転生した悪の総統は異世界でも影から社会を支配する 作:悪役じゃない本物の悪人
フォルグランが仕掛けた「行政補佐官団」という名の寄生植物は、アルトス本家の統治機構という古木に、静かに、しかし確実に根を張り巡らせていた。
その最前線に立たされたのが、トマスだった。
彼は「教授」から与えられた会計監査室補佐という地位を使い、その驚異的な計数能力と記憶力で、腐敗した本家の帳簿の穴ではなく、完璧すぎる帳尻を洗い出していた。
「……これだ」
市庁舎の地下、埃っぽい監査室で、トマスは震える指で一つの帳簿を押さえた。
それは騎士団の武器・食料補給に関する帳簿。
毎月、寸分違わぬ数字で同量の物資が消費され、補充されている。
(ありえない。先月の魔物討伐は大規模だった。今月は小競り合いのみ。なのに、なぜ矢の消費量が同じなんだ?)
トマスの隣で同じく補佐官団の一員である若者のハインツが、市民からの陳情書を処理しながら声を潜めた。
「トマス、本当にやるのか? これに『不備あり』の印を押せば……」
「やるさ」
トマスは恐怖を押し殺し、決意を込めて言った。
「教授は我々の知を信じてくださった。この不正こそが、この都市を腐らせている元凶だ。我々がやらねば誰がやる!」
「だが、相手は騎士団長だぞ。剣で脅されたら……」
「その時は、その時だ」
トマスは、フォルグランの言葉を反芻していた。
『恐怖に屈すれば、お前は一生、日雇いの帳簿係のままだ。だが、恐怖を乗り越え、知略で立ち向かえば、お前はこの都市の財政を動かす男になれる』
トマスは震える手で、その補給申請書に『監査中――詳細確認要』という、最も時間のかかる差し戻しの印を押した。
◇◇◇
――同時刻。リンドブルムの市井では、奇妙な評判が確立しつつあった。
「おい、聞いたか? 北地区の用水路の補修、申請したら三日で人が来たぞ」
「本当かよ! 今までは半年待たされたってのに」
「ああ、なんでもギルドの推薦で入った行政補佐官団とかいう連中がすごく有能らしい。俺たちの生活のことをちゃんと考えてくれてる」
市民の生活に密着した業務である道路補修、ゴミ収集、陳情処理などは、フォルグランの指示通り、補佐官団によって驚異的な速度で処理され、市民の支持は確実に彼らに集まり始めていた。
彼らは腐敗した本家の文官に代わる、市民の味方として認識され始めていた。
だが、この評判こそが、フォルグランが仕掛けた罠の餌だった。
◇◇◇
騎士団長の執務室。
アルトス辺境伯の長男、騎士団長ヴァルドスは苛立ちのあまり、愛用の大剣を机に叩きつけていた。
ガァンッ!
「なぜだ! なぜ補給が来ん!」
ヴァルドスは焦っていた。
彼の重要な資金源であった闇の薬師ルートが謎の事故によって壊滅した。
横流ししていた武器の代金が焦げ付き、彼の財政は火の車だった。
その穴を埋めるため、彼は本家の正規軍備の横流しの規模を拡大しようとしていた。
なのに、だ。
「はっ……! それが、市庁舎の会計監査室に新しく入った、補佐官団のトマスという男が申請書類に不備があるとして、差し戻してきており……」
部下の騎士が、恐る恐る報告する。
「不備だと!?」
ヴァルドスは目を血走らせた。
「たかが文官が! 雑務の分際で、この私の、騎士団の進軍を妨げるというのか!」
彼にとって、文官とは「剣も握れない役立たず」の同義語だった。
その役立たずに、自分の計画を邪魔されたことが彼の武人としてのプライドを激しく逆撫でした。
「そいつらはギルドの推薦で入ったとか。生意気な……」
「ヴァルドス様、いかがなさいますか?」
「決まっているだろう!」
ヴァルドスは大剣を掴み、鞘に納めると、荒々しく扉に向かった。
「書類とやらがどれほど硬いか、この俺の剣の柄で、直接叩き込んでやる! ついてこい!」
◇◇◇
市庁舎の会計監査室は、緊張に包まれていた。
騎士団長のヴァルドスが鎧をガチャガチャと鳴らしながら、二人の屈強な騎士を伴って乗り込んできたからだ。
「トマス、というのは貴様か!」
ヴァルドスは部屋に入るなり、一番みすぼらしい格好をしていたトマスを指差した。
「……は、はい。私がトマスですが……」
トマスは武力という絶対的な圧を前に、恐怖で声が震える。
隣のハインツはすでに顔面蒼白になっていた。
「貴様か。我が騎士団の業務を、くだらん書類遊びで妨害しているのは」
ヴァルドスはゆっくりとトマスに歩み寄り、その巨体で彼を見下ろした。
「ぼ、妨害ではございません」
トマスは震えながらも、フォルグランの教えを必死に思い出した。
(『彼らは武力しか持たない。理論で対抗しろ。正論で追い詰めろ』)
「ただ、手順書の通りの、正式な不備が確認されましたので、差し戻したまでです。消費量と実際の戦闘報告との間に、あまりにも大きな差異が……」
「黙れ!!」
ヴァルドスの怒声が監査室全体を揺るがした。
彼はトマスが口にした差異という言葉が、自らの横流しを指していると直感し、逆上した。
(この雑魚が……俺の不正に気づきやがったのか!?)
「貴様ごとき雑務係が騎士団の戦略に口を挟むな!」
ヴァルドスは腰の剣の柄に手をかけた。
「ひっ……!」
ハインツが短い悲鳴を上げる。
ヴァルドスは、剣の柄を抜き放つと、そのままトマスの顔面を、思い切り殴りつけた。
鈍い音と共に、トマスは椅子から吹き飛び、壁に叩きつけられる。
「が……っ!」
口が切れ、鼻から血が流れる。
意識も段々と朦朧としていく。
「どうだ、トマスとやら」
ヴァルドスは倒れたトマスを踏みつけようと、ブーツを振り上げた。
「書類などよりよほど早いだろう? すぐに許可の印を押せ。さもなくば、その計算が得意な指を一本ずつ折ってやる」
「……」
トマスは、血の味が広がる口で、屈辱に耐えた。
(……教授。これが、貴方の言う試練ですか)
「おい! 聞いているのか!」
ヴァルドスが再び柄を振り上げた、その時。
「お、おやめください、騎士団長閣下!」
監査室の奥から、別の補佐官が震えながらも声を上げた。
彼はアンナがこの暴行の
「こ、ここは市庁舎です! 辺境伯様の統治下で、そのような暴力は……!」
「うるさい! 役立たずがまとめて始末されたいか!」
ヴァルドスは目的を忘れ、自分の武力を否定されたことで完全に頭に血が上っていた。
だが、その騒ぎを聞きつけ、本家の正規の文官たちも集まり始めていた。
「な、何事だ! ……ヴァルドス様?」
「市庁舎で剣を抜くとは……!」
「チッ……!」
ヴァルドスはさすがにまずいと思ったのか、あるいは脅しは十分だと判断したのか、振り上げた柄を収めた。
「……トマス。命拾いしたな。明日までに許可を出せ。さもなくば、今度こそ指を折る」
彼はそう吐き捨て、荒々しい足取りで監査室を去っていった。
残されたのは静まり返った監査室と、床で呻くトマス。
そして、恐怖に震える補佐官団の仲間たちだけだった。
だが、その中の一人がアンナから渡されていた小型の記憶水晶を、そっと懐にしまい込んだことを、トマスは知る由もなかった。
◇◇◇
その夜。フォルグランの書庫。
すべての報告を取りまとめたアンナが一部始終を報告していた。
「……以上です。トマスは鼻骨にヒビが入りましたが、命に別状はありません。ヴァルドスは完全に我々の挑発に乗りました」
「ご苦労、アンナ。トマスには最高の報酬を与えろ。私が用意させた、最高級の傷薬と、彼の家族が一生遊んで暮らせるだけの金貨を」
「……よろしいのですか? それほどの対価を」
「当然だ」
私は冷徹に言い切った。
「彼は私のために武力に対抗し、血を流した。その犠牲には、相応の報酬で応えねば、駒は忠誠を誓わない。恐怖を乗り越えた忠誠心は、金では買えん」
立ち上がり、窓の外を見る。
「そして、最高の餌が手に入った。アンナ、噂を流せ。私が用意した第二段階の情報を、市井に解き放て」
「かしこまりました」
◇◇◇
翌日から、リンドブルムの市井は新たな噂で持ちきりになった。
それは、「補佐官団=善」という土壌に、今回の暴行事件という火種を投下するものだった。
「聞いたかよ! 市民のために働く補佐官団のトマスさんが、騎士団長に殴られたらしい!」
「なんだって!? あんなに真面目な人たちを、なんで!」
「理由があるんだよ……」
酒場で情報操作官の一人が酔ったふりをして声を潜める。
「トマスさんは、騎士団の不正を見つけちまったらしいんだ」
「不正?」
「ああ。騎士団長が俺たちの税金で買った武器をこっそり横流しして私腹を肥やしてたってよ。その証拠を、トマスさんが掴んじまったから、口封じに……」
この噂はゴードンを通じて、意図的に流された騎士団長の横流しの証拠の一部によって、瞬く間に真実へと変わった。
そして市民の怒りが爆発する。
「ふざけるな! 俺たちは魔物に怯えながら税金を払ってるのに!」
「その武器で私腹を肥やして、俺たちの生活を良くしようとする補佐官を殴るだと!」
「騎士団長はリンドブルムの守護者じゃない、寄生虫だ!」
市民の怒りは辺境伯家全体ではなく、騎士団長ヴァルドスただ一人に、そして彼が象徴する傲慢な武力に集中した。
フォルグランが狙った武力対知略という対立構造は完璧に完成した。
一方、殴られたトマスの元へは、アンナがフォルグランからの報酬を届けた。
「……これは」
トマスは目の前に積まれた金貨と、嗅いだこともない芳香を放つ傷薬に目を見開いた。
「教授からです」
アンナは静かに告げた。
「『君の勇気が、都市を救う礎となった。これはその対価だ。君の知性は、リンドブルムの宝だ』と」
アンナから告げられた教授からの言葉にトマスの目から涙が溢れた。
そして彼の中から騎士団長に殴られた屈辱は、この瞬間に消え去った。
こうして絶対的な恐怖は狂信的なまでの忠誠へと昇華された。
(教授……! フォルグラン様……! この命、貴方様のために!)
◇◇◇
私は書庫でその報告を受け、冷たく笑った。
「トマスの忠誠は買った。市民の怒りも買った。ヴァルドスは今頃焦っているだろうな」
「はい」
アンナが頷く。
「噂が広まり、辺境伯本人の耳にも入ったようです。ヴァルドスは父君から厳しく叱責された模様。彼は今、自らの不正の証拠を完全に隠蔽しようと躍起になっています」
「そうか。ようやく、穴から這い出してきたな」
私は工房にいるはずの剣に呼びかけるように呟く。
「リリア。出番だ」
すると、影から音もなくリリアが現れた。
「はい、主」
「騎士団長が焦っている。彼は必ず、隠蔽工作に走るだろう。彼の邸宅には、まだ隠された証拠が大量にある」
私はゴードンから入手していた騎士団長の邸宅の精密な地図を広げた。
「お前の剣がその仕上げを行うのだ。彼の罪を、誰もが目撃できる形で確定させる」
「……私は何をすれば?」
少し控えめに聞いてくるリリアに私はいつも通り、彼女の頭を撫でながら告げる。
「簡単だ。侵入し、そして、燃やせ。だが、ただ燃やすのではない。最高の舞台を演出するんだ」