転生した悪の総統は異世界でも影から社会を支配する   作:悪役じゃない本物の悪人

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11話 協議と降伏の演出

 ――アルトス辺境伯視点――

 

 辺境伯アルトスの執務室は、冷え切っていた。

 

 暖炉には火がくべられておらず、高価な絨毯の上には、昨夜彼が叩きつけたインクスタンドの黒い染みが、まるで領地の失墜を象徴するかのように無残に広がっていた。

 アルトスは玉座のような豪奢な椅子に座ってはいたが、その姿は王者のものではなかった。

 

 やつれ、生気を失い、虚ろな目で一点を見つめる、ただの老人。

 武力、経済力、忠誠心、そして権威の象徴。

 その全てを、この数週間で奪い去られた男の、抜け殻だった。

 

 ――コンコン。

 

 控えめなノックの音。

 アルトスは反応しなかった。

 もはや、彼に報告すべき忠実な部下も、彼が下すべき命令も存在しない。

 

「……誰だ。入るな。私はもう……」

 

 返事を待たず、扉は静かに開かれた。

 入ってきたのは、彼が『出来損ない』『書庫虫』と蔑み、その存在すら忘却の彼方へと追いやっていた分家の少年。

 フォルグラン・フォン・アルトスだった。

 

「……フォルグラン」

 

 辺境伯はもはや怒る気力もなかった。

 その瞳には、諦観だけが浮かんでいる。

 

「貴様か。そうか、貴様だったのか」

 

「何が、でございましょうか? 伯父上」

 

 フォルグランは十五歳の少年とは思えぬ、絶対的な静けさと、底知れぬ威圧感をまとって部屋に入ってきた。

 その手には、恭しく布に包まれた、一巻の羊皮紙が抱えられている。

 

「……とぼけるな」

 

 アルトス辺境伯の乾いた唇が、嘲笑の形に歪んだ。

 

「私の騎士団を崩壊させ、ギルドを掌握し、エルドゥスを寝返らせ、市民を扇動し……そして、我が家の『武功記』を盗み出した。すべて、貴様が描いた絵図か」

 

「盗んだのではありません」

 

 フォルグランはゆっくりと部屋を進み、辺境伯の巨大な執務机の前に立った。

 彼は布に包まれたそれを、まるで祭壇に捧げものをするかのように、恭しく机の上に置いた。

 それはアルトス家の『武功記』だった。

 

「なっ……!」

 

 辺境伯は失われたはずの辺境伯家の魂を目の前に突きつけられ、思わず椅子から身を乗り出した。

 その目に、わずかに激情の光が戻る。

 

「保護したのです」

 

 フォルグランはその『武功記』には指一本も触れず、冷徹に続けた。

 

「辺境伯様。アルトス家の権威の象徴たるこれが、昨夜、()()()によって無防備にも持ち去られました。幸い、私がすぐに回収いたしましたが」

 

「貴様が……回収した、だと?」

 

「はい。この事実は、何を意味するかお分かりですか」

 

 フォルグランの瞳が獲物を前にした爬虫類のように、冷たく光った。

 

「貴方様の武力は、もはやこの『武功記』一巻を守ることすらできない。貴方様の権威は、それほどまでに脆弱になっていたのです」

 

「黙れ!」

 

 アルトス辺境伯は最後の力を振り絞って叫んだ。

 

「血筋の権威は、武力とは違う! 貴様のような非力な者には……!」

 

「非力?」

 

 フォルグランはその言葉を遮った。

 

「非力なのは、一体どちらでしょう」

 

 彼は懐から数枚の羊皮紙を取り出し、机の上に武功記を取り囲むように並べていった。

 

「まず、経済」

 

 彼が置いたのは、ギルドの裏帳簿の写しだった。

 

「ゴードンは、もはや貴方様の忠実な 臣下ではありません。私のしもべです」

 

「貴様……ゴードンを脅したのか!」

 

「いいえ。ただの取引です」

 

 フォルグランは会話の主導権を一切渡さない。

 

「私は貴方様が決して与えられなかったもの――彼の娘の命を、薬という形で与えました」

 

「……!」

 

「彼は私に忠誠を返した。至極、合理的な判断です。今この瞬間も、アルトス本家への資金供給は、私の判断一つで完全に停止しております。つまり現在、貴方様には金がない」

 

 次にフォルグランは別の書類を置いた。

 

「次に、武力」

 

「……」

 

「貴方様の長男、ヴァルドス卿は、自らの愚かさによって投獄されました。騎士団は崩壊し、指揮系統は麻痺。貴方様は、このリンドブルムを守る剣を失った」

 

「まだだ! エルドゥスがいる! 私の警備隊が……!」

 

「忠誠ですか」

 

 フォルグランは三枚目の書類を置いた。

 それは、エルドゥスがフォルグランの代理であるゴードンに宛てた、「娘の命の御礼」と「絶対的な忠誠」を誓う、血判状の写しだった。

 

「エルドゥス隊長は武人としての恩義を、辺境伯様への忠義よりも優先されました。彼の娘の病もまた、私の知識によって快方に向かっています。彼はもはや、貴方様に剣を向けないでしょうが、私に剣を向けることこそ、万が一にもありません。貴方様は、盾をも失った」

 

 アルトス辺境伯は、突きつけられた三つの事実に、もはや反論する言葉もなかった。

 

 金もない。

 剣もない。

 味方もいない。

 

「そして……」

 

 フォルグランは机の中央に置かれた『武功記』を、初めてその白い指先で、トン、と叩いた。

 

「最後に権威。貴方様が最後にすがろうとした、その血筋の象徴。それも今、私の手の中にあります」

 

「……フォルグラン」

 

 アルトス辺境伯は震える声で、目の前の甥の名を呼んだ。

 

「貴様は……一体、何が望みだ。私を殺し、この玉座を奪うか? 分家の小僧が、本家を簒奪するか?」

 

「殺す?」

 

 フォルグランは心底おかしいというように、小さく鼻を鳴らした。

 

「伯父上。貴方様は、まだ何も理解しておられない」

 

「何……?」

 

「武力で奪った玉座は、次の武力によって奪われる。私が欲しいのは、そのような脆いものではありません。私は、このリンドブルムに流血を望んでおりません」

 

 彼は冷徹な目で、絶望する老人を見据えた。

 

「私が欲しいのは、貴方様が、自らの意志で、私に統治権を禅譲するという、絶対的な事実です」

 

「ぜん……じょう……」

 

「そうです」

 

 フォルグランは最後の羊皮紙を取り出した。

 それは契約書だった。

 

「私は貴方様を玉座から引きずり下ろすつもりはありません。むしろ、逆です」

 

「……何を、企んでおる」

 

「私は貴方様という権威を、私の知略によってお守りする。貴方様は、これからもアルトス辺境伯として、その玉座にお座りください」

 

「……」

 

「市民は貴方様のことを『長男の罪を裁いた、厳格にして公正な父』として、再び尊敬し始めるでしょう。なぜなら、私がそう情報操作するからです」

 

 フォルグランの言葉は悪魔の蜜のように甘く、しかし刃のように冷たかった。

 

「貴方様は、ただの象徴となるのです」

 

「……象徴」

 

「貴方様の権威は、私の統治を円滑にする、最高の盾となります」

 

 アルトス辺境伯は、ようやくフォルグランの真意を悟った。

 

 殺されるよりも、惨めな屈辱。

 自分はこの少年の傀儡として、生かされるのだ。

 

 自分がこの都市の混乱の責任をすべて背負う表の顔となり、この少年は影の支配者として、すべての実権を握る。

 

 市民の称賛はフォルグランの補佐官団へ。

 市民の不満は辺境伯(自分)へ。

 

「……貴様。私を、道化にするつもりか」

 

「道化ではありません。玉座の礎です」

 

 フォルグランは契約書をアルトス辺境伯の前に滑らせた。

 

「契約は二つです」

 

「……」

 

「一つ。辺境伯アルトスは、その統治権のすべて――軍事、経済、行政、司法の全権を、辺境伯補佐・統治代行たる、フォルグラン・フォン・アルトスに委任する」

 

「……統治、代行……」

 

「二つ。辺境伯アルトスは、フォルグランが起草した法令に対し、拒否権を持たず、速やかに署名し、自らの権威をもってこれを公布する」

 

 それは完全な降伏勧告だった。

 

「もし、私が……これを拒否したら?」

 

 アルトス辺境伯は最後の抵抗を試みた。

 

「拒否、ですか……」

 

 フォルグランは心底不思議そうに首を傾げた。

 

「その場合、私はこの『武功記』と、貴方様の裏帳簿、そしてヴァルドス卿の横流しの完全な証拠を市庁舎の広場でトマスに公開させます」

 

「……!」

 

「市民は何を信じるでしょう? 貴方様が長男の罪を隠蔽し、民の税を食い物にしてきた、腐敗した悪の元凶であると知るでしょう。アルトス家の権威は、300年の歴史に幕を下ろし、市民による革命で、貴方様は断頭台に送られるかもしれませんね」

 

「……悪魔め」

 

 アルトス辺境伯は残りかすのような毒を吐くことしかできない。

 

「どちらを選ばれますか?」

 

 フォルグランは羽ペンをインクに浸し、アルトスの前に置いた。

 

「名誉ある傀儡として玉座に残るか。それとも、すべてを失った罪人として裁かれるか」

 

 アルトス辺境伯は震える手で、その羽ペンを掴んだ。

 指先に力が入らない。

 

 彼は窓の外を見た。

 夜が明け、リンドブルムの街が動き始めている。

 

 だが、その活気は、もはや自分のもの――ではない。

 

 私が……アルトス家が、300年守ってきたこの地を……。

 この、非力なはずの、たった十五の甥に……。

 ……これが、知略か。

 

 アルトス辺境伯は、武力以外の力の存在を、今、骨の髄まで理解させられた。

 そして、その力の前では、自分が誇ってきた武力など、赤子の玩具に等しかったのだと。

 

「……わかった」

 

 アルトス辺境伯は絞り出すような声で言った。

 

「サイン、しよう」

 

 彼は自らの統治権のすべてを、目の前の少年に譲り渡す契約書に、震える文字で、その名を記した。

 

 アレスト・フォン・アルトス。

 久しぶりに目にした自分の名前に、自分がどれだけ家名と辺境伯の地位に胡坐を掻いてきたかを思い知る。

 

 その署名が完了した瞬間、フォルグランは机の上の『武功記』を、再び恭しく手に取った。

 

「伯父上。いえ――辺境伯閣下」

 

 フォルグランは初めて、臣下としての礼を取り、深く頭を下げた。

 

「アルトス家の権威は、今、私が確かにお預かりいたしました。これより、貴方様は安泰です。この私が、貴方様をお守りいたします」

 

 その言葉は忠誠の誓いであると同時に、絶対的な支配の宣告だった。

 

 フォルグランは契約書と『武功記』を手に、静かに執務室を退室した。

 残されたのは、玉座に座る、抜け殻のアルトスだけだった。

 

 これはリンドブルムの支配権が一滴の血も流れることなく、武力から知略へと、完全に移行した瞬間だった。

 

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