転生した悪の総統は異世界でも影から社会を支配する   作:悪役じゃない本物の悪人

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9話 象徴崩壊

 リンドブルムの空気は、かつてないほどに張り詰めていた。

 

 市民の怒りはもはや噂の域を超え、明確な敵意として騎士団長ヴァルドスに向けられていた。

 市庁舎で白昼堂々行われた、トマスへの暴行。

 

 そして、その暴行の理由が武器横流しの不正を隠蔽するためであったという真実。

 市民の生活を改善し始めた行政補佐官団という希望の象徴が、騎士団長という傲慢な武力によって踏みにじられた。この構図はフォルグランの狙い通り、市民の感情を完璧に一つの方向へと導いていた。

 

 その頃、騎士団長の邸宅。

 ヴァルドスは執務室で獣のように荒れ狂っていた。

 

「クソッ! クソッ! あの雑務係めが!」

 

 彼の怒りの理由はもはや名誉ではなかった。

 恐怖だった。

 

 数時間前、彼は父である辺境伯アルトス本人から、半狂乱の剣幕で叱責されたのだ。

 

「ヴァルドス! 貴様、何を考えている! 市庁舎で文官を殴りつけた!? しかも、武器横流しの噂まで立っているだと!」

 

「父上、あれはデマです! あのトマスという男が、私の統治を妨害したゆえ……」

 

「黙れ! 言い訳は聞かん! 市民がどれほど動揺しているか分かっているのか! すぐにその噂の火元を消せ! もし、貴様の不正が事実であったならば……この私が貴様をアルトス家の者として許さん!」

 

 父の言葉はヴァルドスを絶望させるのに十分だった。

 彼は不正が事実であることを、誰よりも知っていたからだ。

 

 (まずい。まずい、まずい!)

 

 ヴァルドスはあのトマスとかいう雑魚が、どこまで証拠を掴んでいるのか分からなかった。

 だが、父が本格的に調査に乗り出せば、邸宅の隠し部屋に秘蔵している横流し品と不正な財宝が発見されるのは時間の問題だった。

 

(隠さねば。いや、今すぐ移動させねば!)

 

 ヴァルドスは最も信頼する二人の私兵を密かに呼び寄せた。

 

「今夜、決行する」

 

「……は? 決行とは?」

 

()()を動かす。この邸宅はもはや安全ではない。市外の、古い砦跡にすべて移す。人目につかぬよう、深夜、厳重にだ」

 

「かしこまりました。ですが、警備の他の者たちには?」

 

「絶対に気づかれるな!」

 

 ヴァルドスは声を荒げた。

 

「これは我らの名誉に関わる、極秘の戦略的移動だ。分かったな!」

 

 ヴァルドスは自らの武力と権威を過信していた。

 この期に及んでも、彼は自分の邸宅の警備が完璧であり、深夜の秘密裏の行動が誰にも漏れるはずがないと信じきっていた。

 

 ◇◇◇

 

 だが、その会話は邸宅の屋根裏に潜む影によって、正確に盗み聞きされていた。

 フォルグランの行政補佐官団の一員であり、アンナの直属の密偵として育てられた、小柄な元孤児だった。

 

 その情報は即座に書庫のフォルグランへと届けられた。

 

「……動いたか。愚か者め」

 

 フォルグランはヴァルドスの行動が、自らの予測と完全に一致したことに満足げに頷いた。

 彼はゴードンから入手していた騎士団長の邸宅の精密な設計図を広げた。

 

「アンナ。トマスたち補佐官団に、今夜、市庁舎での緊急会計監査と称して、市庁舎に泊まり込むよう指示を出せ」

 

「はい。トマスたちを、これ以上の危険から遠ざけるのですね」

 

「それだけではない」

 

 フォルグランは地図を指差した。

 

 「彼らをアリバイのある安全な場所に集め、この後の騒動の無実の被害者として、市民の同情をさらに集めるためだ」

 

「では、実行は……」

 

「ああ。リリアだ」

 

 影から音もなくリリアが現れた。

 彼女はこの数日、フォルグランの命令で工房に待機し、魔力を万全の状態に保っていた。

 

「はい、主。いつでも」

 

「リリア。お前の最後の任務だ」

 

 フォルグランは邸宅の設計図をリリアの前に広げた。

 

「ヴァルドスは今夜、隠し部屋から証拠を運び出そうとしている。その現場を、我々が用意した舞台に変える」

 

「……私に、何をさせますか?」

 

「侵入しそして……燃やせ」

 

 フォルグランの瞳が暗い炎を宿していた。

 

「だが、ただ燃やすのではない。ヴァルドスが証拠隠滅のために自ら邸宅に火を放ったと、誰もが信じ込むように演出する」

 

 彼は設計図の一点を指差した。

 

「ヴァルドスが使う隠し部屋はこの私室の奥だ。だが、その真下には邸宅の油倉庫と古い水道管が通っている。この構造が我々の切り札だ」

 

 フォルグランはリリアに詳細な指示を与え始めた。

 

「お前はヴァルドスたちが証拠の運び出しを始める直前に潜入する。そして、隠し部屋の床を、お前の糸で破壊しろ」

 

「床、ですか?」

 

「そうだ。床を破壊し、証拠の武器と財宝の一部を、真下の油倉庫に落下させる。そして同時に、古い水道管を半壊させろ。水が漏れ出すことで、火災の発見が遅れ、同時に消火活動が難航したという事実を作る」

 

「……なんと」

 

 リリアはフォルグランの知略の深さに戦慄した。

 

「そして、リリア。お前が最後にすることだ」

 

 フォルグランは、リリアの目を真っ直ぐに見据えた。

 

「油倉庫に落下した証拠の上に、お前の火を放て。火は油に引火し、邸宅を内側から焼き尽くすだろう。ヴァルドスたちは火災と証拠の落下に混乱し、逃げ出すことしかできん」

 

「承知いたしました」

 

 リリアの瞳にも、冷たい光が宿った。

 

「最高の舞台を、主のために」

 

「アンナ」

 

 フォルグランはアンナに向き直った。

 

「火の手が上がると同時にお前の情報網を使って、市井に噂を流せ。『騎士団長が、証拠隠滅のために、自ら邸宅に火を放った!』と」

 

「かしこまりました。市民の怒りは最高潮に達するでしょう」

 

「そうだ。そして、その怒りを最高の証人にする。アンナ、火の手が上がったら、補佐官団を心配した市民たちが偶然、市庁舎から騎士団長の邸宅の方角へ集まるように誘導しろ」

 

「……御意のままに」

 

 フォルグランはすべての駒を配置した。

 経済はゴードン、統治は補佐官団、情報はアンナ、そして武力はリリア。

 彼の知略は武力という傲慢な巨象を、完璧な罠へと誘い込んだ。

 

 ◇◇◇

 

 深夜。騎士団長の邸宅。

 

 ヴァルドスは二人の私兵と共に、隠し部屋で武器と財宝の箱詰め作業を焦燥感の中で行っていた。

 

「急げ! 夜が明ける前に、すべて運び出すぞ!」

 

「はっ!」

 

 邸宅の屋根裏、その梁の上。

 リリアは黒いローブに身を包み、魔力ステルスで完全に気配を消し、階下の様子を伺っていた。

 

(……今だ)

 

 ヴァルドスたちが最も重い財宝の箱を運び出そうと、隠し部屋の中央に集まった瞬間。

 リリアは魔力を極限まで収束させた。

 

 槍ではない。

 糸でもない。

 彼女がイメージしたのは、崩壊。

 

 フォルグランから示された、設計図の最も脆弱な一点。

 隠し部屋の床の、まさに中央。

 

(主の、仰せのままに)

 

 彼女が放った不可視の魔力の針は音もなく床石を貫通し、その下にある古い水道管と、油倉庫の天井を支える梁を、同時に破壊した。

 

 ゴッ……ゴゴゴゴゴ……!

 

「な、なんだ!?」

 

 ヴァルドスが足元の異変に気づいた。

 次の瞬間、隠し部屋の床が、轟音と共に崩落した。

 

「うわあああっ!?」

 

 ヴァルドスと私兵たちはバランスを崩して床に倒れ込む。

 そして、彼らの目の前で、横流しのために蓄えていた武器の箱と、財宝の詰まった木箱が、次々と階下の暗闇へと吸い込まれていった。

 

 ドッシャァァン!!

 

「ば、馬鹿な! 床が……!」

 

「ヴァルドス様! 水が! 下から水が噴き出してきました!」

 

 半壊した水道管から漏れ出した水が、崩落した穴から噴き出し始めた。

 

「クソッ! クソッ! なぜだ!」

 

 ヴァルドスはこれが人為的なものか、あるいは単なる事故か、判断がつかないままパニックに陥った。

 そしてリリアは、その崩落した穴の底、油まみれになった武器の木箱に向かって、最後の仕上げを行った。

 

 彼女が指先から放ったのは小さな、しかし完璧に制御された火の玉だった。

 その火はゆっくりと油に引火する。

 

 ボオオオオオオオオオッ!!

 

 凄まじい爆発音と共に、邸宅の地下から、猛烈な炎が逆流するように噴き上がった。

 崩落した穴が巨大な火の柱と化した。

 

「ひいいいっ! 火事だ!」

 

「ヴァルドス様! お逃げください!」

 

「俺の財宝が! 俺の武器が!」

 

 ヴァルドスは炎に包まれる証拠を前に、一瞬、取り戻そうと手を伸ばしたが、凄まじい熱波に押し返された。

 

「……逃げるぞ! 撤退だ!」

 

 彼はもはや何もかもを諦め、私兵たちと共に、炎上する私室から転がり出た。

 リリアはその光景を屋根裏から冷ややかに見下ろし、炎が広がる前に、音もなく邸宅を離脱した。

 

 ◇◇◇

 

 火の手は瞬く間に邸宅全体を包んだ。

 すると、アンナの情報網が即座に動き始める。

 

「聞いたか! 騎士団長の屋敷が燃えてるぞ!」

「なんだって!?」

「火を放ったらしい! 騎士団長が、自分で!」

「なんだと!? まさか……証拠隠滅か!」

「市庁舎のトマス様たちが危ない!」

「そうだ、騎士団長は補佐官団を狙ってるんだ!」

「みんな、市庁舎に行くぞ! トマス様たちを守るんだ!」

 

 市民たちはアンナが仕込んだ情報操作官たちの誘導を受け、松明を手に、まず市庁舎へと集まった。

 市庁舎ではトマスたちが緊急監査の体で、不安そうな顔で待機していた。

 

「トマス様! ご無事でしたか!」

「騎士団長が火を……!」

 

「皆さん、落ち着いてください!」

 

 トマスはアンナの指示通り、市民の前に立った。

 

「我々は大丈夫です。ですが……あの火は……」

 

 市民たちの怒りと興奮が最高潮に達した、その時。

 炎上する邸宅から、ヴァルドスが私兵と共に、顔を煤で真っ黒にして逃げ出してきた。

 

「ヴァルドスだ!」

 

「やっぱりあいつだ!」

 

 ヴァルドスは市庁舎の前に集まった市民たちの姿を見て、愕然とした。

 

(な、なぜだ! なぜ市民がこんな時間に!)

 

「ヴァルドス様! 貴方様はご自分の罪を隠すために、邸宅に火を放ったのですか!」

 

 市民の一人が、怒りの声を上げた。

 

「ち、違う! 事故だ! これは事故だ!」

 

 ヴァルドスは狼狽して叫んだ。

 その時、炎上する邸宅の消火活動に当たっていた騎士の一人が、何かを抱えて駆け込んできた。

 

「ご報告します! ヴァルドス様!」

 

 その騎士は市民の面前で、それをヴァルドスに差し出した。

 それは半分焼け焦げ、油と水に濡れていたが、明らかに本家の紋章とは違う、横流し先の商会の紋章が刻印された武器の木箱の一部だった。

 

「…………」

 

 ヴァルドスの思考が完全に停止した。

 

「こ、これは……」

 

 市民たちが、息を呑んでその「証拠」を見つめる。

 

「やっぱり……噂は本当だったんだ!」

 

「俺たちの税金で買った武器を……!」

 

「それで私腹を肥やし、証拠を隠すために火を放った!」

 

「人殺し!」

 

「この街から出ていけ!」

 

 市民の怒りはもはや誰にも止められなかった。

 石が飛び交い、ヴァルドスは私兵たちに守られながら、這う這うの体でその場を逃げ出すしかなかった。

 

 ◇◇◇

 

 翌朝。

 騎士団長の汚職と、証拠隠滅のためと断定された放火は、リンドブルム中に知れ渡った。

 辺境伯アルトスは、もはや息子を庇う術を失っていた。

 

 彼は震える手で、ヴァルドスの逮捕と騎士団長からの解任を命じる書類にサインした。

 アルトス家の武力の象徴は市民の目の前で、最もみっともない形で、炎と共に崩れ落ちた。

 

 そして、その炎の跡から立ち上がったのは、武力による暴力から市民を守ろうとした、行政補佐官団への、絶大な期待だった。

 

「経済、支配完了」

「武力の象徴、崩壊完了」

「統治機構、侵食完了」

 

 書庫で、フォルグランはすべての報告を受け、冷たく、しかし満足げに笑った。

 彼の手に残されたのは辺境伯アルトスという、もはや武力も後継者も失った、空虚な玉座の主だけだった。

 

「アンナ。次のステップだ」

 

 フォルグランは窓の外、まだ煙がくすぶる騎士団長の邸宅跡を見つめた。

 

「辺境伯の威光が地に落ちた今こそ、残された最後の希望を提供し、玉座を私のものとする。辺境伯との協議の準備をしろ」

 

「畏まりました。辺境伯様の失脚工作を準備いたします」

 

 悪の総統の知略はついにリンドブルムの王の座を、その目前に捉えていた。

 

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