高村修平が吉川奈緒の自宅を訪れたのは、土曜日の夕方だった。
駿はリビングのソファに沈み、バラエティ番組を流していた。テレビの音量はいつもより二目盛り高い。玄関の方から聞こえてくる声を、聞きたくないのか、聞き逃したくないのか、自分でも分からなかった。
「どうぞ、上がってください。散らかっていて恥ずかしいんですが」
「いえ。お招きいただき、ありがとうございます」
修平の声は、先日レストランで聞いた時と同じだった。低く、ひどく硬い。
駿はテレビの画面から視線を外さないまま、クッションを抱え直した。この家は、父が死んでから五年間、母と二人だけで守ってきた場所だ。あの体躯の男が、今、靴を脱いでいる。廊下の板が軋む音が、胸の奥に不規則な脈を打たせた。
修平がリビングに入ってきた。
「こんばんは、駿君」
「……こんばんは」
駿は軽く頭を下げた。立ち上がろうとしたが、右足首の奥で鈍い痛みが走り、動作がわずかに遅れる。ソファの肘掛けに手をついて、何とかごまかした。
リビングの隅に、小さな写真立てと花が置かれている。
修平はそれに気づくと、奈緒に短く目で確認した。
「……ご挨拶しても、よろしいでしょうか」
奈緒が一瞬だけ驚き、それから静かに頷く。
修平は写真の前に膝をつき、何も言わず、深く頭を下げて手を合わせた。
駿はテレビの画面を見ているふりをしたまま、その背中を見ていた。大きな背中だった。父の背中とは、何もかもが違う。それだけが分かった。
修平は奈緒に促され、ソファの対面にあるダイニングチェアに腰を下ろした。まるで新兵が着席の許可を待つような間があって、ようやく背筋を伸ばしたまま座る。
台所では、奈緒が夕食の準備を始めていた。まな板を叩く音。鍋の蓋が触れ合う小さな金属音。それらがやけに響く。
「何か、手伝えることはありませんか」
修平が、真剣な顔で台所へ声をかけた。
「大丈夫ですよ。今日はゆっくりしていってくださいね」
奈緒が振り返りながら笑う。
「しかし、火の元や、包丁の扱いなど、安全管理の観点から……」
「もう、修平さんたら。ここは現場じゃないですよ」
奈緒が楽しそうに笑った。声が台所の壁に跳ね返って、リビングまで届く。
駿は、その笑い声を横目で見ていた。母のその笑い方は、駿が最近あまり見ていなかったものだった。少なくとも、駿の前では。
クッションの端を、指が無意識に握る。
「あっ! しまった」
台所で、奈緒が小さく声を上げた。
「ごめんなさい、カレールウだけ買い忘れてた。下のコンビニ、まだ開いてるから五分だけ行ってくるね」
「俺が行きましょうか」
修平が即座に立ち上がる。
「いいのいいの。ちょっと場所が分かりにくいから、私が行ってくる。大丈夫だから座ってて」
奈緒はエプロンを外しながら慌てて玄関へ向かい、「すぐ戻るから!」と言い残して出ていった。
バタン、とドアが閉まる。
リビングの空気が、一段下がった。
テレビからは、お笑い芸人の甲高い笑い声が流れている。画面の中の誰かが手を叩いて笑っていた。修平も駿も、その画面を見てはいなかった。
駿は、抱えていたクッションを膝から下ろした。愛想のいい作り笑いが、自分の顔から剝がれていくのが分かる。
「……母さんの前だから、普通にしてるだけです」
駿の声は低く、自分でも驚くほど硬かった。
「高村さんが悪い人じゃないのは、分かります」
修平は、何も言わない。椅子に座ったまま、駿を見ている。
「でも、俺たちの家に入ってこられると、正直、困ります」
「父さんが死んでから、母さんを見てきたのは俺です」
夜中に一人で泣いていた背中も、無理に笑っていた顔も。
「だから……簡単に『大丈夫です』みたいな顔をしないでください」
修平は、言い返さなかった。怒るでもなく、困惑するでもなく、ただ静かに駿の言葉を受けている。その沈黙が、駿には余計に苦しかった。怒鳴り返されたほうが楽だった。悪い人ではないと分かっているからこそ、拒絶している自分がひどく後ろめたい。
「……じゃあ、俺は部屋に戻るんで」
駿は、逃げるように立ち上がった。
右足に体重がかかった瞬間、足首の奥が鋭く痛んだ。声は出さなかった。だが姿勢がわずかに崩れ、ソファの背に手をついた。
修平の目が変わった。
先ほどまでの、交際相手の家に招かれた男の顔ではない。現場で負傷者を見つけた人間の、迷いのない目。
「駿君。何か冷やせるものはあるかな」
修平が立ち上がり、駿に歩み寄る。声の温度が二度ほど下がっている。
「え……冷凍庫に、保冷剤あると思うけど」
「ちょっとお借りするよ」
修平は台所へ向かった。
駿はその隙に立ち去ろうとしたが、右足に力を入れた瞬間、顔をしかめた。結局、舌打ちするように息を吐いて、ソファに腰を落とすしかなかった。
修平は冷凍庫から保冷剤を取り出すと、自分のハンカチで素早くそれを包んだ。
「足を確認してもいいかな」
修平が、駿の前に片膝をつく。
「……別に」
「嫌ならすぐにやめる」
「いいよ。何。早くして」
駿は不機嫌そうに顔を背けたが、抵抗はしなかった。
修平が、駿の右足首にそっと触れた。分厚い手だった。指の節がごつごつと張っている。だが触れ方は驚くほど慎重で、保冷剤が痛む箇所に的確に当てられる。
「病院で診てもらったか」
低く、静かな声。
「何のこと」
「今は二人だけだ。我慢しなくていい」
「は? 痛くねーし」
「本当に痛くないか」
「……」
駿は、しまった、という顔をした。
「診断はできない。だが、今の歩き方は普通じゃない」
「……」
「冷やして、固定して、できれば整形外科で診てもらった方がいい」
「大会前なんだよ!」
駿は思わず声を荒らげた。
「だからだ。今隠せば、大会に出るどころではなくなる」
修平の声には、説教の響きがなかった。ただ事実を告げているだけだった。それなのに、駿は言い返せなかった。
修平が鞄からテーピングのロールを取り出した。
「少し、固定する」
修平の手が、駿の足首にテーピングを巻いていく。迷いがない。手慣れた動きだった。テープの引き加減、折り返しの角度、足首の傾きに合わせた微調整。駿は、その大きな手を見つめていた。
巻き終わりの部分を固定しようとした時、修平の手が一瞬だけ止まった。指先が、微かに震えている。
駿は
修平はすぐに手を離した。
「……すまない。少し力が入りすぎた」
テーピングのロールを鞄にしまう。
力が入りすぎた手ではなかった。さっきまでの手つきは、怖いほど丁寧だった。だが、その震えの意味を問うことは、駿にはできなかった。
足首を動かしてみる。可動が、驚くほど楽になっていた。
二人の間に、短い沈黙が降りる。テレビの中では、まだ誰かが笑っている。
ありがとう、と言わなければならない。駿はそう思ったが、喉の奥が張り付いたように声が出なかった。
玄関のドアの鍵が開く音がした。
「……少なくとも、今日明日は無理をするな。痛みが引かなければ、必ず診てもらってほしい」
修平が小声で告げた。
「ただいまー。あら? 二人で何を話してたの?」
奈緒がビニール袋を提げてリビングに入ってくる。頬が少し赤い。走ったのだろう。
「別に」
駿が顔を背ける。
「野球のことを少し」
修平が静かに答えた。
「そう。仲良くなれそう?」
「まあ、普通」
駿は、少しだけ口角を上げてみせた。
奈緒が安心したようにふわりと笑う。その笑顔を見て、駿はそれ以上、何も言えなくなった。
テレビの方を見た。画面の中では誰かが大きく笑っている。耳には、母の笑い声だけが残っていた。
その後の夕食は、表面的には穏やかだった。
奈緒の作ったカレーが食卓に並び、修平と奈緒が歓談している。カレーの湯気が天井の照明の下でゆるく揺れていた。駿は自分からは話さず、質問されれば短く答えるだけだった。スプーンが、ときどき皿の端で止まる。
「ごちそうさまでした。とても美味しかったです」
修平が空になった皿を見て、深く頭を下げた。
「やっぱり修平さん、よく食べるわねぇ。ふふ、たくさん作っておいてよかった」
奈緒が嬉しそうに笑う。
修平は食後のコーヒーをいただいた後、丁寧に礼を述べて帰宅した。
奈緒は玄関で修平を見送り、ドアを閉めた後、しばらくその場に立っていた。
「……いい人でしょう」
声が少し弾んでいる。
「うん」
リビングから、駿が短く答えた。それ以上言うと、腹の底で渦巻いている得体の知れないものまで吐き出してしまいそうだった。
翌日の放課後。
駿は同じ野球部の
「気になってたんだけど、その足どした?」
佐藤が、駿の足首を指差した。
「なんでもない」
「テーピング、めっちゃきれいだな」
「……」
「誰に巻いてもらったんだよ」
佐藤の無邪気な問いに、駿は少しだけ視線を落とした。
「……母さんが、再婚するかもしれない。そいつに」
「へぇー、そうなんだ。それは、よかったじゃん」
「いい……のかな」
「相手の人、もう会ったんだよな? どんな人?」
「うーん……悪い人じゃないと思う。でも、ゴリラみたいな?」
「ええっ?」
「体がでかくて、最初びびった」
「太っていてでかいってこと?」
「いや、すんげぇムキムキ。ハイパーレスキューって言ってた」
「ハイパーレスキューって、テレビで見るやつじゃん。オレンジの服の」
「たぶん」
「すげーな。普通にヒーローじゃん」
「……そうか?」
駿は曖昧に返した。ヒーロー。その言葉が、喉に小骨のように引っかかる。
「いや、でも危なくね? 火事とか事故とかに行くんだろ」
佐藤が、歩きながらふと言った。
「……」
「三組の
「入院?」
「詳しくは知らねーけど。命懸けなんだなって」
駿は黙った。足元のテーピングが目に入る。きれいに巻かれた白いテープ。同時に、あの手の震えが蘇った。巻き終わりの部分で、一瞬だけ止まった指先。
佐藤は悪気なく話しているだけだ。駿の胸の中で何が起きているかなど、知りようもない。
「俺、こっち寄ってから帰るわ。じゃーな」
佐藤がコンビニの前で手を振る。
「おー。……少し調べてみる。じゃーな」
帰宅した駿は、自室のベッドに倒れ込み、スマートフォンを開いた。
検索窓に「ハイパーレスキュー」と打ち込む。
画面には、「精鋭部隊」「大規模災害」「特殊災害」「水害」「火災」「車両事故」といった言葉が次々と並んだ。訓練の写真。倒壊した建物。オレンジ色の防護服。
画面をスクロールする指が、少しずつ遅くなる。
検索窓に戻り、スペースを空けて「危険」と足した。
さらに、「怪我」と足す。
テーピングを巻かれた足首が、布団の中で妙に重い。
最後に「殉職」と打とうとして、駿は一度、指を止めた。
それでも、打った。
画面に並んだ文字の羅列を数秒だけ見て、スマートフォンを伏せた。
布団に頭から潜り込む。息苦しい。だが布団から顔を出しても、その苦しさは変わらない気がした。
あの人がもし、帰ってこなくなったら。
そこから先を考えようとして、駿は目をきつく閉じた。
その夜、駿はなかなか寝付けなかった。
暗い部屋の中、カーテンの向こうを車の音が一台だけ通り過ぎた。天井の染みを見つめていたが、やがてそれも暗闇に溶けた。足首のテーピングが、布団の中でかすかに肌を引っ張る。丁寧すぎる固定。あの手の大きさ。あの震え。
駿は寝返りを打ち、壁の方を向いた。
【吉川駿の独白】
父さんは、キャッチボールが下手だった。
塾の先生だったから、勉強を教えるのはうまかった。
でも運動はからっきしで、投げたボールはよく俺の手前で落ちた。
俺が笑うと、父さんも困ったように笑って、「駿、今のはカーブだ」と言い張った。
どう見ても、ただの暴投だった。
それでも、俺はその時間が嫌いじゃなかった。父さんの球は遅くて、頼りなくて、全然怖くなかった。
高村さんの手は、父さんとまるで違った。
大きくて、硬くて、何でも受け止めてしまいそうな手だった。
父さんは、俺が少し怪我をしただけで真っ青になっていた。
消毒液を持つ手が頼りなくて、絆創膏もよく曲がっていた。
それで母さんに笑われて、父さんも笑っていた。
高村さんは、全然違う。
背格好も、声も、匂いも、何もかも違う。
父さんみたいに頼りなくない。
父さんみたいに球を暴投したりもしなさそうだ。
それなのに、なんで俺の痛みを、母さんより先に見つけるんだよ。
ずるいだろ、あんなの。
母さんは、高村さんの隣で笑っている。
俺が五年間、守ろうとしてきた笑顔より、ずっと自然に。
俺は、母さんが泣かないようにしてきた。
母さんが無理して笑っている時も、気づかないふりをした。
気づいたら、俺まで泣きそうになるから。
だから余計に嫌なんだ。
いい人なのが分かる。
母さんを大事にしようとしているのも分かる。
俺のことを邪魔だと思っていないのも、たぶん分かる。
分かるから、腹が立つ。
あの人が強ければ強いほど、もし帰ってこなくなった時のことを考えてしまう。
父さんは、病院のベッドから帰ってこなかった。
高村さんは、火事とか事故とか、そういう場所から帰ってこないかもしれない。
その時、母さんはどうなるんだよ。
俺は今度こそ、母さんをどうやって助ければいいんだよ。
それに。
俺があの人を認めたら、父さんはどうなるんだよ。
父さんは、キャッチボールが下手だった。足元にばかり投げて、カーブだなんて言って、俺を笑わせた。
母さんに怒られても、いつも困ったみたいに笑っていた。
そういう父さんを、誰が覚えていてやるんだよ。
俺があの人を父親みたいに思ったら、父さんの場所がなくなる気がする。
そんなことないって、頭では分かってる。
でも、分かってるのと、平気なのは違う。
父さん。
俺、どうしたらいいか分かんないよ。