午前六時、詰所の窓から差し込む光はまだ青白い。
高村修平は事務机に置かれたノートを開いた。前日の当番小隊から引き継がれた申し送りメモ。資材の消耗、車両の異音、隊員の体調の変化。救助ロープの結び目を確認するように、一行ずつ指先で追っていく。
制服のポケットの中で、スマートフォンが微かに震えた。昨夜、相談所の相川から届いた通知だろう。修平はその震動を意識の端に追いやった。画面には触れない。不確かな縁よりも、目の前にある現場の継続性のほうが、今の彼には遥かに重い。
資材庫へ向かう。整然と並ぶエンジンカッター、油圧ジャッキ、
「佐々木、そのスプレッダーのグリスはどうだ」
「あ……はい、異常ありません!」
若手の佐々木が弾かれたように背筋を伸ばす。修平は何も言わず、佐々木が握っていたウエスの汚れを見た。わずかな拭き残し。昨夜の非番で羽を伸ばしすぎた者の、集中力の揺らぎが透けている。
「物を見るな。その物を使う自分を疑え」
低い声が、静まり返った資材庫に染み渡った。
午前十時。訓練施設は、剥き出しのコンクリートと鉄の匂いに覆われていた。
倒壊家屋を模した構造物の下で、隊員たちが動く。今日の訓練は、
「ジャッキ、セット! これより開口部を拡張する!」
佐々木が声を張り上げ、油圧ジャッキを瓦礫の隙間に差し込んだ。動作に余裕がない。先ほどの資材庫での失態を取り返そうとしているのが、手の力み方でわかる。
「一気に上げます!」
佐々木がレバーに力を込めた瞬間、構造物全体が軋んだ。微かな音。だが、決定的な音だった。
「待て」
修平の声が飛ぶ。怒号ではない。しかし、その一言で現場の空気が止まった。
「今は上げるな。支点を取れ」
修平は瓦礫の山に歩み寄り、佐々木がジャッキを掛けた位置を指先でなぞった。
「お前が見ているのは、目の前のコンクリート片だけだ。だが、その
佐々木の喉が鳴る。周囲の隊員たちも息を止めていた。
どこを支えれば全体が安定し、どこを切れば均衡が崩れるか。修平の目には、素人には見えない力の流れが映っている。
「一ミリを惜しむな。その一ミリが、生と死の境界線だ」
静かに指示を出すと、隊員たちは吸い込まれるように動き出した。先ほどまでの焦燥は消え、張り詰めた、しかし確かな信頼に裏打ちされた空気が現場を満たしていく。
昼食の時間。食堂にはカレーの匂いが充満していた。出場があれば即座に中断される、束の間の休息である。
「隊長、今日のカレー、少し辛くないですか」
隣に座ったベテランの隊員が、額の汗を拭いながら話しかけてきた。
「そうか。俺は、適切な熱量だと判断している」
「いや、判断って……味の感想を聞いてるんですよ」
「……栄養学的には、スパイスの刺激は代謝を促進し、午後の活動にプラスの影響があるはずだ。温度管理も概ね適正だ」
修平が真顔で答えると、周囲から小さな笑いが漏れた。
「隊長、それレストランのレビューじゃなくて活動報告書ですよ」
「……俺は、事実を述べているだけだぞ」
否定も肯定もせず、ただ黙々とカレーを口に運ぶ。その無骨な横顔には、現場での峻厳さとは異なる、どこか愛嬌のある戸惑いが浮かんでいる。隊員たちは、隊長のこういう「ズレ」を、笑いながら受け入れていた。
夕方のミーティング。窓の外に夕闇が迫る会議室で、修平は隊員たちの前に立った。
「今日の訓練、技術的には
一人一人の顔を見る。
「我々が呼ばれるのは、大きな災害だけじゃない。名も知らない一人を、生きて帰すためだ。その一人の向こうには、帰りを待つ誰かがいる。だから今日の一ミリを雑にするな」
隊員たちの背筋が一段と伸びる。説教の響きはない。この男が背負ってきたものの重さだけが、静かに伝わってくる。
「救助とは、技術ではない。執着だ。生きて帰すという、狂気にも似た執着だけが、不可能を可能にする。今日のわずかな甘さを、明日の一人に持ち込むな」
短い訓示を終え、修平は深く頭を下げた。
会議室を出ていく隊員たちの足音に、迷いはなかった。
翌日の大交替を終え、修平は夜の街へ足を向けた。
路地裏の古いスナック「あじさい」。紫色のネオンが、雨上がりのアスファルトに滲んでいる。
扉を開けると、カランという鈴の音。使い古されたカラオケの伴奏と笑い声が混じった空気が押し寄せてきた。
「あら、修ちゃん。お疲れ様」
カウンターの中で、着物姿のママが微笑む。
「ああ。麦のロックを」
端の席に腰を下ろす。訓練場での張り詰めた神経が、この適度な雑音と安酒の匂いの中で、少しずつほどけていく。
「修ちゃん……それで、あれの調子はどうなの?」
ママが焼酎のグラスを差し出しながら、悪戯っぽく尋ねた。
「?」
「もう……婚活よ、婚活」
隣の席で焼酎を傾けていた年配の常連客、
「え、修ちゃん、婚活してんのかい。意外だねえ。あんたみたいな立派な男、放っておいても女が寄ってくるだろうに」
「……寄ってきません。むしろ、遠ざかっていく」
修平は重い声で言った。
「この前も、お相手に良かれと思って、ラップとガムテープの有用性を説いたのだが……連敗だ」
一瞬の間。それからママと田中さんが同時に吹き出した。
「ラップとガムテープって……あんた、それお見合いで話すことじゃないわよ」
「だが、生存確率を上げるためには必要な情報で……。相川さんというカウンセラーにも、業者味が強すぎると叱られた」
「業者味って、あんた……」
ママが笑いながら、修平のグラスに氷を足す。
「まあ、いいじゃない。修ちゃんのそういう一生懸命なところ、私は嫌いじゃないわよ」
修平は困ったような、それでいてどこか居心地の良さそうな顔で、焼酎を一口煽った。
「いつか、そのラップの話を『面白いね』って笑ってくれる人が現れるわよ。きっとね」
グラスの中で氷が鳴った。
現場では、一ミリのミスも許されない。だが、ここでは、そのズレさえも笑いとして受け止められる。
修平は氷を指先で揺らした。
明日も訓練がある。誰かの命を救うために、自分を研ぎ澄まさなければならない。けれど今夜だけは、この不器用な自分を、焼酎の苦味と一緒に飲み干してしまってもいい気がしていた。
【高村修平の独白】
訓練用のコンクリート塊の重量なら、目視で誤差数キロの範囲で計算できる。
ロープの摩擦熱も、ジャッキの耐荷重も、俺の頭の中にはすべて叩き込まれている。数字という名の揺るぎない根拠があるからこそ、俺は命を懸け、部下の命を預かることができる。物理法則に従って動く世界は、残酷ではあるが、どこまでも誠実だ。
だが、人の気持ちには耐荷重の表記がない。
良かれと思って置いた言葉が、いとも簡単に相手の笑顔を崩落させる。どこまで踏み込めば安全で、どこからが危険区域なのか、その境界線を示す計器はどこにも存在しない。救助現場で瓦礫の軋みを聞き分けることはできても、一人の女性の沈黙を読み解くことは、今の俺には困難な作業だ。
スナックの氷が溶ける音が、今の俺には一番の鎮痛剤だ。
ママや常連たちの他愛もない笑い声、古ぼけたカラオケの伴奏、麦焼酎の苦味。ここでは、俺が隊長である必要も、完璧な婚活者である必要もない。ただの男として、この騒がしい雑音の中に溶け込んでいられる。
……次こそは、安全確認を忘れるくらいの「無防備な会話」というものを、実践してみたいものだが。