家出人、別名「歴史の観測者」 作:未来で勘違い
雨上がりの泥道というのは、どうしてこう、人の尊厳を試してくるのだろう。
車輪がぬかるみに沈む。
「……っ、む、おお……!」
私は全体重をかけて木製の荷車を押した。
動け。動け。頼むから動いてくれ。貴族の教育に荷車の押し方など含まれていないのだ。
革靴は泥まみれ、外套の裾は跳ねた泥水で斑模様になり、腕は痛い。腰も痛い。たぶん明日は背中も痛い。
だが、後悔はしていなかった。少なくとも、今のところは。
「……よしっ」
ぬかるみを抜けた荷車が前に進む。私は道端に立ち止まり、荒い息を吐いた。荷台には旅道具と保存食、それから本が山ほど積んである。食料より本の方が重い気がするのは、気のせいではない。
さて。貴族に生まれて二十年の私が、なぜ移動商人まがいの真似をして泥道を歩いているのか。
答えは簡単だ。家出である。実に古典的だが私にとって壮大な家出だった。
もっとも、私の実家はそこらの農家ではない王国北部でも指折りの大貴族であり、父は国政に深く関わる重臣だった。
毎日毎日、政治、権力、派閥、婚姻、利権。朝食の席ですら陰謀の匂いがした。兄は父に媚び、叔父は兄を牽制し、従兄弟は誰かを失脚させようとしている。
私はというと、その全てが嫌だった。何より嫌だったのは、皆が世界を「この小さい国の中」だけで見ていたことだ。
私は幼い頃から父の怒号に逃げるようにして屋敷の書庫に通った。そこの棚にぎっしりと埋まった本は父が向き合う世界とは違った。
砂漠の王朝。
海の向こうの共和国。
巨大な図書館都市。
奇妙な宗教国家。
雪原を渡る遊牧民。
本の中には、屋敷の外の世界があったのだ。初めのうちは父や周囲の従者は書庫に籠る私を手習いや講義に引っ張り出そうとしていた。しかし私の頑固な抵抗に半ばあきらめ、次第に私を見る目は腫れ物に触れるものへと変わった。あらゆる分野の知識を楽しむため、司書にわいろを渡し無断で書物を取りそろえていった。
特にたくさんの書物の中でも一冊のバイブルと出会い、私は外を知ることを決意した。それは我が王国が観光振興のために作成した旅行ガイドだ。そこに書かれたこの一節が皮肉にも私を王国外への旅へと誘い出した。
「人生は旅だ」
このありきたりな格言は、私の中に眠っていたさらなる反抗心を呼び覚ました。そうして実家を出ることに決めた。
幸い、私は次男坊だ。家督争いの中心でもない。多少いなくなっても、たぶん国は滅びない。
なので数年かけて準備した。旅の本を読み、屋敷に訪れた商人から道を聞き、金を少しずつ換金し、偽名を作り、荷運びの練習までした。世間知らずのお坊ちゃまも本さえあればこんな準備もできた。
この身分が知られぬように簡素な身なりをし、最低限の持ち物を荷車に詰めた。月の暗い夜を選び、屋敷の裏門から抜け出したのはもう数ヶ月前のことだ。
護衛も従者もいない。供はこの荷車だけ。
そんなスリルを味わえたのは真夜中をさまよう最初の三時間。自由も世界の広さも旅のすばらしさもこの時に十分実感できた。
その幻想は初日に宿代をぼったくられて少し疑念が生じた。
二日目には野犬に追われた。
五日目には腹を壊した。
そんな日が続けば羽毛の詰まったベッドに寝たいというようなホームシックに悩まされる。だが既に家出した以上戻ってしまえば二度と外を見られず、父の下で飼い殺しのような一生を過ごしてしまう。
そこでしかたなく道を進み続け今現在も、私は泥道で荷車を押している。
「……貴族って、もっと優雅な生き物じゃなかったか?」
誰にともなく呟くが返事はない。
顔を上げる。汗を拭い、荷車の取っ手を握り直した。
ここからは王国の領外になり敵国の関所に入るそうだ。石造りの簡素な門の前には、槍を持った兵士たちが立っていた。
鎖帷子に濡れた外套。腰には剣。視線が鋭い。敵国、という言葉を実感するには十分だった。
「止まれ。荷を検める」
先頭の兵士が無愛想に言う。私はできるだけ疲れた旅商人らしい顔を作って頷いた。芝居の心得について書かれた本も流し読みした。役者の技法についての本も読んだ。
「どうぞ。保存食と本ばかりですよ」
「本?」
兵士が眉をひそめる。実際、荷台の半分近くは本だ。普通の商人ならもっと利益になる物を積むだろう。
兵士たちは怪訝そうな顔で荷を漁り始めた。
干し肉。毛布。鍋。紙束。
そして――。
「おい」
兵士の一人が布に包まれた長剣を持ち上げた。
嫌な予感がした。
布を解かれ、銀色の刀身が露わになる。
しくじった。旅用に護身として持ち出した剣だが、実家の武器庫から適当に選んだせいで、妙に出来が良すぎた。装飾は控えめだが、鋼の質が明らかに違う。
兵士の目つきが変わる。
「商人風情が持つ剣じゃないな」
「盗品か?」
「いや、それにしちゃ手入れが良すぎる」
まずい。非常にまずい。私は内心の冷や汗を押し隠しながら肩をすくめた。
「商品ですよ」
「商品?」
「ええ。隣国に刀剣好きの買い手がいましてね。こういう上等な剣を好む変わり者がいるんです」
兵士たちは顔を見合わせるのを確認して私は続けた。
「私は本来、古書や珍品を扱う行商なんです。武器専門ではありませんが、頼まれれば運ぶこともあります」
半分は嘘で、半分はするかもしれない未来の予定だ。
兵士は剣を抜き、光にかざした。
「……かなり高いぞ、これ」
「でしょうね。だから私は泥だらけになってまで運んでるんですわ」
できるだけ商売人らしく、金勘定にしか興味がない気品のない顔を急いで作る。早く客に商品を渡さないといけないという焦りも匂わせる。口調も変えなければいけない。
兵士はしばらく私を睨んでいたが、やがて鼻を鳴らした。敵国同士でも商人の移動が滞れば経済に打撃を受けることを、両者ともに把握している。だからこそ商人の恰好をすれば検問は甘くなるとにらんでいたが、その目論見は間違っていないそうだ。ちなみに私の正体が知られてしまった場合、敵国の外交の道具として人質にされてしまうことは想像できた。
「そこまで金が欲しいのか? 自国内でも売れる代物だろう」
「家族を養うためでさあ。隣の国の客の方が羽振りがいいんですよ」
「……まあいい。通れ」
「ほんまにありがとうございます。これでええ暮らしができます」
私は深々と頭を下げ、荷車を引いた。関所を抜けるまで背中に視線が刺さっていたが、振り返らなかった。
やがて門を越える。私は小さく息を吐いた。
……危なかった。護身用の剣くらい、もっと安物にしておけばよかった。
ーー
関所を越えて二時間ほど歩くと人の居住地が見えた。
「臭いな……」
もっとこう、異国というのは劇的なものだと思っていたのだ。色鮮やかな衣装、見たこともない建築、陽気な音楽、活気ある市場。本にはそう書いてあった。だが現実は、泥と煙と家畜と川の臭いが混ざったような空気だった。石畳は割れ、路地には汚水が流れ、薄暗い空の下で人々がせわしなく歩いている。
もちろん、栄えてはいる。馬車は多いし、露店も並んでいるし、言葉も訛りが強くて異国感は十分ある。しかし、「思ったより普通だな……」と私は少しだけ肩透かしを食らっていた。本の挿絵に描かれていた壮麗な街並みは、どうやら金持ち区域だけらしい。今私がいるのは、どう見ても庶民街、あるいは貧民街だった。道端には酔っ払いが寝ているし、建物は傾いているし、窓からは怒鳴り声が飛んでくる。旅情というより治安への不安が勝つ。
「……宿、もう少しまともな場所にすればよかったか」
だが安宿街は大抵こういう場所にある。実家から盗んだ旅費には限りがあるのだ。私は荷車を引きながら細い路地へ入った。すると少し開けた場所に出る。小さな広場だった。中央には古びた噴水があり、その周囲に露店が並んでいる。だが他の店と比べ、一つだけ妙なものがあった。壁に立てかけられた大量の絵画である。
風景画、人物画、宗教画らしきもの。しかし誰も見向きもしない。というより、子供が遊び半分で石を投げていた。
「売れてないな……」
思わず口から漏れた。
「余計なお世話だ」
低い声が返ってくる。絵の陰から男が現れた。二十代半ばほど。髪はぼさぼさ、服には絵具が付きっぱなしで、目つきが悪い。典型的な感じの悪い芸術家だった。
「買わないならどけ。光が遮られる」
第一印象は最悪である。私は少しむっとした。
「客に対する態度じゃないな」
「客は絵を見る。目線でわかる。お前のしていることは値踏みしただけだ」
「……鋭いな」
「毎日いるんだよ。そういう奴は」
男は吐き捨てるように言って、壁際に戻った。改めて絵を見る。正直、私は芸術に詳しくない。貴族教育の一環で鑑賞はしたが、「素晴らしいですね」や「タッチが上手い」と適当に頷く技術しか学んでいない。
だが、「妙だな」と私は一枚の絵の前で足を止めた。老女を描いた絵だった。神話画でも英雄画でもない。ただ椅子に座る老婆。皺だらけの手。疲れた目。痩せた頬。なのに、不思議と目が離せない。まるで今にも喋り出しそうな、生々しさがあった。
「……あんたが描いたのか?」
「だったらなんだ?」
「いや」
私は首を傾げた。
「なんというか、綺麗じゃないのに面白い絵だなと」
一瞬、画家の眉がぴくりと動いた。どうやら地雷だったらしい。
「褒めてるのか?」
「もちろんだ。……年老いた女であるのに確かに生きているような、命を感じる」
「素人が批評家ぶるな」
「実際素人なのだから許してくれ」
私は苦笑した。だが視線は絵から離れない。本当に妙だった。貴族屋敷に飾られていた絵は、もっと神々しく、もっと整っていた。だがこの絵には、人間がいた。疲れて、老いて、それでも生きている人間が。
「……値段はいくらだ?」
私がそう言うと、男は今度こそ、心底意外そうな顔をした。
「こんな人物画を買うのはお前が初めてだ。憐れみか?」
「特に理由はない。素人なりに面白いと思っただけだ」
「…その金貨五枚だ。恩に着る」
手にした絵画一枚を荷台に載せて今日は宿に泊まった。私は、買ったばかりの絵を部屋の壁に立てかけた。安宿の一室は狭い。窓は小さく、寝台は軋み、隣室の咳払いまで聞こえる。しかし、その老女の絵だけは妙に存在感があった。薄暗い部屋の中で、皺だらけの女がこちらを見ている。
私は寝台に腰を下ろし、腕を組んだ。高価な宗教画でもなければ、歴史的価値があるわけでもない。貴族社会で飾れば「趣味が悪い」と陰口を叩かれそうな絵だ。だが、なぜか目を逸らせなかった。
ーー
それから数日、私はこの国を歩き回った。市場を見た。香辛料の匂いに満ちた露店街。旅芸人。喧騒。異国の言葉。王都中心部は、たしかに本で読んだような華やかさを持っていた。白い石造りの劇場、高い塔、煌びやかな衣装の貴婦人たち。大通りでは音楽が鳴り、人々は笑っている。
だが、少し道を外れれば景色は変わる。汚れた水路、崩れかけた家、痩せた子供、働き詰めの労働者。同じ街とは思えないほど空気が違った。私はそこで、あの画家の絵を思い出した。綺麗なものではなく、生きている人間を描いた絵を。
気づけば私は再び、あの広場へ向かっていた。
昼過ぎの広場は相変わらず騒がしい。露店商が怒鳴り、子供が走り回り、酔っ払いが寝転がっている。そして壁際では、あの画家が椅子に座っていた。相変わらず売れていない。絵は増えていたが、人は誰も立ち止まらない。ちらりと見て通り過ぎるか、あるいは最初から興味も示さない。
しかし本人は気にした様子もなく、黙々と筆を動かしていた。描いているのは、広場の隅でパンを分け合う子供たちだった。
「また来たのか」
私に気づいた画家が、視線だけを寄越す。
「観光は終わったのか?」
「一応な」
私は近くの木箱に腰掛けた。
「この国を歩いてみた。大通りも、上流街も、港も、裏路地も」
「それで?」
彼は筆を止めない。
「ここはどう思った」
私は少し考えてから答えた。
「……正直に言えば、劣悪だ」
画家の手がわずかに止まる。
「臭いし、汚いし、治安も悪い。道端で人が寝ているし、腹を空かせた子供も多い。驚くことばかりだ」
「だろうな」
「でも」
私は広場を見る。子供たちが走り回り、露店の老婆が客と怒鳴り合い、荷運びの男たちが汗を流して笑っていた。
「嫌いじゃない」
「……ほう?」
「みんな、一生懸命生きている」
自分でも妙な感想だと思った。実家では誰もが権力や立場のために動いていた。笑顔の裏に計算があり、言葉には裏があり、食卓ですら駆け引きだった。だが、ここにいる人間たちは違う。貧しく、荒っぽく、泥だらけだ。それでも明日の飯のために働き、笑い、怒鳴り、生きている。その姿には妙な力があった。
画家はしばらく黙っていた。やがて、小さく鼻で笑う。
「変なやつだなお前」
「やはり隠しきれてなかったか?」
画家は広場で遊ぶ子供たちを眺めながら言った。
「俺は、ああいうのを描くのが好きなんだ」
筆先が、子供の笑顔を追う。
「腹を空かせてても、靴が破れてても、こいつらは笑う。殴られても、雨に降られても、次の日にはまたここで遊んでる」
「強いんだな」
「強くなきゃここでは生き残れない」
彼は淡々と言った。
「なぜ人物画ばかり描くかわかるか?」
私は首を横に振る。
画家は少しだけ空を見上げた。
「当然のようにこの辺の連中は、社会から見捨てられてる。石ころと同じだ」
低い声だった。
「上の連中サマはここを見ない。汚い場所だと思ってる。貴族も、商人も、役人も、誰も興味を持たない」
彼はゆっくりと広場を見回した。
「だから俺が残す」
「残す?」
「こいつらがここで生きてたって証拠をだ」
その言葉に、私は息を呑んだ。
「腹を空かせたガキも、働きすぎで腰が曲がった婆さんも、酒臭い労働者も、みんな必死に生きてる。誰にも評価されなくても、生きてるんだ」
筆が止まる。
「だったら、それを描く奴くらいいてもいいだろ」
風が吹いた。広場の埃が舞い、壁に立てかけられた絵がかすかに揺れる。私は、その絵を見た。どれも綺麗ではない。英雄も聖人もいない。いるのは、ただ生きている人間だけだ。なのに、不思議と目を離せなかった。
「……それがあなたにとっての使命なのか」
「大層なもんじゃない」
画家は肩をすくめる。
「他に描きたいものがないだけだ」
だが、その声音には確かな熱があった。私はしばらく黙っていた。それから口を開く。
「なあ」
「なんだ」
「私に、何か手伝えることはないか」
画家が怪訝そうな顔をする。
「お前に何ができるというのだ?」
「絵は描けないが、本運びと荷車押しなら多少は慣れた」
「誇れる技能がそれか?」
「最近の私の主力技能だ」
真顔で言うと、画家はわずかに口元を歪めた。
「……変な奴だなお前……まあいい、後悔するぞ。芸術家は貧乏だ。言われた通りに動いてもらう」
「泥道はもう経験済みだ。今さらだろう」
画家は肩をすくめ、視線を広場に戻した。
「じゃあ、まずはあのガキどもを捕まえてこい。全然じっとしてない」
「仰せのままに」
そう言いながら立ち上がった、そのときだった。
「いや」
画家が筆を止める。
「別のことをやれ」
「別のこと?」
「お前、本は読めるんだろ」
「読むだけならいくらでも」
「なら、名前を付けろ」
「名前?」
「俺の絵にだ」
私は一瞬、意味が分からなかった。
「……今、なんと?」
「そのままだ。いつも『老人』とか『ガキ』とか呼んでるが、それじゃ誰も見ない。名前がないものは記憶にも残らない」
画家は広場の壁に並ぶ絵を顎で示した。
「お前の好きなように呼べ。嫌なら後で変える」
私は立ち上がり、絵の前に歩いた。
義足の老人の絵。荒れた肌。片脚を失い、粗末な木製の義足を投げ出すように椅子へ座る老人。擦り切れた外套の裾から覗く義足には幾度も修繕した跡があり、それでも彼は外へ向けて静かな目をしている。
しばらく見つめる。
「……これは」
喉が少しだけ詰まる。
「『冬を越えた足』」
画家がこちらを見る。
「理由は?」
「この足は、ただ老いているだけじゃない。何度も冬を越えてきた足だ。寒さも、飢えも、病も越えて、それでもここにある」
画家は小さく鼻を鳴らした。
「なるほどな」
次の絵へ移る。パンを分け合う子供たち。
「これは?」
「……『明日の分け前』だ」
「分け前?」
「今日を生き延びた者が、明日を少しだけ信用している感じがする」
画家は初めて、ほんの僅かに目を見開いた。
「妙な言い回しをするな」
「本読みの副作用だ。言葉の装飾が趣味」
次の絵。酔っ払いが路地で笑っている。
「これは?」
「『夜に残された笑い声』」
「長すぎる」
「長い方が覚える」
画家は肩を揺らした。
「……お前に任せよう」
それからしばらく、私は次々と絵に名前を付けた。画家は時折口を挟み、気に入れば頷き、気に入らなければ短く否定した。やがて広場の壁は、ただの絵の集まりではなくなっていた。画家を起点とした物語を完成させる場所になっていた。
その日の終わり、画家はふと筆を置いた。それを見て私は提案した。
「ほかにやりたいことがある」
「まだあるのか」
「説明を書きたい」
「説明?」
「美術館を訪れたとき作品の横に説明文があった。もちろん絵の解釈は任せればいい。だがほんの少しの案内をしたい」
画家は少し考えた。
「……やってみろ。俺には文字は書けねえ」
その夜、宿の机に向かい、私は紙に言葉を書いた。
翌日、広場に戻ると、画家は絵の横に小さな木札を立てていた。最後に私はそこに、自分で書いた説明文の紙を貼った。
――『冬を越えた足』
老いた退役軍人。皺は深いが、その片足は生々しく、土と戦争の記憶を抱えている。この街で何度も冬を越えた者の証。
それを見た画家は、黙ってしばらく立ち尽くしていた。
「……変だな」
「何がだ」
「俺の絵が、俺の絵じゃないみたいだ」
「気に入らないか?」
画家は首を振った。
「いや」
短く言う。
「悪くない」
その日から、広場は少しずつ変わった。絵の前で足を止める者が、わずかに増えたのだ。
最初に変化が現れたのは、三日後だった。
昼下がり。私は広場の隅で、画家が新しい絵を描くのを眺めていた。洗濯桶を抱えた女だ。荒れた指先に曲がった背。それでも口元には頑固な強さがあった。
「これには何て付ける」
画家が筆を動かしたまま言う。
「……『石鹸水の城』」
「城?」
「彼女にとって、この桶の周りが戦場であり王国なんだろう」
画家は一瞬こちらを見た。
「相変わらず詩人のような言葉を使う」
「本読みは回りくどい生き物なんだ」
私は木札に題名と説明を書き添えた。
――『石鹸水の城』
洗濯女。毎日同じ布を洗い、それでも家族を生かし続ける。誰にも褒められない、小さな城の主。
貼り終えると、野菜売りの老婆が立ち止まった。
「……なんだいこれ」
近くの少年が代わりに読む。
「ちいさなしろのぬし……だってさ」
「このヨボヨボの洗濯婆が城なんて守れるかいな」
老婆は笑って言ったが、もう一度絵を見た。
「……でもまあ、毎日戦争みたいなもんだね」
そう呟いて去っていく。画家は何も言わなかった。ただ筆先だけがわずかに止まっていた。
別の日には、酔っ払いの絵の前で荷運びの男たちが笑っていた。
「『夜に残された笑い声』だってよ」
「大層な名前だな」
「でもこいつ昨日もここで寝てたぞ」
「つまり名物野郎だ」
その中心で、モデル本人まで笑っている。
「おい、俺の顔もっと男前に描け!」
「そりゃできねえ注文だ」
広場に笑いが広がった。
屋敷で見た芸術は遠いものだった。額縁に収まり、貴族が価値を語るもの。だがここでは違う。酔っ払いが自分の絵を見て笑い、子供が説明文を読み、老婆が「これ私みたいだ」と言う。
絵が、人の生活の中にあった。
数週間もすると、広場の空気は変わっていた。
「今日は新しいのあるか?」
「字を書いた兄ちゃんは?」
「この前の兵士の絵、うちの旦那にそっくりだったぞ」
以前は誰も寄りつかなかった壁際に、人が集まるようになった。絵を買いたいと言い出す者までいる。
「高いのか?」
「安くはねえ」
「じゃあ半額にしろ」
「芸術を値切るな」
画家が仏頂面で返すと、周囲が笑う。
画家は相変わらず無愛想だったが、以前より少しだけ人を見るようになっていた。そして人々もまた、絵を見るようになっていた。
私はその変化を見ながら思う。
政治は国を動かし、軍は国境を守り、金は街を栄えさせる。
だが、たった一枚の絵と数行の言葉でも、人の視線くらいなら変えられるのかもしれない。それは小さな力だった。けれど私は、その小ささが嫌いではなかった。
とはいえ画家は滅多に売れない。貴族が押しかけることもなく、「変な絵描き」と陰口を叩かれることの方が多い。それでも以前とは違っていた。驚くことに彼は筆を持つ時だけ、迷いが減っていたのだ。遊ぶ子供を見る目も、老人を描く手つきも落ち着いていて、自分の絵が誰かに届くと少しだけ信じ始めたようだった。そしてその変化は絵にも現れていた。人物たちの目が、以前より強くこちらを見返してくるのだ。
それを見てこれまで手にしなかったささやかな満足感を得た。
ーー
やがて私は、この国に留まる理由を失いつつあることに気づいた。いつの間にかこの広場に足を向けることが習慣になっていた。だが、習慣はいつか終わる。
ある朝、私は荷車を引きながら広場に来た。画家はいつも通りそこにいた。壁には絵が並び、子供たちはその前を走り抜けていく。以前と同じ光景だが、違うのは絵の数だった。
売れ残りは、ほとんど残っていない。私はそれを見て、少しだけ息を吐いた。
この街に通い続けていた理由は、半分以上があの壁だった。売れ残った絵に名前を付け、説明を書き、誰かが足を止めるのを眺める。その時間が、いつしか旅の途中の寄り道ではなくなっていた。
だが、その役目も終わりに近づいている。
絵は売れ、人々は画家の名を覚え始めた。もう私が口を挟まなくても、誰かが絵の前で語り合っている。ここにはもう、私が居続ける理由がない。
「……そろそろか」
画家がこちらを見る。
「何がだ」
「次の旅だ」
それだけ言うと、画家は鼻で笑った。
「やっとか。こんな汚い場所はお前が長くいていい場所じゃない」
「いや、ここの人たちを知るだけで来た甲斐があった」
「どうだか」
照れくさそうに髭を撫でた画家に向かって私は荷車を広場の端に止めて言った。
「最後に一つ頼みがある」
「また突拍子のないことを思いついたか」
私は壁を見た。そこに残っているのは、もう売れ残りの数枚だけだった。
「全部買う」
一瞬、画家の動きが止まった。
「……全部?」
「ああ」
「正気か」
「正気だ。売れ残りを残して旅立つのは、どうにも気分が悪い」
画家はしばらく黙っていたが、やがてため息をついた。
「好きにしろ。買うなら全部お前のものだ。捨ててもいい」
私は残っていた絵を一枚ずつ荷車に積んだ。最後の一枚を手に取ったとき、ふと気づく。
「これは私の顔か」
「ああ、餞別の品として受け取れ。ここの街のやつ以外を描いたのはお前だけだ」
ただの旅装の男の肖像。だが、余計な装飾も権威も削ぎ落とされ、妙に生々しい。
私はその絵画を見つめ数秒黙った。
「……いつの間に描いたのか」
「何だ、気づいていなかったのか」
「気づくわけがないだろ」
「おまけでいいんだな?」
「そうだ」
画家は短く息を吐く。
「貰っておく」
それだけ言って、それもまとめて積んだ。
私は荷車の綱を握る。
「世話になった」
「こちらの台詞だ」
即答だった。頑固そうな雰囲気は変わらない。だが、声だけは少し柔らかかった。
「名前を付けたのも、説明書きも、お前だろ」
「ただの思いつきだ」
「思いつきで人の絵を変えるな」
少しだけ間が空く。それから画家は、ふいに笑った。
「……辛くなったらおれの描いた絵を凝視しとけ。旅人が貴族らしい顔に見えてくるはずだ」
画家は絵筆で私を指した。
「その金貨、質も鋳造もこの辺の人間のものじゃねえ。筆跡も特有の育ちの良さがある。誤魔化しきれねえよ」
広場の子供たちが笑う声が遠くで響いた。
私は軽く肩をすくめる。
私は荷車を引いた。広場を離れる前に振り返ると、画家はもうこちらを見ていなかった。ただ筆を取り、次の絵を描き始めていた。
私はその姿を少しだけ見てから、歩き出した。
その後の道は、少し変わった。次の国に向かう間、私は立ち寄った村や街の壁に、あの絵を一枚ずつ置いていった。
市場の柱。宿屋の入口。小さな教会の裏手。
誰が見るとも知れない場所に、静かに。
説明文も添えた。読める者が読めばいい。読めない者は、誰かに読ませればいい。読みたくない者は絵だけを味わえばいい。それだけのことだ。
やがて次の国境が近づいた頃、荷車はほとんど空になっていた。
残ったのは一枚だけ。私が写った絵だった。
新たな宿に着いた私はそれを丁寧に包み、ある国の屋敷へ送った。宛先は、実家。封にはこう書いた。
――旅の途中で。
それ以上の説明はしなかった。
数日後届けられた時、それがどんな騒ぎを起こしたかは知らない。
ただ一つだけ容易に想像できた。
呆れた父がそれを見て、無言になる姿だけは、妙に鮮明だった。
人生は旅だ。歩みを止めなければ旅はまだ続く。