転生した悪の総統は異世界でも影から社会を支配する   作:悪役じゃない本物の悪人

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5話 絶望の毒

 リリアが旧魔術工房の地下で、自らの魔力によって初めて鉄板を貫通させてから、さらに一ヶ月が経過した。

 

 そうして彼女の生活は一変した。

 飢えと寒さに怯え、他者の視線に呪詛を返していた日々は終わり、今は厳格な主の管理下で彼女の人生において最も濃密な教育が施されていた。

 

「まだ甘い」

 

 地下工房にフォルグランの冷徹な声が響く。

 

 リリアは工房の対角線上の壁、距離にして約三十メートルほどに立てかけられた、厚さ三十センチの石板に向かい、荒い呼吸を繰り返していた。

 彼女の額には玉の汗が浮かび、魔力の酷使によって指先が微かに痙攣している。

 

「主……でも、もう、五枚目よ。石板を貫通させるなんて、騎士団の魔法使いだって……」

 

「お前は騎士団の愚か者どもと同じレベルで満足するのか?」

 

 私はリリアの弱音を一刀両断にする。

 

「お前が貫いたのは、静止した的だ。実戦での相手は動き、抵抗し、遮蔽物に隠れる。お前の魔力はたった数ミリの針だ。それが当たらなければ、お前はただの非力な小娘に戻る」

 

 リリアを奮い立たせるにはこれが一番効いた。

 

 ◇◇◇

 

 この一ヶ月、フォルグランはリリアに一点突破の訓練だけをさせていたわけではなかった。

  リリアが基礎的な理論と文字をマスターしたことを確認すると、彼は「応用魔術理論」へと移行した。

 それはこの世界の魔術師たちが操る「火球」や「氷槍」といった定型的な魔法ではなかった。

 

「お前の才能は密度だと教えたはずだ。その高密度のエネルギーを、なぜわざわざ火や氷などという非効率な現象に変換する必要がある?」

 

 私は私自らが再構築した理論をリリアに叩きつけた。

 

「お前が扱うべきは純粋な魔力そのものだ。現象化する前の、最も原始的で、最も破壊的な力。それをいかに隠し、いかに収束させ、いかに正確に放つか。それだけを考えろ」

 

 私はリリアに魔力の隠蔽を教えた。

 魔力を持つ者は互いの気配をある程度察知できる。

 

 リリアの魔力は微弱だが密度が異常に高いため、制御を失うと非常に悪目立ちしていた。

 

 よって私はリリアに体内の魔力循環を心臓の鼓動や呼吸のリズムと完全に同調させ、魔力の流れを外部に一切感じさせない技術、通称魔力ステルスの理論を叩き込んだ。

 

「気配を消せ。魔力を消せ。お前はそこにいない存在になれ。最強の剣とは、鞘に納まっている時こそが最も恐ろしいのだ」

 

「……分かったわ」

 

 次に、私は精密操作を教えた。

 石板を貫通させるような槍だけが力ではない。

 

 私はリリアの前に、水を入れただけのグラスを置いた。

 

「魔力でこの水だけを凍らせろ。グラスを傷つけるな。もちろん、詠唱も魔法陣もなしだ」

 

 リリアはその無茶な要求に最初は絶望した。

 だが、私の教えた理論に従い、何日もかけて挑戦した結果、彼女はグラスの中の水だけを、美しい氷柱に変えることに成功した。

 

 ◇◇◇

 

 そして今、彼女は遠距離精密射撃の最終段階にあった。

 

 「……わかってるわよ」

 

 リリアはフォルグランの厳しい言葉に反抗するように呟き、再び石板に向き合った。

  彼女は目を閉じ、呼吸を整える。

 

(気配を消す。魔力を隠す)

 

 彼女の存在感が、スッとその場から消えたかのように希薄になる。

 アンナでさえ、集中していなければ彼女を見失いそうになるほどの完璧な隠蔽だった。

 

(体幹から、腕へ。そして指先へ)

 

(槍ではない。糸だ)

 

 彼女がイメージしたのは、三十メートル先まで伸びる極細の魔力の糸。

 その糸が石板の中心に触れた、と彼女がイメージした瞬間。

 

 ――っ!

 

 鋭い、金属的な高周波。

 しかし、石板には何も起こらない。

 

「……また失敗」

 

 リリアは顔を歪める。

 

「いいや」

 

 だが、その言葉を否定するようにフォルグランが静かに言った。

 

「確認しろ」

 

 リリアが恐る恐る石板に近づくと、その中心に髪の毛一本分の細さの穴が完璧に貫通していた。

 

「……これが」

 

「これがお前の力だ。リリア」

 

 フォルグランは初めてリリアの成果に満足げに頷き、彼女の頬に手を添える。

 

「お前は今この瞬間、三十メートル先の相手の心臓を、音もなく、気づかれることさえなく貫ける暗殺者となった。私の剣として研ぎ上がった」

 

 リリアは自分の指先を見つめた。

 

 かつて、自分を呪った忌まわしい火花は今やこの都市の誰にも真似できない、絶対的な力へと変わっていた。

 彼女は工房の主、フォルグランに向かって深く頭を下げた。

 

「主の望むままに。私の力は貴方様のものです」

 

「ああ。その力を早速使ってもらう時が来た」

 

 ◇◇◇

 

 リリアという剣が研ぎ上がったその日、私のもう一つの策謀もまた最終段階を迎えていた。

  場所は我が玉座、書庫。

 

 私はメイド頭としての仕事を終えたアンナから、ギルド長ゴードンに関する最終報告を受けていた。

 

「ゴードンに関する観察は完了しました」

 

  アンナはメイドの柔和な仮面を外し、冷徹な観察者として報告を始める。

 

「彼の一人娘であるセリーナ様の病状は予想以上に深刻です。中央教会が不治の病と定めた『銀の呪い』……魔力が徐々に体から失われ、最終的には呼吸すらできなくなる病です」

 

「治療法は?」

 

「存在しません。ただし、病の進行を遅らせることだけが可能な、高価な薬草が存在します。ですがその薬草は……」

 

「教会が禁忌と定めている代物だな」

 

 アンナが止めた言葉を私が引き取る。

 

「御名答です」

 

 アンナは頷く。

 

「その薬は闇市場でしか取引されず、ゴードンは娘のためにギルドの金を横領してまで、その薬を買い続けています」

 

「ギルドの帳簿の不審な薬品の仕入れはそれか」

 

「はい。そして、その闇の薬師のルートをさらに調査したところ、厄介な名が浮かび上がりました」

 

 アンナはもう一枚の報告書を差し出した。

 

「辺境伯の長男、ヴァルドス騎士団長様です」

 

 私はその名前に少し驚いた。

 

「……ほう。あのアホが、そんな手の込んだことを?」

 

「はい。騎士団長様は闇の薬師たちを武力で庇護し、その見返りとして、彼らの利益の一部と横流しした武器の売買ルートとして利用しています。ゴードンは娘の薬を手に入れるために、騎士団長の汚職にも間接的に加担させられている形です。どうやら彼は強欲なのではなく、恐怖に支配されているのです」

 

「娘を失う恐怖、か」

 

 私は全てのピースが組み上がったことを感じ、笑みを浮かべる。

 ゴードンは娘の命を人質に取られ、騎士団長の武力に怯えている。

 なんと使いやすい弱点だろうか。

 

 支配とは、相手に逃げ道と希望を与えながら、自分の望む方向へ誘導することだ。

 だが、今のゴードンは騎士団長に恐怖で縛られている。

 

 ならば、騎士団長の恐怖よりも、さらに大きな絶望を彼に与える。

 そして、その絶望の底から、私だけが差し伸べられる希望を提示する。

 それだけで……彼は陥落する。

 

「アンナ。今度の計画は二段階だ」

 

 私は淡々と命令を下した。

 

「第一段階はゴードンに絶望を与えること。ゴードンが頼りにしている闇の薬師の流通ルートを特定しろ。そして、その薬をすべて完全に消し去る。薬師たちに、決して補充できない事故だと錯覚させよ」

 

「……リリア様をお使いになるのですね?」

 

 もう長年観察者として私を支えるアンナは私の思考を的確に読んでいた。

 

「そうだ。彼女の初仕事に相応しい舞台だ。ヴァルドスが絡んでいるならなおさらいい。奴の収入源も同時に断ち切れる」

 

 少し間をおいて続ける。

 

「そして第二段階は希望と脅威を与えること。薬が消えた後、ゴードンが絶望した頃合いを見計らい、私から薬と証拠を同時に提示する」

 

「薬と……証拠、ですか?」

 

 アンナが聞き返した。

 

「ああ。私が書庫で読み漁った古文書の中に、その禁忌の薬の精製法があったという設定だ。アンナ、お前にはその薬の材料を、ギルドの正規ルートとは別に、密かに集めてもらう。精製は私が理論を組み、工房でリリアの魔力を借りて行う」

 

 実際はすでにおおよその効果が出るであろう薬の製法を私自身が編み出している。

 おそらくアンナもそれを理解したのか、薬についてはそれ以上聞かずに話を進めた。

 

「そして証拠とは?」

 

「ゴードンの横領とヴァルドスの汚職を示す決定的な証拠だ。ゴードンには、私だけが娘を救える救世主であり、それと同時に、彼のすべてを破滅させられる支配者であることを同時に理解させる」

 

「……畏まりました」

 

 アンナは自らの主の知略に、改めて畏怖の念を抱いた。

 

「すぐに、闇の薬師たちの取引場所と日時を特定させます」

 

「頼んだぞ」

 

 ◇◇◇

 

 数日後の夜。

 リリアは黒いローブに身を包み、旧市街の、今は使われていない食肉処理場の屋根に潜んでいた。

 雨が降りしきり、血と錆の匂いが混じり合って、彼女の感覚を刺激する。

 

(ここが主の言っていた取引場所……)

 

 フォルグランの情報網は闇の薬師たちが騎士団の庇護の下、今夜ここで禁忌の薬の取引を行うことを突き止めていた。

 

 リリアはフォルグランから教わった魔力ステルスを用いて、その気配を雨音と闇に溶け込ませていた。

 

 現在眼下では、五人の薬師と二人の騎士が厳重な警備の中で小さな木箱の受け渡しを行っている。

 

(あれが、薬……。あれで、人が救えるっていうの?)

 

 リリアの目に映る薄汚い瓶はとても人が救えるような代物には見えなかった。

 

(主の命令は、あれを事故に見せかけて……)

 

 リリアはフォルグランから渡された建物の簡易図面を思い出す。

 

 この食肉処理場は古く、特に中央の天井を支える梁は雨水を吸って脆くなっている。

 そして、そんな梁の真下で取引は行われていた。

 

 リリアはゆっくりと魔力を練り上げた。

 槍ではない。

 糸でもない。

 彼女がイメージしたのは、振動。

 

 フォルグランから教わった応用魔術――魔力を特定の周波数で振動させ、対象の構造的脆弱性を突く技術。

 

 彼女は指先を脆くなった梁に向けた。

 そして魔力は不可視の振動となって放たれる。

 

 ギィという鈍い音が雨夜に響く。

 

 最初、それは雨音に紛れるほどの微かな木材のきしみだった。

 

「ん? なんだ、今の音は?」

 

 騎士の一人が顔を上げ、そう呟いた。

 

「気のせいだろ。早く済ませるぞ。こんな場所、長居は無用だ」

 

 だが薬師は何も聞こえないと言うように作業を続け、木箱を閉じようとした――その瞬間。

 

 梁が限界を超えた振動によって、内部から粉々に砕け散った。

 屋根全体がバランスを失い、取引を行っていた男たちの真上へと数トンの瓦礫となって崩落していく。

 

「うわあああっ!」

「な、なんだ!? 攻撃か!?」

「天井が……!」

 

 騎士たちは剣を抜く暇もなく、薬師たちは薬の瓶を抱きしめる間もなく、崩れ落ちた天井の下敷きとなった。

 こうして高価な禁忌の薬はすべてが木材と石材の下で土埃と共に砕け散った。

 

 リリアはその光景を冷ややかに見つめていた。

 

 誰も死んでいないかもしれない。

 だが、薬は確実に失われた。

 彼女は自分が、ガルドに怯えていた非力な少女とは、まったく別の存在になったことを実感していた。

 

(私の力は普通の剣や魔法を上回る。主の知略があれば……!)

 

 リリアは偶に与えられる彼の温もりを想いながら、音もなく闇夜に消えた。

 

 ◇◇◇

 

 その翌日。

 商業ギルドの執務室で、ギルド長ゴードンは絶叫していた。

 

「な……なんだと!? 薬が……薬が手に入らないだと!?」

 

「は、はい……昨夜の取引場所が、不運な事故で崩落しまして……薬師たちも重傷、薬はすべて失われたと……」

 

 報告に来た部下の顔は、恐怖に青ざめている。

 

「馬鹿な! すぐに別のルートを探せ!」

 

「それが……騎士団長様もこの件にご立腹で……しばらく闇の取引はすべて停止すると……」

 

 ゴードンの頭の中で、何かが崩れる音がした。

 娘のセリーナの苦しそうな呼吸が耳の奥で蘇る。

 薬がなければ、娘はあと数週間も持たないかもしれない。

 

(金ならある! ギルドの金ならいくらでも……!)

 

 だが、普段なら金で買えるはずの薬そのものが、このリンドブルムから消え失せたのだ。

 

「セリーナ……!」

 

 ゴードンは執務室の机に突っ伏し、絶望に打ちひしがれた。

 

 

 その頃、フォルグランは書庫でアンナから「第一段階完了」との報告を受け、冷徹に微笑んでいた。

 

「毒は回ったな、アンナ」

 

「はい。完璧に」

 

「では、次の段階だ。解毒薬と鎖を、あの哀れな男に提示しに行くとしよう」

 

 悪の総統による完全なる傀儡製造計画が、最終段階に入ろうとしていた。

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