鏡の中の自分に向け、高村修平は短く息を吐いた。
ネクタイの結び目を直しながら、数日前の相川沙織の言葉を、脳内で訓示のように再生する。
「高村さん。次は、喋ってください。何を話せばいいか迷ったら、相手にとって有益な情報を共有するんです。ただし、会話は押しつけるものではなく、相手が受け取れる形で渡すものなんですよ」
渡すもの。修平はその言葉を点呼するように心に刻んだ。
二回目のお見合い会場は、新宿の超高層ホテルにあるティーラウンジだった。地上二百メートル。天空を切り取るような巨大なガラス窓から、午後の柔らかな陽光が惜しみなく降り注いでいる。
修平は前回を上回る周到さで
非常口までの距離。スプリンクラーの配置。そして、この広大な窓ガラスが破損した際の飛散予測。
準備は整った。
「サキと申します。今日はよろしくお願いします」
現れた女性は、三十代後半の、知的で穏やかな雰囲気を持つ
着席し、注文を終えると、早希が窓の外に目を向けて小さく声を漏らした。
「あら……ここ、見晴らしが良くて素敵な場所ですね。窓も大きくて」
会話の入りだ。修平の脳内で、改善案が即座に起動する。
「ええ、素晴らしい視界です」
努めて滑らかに、しかし重厚な声で言葉を紡ぎ始めた。
「ただ、確認ですが、サキさんは万一の場合に備えて避難経路は把握されていますか?」
「えっ? ……避難経路、ですか?」
早希の瞳が戸惑いに揺れた。修平はその瞬きを、真剣に聞き入る姿勢だと判断した。
「はい。念のため共有しておきますと、我々の着席位置からの一次退避ルートは、あちらの非常口になります。この建物は免震構造なので倒壊の危険は極めて低い。しかし、先ほどおっしゃったこの大きな窓。これは地震の激しい揺れで破損した場合、鋭利な破片となって降り注ぐ可能性があります。有事の際は、決して窓側には近づかないでください」
早希は、差し出されたケーキフォークを握ったまま、一瞬だけ動きを止めた。
「あ……はい。気をつけます……」
困惑の色が一瞬よぎったが、彼女はすぐに礼儀正しく微笑みを戻し、話題を繋いでくれた。
「シュウヘイさんは、お休みの日はどんなことをされていることが多いんですか?」
「主に、体力維持のためのトレーニングと、備蓄品の点検です」
修平は、今度はこちらから問いかける番だと判断し、事前に練っていた質問を繰り出した。
「サキさんは、休日はどのように過ごされることが多いんですか」
「私ですか? 私は、登山や軽いハイキングに行くのが好きなんです。自然の中を歩くと、リフレッシュできるので」
登山。
修平の胸に、かつてない高揚が走った。
「登山。それは素晴らしい。標高はどの程度を想定されていますか」
「ええと、高尾山とか、その周辺の低山が中心ですけど……」
「低山であっても、気象の急変は命取りになります」
修平の声に、現場指揮官としての峻厳さが宿った。
「でも、景色がきれいだとつい写真ばかり撮ってしまって。曇りや雨でも晴れとはまた違った美しさがあって……」
早希は、そこで少しだけ楽しそうに目を細めた。
修平はうなずいた。
うなずきながら、その言葉の中から「登山」「天候」「装備」という要素だけを拾い上げていた。
「なるほど」
修平は厳粛に言った。
「サキさんはザックの中に、『ラップ』と『ガムテープ』は常備されていますか?」
「え? ラップ……? いえ、キッチンにはありますけど」
「それは危険です」
修平は身を乗り出した。
「ラップは止血帯の代わりになり、骨折時の添え木を固定するのにも使えます。さらに体に巻けば強力な防寒具にもなる。ガムテープも同様に汎用性が高い。生存確率を数パーセントでも上げるために、登山時には必ず携行されることを強く推奨します。もし滑落事故が発生した場合、発見までの『黄金の時間』を生き延びるためには……」
「な、なるほど。ラップとガムテープ……」
早希は、完全に冷めきったダージリンティーのカップを見つめたまま、微かに引きつった声で相槌を打った。
しかし、修平の視界には、熱心に耳を傾ける良き聴衆の姿しか映っていなかった。
——よし。彼女は深く頷いている。共通の趣味から入り、有益な情報提供を行う。見事なキャッチボールが成立している。
早希は、冷めた紅茶を一口飲み、気を取り直すように問いかけた。
「あの……お仕事、大変ですよね。火事の現場とかにも行かれるんですか?」
「ええ。人命救助が我々の本分ですから」
修平は誇らしげに胸を張った。
「ですので、もし今ここで火災が発生した場合についてお伝えしておくと、煙は一秒間に三メートルから五メートルの速さで上方へ移動します。我々は姿勢を低くし、ハンカチで口を覆いながら壁伝いに、先ほど確認したルートで……」
彼女の瞳から、穏やかな光が静かに引いていった。
もはや修平の顔を見ていない。運ばれてきたモンブランの頂を、遭難者のような虚ろな目で見つめている。
——素晴らしい集中力だ。彼女は私の説明に深く感銘を受け、防災意識をアップデートしているに違いない。
お見合いが終わった後、修平はホテルのロビーで、確かな手応えとともにスマートフォンのアプリを開いた。
指先が、流れるような速さで画面を叩く。入力された「報告」は、もはや婚活の感想文ではなく、上官へ提出する現場活動報告書そのものだった。
『対象者との接触、予定通り完了。
滞在時間四十五分。会話は概ね良好。
先方に対し、火災時の避難動線および着席位置からの退避ルートを参考共有。
さらに、趣味の登山におけるラップおよびガムテープの有効性について指導。
先方は熱心に傾聴しており、安全意識の向上が認められた。
当方判断としては再接触可能と認定。交際希望。状況ヨシ。』
送信ボタンを押し、修平は満足げにロビーを後にした。
沈黙という悪癖を克服し、有益な情報を供与した。これ以上の完璧な対応があるだろうか。
しかし、その満足感は、帰路の途中で静かに崩れることになる。
電車を降り、自宅近くの街路樹が並ぶ歩道を歩いていた時だった。スマートフォンが鳴った。相川沙織からだった。
修平は胸の奥に小さな異変を覚えながら、通話ボタンを押した。
「……高村です」
『高村さん、お疲れさまでした。今、お時間よろしいですか』
相川の声は落ち着いていた。その静けさが、かえって不穏だった。
「はい。問題ありません」
『では率直にお伝えします。先方から、お見送りの連絡が入りました』
修平の足が、ぴたりと止まった。
街路樹の影が、足元に細く伸びている。
「……そうですか」
『理由はまだ簡単な共有だけですが、「防災意識が高くて頼もしい方だった一方で、会話というより避難訓練の指導を受けている印象だった」とのことです』
「……」
修平は何も言えなかった。
理解が追いつかない。今日の自分は、前回の失敗を踏まえ、沈黙を排し、誠実に情報を提供したはずだった。
「……しかし、会話は成立していたと思っていました。彼女は何度も頷いていた。登山の話にも、しっかり耳を傾けてくださっていたはずです」
『はい。高村さんが、そう受け取られたことも分かります』
相川はそこで一度区切った。
『それと、高村さんの報告文を拝見して、私にも少し見えてきたことがあります。たぶん、会話が崩れた地点は……』
「……崩れた地点、ですか」
『高村さん。確認ですが、サキさんが趣味のお話をしてくださった場面、ありましたか?』
「……ありました。登山と、軽いハイキングが趣味だと」
『その時、サキさんは「景色の写真ばかり撮ってしまって」というようなことは仰っていませんでしたか』
修平は、歩道の真ん中で小さく息を呑んだ。
「……仰っていました」
『やはり』
「それが、何か」
『そこが、おそらく会話の入口だったんです』
相川の声に、責める響きはなかった。ただ事実を指し示す時の、細く鋭い確かさがあった。
『「登山が趣味」という情報だけではなく、「どういう時に楽しいと感じるか」を、サキさんはご自身の言葉で出してくださったんです。たぶん高村さんに、ご自分の好きなものを少し渡してくださったんですよ』
「……」
『でも高村さんは、そのボールを受け取る前に、ラップとガムテープの必要性へ話を進めてしまった』
修平は、無意識にスマートフォンを握り込んだ。
たしかにそうだった。景色。写真。楽しさ。そうした柔らかなものは、彼の頭の中では「登山時のリスク管理」に置き換わっていた。
『報告文にもありますよね。"趣味の登山におけるラップおよびガムテープの有効性について指導"と』
「……はい」
『高村さんは、相手の趣味に寄り添おうとして、有益な知識を渡した。でも、お相手には"話を聞いてもらえた"ではなく、"指導された"と映ってしまったんだと思います』
「指導……」
『それから冒頭の避難経路の共有も同じです。役に立つ情報を先回りして渡したつもりでも、会話ではなく説明が先に立つと、相手は"この人は私と一緒に時間を過ごしているというより、私を安全に管理しようとしている"と感じます』
修平の喉が、ひどく乾いた。
「……私は、そんなつもりでは」
『分かっています』
相川の返答は即座だった。
『高村さんが誠実なのは、もう分かっています。問題は誠実さじゃないんです。相手が差し出してくれた話を、会話として受け取る前に、正解で処理してしまうことなんです』
街の向こうで、救急車のサイレンが短く鳴って消えた。
修平はその音を聞きながら、自分の報告文を思い返していた。
対象者との接触。
参考共有。
有効性について指導。
安全意識の向上が認められた。
どこにも、サキという一人の女性の気持ちは書かれていなかった。
「……業者、というのは」
『はい』
「そういう意味ですか」
『そういう意味です。消防の方であって、業者ではありません。でも、お見合いの席では業者味が強すぎたんです』
修平は、力なく視線を落とした。
歩道の端に落ちた小さな枯葉が、靴先に触れて転がった。
『ですから次回の禁止事項は、三つです』
「……三つ」
『相手が楽しそうに話している時ほど、"役に立つことを言わなければ"を一度止めてください』
『相手の話題を、自分の専門知識で制圧しないよう心掛けてください』
『あと、会話を報告書にしないことです』
修平は、黙って聞いていた。
『……ただし』
相川はそこで、ほんの少しだけ声の温度を変えた。
『"ヨシ"という掛け声は禁止です。あれだけは本当にやめてください』
修平は、わずかに目を閉じた。
「……了解、いたしました」
『高村さん』
「はい」
『今日は、喋れたこと自体は前進です。間違えた方向に全力で進んだだけで、立ち止まっていたわけではありません』
その言葉だけが、暗い帰路にかすかな灯りのように残った。
「……ありがとうございます」
通話を終えた後も、修平はしばらくその場に立っていた。
失敗した。
それは分かる。
分かるからこそ、腹の底がじわじわと熱い。
やがて、ゆっくりとスマートフォンを下ろした。
次は、役に立つことを言いすぎない。
次は、説明しすぎない。
次は――ただ、相手の話を聞く。
そう決めたはずなのに、修平にはその「ただ聞く」という行為の輪郭が、最後まで掴めなかった。
【高村修平の独白】
沈黙は罪だが、有益な情報提供もまた、罪になるらしい。
俺はただ、彼女に無事でいてほしかった。
それを、相手が受け取れる形で渡せていると思っていた。
……どうやら、初対面の女性はサバイバル術を渡されても喜ばないようだ。