披露宴会場の重厚な扉の前で、
開宴十五分前。秒針の刻みは正確であり、彼の歩みに狂いはない。修平は無意識のうちに、指先を小さく動かしていた。
ネクタイ、よし。祝儀袋、よし。席次表、よし。
己の指先が空を切りかけたところで、修平はそれが「指差し確認」の予備動作であることに気づき、静かに右手を下ろした。
「……よし」
誰に聞かせるでもない呟きだったが、背後で小さく息を呑む気配があった。
「出た。隊長の『よし』だ」
「現場じゃないんですから、高村隊長」
若手隊員の一人が肩を震わせる隣で、もう一人の新人隊員・
「いや、さすが隊長です。俺も祝儀袋の予備、持ってくるべきでした……!」
「お前は隊長に感化されすぎだ」
修平は眉ひとつ動かさず、ネクタイのノットをわずかに直した。
「時間厳守は現場でも式場でも変わらん。確認は基本だ」
「いや、かっこいいですけどね。祝儀袋まで点検するゲスト、初めて見ましたよ」
「確認を怠れば、致命的な過失を招く」
「結婚式でそんなキメ顔あります?」
「あるだろう」
即答する修平の真面目さが、かえって若手たちの笑いを誘う。
彼らは修平を笑っているが、その視線には隠しきれない親愛と、ある種の
東京消防庁ハイパーレスキュー隊長、
彼が歩を進めるたび、談笑していた他の隊員たちの背筋が、無意識のうちに一節ずつ伸びていく。だが、今日の彼は、ひとりの上司として部下の門出を祝うという、私的な任務に就いていた。
「隊長!」
新郎の
「おめでとう、庄司」
修平が短く告げると、庄司は顔をくしゃくしゃにして笑った。
「ありがとうございます! いやあ、隊長に来ていただけると、なんだか現場より緊張しますよ」
「お前の式だ。お前が主役だろう」
「でも隊長、そこに立っているだけで指揮本部が立ち上がったような圧があるんで……」
周囲からどっと笑いが起きた。修平はわずかに目を細める。それが彼なりの微笑であることを理解している者は、この場にはまだ少ない。
「今日は倒れるなよ」
「倒れませんよ!」
「ならいい」
短い言葉だったが、それだけで庄司の肩の力が抜けるのがわかった。修平は
庄司が別の来客に呼ばれて離れていくと、入れ替わりに親族席の方から、修平へいくつかの視線が向けられた。
新婦側の友人と思われる女性たちが、ナプキンを手にしたまま小声で何かを話している。その声音に、浮き立つような華やぎはない。むしろ、式場の中に突然、訓練場の規律が紛れ込んだものを見つけたような、少し遠巻きの感心だった。
「隊長、見られてますよ」
部下がニヤニヤしながら耳打ちする。
「見られるようなことはしていない」
「いや、なんというか……親族紹介に紛れ込んだ警備責任者みたいな存在感なんですよ」
「意味がわからん」
「そこですよ、その隙のなさ。逆に話題になるんです」
部下の軽口を受け流し、修平が親族席の近くに目をやると、一人の年配の女性が、感嘆したような声を上げた。
「まあ、康志くんの職場の隊長さん? 素敵ねえ。なんというのかしら、古武士のような趣があって」
修平は
「でも、こういう立派な方は、きっとお仕事一筋で、ご家庭よりも使命を優先してこられたのでしょうね。使命に殉じるお姿、尊いことだわ」
悪意は、微塵もなかった。
純粋な称賛と、勝手な納得。それらが美しく包装されたまま、修平の胸に突き刺さる。
「わかるわ。お一人で完結されていて、誰かを必要としていない感じ」
「そういう、孤高のヒーローってイメージですよね」
周囲の女性たちも、にこやかに同意した。
修平は、現場で二次崩落の兆候を察知した時と同じ正確さで、今この場に最も相応しい表情を選択した。
「どうでしょう。向いていないだけかもしれません」
場を白けさせない程度の声量。冗談とも本音とも取れる、
「隊長でも、そんなことあるんですか」
「人並みだ」
「いやあ、絶対人並みじゃないですよ!」
また笑いが起き、空気は和やかに保たれた。誰も嫌な思いをせず、誰も修平の格を疑わない。だが、シャンパングラスの脚を支える修平の指先にだけ、わずかに力がこもった。
——俺は、そう見えているのか。
独身を貫く人。ひとりで完成している人。違う、と訂正する言葉を彼は持たなかった。ただ、祝福の拍手の中に身を置きながら、修平は自分だけが取り残されたような、奇妙な
披露宴は滞りなく進み、再入場の時間が訪れた。司会者の華やかな声が会場に響き渡る。
「続きまして、新郎康志さんによる『ブロッコリートス』を行います! 新婦からのブーケトスに続きまして、今度は新郎から男性ゲストの皆様へ、幸せのバトンタッチをしていただきましょう!」
会場の照明が落ち、陽気な音楽が流れ出す。独身男性たちが前方に集まり、賑やかな輪ができた。
「隊長! ぜひ参加してください!」
「……俺が、か?」
「もちろんです! 幸せを射止めてください!」
部下たちに背中を押され、修平は困惑しながらも席を立った。期待に満ちた眼差しを向けられれば、断ることは任務放棄に等しい。
司会者が解説を続ける。
「ブロッコリーには小さな房がたくさん詰まっていることから『子宝に恵まれる』、そしてその栄養価の高さから『受け取った方が健康に過ごせるように』という願いが込められているんです!」
若手たちが前方で押し合う中、修平はやや後方の、人の少ない位置に陣取った。周囲の若者たちとは明らかに異なる、獲物を待つ猟犬のような静かな佇まい。それが逆に異彩を放っている。
「それでは参りましょう! 皆様、心の準備はよろしいでしょうか。三、二、一……トス!」
庄司の手から、緑色の物体が放たれた。
その瞬間、修平の脳内は、高度な演算を開始していた。放物線の軌道、空気抵抗、天井の照明による視覚への影響。長年の訓練で培われた動体視力と空間把握能力が、勝手に「
体が、思考より先に動いた。
修平は周囲の若手たちが手を伸ばすよりも早く、最短距離を、しかし極めて優雅に踏み込んだ。鮮やかなジャンプ。指先がブロッコリーを捉える。空中で体勢を崩すことなく、彼は完璧なフォームで着地した。
一瞬の沈黙。
それから、会場は地鳴りのような拍手と「おおー!」というどよめきに包まれた。
「おめでとうございます! 見事キャッチされたのは……隊長の高村さんです! 幸せを射止めた高村さんには、新鮮なブロッコリー、そして相性抜群の『特製マヨネーズ』が贈られます!」
割れんばかりの拍手の中、修平は両手で巨大なブロッコリーとマヨネーズを抱え、呆然と立ち尽くしていた。
「隊長! 今のなんですか、アクション映画のワンシーンみたいでしたよ!」
「さすが隊長、幸せの確保も迅速だ!」
部下たちの無邪気な賞賛が、今の修平にはひどく遠く聞こえた。
——俺は一体、何をやっているんだ。
手の中のブロッコリーは、まるで救助現場から運び出した負傷者のように重く、そしてシュールだった。
修平は小さく咳払いをし、崩れかけた礼服の襟を正した。いささか目立ちすぎたが、上司として会場を盛り上げる責務は果たした。状況は、制御下にある。
だが精神的な被弾は、それで終わりではなかった。
席に戻ろうとする修平の裾を、小さな手が引いた。視線を落とすと、そこには新婦の親戚と思われる、五歳ほどの幼い少女が立っている。その子は潤んだ瞳で、修平をじっと見つめていた。
「おじちゃん……」
「……どうした、お嬢ちゃん」
修平の顔立ちは決して柔らかいものではない。だが、膝をつき、少女と同じ高さまで目線を下げる動作には不思議な安心感があった。その所作の丁寧さに、周囲の大人たちが「あら、優しいのね」と小さく声を漏らす。
「おじちゃん、けっこんしてないの……?」
「……ああ、まだだ」
「かわいそう……。じゃあ、あたしがおおきくなったら、おじちゃんとけっこんしてあげる!」
少女はそれだけ言うと、小さなポシェットからイチゴ味の飴玉をひとつ取り出し、修平の大きな
「こ、こら!
慌てて駆け寄る親族の声を合図に、会場は今日一番の爆笑に包まれた。
「隊長! まさかの予約案件じゃないですか!」
「長期案件すぎますよ!」
「人生設計、急に二十年単位ですね!」
修平は、決して嫌な顔はしなかった。ただ、少女の頭を大きな手で優しく撫で、穏やかな声で答える。
「ありがとうな。おじちゃん、楽しみにしてるよ」
ただ、彼が脇に抱え込んだブロッコリーの太い茎だけが、修平の無意識の握力によってミシリと悲鳴を上げていた。
披露宴の終盤、修平は手元のブロッコリーを見つめながら、静かに息を吐いた。
部下の晴れ舞台を祝いに来たはずだった。任務は遂行した。庄司は幸せそうであり、会場の空気も最高潮だ。だが、修平の心には、目に見えない小さな傷がいくつも残っていた。
善意の言葉。称賛の眼差し。そして、幼い少女の同情。
それらが、彼が長年築き上げてきた「孤高の隊長」という鎧の隙間をすり抜け、内側の柔らかい部分をじりじりと焼いていた。
帰路につく準備をしながら、修平はもう一度ネクタイを直した。
ロビーの隅では、若い男女が式の後に寄る店の話をしていた。
「駅前のパンケーキ、まだ間に合うかな」
そんな何気ない会話が、祝福の拍手よりも妙に耳に残る。
鏡に映る自分は、整った顔立ちとは言い難い。だが、背筋だけは相変わらず真っ直ぐで、礼服の中に収まった体には、長年の現場で積み上げた重さがあった。少なくとも、頼りがいのある男には見える。
脇に抱えたブロッコリーの葉が、カサリと音を立てた。
完璧に振る舞い、完璧に祝福した。その反動のような疲労が、ずしりと両肩にのしかかる。修平は、誰にも見られないよう、ほんのわずかだけ、深く、重い溜息を吐き出した。
【高村修平の独白】
任務は、完了した。
庄司は幸福の絶頂にあり、俺は完璧な上司を演じきった。それでいい。
だが、あのお洒落なカフェの、ふわふわしたパンケーキ。あれを一度、誰かと連れ立って食べてみたいという願い。そんな午後は、俺の人生のどこにも配備されていないらしい。
脇に抱えたブロッコリーが、不気味なほど重い。
なぜ、あんな鮮やかに動いてしまったのか。染み付いた職業反射が、あろうことか結婚式の余興で、緑色の野菜を「救助」してしまった。拍手喝采を浴びながら、俺は己の身体能力の高さがこれほど恨めしかったことはない。
「おじちゃん、かわいそう」
幼い少女から投げかけられた、一点の曇りもない慈悲。
二十年後の約束を提示しなければ、その瞳の直視に耐えられないほど、俺の心は無残に削られていた。
……帰るぞ。
この重い野菜と、マヨネーズを抱えて。