初めてのお見合い当日の朝、高村修平は洗面台の鏡の前に立っていた。丁寧に剃り上げた顎のラインを指先でなぞる。四十六年の歳月が刻んだ皺と、救助現場で負った左頬の小さな傷跡。それだけの顔だった。
会場は、日比谷の老舗ホテルにあるティーラウンジ。
高い天井からシャンデリアが下がり、磨かれた大理石の床に淡い光の輪を落としている。修平は約束の三十分前に到着した。職業的な習慣であり、もはや生理的なものでもある。
指定された席の近くに腰を据え、まず「現場」を把握することに努めた。非常口の位置、人の流れ、給仕の動線。それらを確認してようやく、呼吸がひとつ落ち着く。背筋を垂直に保ち、瞬きを最小限に抑えて正面を見据えた。周囲の軽やかな談笑は、ほとんど耳に届いていない。対面に現れるはずの人物の到着を、修平は静寂の中で待った。
「……シュウヘイさんでしょうか?」
不意に届いた声に、修平の肩がわずかに跳ねた。
そこに立っていたのは、写真で見た通りの、穏やかな佇まいの女性だった。
相談所の配慮で、この場では姓も連絡先も伏せられている。互いを呼ぶのは、カタカナに置き換えられた下の名前だけだ。
彼女は、修平の放つあまりにも鋭い眼光に一瞬だけ怯んだように見えたが、すぐに柔らかな微笑みを浮かべた。
「お待たせして申し訳ありません。レイコです。本日はよろしくお願いいたします」
修平は即座に立ち上がった。その動作があまりに鋭敏で無駄がなかったため、隣のテーブルのカップが微かに触れ合う音を立てた。
「シュウヘイです。こちらこそ、貴重なお時間をいただき感謝いたします。どうぞ、お掛けください」
修平の声は、火事場の怒号に慣れすぎているせいか、自分では抑えているつもりでも低く、重く響いた。
注文を済ませると、テーブルの上に沈黙が降りた。
修平の脳内では、相川から授かった「会話の心得」が緊急指令のように点滅している。
——共通点を探して、話題を広げてください。
歯科受付。フェルトニードル。紅茶。読書。
修平の日常にあるのは、放水訓練、倒壊家屋の補強、後輩への指導。
接点が、見当たらない。
「……あの、シュウヘイさんは、消防のお仕事をされているんですよね」
沈黙に耐えかねたのか、玲子が先に手を差し伸べた。
「はい。東京消防庁の第六消防方面本部、
「ハイパーレスキュー、というお名前はテレビで拝見したことがあります。とても大変なお仕事なのでしょうね」
「任務ですから」
短く答えた。嘘ではない。だが、あまりに素っ気ない。
修平は焦った。何か足さなければならない。しかし、不確実な言葉は口にできなかった。
「……レイコさんは、歯科にお勤めだとか。口腔内の健康は、全身の健康に直結すると聞き及んでいます。非常に重要な職務ですね」
玲子が目を瞬かせた。
「ええ、まあ……そう言っていただけると嬉しいです。私は受付なので、直接治療をするわけではないのですが」
「受付は、現場の第一線です。トリアージと同じく、その判断が治療の成否を分けることもあるはずです」
「トリア……何でしょうか?」
「失礼。識別、選別のことです」
「……あ、ああ〜、どこかで聞いたことあるかもしれません。私も患者さんが緊張しないよう、丁寧に声をかけるようにしているんですよ」
会話が、どこか噛み合わない。
玲子は困ったように微笑み、話題を変えようとした。
「趣味の欄に、フェルトニードルのことを書いたのですが、ご存知ですか? 羊毛を専用の針でチクチク刺して、動物のマスコットとかを作るんです」
修平は想像した。鋭利な針。それを何度も突き刺す作業。
「……指を、負傷することはありませんか」
「えっ?」
「針は細く、貫通力が高い。作業中の集中力が切れた際、不慮の事故が起きる可能性があるのではないかと」
玲子の表情から、わずかに明るさが引いていくのを修平は見逃さなかった。
「あ……はい、たまにチクッとはしますけど、絆創膏を貼れば大丈夫ですよ。そんなに危ないものではないんです。無心になれるのが楽しくて」
「なるほど。安全管理を徹底した上での精神修養、ということですね。素晴らしいと思います」
素晴らしい。心からそう思った。しかし、彼の表情は不動明王のように険しいままだった。
心臓が、現場で
だから、修平は選んでしまった。
これ以上の失点を防ぐための、最悪の安全策を。
沈黙。
ラウンジの喧騒の中で、そこだけが真空地帯になったかのような静寂だった。
玲子は何度か視線を泳がせ、修平の様子を伺っている。制服を脱いだ彼は、剥き出しの神経で戦場に立つ兵士のようだった。
喉が詰まる。背中のシャツが、嫌な汗で張り付く。
何か言わなければ。
天気が良いですね。
その服の色がよくお似合いですね。
頭の中には候補が浮かぶ。だが、それらはどれも「根拠のない発言」に思えた。天気が良いから何だというのか。服の色が似合っているなどと、初対面の男に言われて警戒しないだろうか。
口を開きかけて、閉じる。
玲子が、小さく息をつく音が聞こえた。
「……シュウヘイさんは、あまりお話しされるのがお好きではないんですか?」
声に、怯えに似た戸惑いが混じっていた。
修平は弾かれたように顔を上げた。
「いえ。そのようなことは。ただ、失礼があってはならないと……」
「失礼、ですか?」
「言葉というものは、一度発すれば取り返しがつきません。私は、軽率な発言で場を壊すことを恐れています」
正直な告白だった。だが、それはお見合いのテーブルに置くにはあまりに重すぎた。
玲子は、引きつったような笑みを浮かべる。
「……そんなに、緊張なさっているんですね」
「はい」
即答だった。
「ですが、黙っていらっしゃると、私、何か怒らせてしまったのかなって、少し怖くなってしまって」
怖がらせた。
その言葉が、修平の胸を鋭く抉った。
人を守るために生きてきた。誰かを恐怖から救い出すために、命を懸けてきた。それなのに今、目の前の女性を、自分という存在が怖がらせている。
謝罪しようとした。しかし喉が石のように固まり、言葉が出てこなかった。
三時間後。
修平は自宅の質素なリビングで、スマートフォンの画面を見つめていた。
相談所の専用アプリに届いた通知は、無慈悲なほど簡潔だった。
『レイコ様より、お見送りの連絡が入りました』
分かっていた。当然の結果だ。
しかし胸の奥に広がる鈍い痛みは、消火活動で吸い込んだ煙のように、いつまでも肺の底に残った。
そこへ、相川沙織から電話が入った。
「高村さん、お疲れ様でした。……結果は、残念でしたね」
相川の声は、いつになく静かだった。
「……私の力不足です。彼女を怖がらせてしまいました」
「レイコさん、仰っていましたよ。『とても立派な方だということは分かりました。でも、ずっと取り調べを受けているような気分で……息苦しかった』と」
「息苦しい……」
「高村さん。あなたは現場ではヒーローかもしれませんが、お見合いの席にその重たい鎧は必要ありません。黙っていると、怒っているのか、嫌なのか、相手には分からなくて不安になるんです」
修平は返す言葉を失った。
「……分かりました。私が間違っていました。次は、沈黙しません」
「ええ。次はもう少し、肩の力を抜いて……」
「次は、必ず話します。沈黙という事故が起きないよう、万全の準備をして臨みます」
相川は、数秒だけ黙った。
「……はい、良いご報告を、お待ちしております」
電話を切った後、修平は暗い部屋の中で一人、立ち尽くしていた。
窓の外に東京の夜景が広がっている。どこかでサイレンの音が聞こえた。あの音の向こう側には、自分の居場所がある。明確なルールがあり、なすべきことが決まっている世界だ。
けれど、ここには何もない。
修平は自分の掌を見つめた。
何人もの命を引き上げてきた、分厚く、硬い手。この手は、誰かを守ることはできても、誰かの心にそっと触れることはできないのだろうか。
重い足取りで書斎スペースへ向かう。ノートを開いた。
次は、黙っていてはいけない。もっと積極的に。もっと雄弁に。
修平は、次の失敗を避けるための準備を始めた。
【高村修平の独白】
怖がらせた。
それだけは、駄目だ。
俺は、黙っていれば傷つけずに済むと思っていた。
なのに結果は逆だった。
……次は喋る。言葉を出す。
とりあえず、書店へ行こう。
「雑談」という災害への対策本が、どこかにあるはずだ。