転生した悪の総統は異世界でも影から社会を支配する   作:悪役じゃない本物の悪人

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10話 傀儡の権威

 リンドブルムの朝は、焦げ臭い匂いと共に始まった。

 昨夜、騎士団長の邸宅が燃え上がった炎は、明け方近くになってようやく鎮火したが、残されたのは黒焦げの瓦礫と、アルトス家の権威の失墜という動かぬ事実だけだった。

 

 市井は恐怖と興奮、そして怒りの入り混じった異様な熱気に包まれていた。

 

「聞いたかよ! 騎士団長様、逮捕されたってよ!」

「当たり前だ! 俺たちの税金で買った武器を横流しして、挙句に証拠隠滅で火まで放ったんだ!」

「それだけじゃねえ。俺たちのために働いてくれてた、補佐官団のトマス様まで殴りつけたんだぞ!」

「……トマス様、ご無事だろうか」

 

 市民の関心はもはや失脚した武力の象徴ではなく、その武力によって傷つけられた知略の象徴――すなわち、トマスと彼が率いる行政補佐官団へと急速に集約されつつあった。

 すべては、フォルグランの描いた脚本通りだった。

 

 ◇◇◇

 

 一方、アルトス辺境伯家の本邸はその朝、墓場のような静寂に包まれていた。

 

 辺境伯アルトスは、自室に閉じこもっていた。

 彼の顔はこの数日間で一気に老け込んだかのように生気がなく、その瞳には焦燥と絶望の色が浮かんでいた。

 

(なぜ、こうなった……)

 

 長男ヴァルドスの逮捕は彼自身の命令で実行された。

 市民の怒りを鎮めるには、それしか選択肢がなかった。

 だが、それはアルトス家が武力という最大の支柱を、自らの手でへし折ったことを意味した。

 

「誰か! 誰かおらぬか!」

 

 辺境伯は虚しく叫んだ。

 

「はっ!」

 

 数秒の間を置いて、ようやく老齢の文官が一人、震えながら部屋に入ってきた。

 

「市民の不満はどうなっておる! すぐに収めよ!」

 

「そ、それが……騎士団が機能不全に陥ったことで、都市の警備が手薄になり、市民の不安が逆に増大しておりまして……」

 

「ギルドに命じろ! 資金を出させ、傭兵を雇え!」

 

「それが……」

 

 文官はさらに言いにくそうに口ごもった。

 

「ギルド長ゴードン殿より、今月のアルトス家への上納金は度重なる書類の不備により、手続きが遅延していると……」

 

「なっ……! ゴードンめ! この非常時に、何を!」

 

 辺境伯はこの瞬間に悟った。

 武力、経済の両輪が、完全に彼の制御下から失われている。

 そして、行政は、あの忌々しい行政補佐官団に乗っ取られつつある。

 

(私は……裸の王か)

 

「エルドゥスを呼べ!」

 

 辺境伯は最後の希望にすがるように叫んだ。

 

「私の私設警備隊長、エルドゥスだ! 彼がいれば、まだ……!」

 

 だが、文官の答えは絶望的だった。

 

「……エルドゥス隊長は、昨夜より娘御の急病を理由に、休暇を……」

 

 ガシャン!

 辺境伯は手元のインクスタンドを床に叩きつけた。

 

(エルドゥス……貴様まで、私を見捨てるのか!)

 

 彼は自らが完全に孤立したことを、骨の髄まで理解した。

 

 ◇◇◇

 

 その頃、書庫の奥。

 フォルグランはアンナからすべての報告を受け、静かにチェスの駒を進めていた。

 

「……以上です。辺境伯は完全に統率力を失いました」

 

 アンナは冷徹な事実を告げた。

 

「エルドゥスも、動いたようだな」

 

 フォルグランはアンナの報告を遮るように言った。

 

「はい」

 

 アンナは頷いた。

 

「昨夜、ゴードンがエルドゥス隊長と密会。娘の病が分家のフォルグラン様の知識によって救われたと、誘導いたしました」

 

「ゴードンも、娘の命を救われた恩があるからな。私の駒として、実に優秀に働いている」

 

 フォルグランは数日前にゴードンとエルドゥスを取引させた時のことを思い出していた。

 

 ゴードンはフォルグランから定期的に供給される月の雫によって、娘セリーナの病状が劇的に改善したことに、狂信的なまでの感謝と忠誠を抱いていた。

 

 そのゴードンが同じ病に苦しむエルドゥスの娘の噂を聞き、フォルグランの許可を得て、彼に接触したのだ。

 

『エルドゥス殿。貴公の忠誠心は分かる。だが、武力では娘御は救えん』

 

『……ゴードン殿。……貴公の娘御は回復されたと聞いた。あの薬は……一体どこで?』

 

『あるお方だ。このリンドブルムの、真の知を持つお方……分家のフォルグラン様だ』

 

『あの書庫虫の……!?』

 

『彼は書庫虫などではない。あの方こそ、この都市を救う知そのものだ。エルドゥス殿、貴公が忠誠を誓うべきは、沈みゆく辺境伯家か、それとも娘御の命と都市の未来か』

 

「エルドゥスは、金では動かん」

 

 フォルグランはチェス盤を見つめたまま呟いた。

 

「だが、彼は武人の誇りと娘の命を天秤にかけられた。彼は娘の命を救ってくれた私に、武人として恩義を感じている。もはや、彼が私に剣を向けることはない。辺境伯の最後の盾は、私の知の前に、自ら鞘に収まった」

 

「フォルグラン様。辺境伯はもはや風前の灯火。今すぐ、リリア様を向かわせ、武力で排除なさいますか?」

 

 アンナが静かに尋ねた。

 

「愚かな」

 

 フォルグランはアンナを鋭く見据えた。

 

「武力で奪った玉座は次の武力によって奪われる。私が欲しいのは、そのような脆いものではない。私が欲しいのは、辺境伯が、自らの意志で、私に統治権を禅譲するという事実だ」

 

「……禅譲、でございますか」

 

「そうだ。それこそが、私の支配を正当化する唯一の手段。そのためには、辺境伯がすがる、最後の権威すらも、打ち砕いてやる必要がある」

 

 ◇◇◇

 

 その日の昼過ぎ。

 

 市庁舎の広場は不安と怒りに満ちた市民たちで埋め尽くされていた。

「トマス様はどこだ!」

「俺たちの生活はどうなるんだ!」

 

 その群衆の前に、顔に痛々しい包帯を巻いたトマスが仲間の補佐官たちに支えられながら姿を現した。

 

「皆さん!」

 

 トマスは細いが、よく通る声で叫んだ。

 

 広場が水を打ったように静まり返る。

 

「ご心配をおかけしました」

 

 トマスは深く頭を下げた。

 

「私はこの通り無事です。ですが、私のこの傷は、このリンドブルムの病の象徴です!」

 

「そうだ!」

「騎士団の横暴だ!」

 

 市民が呼応する。

 

「ですが、皆さん!」

 

 トマスは声を張り上げた。

 

「今、我々が憎しみに囚われてはなりません! 辺境伯アルトス様は今、長男の罪によって、誰よりも深くお心を痛めておられます!」

 

 市民たちは意外な言葉に戸惑った。

 

「辺境伯様はこの都市の父です! 父が過ちを犯した子の罪を裁き、苦しんでいるのです! 我々が今すべきは、辺境伯様を非難することではありません!」

 

 トマスは拳を握りしめた。

 

「我々行政補佐官団こそが、辺境伯様の手足となり、その知恵となって、このリンドブルムを立て直すのです! 武力による支配は終わりました! これからは我々市民と、辺境伯様の信頼、そして知略による統治が始まるのです!」

 

 この演説は完璧だった。

 市民の怒りの矛先を、辺境伯本人から逸らさせ、辺境伯+補佐官団=希望という、フォルグランが望む新しい統治の形を、市民の総意として刷り込んだのだ。

 

「おお……!」

「トマス様!」

「そうだ、俺たちが辺境伯様を支えるんだ!」

「「「補佐官団、万歳!」」」

 

 市民の熱狂的な支持を背に、トマスは心の中で、仮面の教授に深く感謝した。

(教授……貴方様の台本通りです!)

 

 ◇◇◇

 

 辺境伯アルトスはその演説の報告を、震える手で聞いていた。

 

(……市民が、私を許した? いや、あの補佐官団が私を利用しようとしているのか?)

 

 彼はもはや何が真実か、何を信じるべきか、判断がつかなくなっていた。

 彼は最後の心の支えを求めて、自室の奥にある、アルトス家代々の当主の肖像画が並ぶ部屋へと向かった。

 

 そして、彼はそこに、この世の終わりかのような光景を見た。

 部屋は荒らされてはいない。

 だが、壁にかけられていたはずの先祖代々の肖像画がすべて消え失せていた。

 

 そして、中央の祭壇に安置されていたアルトス家の武勲と栄光のすべてが記された羊皮紙の巻物――武功記が、影も形もなくなっていた。

 

「あ……。ああ……」

 

 

 辺境伯はその場に膝から崩れ落ちた。

 武力を失った。

 忠臣も失った。

 市民の信頼も失った。

 

 そして今、彼の血筋と家の誇りの象徴である、権威そのものまでが何者かによって奪われた。

 

「な……ない……。何も、ない……」

 

 この窃盗を実行したのは、もちろんリリアだった。

 

 フォルグランは辺境伯が最も大切にし、精神的な支柱としている権威の象徴を、物理的に奪い去ることで、彼の心を完全に折ることを狙ったのだ。

 

 破壊ではない。

 ただ、静かに持ち去ること。

 それこそが、最も深い絶望を与える。

 

「私は……もう、終わりだ」

 

 辺境伯アルトスは完全に空っぽの器となった。

 

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