間臭い不快感だった。

 ヴォイドは内心で短く毒づくと、冷徹な打算を自らの意思で握り潰し、不可視のまま、眼下で跳躍した暗殺者(ニンジャ)の神経系へと意識を集中した。

 

 *

 

 ニンジャが空中で両腕のマンティス・ブレードを高く振りかぶり、ジョニーの首筋へと断頭台のように振り下ろされようとした、その瞬間。

 

 誰もいないはずの虚空の奥深くで、青い光が瞬いた。

 

 一切の予備動作を伴わない、神速のハッキング。空間そのものを支配する不可視の暴力が、跳躍したニンジャの神経系へと直接叩き込まれた。

 空中で刃を振り下ろそうとした暗殺者のサイバーウェアが深刻なショートを起こし、眩い火花を散らす。悲鳴すら上げる間もなく、漆黒の身体は全身を痙攣させ、重力に従って無様にジョニーの足元へと墜落した。

 

 突如として、絶対的な死神であったはずの暗殺者が、焼け焦げた肉塊と化して足元へ墜落したことに、ジョニーは虚を突かれたように動きを止めた。

 誰もいないはずの暗闇。そこから陽炎が揺らぐように空間が歪み、光学迷彩(オプティカル・カモ)のクロークが解除される。

 赤色灯に照らし出され、静かに姿を現したのは、先ほど「せいぜい楽しめ」と吐き捨てて消えたはずの男だった。

 

 血塗れの銀腕を下ろし、ジョニーは荒い息を吐きながら、呆れたように、だがどこか愉快そうに口の端を歪める。

 

「……ハッ。とっくに尻尾を巻いて逃げたかと思ってたがな。なんで戻ってきやがった。特等席で俺のステージを見物するつもりだったか、空っぽ野郎(ヴォイド)

 

 その軽口に対し、ヴォイドはすぐには応えなかった。

 無表情の仮面の裏側で、彼自身が誰よりも当惑していたからだ。あれほど「関わらない」という選択をしておきながら、なぜ土壇場でそれを握り潰したのか。明確な言語化が追いつかない。

 わずかな沈黙の後、男は冷え切った平坦な声で、短く吐き捨てた。

 

「なんとなくだ」

「……はっ?」

 

 あまりにもふざけた、しかし一切の感情が読み取れない回答に、ジョニーは血に濡れた顔で呆気にとられ、やがて乾いた笑いを漏らした。

 

「ハッ……冗談のセンスも空っぽかよ。お前みたいな打算の塊が、『なんとなく』で他人の死地に首を突っ込むわけがねえだろうが」

 

(……この完全に封鎖された施設から抜け出すには、アラサカの強固な警備網を正面から突っ切るしかない)

(ならば、自分一人で息を潜めて隠密行動を続けるよりも、この適度に暴れ回る狂犬を(デコイ)として利用する方が、突破の成功率は遥かに跳ね上がる)

(そうだ。俺自身のスペック(サイバーウェア)をアラサカに見せるリスクもなくなる)

(これが、最善だ)

 

 自らに言い聞かせるように、その打算を選択すると、ヴォイドは背中に吊っていたミリテク製のカッパーヘッド・アサルトライフルと弾薬ポーチを外し、ジョニーの足元へと無造作に放り投げた。重い金属音を立ててコンクリートの床を転がった無骨な銃を、ジョニーが訝しげに見下ろす。

 

「……お前が派手にやらかしてくれたおかげで、ここから地上へ抜けるルートは完全に封鎖された。弾の切れた獲物を握りしめたままでは、あと三分もせずにアラサカの警備に囲まれてハチの巣だ」

 

 ヴォイドは事もなげに事実を突きつけると、暗闇の中でジョニーを冷ややかに見据えた。

 

「俺が『目』と『耳』になり、お前の道を切り開く。お前はただの(マト)として前を歩き、立ち塞がる警備をその銃で排除しろ。……互いの生存確率を上げるための、極めて妥当な取引(ビズ)だ」

 

「お前がスパイダーの代わりになるってことかよ」

「そうだ。俺がルートを解析してシステムを無力化する。お前はその銃で、立ち塞がるアラサカの警備を撃ち殺して前に進め」

「要するに、俺を肉盾にして、てめえは安全な後ろから指示を出すだけって寸法か」

「……生き残りたいなら選択肢はないと思うが」

「……チッ」

 

 自身の命を救っておきながら、あくまで見下したような打算的な条件を持ちかけてくる目の前の男に、ジョニーは忌々しげに舌打ちをした。

 

「……打算にまみれたクソ野郎が。空っぽのくせに、随分と上等な頭が回るらしいな」

 

 だが、その直後。足元のアサルトライフルを拾い上げたロッカーボーイの口元に、狂気めいた不敵な笑みが浮かび上がる。彼もまた、目の前の男の異常なハッキング能力(神速のクイックハック)を先ほど目の当たりにしたばかりだ。自分が『囮』になるというのなら、それ相応の最悪(最高)なバックアップがつくということでもある。

 

「上等だ。アラサカの犬どもをミンチにできるなら、喜んで主演(マト)を演じてやるよ。……せいぜい後ろから、俺のステージをきっちり盛り上げな。空っぽ野郎(ヴォイド)

 

 互いを全く信用しておらず、見据える先すら違う二人。

 だがこの瞬間、アラサカの絶対的な包囲網を食い破るための、奇妙で最悪なバディが結成された。

 




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