帰灯 〜鉄壁の消防救助隊長の受難と帰る場所〜   作:多紀田朗

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第三章 点呼、以上

 銀座の雑居ビル、七階。白を基調とした相談室には観葉植物が置かれ、間接照明が壁を柔らかく照らしている。必要以上に落ち着いた空間だった。

 

 結婚相談所「リリーブライダル銀座」。

 

 高村修平は、布張りのソファに浅く腰掛けていた。背筋は鋼鉄の棒のように伸び、膝の上に大きな拳を揃えている。査問を待つ高級将校、という表現がもし許されるなら、まさにそれだった。鍛え上げられた体格は、この瀟洒(しょうしゃ)な空間でどう座っても場違いな重圧を放つ。

 

 初回面談後、独身証明書の取得と写真撮影も済ませ、本日はその総仕上げになる。

 

 対面に座る相川(あいかわ)沙織(さおり)は、修平とは対照的に小柄で、しなやかさを感じさせる女性だった。白のブラウスに紺のジャケット。細い指でタブレットを操作する所作に迷いがない。声は穏やかだが、この部屋の指揮権を完全に掌握しているのは彼女のほうだった。

 相川がタブレットを軽く操作し、事前に登録された面談記録へ目を落とす。

 

「その前に、前回の無料相談で伺っている希望条件だけ、少し確認させてください。初回は別のカウンセラーが担当しておりますので、認識にずれがないようにしておきたくて」

「はい」

 

 修平は短くうなずいた。こうした事前確認は、現場に入る前の情報共有と同じだ。むしろ省かれるほうが落ち着かない。

 

「まず、お相手の年齢ですが……四十代前半から同年代くらいまで。あまり若い方にこだわりはない、とあります。こちらは今もそのままでよろしいですか?」

 

 修平は一瞬だけ視線を落とした。問いの内容そのものに迷いはない。ただ、文字として示されると妙に現実味を帯びる。

 

「……はい。あまり離れすぎると、話も生活感も噛み合わない気がします。年齢そのものより、きちんと会話ができることのほうが大事です」

「承知しました」

 

「ご両親の介護や、将来的な同居のご予定についても、プロフィールには書きすぎなくて大丈夫ですが、真剣交際(しんけんこうさい)に進む前には確認が必要になります」

「わかりました。避けて通る話ではないと思います」

 

 相川はさらりと記録に目を走らせ、次の項目へ移った。

 

「では、お子さんについてです。こちらには『授かれたらもちろん嬉しいが、それを絶対条件にはしない』とあります」

 

 修平は間を置いた。四十六歳。年齢を考えれば、都合のよい夢ばかりを並べるほど若くはない。

 

「……はい。その通りです」

「かなりはっきり書かれていますね」

 

「子どもが欲しくないわけではありません。ただ、それだけを前提に相手を探すのは違うと思っています。自分の年齢もありますし……何より、まずは一緒に落ち着いて暮らせる相手であることのほうが大切かと」

 

 相川はそこで初めて、タブレットから顔を上げた。力みのない、実務的な返答だった。見栄も、妙な理想論もない。自分の置かれた位置をきちんと見た上で言葉を選んでいる。

 

「ありがとうございます。では、その前提で文章も整えていきましょう」

 

 修平はもう一度、静かにうなずいた。

 相川は内心で、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。四十代男性の初回ヒアリングでは、年齢も見た目も現実離れした希望が並ぶことが珍しくない。だが高村修平の返答には、不器用さこそあれ、見栄や過信の匂いが薄い。少なくとも、この人は現実を敵視していなかった。

 

 

「では高村さん、事前に作成していただいたプロフィール文を拝見しますね」

「はい。よろしくお願いいたします」

 

 修平は短くうなずいた。昨夜、宿舎の自室で三時間を費やして書き上げた力作である。事実を正確に、要点を簡潔に。人命を預かる者として、虚飾を廃した誠実な文面にしたという自負があった。

 相川は一度、修平の顔をまっすぐに見てから、タブレットに目を落とした。朗読するように声を出す。

 

「高村修平と申します。職業は消防の救助部隊隊長です。人命を守る仕事に誇りを持っております。自分が盾になることはあっても、逃げることはありません」

 

 相川の声が止まった。

 修平は微動だにせず、次の言葉を待つ。止まる理由がわからない。

 

「……続けますね。性格は実直で、気を抜かない方だと思います。確認作業を重視しており、戸締まり、火の元、周囲状況の確認は日常生活でも徹底しています。口癖は『よし』です」

 

「趣味は温泉、晩酌、歌です。温泉は心身の回復に有効だと考えています。酒は麦焼酎を好みます。ボーカル教室にも通っており、昭和歌謡を歌います。滑舌の良さには定評があります」

 

 相川の長い睫毛が、ぴくりと揺れた。一拍の間。

 

「理想の家庭は、安全で安心できる家庭です。何かあっても慌てず、冷静に対応し、助け合っていける関係を望んでいます。よろしくお願いいたします。点呼、以上」

 

 

 相談室に、深い沈黙が落ちた。

 

 換気扇の回る微かな音だけが、耳に痛いほど響いている。修平は姿勢を正したまま、相川の所感と改善点の共有を待った。現場で上官の評価を待つときと同じ、峻厳(しゅんげん)な沈黙である。

 

 やがて相川がタブレットから顔を上げた。その瞳に怒りも嘲笑もない。ただ、これから相当な赤入れが必要だと悟った人間の、静かな覚悟が宿っていた。

 

「高村さん」

「はい」

「率直に申し上げます」

「お願いします」

 

「これは、婚活プロフィールではありません」

 

 修平の眉が寄った。

 

「……と、おっしゃいますと」

「防災パンフレットの巻頭挨拶です」

 

「……」

 

「あるいは、区役所で配布される『家庭の防災ハンドブック』の最初の二ページです。それも、かなり緊張感のあるタイプの」

 

 修平はわずかに視線を落とした。想定外の指摘だった。

 

「しかし、虚飾はありません。事実を簡潔にまとめました。救助部隊の責務として、嘘を吐くことは許されませんので」

「はい、事実だと思います。高村さんが、人命を守るために盾となり、決して逃げない素晴らしい方だということは、痛いほど伝わります」

 

 相川はにこりともせずにうなずいた。

 

「でも、お相手が知りたいのは『災害時に頼れるか』ではなく、『一緒に食事をしたときにどんな人か』なんです。初対面のお相手に、命懸けの覚悟を突きつけてはいけません。重すぎます」

「重い……ですか」

「重いです。結婚相談所は戦場ではありません」

 

 相川はタブレットを置き、細いペンを手に取った。

 

「赤を入れますね」

「はい」

 

 その返事は、もはや条件反射だった。隊員のそれになっている。相川は一行目に丸をつけた。

 

「まずここ。『戸締まり、火の元、周囲状況の確認は日常生活でも徹底しています』」

「はい。安全管理は基本ですので」

「これでは、一緒に暮らしたら常に点検され、監視されているような印象を与えてしまいます」

「点検は、しません。……いえ、無意識には行っているかもしれませんが、相手に強要は……」

「強要まではしていません。でも、点検自体はしていますよね? 今、私の背後の非常口の表示、確認しましたよね?」

 

「……確認しました」

「そうです、それです」

 

 相川の追求は、延焼を食い止めるように素早かった。

 

「高村さんは、初対面の相手にどんなところを知ってもらいたいですか?」

「……信頼できる人間だと」

「はい。ですので、ここは『きちんとした性格です』程度に薄めましょう。避難経路の確認癖は、三回目のデートまでは隠してください。初手で出す情報ではありません」

「隠す……ものなのですか」

戦略的秘匿(せんりゃくてきひとく)です」

 

 修平は神妙にうなずいた。相川の言葉には、抗いがたい説得力がある。

 次に彼女が指したのは、趣味欄だった。

 

「『温泉は心身の回復に有効だと考えています』。これは……論文ですか?」

「違います。実体験に基づく見解です」

「『好きだから行きます』でいいんです。有効かどうかは、厚労省に任せてください」

「……好きだから、行きます」

 

「そうです。あと、この『滑舌の良さには定評があります』」

「はい。歌唱において、歌詞を正確に届けることは基本ですので」

「いりません」

「いりませんか」

「いりません。ボーカル教室に通っていて、昭和歌謡がお好き。そこはすごくいいんです。高村さんの人間味を感じる、非常に貴重なポイントです。でも、そこに『滑舌』と『肺活量』を乗せると、一気に訓練場になります」

 

 修平は完全に言い返せなかった。自分が誇りだと思っていた「正確さ」が、婚活というフィールドではことごとく障害物になっている。

 相川は最後の一文を、ペン先で軽く叩いた。

 

「そしてこれ。『理想の家庭は、安全で安心できる家庭です』」

「はい。これこそが、私の真意です」

 

「言いたいことはわかります。でも、安全・安心だけを強調されると、家庭というより避難所運営です。お相手は、避難しに来るわけではありません。共に生活を楽しみに来るんです」

 

 修平はとうとう眉間に深い皺を刻んだ。地味に、しかし確実に傷ついていた。

 

「……私は、そんなつもりでは」

「わかっています。高村さん」

 

 相川の声が、少しだけやわらいだ。

 

「あなたの魅力は、不規則な勤務でも健康的な生活をしていること。温泉でゆっくり身体を労れる心の余裕。昭和歌謡が好きという意外な面。そういうところに、人は『会ってみたい理由』を見つけるんです。今の文章だと『頼れそう』までは行きますが、『会いたい』にはなりません」

 

 修平はしばらく黙った。それから低く、重厚な声で言った。

 

「私は、減点されないように書いていました」

「ええ。完璧な報告書でした」

「しかし、それだけでは駄目だということですね」

「婚活では、減点がないことと、会いたいと思われることは別物なんです」

 

 修平は深く息を吐いた。

 

「……書き直します」

 

「お願いします。仕事のすごさは一行で十分です。二行でも可ですが、それ以上は消防署の見学会になりますよ」

 

 修平の口元が、わずかに動いた。

 相川はその瞬間を逃さなかった。

 

「そうです、その顔です。高村さん、今みたいに少し笑うんですよね。それを文章に出してください。怖くて立派な隊長ではなく、『真面目で少し不器用だけど、一緒にいて安心できる人』にするんです」

 

「やってみます」

 

 修平はペンを取った。大きく節の立った手が、紙の上ではひどく慎重に動く。

 

 

 十分後。差し出された第二稿には、こうあった。

『休日はスーパー銭湯や温泉で身体の疲れを整えています。また、晩酌では麦焼酎を飲みます。ボーカル教室にも通っており、発声には一定の自信があります』

 

 相川は二秒ほど目を閉じた。

 

「高村さん」

「はい」

「かなり良くなりました。最初よりずっと人間です」

「それは良かった」

 

「ただ、『身体の疲れを整えています』は、まだ治療の延長です。『温泉が好きで、のんびり過ごす時間を大切にしています』にしましょう」

「……なるほど。治療ではなく、大切にする時間、ですか」

「そうです。あと、『発声には一定の自信があります』も、まだ訓練の匂いがします」

「そこも、ですか」

「そこもです」

 

 修平は静かに肩を落とした。巨大な体躯も相まって、叱られた大型犬のような可笑しみがある。

 

「高村さん。先ほど、私が『書き直してください』と言ったとき、どう思われましたか?」

「……直すべき点があるのだと理解しました」

 

「腹は立ちませんでした?」

「立ちません。結果を出すには、やり方を変える必要がある時もあります」

 

 相川は一瞬だけ目を丸くした。それからペンをゆっくりと置く。

 

「ここまで直せるなら大丈夫です。高村さんは、素直なのが一番の長所ですから」

 

 修平は顔を上げた。さっきまで叱咤(しった)されていた男の顔ではない。暗闇の中でわずかな光を見つけた、そういう目をしていた。

 

「婚活は救助活動ではありません。でも、訓練と同じで、やり方を変えれば結果は変わります。ですからまず……」

 

 相川はそう言って、ようやく少しだけ、いたずらっぽく笑った。

 

「『滑舌の良さ』は捨てましょう。それは、会ったときにわかれば十分です」

 

 修平は、ほんのわずかに肩を落とした。

 

「……そこは、個人的に気に入っていたのですが」

「いりません」

 

 

 その後、二人は一時間をかけて言葉の端々を丁寧に削り、磨き上げた。

 修平が「では、これはどうですか」と真面目に提案し、相川が「それは三回目以降です」と即答する。その奇妙なラリーの末に、ひとつの成果物が仕上がった。

 

 

 『完成プロフィール文』

 はじめまして。高村修平と申します。

 仕事では消防の救助部隊で隊長を務めており、日々、仲間とともに人命を守る現場に向き合っています。不規則な勤務ではありますが、その分きちんと休みもあり、仕事と私生活の切り替えは大切にしています。

 

 周囲からは真面目で責任感が強いと言われることが多いですが、オフの日は意外とよく笑います。少し不器用なところもありますが、相手のことを大切にし、誠実に向き合うことには自信があります。

 休日はスーパー銭湯や温泉でゆっくり体を休めたり、晩酌を楽しんだりしています。お酒は麦焼酎が好きで、気取らないお店でのんびり過ごす時間にほっとします。最近はボーカル教室にも通っていて、昭和歌謡を気持ちよく歌うのが密かな楽しみです。

 

 結婚後は、特別に派手な毎日よりも、仕事から帰ったときに「おかえり」と言い合えるような、安心できる家庭を築きたいと思っています。休日には一緒に食事に出かけたり、温泉や街歩きを楽しんだり、何気ない時間を大切にできたら嬉しいです。

 お互いを思いやりながら、穏やかに笑い合える関係を築いていける方と出会えたらと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

 相川は最後に、カウンセラー推薦文へ取りかかった。ペン先は迷いなく走り、修平の横顔をちらりと見てから、さらさらと数行を書き足す。

 

「……こんな感じです」

 

 差し出された画面にはこうあった。

 

『一見すると厳格で隙のない印象を受けるかもしれませんが、実際には穏やかで優しさのある方です』

 

 修平はしばらく黙ってそれを見つめていた。

 

「……これが、私ですか」

 

 鏡で見る自分よりもずっと柔らかい。しかし確かに自分でもある。不思議な感覚だった。

 

「ええ、これが高村さんです。これなら、お相手にもちゃんと伝わります」

 

 相川は満足そうにうなずいた。

 

「さあ、これで準備は整いました。次は、実戦です」

 

 修平は自分の大きな掌を一度見つめ、それから静かに握りしめた。現場に向かうときと同じ覚悟が、腹の底に宿る。

 だが、それでも修平には十分に重い実戦だった。

 

 

 

【相川沙織の独白】

 

 カウンセラーとして、私は試されていた。

 

 十四年のキャリアの中で、自己紹介を「点呼、以上」で締める男性に会ったのは初めてだ。

 けれど、彼がペンを走らせるときの、あの祈るような手の震えを私は見逃さなかった。

 

 高村修平さん。ハイパーレスキュー隊長。四十六歳。

 大丈夫。その鎧の下にある「不器用な誠実さ」に光を当てれば、そこにちゃんと気づく女性はきっといる。

 

 いける。この人は、正せる。

 まずはその「滑舌の良さ」を封印して、一人の男性として、新しい戦場に立ってもらわなければ。

 

 次はいよいよ実戦だ。

 

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