転生した悪の総統は異世界でも影から社会を支配する   作:悪役じゃない本物の悪人

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2話 観察者アンナ

 鑑定の儀での絶望的な宣告から、早くも十年の歳月が流れた。

 

 私、フォルグランは十五歳になっていた。

 

 この十年間、私は完璧な仮面を被り続けてきた。

 レオルドの忠告通り、私は才能の無さに絶望し、現実から逃避して書庫に引きこもるというアルトス家の出来損ないを演じきった。

 

 最初の数年間、私は意図的に無気力な姿を晒した。

 父が時折、気まぐれに私の様子を見に来ても、私はただ歴史書や詩集をぼんやりと眺めるふりをした。

 

「……フン。やはり、何の役にも立たんか」

 

 父はそう吐き捨て、二度と書庫に足を踏み入れることはなくなった。

 

 兄たちは武術訓練の合間に私を見かけると、「おい、書庫虫。まだそんなところにいたのか」と蔑称まで付けて私に嘲笑を浴びせた。

 もはや彼らの中で私と言う存在は競争相手ですらなく、ただの背景となっていた。

 

 使用人たちの態度はより露骨だった。

 最初のうちは才能がなくとも貴族の子弟として最低限の敬意を払ってくれていたが、当主や兄たちのあからさまな冷遇を見るにつれて、その態度は変わっていった。

 

 食事は冷めたものが運ばれ、部屋の掃除は後回しにされ、時には存在しないかのように無視された。

 だが――

 

「……結構だ。実に結構だ」

 

 私はそのすべてを計算通りと受け入れていた。

 冷遇と無関心こそ、私にとって最高の隠れ蓑になっていた。

 

 誰もこの非力な書庫虫を警戒しない。

 誰も私が書庫で何を読み、何を考えているかに関心を持たない。

 

 私の玉座となった書庫で、私は前世の知性と、この世界の理を貪欲に融合させていた。

 

「――この世界の統治構造は、あまりに稚拙だ」

 

 私は歴史書を読み解き、この辺境都市リンドブルムがいかに脆いバランスの上に成り立っているかを分析した。

 

 第一に、軍事と統治を司るアルトス辺境伯本家。

 絶対的な武力を背景に君臨しているが、その統治は雑だ。

 税収の管理は杜撰で、市民の不満よりも魔物の討伐という目に見える成果を優先する。

 彼らの力は統治ではなく支配にしか向いていない。

 

 第二に、経済を牛耳る商業ギルド。

 都市の血流たる物流と金融を握っているが、武力を持たない。

 彼らは貴族に逆らえず、常に本家の顔色を窺いながら利益を追求する臆病な集団だ。

 金が武に怯えていてはとても健全な領地運営など行えない。

 

 第三に、民衆の信仰を集める中央教会。

 絶対的な権威を持つが、世俗の権力闘争には原則として不介入。

 だが、民衆の精神を掌握しているという点において無視できない勢力だ。

 

「実に脆い三角形だ。一つの頂点を崩せば、あるいは一つの頂点を掌握すれば、残りの二つは連鎖的に崩れる」

 

 それから私は魔法理論書も読み漁った。

 私自身は魔力を持たないため、魔法を発動することはできない。

 だが、私の知性は魔法という現象を前世の物理学・化学の観点から再構築した。

 

 魔法や魔術における詠唱とは、体内魔力を特定の現象に変換するための指向性を与えるいわばプログラムコード。魔法陣はそのコードの安定性と出力を高めるための補助回路に過ぎない。

 ならば、この世界の魔法師どもは、あまりに非効率な運用をしている。

 

 私には、魔力を持つ者がいかに効率的に力を行使できるか、その理論だけが完璧に蓄積されていった。

 

 だが、どれほど机上で策を弄しても、それを実行する手足がなければそれはただの空想だ。

 

 

 そうして七歳になったある日、私は最初の駒を手に入れるための行動を開始した。

 

 支配の第一歩は、最も弱く、最も虐げられ、そして最も救いを渇望している人間を見つけることだ。

 

 私が目をつけたのは、一人のメイドだった。

 

 名をアンナと言い、歳は十七ほど。

 他のメイドたちより一つ二つ年上だったが、その地位は最も低かった。

 彼女は他のメイドにいびられ、最も辛く汚い仕事を押し付けられている。

 

 私は書庫の窓から彼女が中庭で他のメイドたちに囲まれ、汚れた水をかけられる瞬間を偶然目撃した。

 だがアンナは反抗することなく、ただ唇を噛み、濡れた髪をかき分け、無言で掃除に戻る。

 その瞳には怒りや悲しみではなく、すべてを諦めたような無が浮かんでいた。

 

「……あれだ」

 

 私は確信した。

 彼女は怒りすら忘れるほどに尊厳を踏みにじられている。

 そんな人間に、ほんの少しの尊厳と価値を与えれば、それは絶対的な忠誠に変わるだろう。

 

 その夜。

 前世の経験から同じ瞳をした者を知っていた私は早速行動を開始した。

 人目を忍び、使用人たちの居住区のさらに奥にある物置同然の小部屋を訪ねる。

 そこがアンナの寝床だった。

 

「……っ! フォルグラン坊ちゃま……!?」

 

 薄汚れたボロ切れのような寝巻き姿のまま、突然の主の訪問に狼狽し、土下座せんばかりに震えている。

 彼女にとって貴族の子供とは、たとえ私のような出来損ないであっても、目上の存在であり、恐怖の対象。

 この場所に来ること自体が異常事態だった。

 

「な、何かの御用でしょうか……!? すぐに、担当の者を……」

 

「静かにしろ」

 

 私は七歳の子供とは思えぬ落ち着いた声で言った。

 

「恐れるな。私はお前に危害を加えに来たのではない」

 

 私は懐から小さな傷薬の瓶と、数枚の銀貨を取り出した。

 どちらも私が自らの乏しい小遣いを数年かけて貯め、密かに用意したものだった。

 

「これは薬だ。昼間、水をかけられた時に手を怪我しただろう。その傷に塗るといい」

 

 アンナは息を呑んだ。

 

 (見ていた……? 私の傷に、気づいていた……?)

 

「それとこれは、お前の働きに対する正当な評価だ」

 

 私は銀貨を彼女の前に差し出した。

 

「こ、こんなもの、受け取れません! 私は……!」

 

 アンナは恐怖で首を振った。

 

「なぜだ?」

 

 私は彼女の目線に合わせてしゃがみこみ、真っ直ぐにその瞳を見つめながら続ける。

 

「お前は誰よりも丁寧に床を磨き、誰よりも遅くまで働いている。私は書庫からずっと見ていた。お前の働きは、あの怠惰な連中よりも遥かに価値がある」

 

 アンナの瞳が初めて無以外の色を宿し、戸惑いに揺れる。

 

(虐げられ、無視され、家畜同然に扱われてきた自分の働きを、価値があると言ってくれた。しかも、あの冷遇されている書庫虫の坊ちゃまが)

 

「これは施しではない。報酬だ」

 

 私は続けた。

 

「……ですが、坊ちゃま……これが他の者に見つかれば……」

 

「バレなければいい」

 

 私はここで初めて、悪魔のように計算された笑みを浮かべた。

 

「私が欲しいのは、お前の目と耳だ」

 

「……え?」

 

 一瞬にして表情を強張らせたアンナは目を閉じ、耳を庇うように覆う。

 私はその誤解を解くように続けた。

 

「無論、物理的な話ではない。お前を虐げる連中が、いつ、どこで怠けているか。何を盗み食いし、何を噂しているか。誰が誰と密会しているか。そういう情報を私に教えてくれればいい」

 

「そんな……私は、仲間を売るような……」

 

「仲間?」

 

 私は冷ややかに笑った。

 

「お前を家畜のように扱う連中が、仲間か? 私はお前に取引を持ちかけている。お前は私に情報を提供し、私はお前に正当な評価と、この冷遇から抜け出すための力を与える」

 

 それはアンナにとってなにより甘い提案だった。

 虐げられるだけの日常に差し込んだ、初めての光。

 アンナは震える手で銀貨と傷薬を受け取った。

 

「……わかり、ました。坊ちゃまが……フォルグラン様が、私の主です」

 

 これが悪の総統フォルグランが、この世界で手に入れた最初の駒だった。

 

 ◇◇◇

 

 アンナという目と耳を手に入れたフォルグランの支配は、まず屋敷内から始まった。

 

 アンナはその虐げられてきた経験から気配を消し、物陰から情報を集める天才的な才能を持っていた。

 

「奥様は毎週水曜の午後、密かに商人と会っています。帳簿上は服飾代ですが、実際には高価な酒と……何らかの薬を」

 

「料理長が食材を横流ししています。そのルートは、兄上様の出入りする酒場と繋がっているようです」

 

 些細だが、確実な情報。

 

 しかし私はそれらの情報をすぐには使わなかった。

 ただ蓄積し、分析する。

 屋敷内の権力構造とそれぞれの人物の弱点を完璧に記憶していった。

 

 アンナへの報酬はもちろん続けた。

 銀貨だけでなく、時にはさらに彼女を成長させるために自ら文字を教え、勉強になるような本を与えた。

 するとアンナは私の期待に応え、めきめきと力を発揮すると、やがて他の虐げられていた下級使用人たちをもまとめ上げ、私の情報網は屋敷の隅々まで広がった。

 

 そうして私、フォルグランが十五歳になった年。

 

 私は表向きでは非力なアルトス分家の書庫虫として、その存在を完全に周囲から忘れ去られていた。

 

 だが、その水面下では、アンナを筆頭に都市の隅々にまで私の情報網が張り巡らされていた。

 

 アンナを通じて得た資金と情報で、私は市井の孤児たちに食料と寝床を与え、彼らを目として育て上げた。

 酒場の亭主には金を渡し、貴族や騎士たちの会話を報告させた。

 

『アルトス本家の財政は見かけによらず火の車だ。原因は本家当主の無計画な軍備拡張と、商業ギルドの不審な動き……』

 

 書庫で分厚い歴史書を読んでいるフリをしながら、私はアンナから受け取った暗号化された報告書を分析する。

 

 まず狙うべきは経済を牛耳る商業ギルド。

 

 ギルド長ゴードンは強欲で知られているが、最近の動きはただの強欲にしては手が込みすぎている。

 

「……背後に誰かいるな。あるいはゴードン自身に致命的な弱みがあり、それに付け込まれているのか」

 

 そうして策謀を巡らせていた時、別の報告が私の目に留まった。

 

 それは私が育てた孤児の情報網からもたらされた、注目すべき情報だった。

 

『旧市街の孤児リリア。制御不能な魔力を暴発。被害は小さいもののトラブル多発』

 

「……ほう、魔力持ちか」

 

 この世界において魔力は才能だ。

 私にだって与えられなかった明確な一つの才能。

 だが、リリアのそんな才能は制御不能だと言う。

 

 貴族であれば専門の教育を受けられるが、孤児である彼女の力は脅威でしかなかった。

 そのおかげで周囲からは化け物扱いされ、孤立しているという。

 

「これは……使えるな」

 

 私はギルド長ゴードンへの仕掛けを一時中断することに決めた。

 このリリアという存在に強く興味を惹かれたのだ。

 

 この武力社会において、最強の武力を持つ駒は時にどんな知略よりも有能だ。

 ただ、焦りは禁物である。

 

 アンナの時のように完璧に支配下に置くためには、徹底的な観察と相手の渇望の分析が必要だ。

 

「アンナ」

 

 私は書庫の影に控えていたアンナに声をかけた。

 

「はい。フォルグラン様」

 

 音もなく現れて返事をするアンナに次の命を下す。

 

「旧市街のリリアという娘を徹底的に観察しろ。彼女が何を恐れ、何を渇望しているのか。彼女の行動パターン、人間関係、魔力を暴発させるトリガー。そのすべてをだ」

 

「かしこまりました。すぐに市井の者たちに指示を出します」

 

 再び音もなく消えていくアンナを見送り、私は窓の外、活気のない旧市街の方角を見つめる。

 

「さて、果たしてこの駒はどんな働きをするだろうか?」

 

 曇り空を覗かせる窓ガラスには、まるで無害そうな青年の凶悪な笑みが映っていた。

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