転生した悪の総統は異世界でも影から社会を支配する   作:悪役じゃない本物の悪人

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12話 影の総統の誕生と操り人形の舞台

 夜が明けようとしていた。

 東の空がインクを水で薄めたように、わずかに白み始めている。

 

 アルトス辺境伯の執務室から戻った私は、書庫の自室で、手に入れた二つの戦利品を静かに眺めていた。

 

 一つはアルトス家の300年の武力と権威の象徴である『武功記』。

 

 そしてもう一つはその武力と権威のすべてを、無力なはずの自分に禅譲することを示す、辺境伯本人の署名が入った統治権委任契約書。

 

 ……足りぬ、と渇望した前世。

 冷たい羊皮紙の契約書に触れる。

 今、この手で、確かに掴んだ。

 武力社会の王の座を、一滴の血も流さずに。

 

 フォルグランの顔には、前世の「影の総統」としての、冷徹で絶対的な征服者の笑みが浮かんでいた。

 このリンドブルムは彼の壮大な世界掌握計画における、最初の領土となったのだ。

 

「フォルグラン様」

 影から、アンナが音もなく現れた。

 彼女は、主が成し遂げた偉業の重さに、わずかな興奮を隠せない様子だった。

 

「……辺境伯は、完全に屈服いたしましたね」

 

「ああ。アレストはもはや王ではない。私の統治を正当化するための、最も重要な看板だ」

 

 私は契約書を畳み、厳重な箱に仕舞った。

 

「私が統治代行として表に出ることはない」

 

「……え?」

 

 アンナは一瞬驚いた顔をした。

 

「では、これほどの功績を……」

 

「アンナ。影の総統が自ら、玉座に座ってどうする」

 

 私は前世を思い出すかのように、冷ややかに言った。

 

「玉座とは、スポットライトを浴びるための舞台だ。そして、舞台の上の役者は、最も目立つが故に、最も無防備だ。民衆の喝采を浴び、そして民衆の憎悪を一身に受ける生贄でもある」

 

「……」

 

「私が座るのは、玉座ではない。その舞台のすべてを見下ろし、役者の動き、照明、脚本のすべてを操る、舞台裏だ。リンドブルムの民は、私が存在することにすら気づいてはならない」

 

「……恐れ入りました」

 

 アンナは主の底知れぬ支配欲に、改めて戦慄した。

 

「勝利に浸っている暇はない。夜明けと共に、この都市の脳を入れ替える。支配はここからが本番だ」

 

「御心のままに。最初のご指示を」

 

「アルトス辺境伯に本日正午、市庁舎のバルコニーから演説を行わせる。アンナ、お前がその原稿を用意しろ。私が今から口述する」

 

 私は市民の怒りを鎮め、同時に新しい支配体制を刷り込むための完璧な脚本を語り始めた。

 

 

「……次に、ゴードンとトマスを夜明けと同時に市庁舎へ招集しろ。彼らは今日の舞台の主役だ」

 

「リリア様は?」

 

「リリアは私の剣であり、新しい秩序の象徴だ。彼女にも、最高の舞台を演出する。……全員を動かせ。今日この日、リンドブルムの歴史が、私の脚本通りに塗り替わる」

 

 ◇◇◇

 

 その日の正午。

 市庁舎の広場は、昨夜の騎士団長邸宅の炎上の煙の匂いが残る中、不安と期待が入り混じった数千の市民で埋め尽くされていた。

 

「いったい何が始まるんだ?」

「辺境伯様が、公式な発表をなさるらしい」

「逮捕されたヴァルドス様の、処遇についてだろうか……」

「それだけじゃない! 昨夜、俺たちを守ってくれた、補佐官団のトマス様も同席されるそうだ!」

 

 群衆のざわめきが最高潮に達した時、市庁舎のバルコニーに、その姿がゆっくりと現れた。

 

 アルトス辺境伯。

 

 市民の前に現れた彼は、昨夜までの憔悴しきった抜け殻ではなかった。

 アンナの手によって完璧に着付けられた、最も権威ある儀礼服を身にまとっていた。

 

 その顔は青ざめていたが、目には、まるで何かを決意したかのように見える偽りの厳粛さが宿っていた。

 

 彼の両脇には、一人の男が控えていた。

 それは市民が「俺たちの味方だ」と希望を寄せ始めた、行政補佐官団のトマスだった。

 広場が静まり返る。

 

 アルトス辺境伯は震える手で、羊皮紙を広げた。

 

「……リンドブルムの民よ」

 

 彼の声は魔道具によって増幅され、広場の隅々まで響き渡った。

 

「昨夜の出来事はアルトス家の、いや、この私自身の統治の失敗である」

 

 市民が息を呑んだ。

 絶対的な支配者である辺境伯が、自らの失敗を認めたのだ。

 

「私は長男ヴァルドスの武力を盲信し、その結果、彼の腐敗と傲慢が、市民である貴様たちを傷つけ、都市を危機に陥れた。この罪は、私にある」

 

 彼は深く頭を下げた。

 

 その姿に市民の一部からは「辺境伯様……」という同情の声すら漏れ始めた。

 

「私は、この罪を償うため、そしてこの都市の未来のため、重大な決断を下した」

 

 アルトス辺境伯は顔を上げ、彼の隣に立つ、包帯姿のトマスを手招きした。

 

「市民諸君。私は目が節穴であった!」

 

 辺境伯は原稿にはない、心の底からとも思える叫びを上げた。

 

「私は武力こそがすべてと信じ、貴様たちの生活の声、その苦しみに耳を傾けてこなかった! だが、この男が、トマスが!」

 

 アルトス辺境伯はトマスの肩を掴んだ。

 

「彼と、彼が率いる行政補佐官団が、自らの身を危険に晒し、血を流してまで、騎士団の腐敗を暴き、行政を正そうとしてくれた! 彼らこそ、このリンドブルムの真の宝である!」

 

「おお……!」

「トマス様!」

 

 広場から、トマスへの熱狂的な歓声が上がった。

 トマスはその歓声に戸惑いながらも、フォルグランの教え通り、毅然とした態度で市民に一礼した。

 

「よって、私はここに宣言する!」

 

 アルトス辺境伯は高らかに続けた。

 

「本日この時をもって、腐敗した旧体制を刷新し、辺境伯直轄行政改革局を新設する!」

 

「そして、その初代局長として、市井から、このトマスを抜擢し、行政の実権の多くを委任する!」

 

「うおおおおお!」

「平民が……局長に!?」

「辺境伯様が、俺たちの声を聞いてくれたんだ!」

 

 市民の熱狂は最高潮に達した。

 トマスは一歩前に出た。

 ……教授。これが、貴方の描いた舞台ですか。

 

 彼はフォルグランの教え通り、市民に向かって力強く語りかけた。

 

「皆さん! 私は、非力です! ですが、知恵があります! 辺境伯閣下のご決断に応え、この命に代えても、皆さんの生活と、この都市の公正を取り戻すことを誓います!」

 

「トマス局長! 万歳!」

 

 辺境伯はその熱狂を満足げにするように振舞いながら見つめ、続けた。

 

「経済も同様だ! ギルド長ゴードン!」

 

 バルコニーの影から、ゴードンが緊張した面持ちで姿を現した。

 

「ギルドはもはや貴族の私物ではない! ギルドは、このトマス局長の行政改革と連携し、市民の生活を安定させるため、物流と物価の安定に全力を尽くす!」

 

 経済と行政が市民のために動く。

 その宣言に、市民は熱狂した。

 

 だが、最も大きな不安が残っていた。

 

「……しかし」

 

 市民の一人が不安げに叫んだ。

 

「騎士団が崩壊して、誰が俺たちを魔物や無法者から守ってくれるんだ!」

 

 広場が再び静まり返る。

 アルトス辺境伯は待っていたかのように頷いた。

 

「諸君らの不安はもっともだ。しかし武力はもはや圧政の暴力であってはならない。武力は、法と市民を守る秩序の剣でなければならない」

 

「私はその剣を、既に見出している」

 

 アルトス辺境伯が合図をすると、バルコニーの屋根の上から、一人の少女が音もなく飛び降り、辺境伯の隣に立った。

 

 それは黒いローブをまとった、リリアだった。

 

「……子供?」

「あの旧市街の火花散らしか?」

 

 市民の一部が彼女の正体に気づき、怯えたように後ずさった。

 

「そうだ!」

 

 辺境伯は声を張った。

 

「彼女は、かつてその力を制御できず、諸君から化け物と呼ばれていた! だが、それもまた、旧体制が彼女の才能を見捨てていたからに他ならない!」

 

「私は彼女に制御の術と法の教育を施した!」

 

「リリア! 市民に、新しい秩序の力を見せよ!」

 

 リリアは静かに一歩前に出ると、広場の空高く、指先を掲げた。

 彼女の指先に、極限まで圧縮された魔力が、太陽の光を受けて眩く輝く針となって集束する。

 

「あれは……!」

 

 リリアは、その針を、市庁舎の屋根の上に残っていた、旧騎士団の、ヴァルドスの象徴だった、紋章旗の竿の先端に向かって放った。

 

 ――キィィィィィン!!

 

 甲高い音と共に、魔力の針は、百メートル以上離れた旗竿の先端、指先ほどの太さの金属部分を、正確に撃ち抜いた。

 

 紋章旗は音もなく広場へと落下した。

 広場は水を打ったように静まり返った。

 

 詠唱も、魔法陣もなしに、あれほどの距離を、あれほど正確に撃ち抜く魔術。

 それは彼らが知る「魔法」の常識を、完全に超越していた。

 

「彼女こそ、アルトス家が任命する、新しい法の剣!」

 

 辺境伯は勝利を確信した声で言った。

 

「特別治安監視官リリアだ! 彼女の力は、もはや暴走しない! 辺境伯の法に従わぬ者、この都市の秩序を乱す者だけに、正確に、そして無慈悲に、行使されるだろう!」

 

 市民は震えていた。

 

 それはヴァルドスへの恐怖とは違う。

 

 新しく提示された、絶対的な秩序への、畏怖だった。

 辺境伯の権威の下、トマスの行政と、リリアの武力が動く。

 完璧な統治体制だった。

 

「辺境伯様、万歳!」

「トマス局長!」

「リリア様!」

 

 市民は新しい「希望」の到来に熱狂した。

 

 

 その熱狂のすべてを、市庁舎の最上階、ステンドグラスの嵌まった小窓から私は、一人静かに見下ろしていた。

 

「……フン。見事な芝居だ。私の役者たちは実に優秀だな」

 

 隣には、いつの間にかアンナが控えていた。

 

「……フォルグラン様。すべて、貴方様の脚本通りです」

 

「ああ。市民は辺境伯が心を入れ替え、有能な平民を登用し、新たな力を手に入れたと信じている。誰も、その脚本を書いたのが、あの書庫虫の私だとは夢にも思うまい」

 

 私は熱狂する群衆に背を向け、影の中へと戻った。

 私の玉座は、こんな日当たりの良いバルコニーではない。

 すべてを操る、書庫の暗闇だ。

 

 ◇◇◇

 

 その日の午後。

 市庁舎の、新設された行政改革局長室で、トマスは山積みの書類を前に、頭を抱えていた。

 

「教授……! これは、一体……!」

 

 彼の前には、フォルグランが今後の施策としてまとめた、税制改革案、都市インフラ整備計画、治安維持法案など、数十項目にわたる詳細な計画書が置かれていた。

 

「トマス局長」

 

 影からアンナが姿を現した。

 

「教授からのご伝言です。脚本は渡した。あとは、お前が、最高の演技をするだけだ、と」

 

「……承知した、とお伝えください」

 

 トマスは顔に巻かれた包帯の痛みも忘れ、その計画書の実現可能性の高さに武者震いしていた。

 

「この知で、必ずや都市を変えてみせます!」

 

 

 同時刻、ギルド長の執務室。

 ゴードンはフォルグランからの指示書を前に、震えていた。

 

「なんと……なんと恐ろしいお方だ。市民の熱狂を、これほど完璧に計算し、経済にまで反映させるとは……! すぐに手配しろ! 赤字が出ようとも、フォルグラン様の指示通りに食料を供給するんだ!」

 

 

 同時刻、旧市街。

 リリアは黒いローブを身にまとい、旧騎士団の残党が溜まり場にしていた酒場に、一人で立っていた。

 

「なんだぁ? あの監視官様のお成りかよ」

「辺境伯の新しい犬かぁ?」

 

 五人の残党が下卑た笑いを浮かべて剣を抜いた。

 リリアは何も答えなかった。

 ただ、指先を彼らの利き腕の手首に向けた。

 

 ――キィン!

 

 連続した五つの甲高い音。

 

 五人の騎士が剣を取り落とし、自らの手首を押さえて絶叫した。

 彼らの手首の腱は、一滴の血も流さず、内部から正確に焼き切られていた。

 

「……これが、新しい法よ」

 

 リリアは恐怖に慄く残党たちに背を向け、闇に消えた。

 この見せしめにより、都市の治安は一夜にして劇的な回復を見せることになった。

 

 ◇◇◇

 

 そして、そのすべてが実行されてからしばらく経った夜。

 私は書庫の自室で、駒たちからの報告書を読んでいた。

 

「経済、正常化へ。ゴードン、掌握完了」

 

「行政、改革開始。トマス、掌握完了」

 

「治安、秩序回復。リリア、掌握完了」

 

「権威、傀儡化。アレスト、掌握完了」

 

「情報、完全支配。アンナ、掌握完了」

 

 私の知略は、このリンドブルムという都市の、すべての機能を影から完全に掌握した。

 

 市民は辺境伯とトマスによる善政を讃え、リリアの秩序に安堵している。

 

 誰も、そのすべてを操る影(・)の(・)総(・)統(・)の存在には気づいていない。

 

「リンドブルムは、私の実験場として、完璧に機能し始めた」

 

 私は机の上に、リンドブルムの地図ではなく、王国全土の地図を広げた。

 

「アンナ。次の脚本だ」

 

「はい」

 

「王都から監査官が、この辺境の異常な安定を調査するために、近々派遣されるそうだ」

 

「……監査官を、どうなされますか?」

 

「決まっている」

 

 私は王都のマスに、黒いチェスの駒を置いた。

 

「その監査官を、次の駒にする。このリンドブルムから、王都の権力を、私の知略で侵食し始める。悪の総統の仕事は、まだ始まったばかりだ」

 




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