帰宅したのは、二十二時を少し回った頃だった。
玄関の灯りを点けると、主を待っていた無機質な空間が均一な明るさの中に浮かび上がる。高村修平はドアを閉め、鍵をかけ、指先を金属の感触に這わせた。
「……施錠、よし」
低く呟いた直後、指先を弾くようにして下ろす。何が「よし」なのか。日常の安寧を確認するその所作が、今夜に限ってはひどく空虚に思えた。
革靴を揃え、礼服のジャケットを脱ぎ、皺ひとつ寄らぬようハンガーに掛ける。ネクタイを解き、式のために整えていた髪を無造作にかき上げた。
部屋は、しんとしていた。
この一LDKには余計な装飾がない。地震に備えて背の高い家具は置かず、防災用の物品が合理的に配置されている。清潔で、実用的で、そしてひどく殺風景な空間。冷蔵庫の低い駆動音だけが、時計の針よりも克明に耳につく。
テーブルの中央には、先ほどどかっと置いた、巨大なブロッコリーが鎮座していた。傍らには、縁起物の水引が掛けられた引き出物の袋がある。上品な包装の菓子、洗練されたカタログギフト。それら幸福の断片と並んで、青々と太いブロッコリーが異様な存在感を放っている。
修平は、それを見下ろしたまま動けなかった。
ひどく喉が渇いている。
とりあえず何かを胃に収めようと冷蔵庫を開けたが、中にはペットボトルの水、プロテイン飲料、使いかけの豆腐、そして賞味期限の怪しい納豆があるばかりだった。無言で扉を閉める。
「……よし、ではないな」
リビングのソファに腰を下ろすと、スプリングが微かに沈む。その沈み方は、どこまでも一人分の重みだった。
不意に、テーブルの上のスマートフォンが震えた。画面を覗くと、隊のグループチャットが通知で溢れている。式で撮られた写真が、早くも共有されていた。新郎新婦を囲んで、隊員たちが満面の笑みを浮かべている。その端に、自分がいた。背筋を真っ直ぐに伸ばし、グラスを掲げ、いかにも頼れる隊長としての顔をして、そこに収まっている。
部下たちのメッセージが、無邪気な追撃となって流れていく。
『隊長、今日めっちゃキマってましたね』
『親族の女性陣が、あの方は絶対ただ者じゃないって噂してましたよ』
『隊長のあの写真、相談所のプロフィールに使えませんか?』
『むしろ今すぐ使いましょうよ! 秒で成婚ですよ!』
修平は無言で画面を見つめた。
秒で成婚。
何気なくカメラを起動し、インカメラに切り替わった自分の顔を凝視する。端正、とは違う。ただ、見苦しいというほどでもない。顔つきには規律があり、年齢のわりに体も崩れていない。少なくとも、初対面で不快感を与える要素はないはずだった。
だが、その隙のなさこそが、周囲に自分を「完結した人間」だと誤認させているのではないか。
修平はスマートフォンをテーブルに伏せ、きつく目を閉じた。
「なんでだ……」
思わず、声が漏れた。
修平はゆっくりと立ち上がった。誰に見せるでもなく、リビングの真ん中で仁王立ちになる。
無意識に拳が握られていた。
「……俺は」
声が出た。思ったより、低く、重い。
「俺は……」
二回目は、少しだけ震えた。
誰もいない部屋。返事はない。あるのは、しんとした空気と、結婚式帰りの不器用な男が一人。
だからこそ、叫べた。
「お、俺だって、幸せになりたいんだぁ!!」
静まり返ったリビングに、自分の声が虚しく反響した。
魂を絞り出すような絶叫だった。かつて現場で上げたどの怒号よりも切実で、どの命令よりも震えていた。
数秒後。
しんとした沈黙の中に、壁の向こうから「どん」と、何かがぶつかるような鈍い音が響いた。
修平の動きが、ぴたりと止まる。
間を置いて、隣室からくぐもった声が漏れてきた。遠慮がちに。
『……あの、大丈夫ですか』
修平は、ゆっくりと目を閉じた。
ハイパーレスキュー隊長、高村修平。
部下から憧れられ、常に冷静沈着であることを求められる男。
本日、二十二時十五分。自宅リビングにて「幸せになりたい」と絶叫。しかも、それを隣人に聞かれる。
修平は即座に背筋を伸ばし、声のトーンだけ整えて返した。
「失礼しました!」
だが直後、糸が切れた操り人形のようにその場へしゃがみ込んだ。額を冷たいフローリングにつける。
「……何をやっているんだ、俺は……」
冷たいフローリングに額を押し当てたまま、ポケットからスマートフォンを引き抜いた。検索窓に『結婚相談所』と打ち込む。たった五文字の入力が、ひどく重い。
それは他者に己の弱さを晒すための、小さな降伏だった。
修平は大きく深呼吸をし、火災現場の扉を蹴破るときと同じ覚悟で、検索ボタンをタップした。
【高村修平の独白】
情けなくて、耳の奥がいつまでも熱い。
壁越しに聞こえた隣人の気遣いが、今夜はどんな猛火よりも熱く俺の自尊心を焼いている。
秒で成婚、か。そんな奇跡が起きるなら、俺は四十六歳になる今まで、深夜のキッチンでブロッコリーと睨み合ってはいない。
だが、このままでは終われない。
……まずは、相談だ。
あの「結婚相談所」とやらの門を叩く。話はそれからだ。
今はとりあえず、この巨大な緑の要救助体を、塩茹でにしよう。