家出人、別名「歴史の観測者」   作:未来で勘違い

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感想ありがとうございます。続けます。


歴史学者編

 寒村といっても、華のルージア国の領土だ。それなのにどうして世界から忘れ去られたような顔をしているのだろう。

 

 山道を三日歩いた頃には、私は景色にうんざりしていた。灰色の空。痩せた木々。ぬかるんだ道。途中で追い抜いた荷馬車の老人に「こんな時期に北へ行く奴は物好きだけだ」と笑われたが、まったくその通りだったと思う。

 

 だが私は、その物好きな旅を続けていた。というのも、王都の古書店で妙な話を聞いたからだ。

 

「北の寒村に、建国史を否定してる左翼学者がいる」

 

 店主は呆れ顔でそう言った。

 

「何十年も山奥に籠って、古文書や風俗誌だの調べてる変人だ。国の起源を疑う者は学会じゃ相手にもされちゃいない。今じゃその寒村唯一の名物だ!」

 

 私は少し興味を持った。

 

 歴史学者というものは普通、王都の巨大な書庫で埃まみれになっている。聞けばその寒村にこそ歴史の謎があるため、長年研究拠点にしているそうだ。

 

 私はその変人に会いに行くことにした。

 

 丘の上には冷たい風が吹いていた。草は枯れ、踏みしめるたびに乾いた音を立てる。村を囲む山々は鈍い灰色に沈み、空との境目すら曖昧だった。

 

「そこを踏むな」

 

 村外れの丘で、突然怒鳴られた。

 

 私は反射的に足を止める。見ると、地面にしゃがみ込んでいた男がこちらを睨んでいた。髪はぼさぼさ、分厚い外套は泥だらけ、指先は黒く汚れている。学者というより墓荒らしだった。

 

「……失礼。道かと思った」

 

「道だ。だが二百年前の墓地の上でもある」

 

 男はそう言って地面を払った。土の中から、小さな破片が覗く。白っぽい石片だった。

 

「骨か?」

 

「陶器だ。骨ならもっと丁寧に扱う」

 

 私の姿を見るや眉を顰めた男は破片を袋へ入れ、ようやく立ち上がった。

 

「旅人か。どうせ私目当てで来たのだろう。ここは観光地でもないのに」

 

 実際、村は驚くほど寂れていた。石壁は崩れ、家々は低く、畑も痩せている。子供たちは妙に静かで、よそ者を見る目が警戒気味だった。

 

 正体を当てられた私はそれを認め、男に尋ねた。

 

「この地域の歴史を研究していると伺った。今やっているのもその一つか」

 

 学者は会話が思いのほか続いたことに、面倒そうな顔をした。

 

「そうだが、何をしに来た。笑いに来たか?」

 

「いや」

 

 私は肩をすくめる。

 

「建国神話に疑問を持つ人間には興味がある。決まりきった正しさを疑うのは勇気のいることだ。詳しく話を聞きたい」

 

 しばらく沈黙が落ちた。風だけが乾いた草を揺らしている。学者は家に案内すると言ったので、私は差し出された茶を小さな部屋で飲みながら、彼の持論を聞いた。

 

 やがて学者は、低い声で言った。

 

「……この国の歴史は妙なんだ」

 

「妙?」

 

「正史では、古代の二民族――ルージア人とユーク人――は平和的に統合され、今に至るとされている。だが、違和感もある」

 

 彼は村を見た。

 

「統合した経緯に、この地の話は一切書かれていない。ここ以外の地方のことは概ね記されているのにだ。国史だけじゃない。風俗誌にも触れられていない。いくら寒村とはいえ、かつて栄えていたはずの巨大な遺跡もある。何かしら言及されていないとおかしいはずだ」

 

「周囲の研究者はどう考えている?」

 

「考えすぎだと一蹴された。ここは建国史に書く必要がないほどの、ありふれた村だとな」

 

 男は吐き捨てるように笑った。

 

「数十年前、この謎に惹かれてからずっとここで生活している。中央の教授となった奴らへの反発もあるがな。だが、いまだに謎は解けぬ。私にできるのは、忘れられていた小さな過去に息を吹き込むことだけだ」

 

「それで墓地にいたのか」

 

 彼は荷物の中から古びた地図を取り出した。紙には細かな書き込みがびっしり並んでいる。

 

「あの一帯は墓地だけじゃない。交易路が通っていた。川もある。堀のようなものも。なのに地方史からは、初めからなかったかのようにこの村だけ消えている」

 

「意図的に?」

 

「そう考えている」

 

 学者はそう言って、神妙な面持ちで丘の向こうを見た。

 

「……ここには、隠しきれない過去があった」

ーー

 意外だったのは、その学者が案外まともな人間だったことだ。

 

 私はもっと、陰気で偏屈で、話しかければ怒鳴る類の人物を想像していた。実際、第一印象は墓荒らしに近かったのだが、家へ招かれて数時間もすれば認識は多少改まった。

 

「寝床なら空いている部屋を使え。屋根はまだ落ちていない」

 

 学者はそう言って、紙束を机へ積み上げた。

 

「ただし、居候するなら働け。薪割りでもいいが、できれば史料整理を手伝え。字は読めるんだろう」

 

「読むだけなら得意分野だ」

 

「結構。なら役に立つ」

 

 彼の家は、半分ほど書庫になっていた。壁際には古い書物と巻物が山のように積まれ、床には地図や写本が散乱している。窓際には土器の欠片や石板まで置かれていた。普通の人間なら頭を抱える光景だが、学者の情熱をそこから感じた私は嫌いではなかった。

 

 その翌朝、私は学者に連れられて隣の村の図書館へ向かった。図書館と言っても、王都のような壮麗な建築ではない。古い役場を改装しただけの石造りの建物で、蔵書も多くはなさそうだった。だが学者は慣れた様子で棚の奥へ進み、地域史や古記録を次々と机へ積み上げていく。

 

「これは三十年前に見つかった徴税記録。こっちは川の水運記録だ。やはりどちらも妙にこの地域への言及が少ない」

 

「意図的に削られているようにも見えるな」

 

「そうだ。問題はなぜ削る必要があったかだ」

 

 彼は嬉しそうに紙を広げた。研究の話になると途端に饒舌になるらしい。

 

 私は古びた帳簿をめくった。確かに不自然だった。周辺村落の名は細かく記されているのに、この村だけが抜け落ちている。まるで空白だ。

 

 その時だった。

 

「……また来ていたのですか」

 

 低い声に顔を上げる。

 

 司書の女だった。四十代ほどだろうか。疲れた顔をしている。彼女は机に積まれた史料を見ると、露骨に眉をひそめた。

 

「もうやめませんか」

 

 学者が不機嫌そうに顔をしかめる。

 

「何をだ」

 

「その研究ごっこですよ」

 

 空気が少し凍った。

 

「とうの昔に中央の学会に相手にされなかったでしょう。村の若い者まで妙な噂を信じ始めています。ここはただの寒村です。建国のそんな話を広められては困るんですよ。公共施設が危険思想の巣窟だなんて政府に目をつけられたどうなるか」

 

「私は事実を調べているだけだ。人の研究を危険呼ばわりしないでいただきたい」

 

「その事実で村が良くなりましたか? 過去を調べることに何の役に立つんです」

 

 司書は静かに言った。

 

「観光客が来るわけでもない。畑が増えるわけでもない。皆、静かに暮らしたいだけなんです。ここにある書物だってそんな大層なこと望んでないでしょう。日々の疲れを癒すために紙が捲られたら満足ですよ」

 

 学者は何も言わなかった。だが、机を掴む手だけがわずかに震えていた。

 

「……失礼する」

 

 短くそう言うと、彼は乱暴に分厚い史料を閉じ、そのまま建物を出ていった。

 

 私は慌てて後を追った。彼女の発言には読書を嗜む私にも思うところがあった。本を読む理由など人それぞれでいいのだ。それを言論の番人である司書が否定するなど許せることではなかった。

 

 外は曇天だった。冷たい風が吹き抜ける。

 

 学者は無言のまま坂道を歩き続けていた。やがて村外れを抜け、丘の方角へ向かう。

 

「遺跡へ行くのか?」

 

「……ああ」

 

 吐き捨てるような返事だった。

 

「文字は時に嘘をつく。人も嘘をつく。だが土地は消えん」

 

 彼は険しい顔で丘を見上げた。まるでその場所だけが、これまでの研究人生を支える最後の拠り所であるかのように、救いを求める表情だった。

 

「あそこだけは、あそこだけは」

ーー

 丘を越えた先に、その遺跡はあった。

 

 もっとも、私が想像していたような壮大な石造建築ではない。草に埋もれた石積み。崩れた土塁。ところどころ地面から顔を出す基礎石。乾いた風が吹くたびに土埃がさらさらと舞い、露出した石の表面は陽光の下でもどこか冷たく沈んで見えた。知らなければ、ただの荒れ地にしか見えなかった。

 

「これが例の遺跡か」

 

「ああ」

 

 学者は短く答える。

 

「昔から妙な場所なんだ。耕そうとすると石が出る。井戸を掘れば壁が出る」

 

 そう言いながら坂を下っていく。

 

 しかし私がまず気になったのは遺跡ではなかった。

 

 子どもたちである。十人ほどの子どもが石積みの間を走り回っていた。鬼ごっこのようだった。一人が追いかけ、残りが逃げる。ただ奇妙なのは、全員が同じ歌を叫んでいることだった。

 

 私は足を止めた。子どもたちの声が風に乗る。石垣の隙間を抜ける風がひゅうひゅうと鳴り、その音に混じって甲高い歌声が流れてくる。

 

 ――東の川へ逃げろ。

 

 ――東の川へ逃げろ。

 

 ――黒い旗が見えたなら。

 

 ――振り返るな。

 

 ――東の川へ逃げろ。

 

 歌というより囃子に近い。単純な旋律だ。

 

 だが、風に引き伸ばされた節回しは妙に耳に残り、無邪気な声で繰り返されるたびに薄気味悪さを増していた。鬼ごっこにしては妙に切迫している。

 

 子どもたちは楽しそうに笑いながら走っているが、言葉だけ聞けば避難の指示そのものだった。

 

「……何だあれは」

 

 私が尋ねると、学者はちらりと子どもたちを見た。

 

「ああ」

 

 少し考えるような顔になる。

 

「昔からある遊び歌だ」

 

「意味は?」

 

「知らん」

 

 即答だった。

 

「村の老人たちに聞いても同じ答えだ。昔から歌われている。理由は分からない」

 

 子どもたちは石積みを飛び越えながら歌い続ける。

 

 ――橋を渡れ。

 

 ――舟を隠せ。

 

 ――東の川へ逃げろ。

 

 乾いた風が吹き抜けるたび、歌声は途切れ途切れになりながらも遺跡のあちこちで反響し、まるで見えない誰かが同じ言葉を繰り返しているように聞こえた。

 

「記録は?」

 

「ない」

 

 学者は肩をすくめた。

 

「こういうものは腐るほどある。民謡、童歌、祭りの掛け声。大抵は意味を失って残る」

 

「なるほど」

 

 私は頷いた。だが視線は子どもたちから離れなかった。

 

 東。川。黒い旗。逃げろ。偶然にしては妙に具体的だった。

 

 ふと周囲を見回す。遺跡の東側には実際に川が流れている。それほど大きくはないが、人が渡るには十分な幅がある。

 

 足元の基礎石に触れてみると、指先にひやりとした冷たさが伝わった。夏の日差しの中だというのに、その感触だけが地中深くから残っているようだった。

 

「この歌が案外重要だったりしてな」

 

 私は何気なく呟いた後に川を指差した。

 

「東の川も実在している」

 

 学者は少し黙った。

 

「……ただの偶然だろう。だが、何らかの意図はあったのかもしれない」

 

 子どもたちがまた叫ぶ。

 

 ――振り返るな。

 

 ――東の川へ逃げろ。

 

 風が強まり、土埃が舞い上がる。その向こうで響く歌声は遊びのはずなのに、まるで遠い昔の警告が今も消えず残っているかのようだった。

 

 学者は腕を組んで子どもたちを見ていた。

 

 やがて小さく呟く。

 

「……逃げろ、か」

 

 その声には、今までになかった種類の迷いが混じっていた。

ーー

 それから数日、私は学者の研究を手伝った。もっとも、「研究」と呼べるほど華々しいものではない。古い土地台帳を読む。村人の昔話を書き留める。墓石の位置を地図に写す。倉庫に眠っていた記録を整理する。そんな地味な作業ばかりだった。だが学者は真剣だった。どんな些細な記録も見逃さない。百年前の農作物の収穫量ですら何かの手掛かりになると言う。私は感心すると同時に、よく何十年も続けられるものだと思った。そして七日目の夕方だった。

 

「今日は祭りだ」

 

 学者が唐突に言った。

 

「祭り?」

 

「この村で一番大きな祭りだ。年に一度しかない」

 

 私は少し意外だった。この静かな村に祭りなどあるのか。

 

「観光目的もあるのなら見ておくといい」

 

 そう言われたので、私は同行することにした。

 

 日が沈み始める頃、村人たちは次々と遺跡へ集まってきた。老人も若者もいる。子どもたちもいる。皆、小さな灯火を持っていた。夕暮れの空は群青色へと沈みつつあり、丘の上には冷たい風が吹いていた。その中を、人々の持つ灯火だけがぽつぽつと揺れている。遠くから見れば、まるで夜の海に浮かぶ小舟の灯のようだった。昼間とは違い、遺跡は妙な雰囲気を帯びていた。崩れた石積みの間を無数の灯が揺れている。石の隙間に落ちる橙色の光は、何百年も前に失われた街へ再び命を吹き込んでいるようにも見えた。子どもたちは普段より静かだった。老人たちは慣れた手つきで灯を並べ、若者たちは道を整える。誰も祭りの意味を語らない。それでも皆が当然のように集まり、当然のように準備を進めている。まるで昔からそうすることが決まっていたかのように。

 

「建国祭か?」

 

 私が尋ねる。

 

「違う」

 

 学者は首を振った。

 

「誰も由来など考えずにやっている。時間があればこの研究もしたいのだがな」

 

 祭りは圧巻だった。やがて村長らしき老人が前へ出る。短い挨拶の後、人々が手にした灯火を高く掲げた。風が吹く。無数の火が一斉に揺れた。その光景はどこか幻想的で、私は思わず息を呑んだ。そして次の瞬間、人々が一斉に動き始めた。私は目を見張った。彼らは遺跡の中央から川へ向かって走り始めたのだ。まるで競争だった。老人も若者も。子どもも。誰もが必死に東へ向かう。灯火の列が夜の草原を流れていく。笑い声も歓声もある。祭りらしい賑やかさだ。だが、その動きには妙な切迫感があった。誰も後ろを見ない。誰も立ち止まらない。ただ東へ。ただ川へ。その姿は祭りというより避難の行列に見えた。

 

「……何だこれは」

 

 私が呟く頃には、人々は川辺へ到着していた。月明かりを受けた川面が銀色に光っている。村人たちはそこで木桶や器に水を汲む。子どもたちは競うように水を掬い、老人たちは慎重に両手で抱える。誰も水をこぼさないようにしていた。それから再び遺跡へ戻ってくる。灯火の列が今度は逆方向へ流れる。夜の闇の中を、水と火が運ばれていく。その光景はどこか神秘的だった。

 

 遺跡へ戻ると、人々は静かに膝をついた。先ほどまでの賑やかさが嘘のように消える。誰も喋らない。誰も笑わない。ただ汲んできた水を前へ置き、深く頭を下げる。額が地面につくほど深く。灯火だけが揺れている。風が吹くたびに火が震え、その光が伏した人々の背中を照らした。

 

 私はその光景を見つめた。何かが胸に引っかかる。美しい。だが同時に、どこか悲しい。そんな感覚だった。

 

「……似ているな」

 

 しばらくして私がぽつりと言うと、学者が振り向いた。

 

「何にだ」

 

「南方の海の向こうで見た儀礼だ」

 

 私は記憶を辿った。

 

「ずいぶん遠い国だ。昔、戦争で敗れた部族が勝者へ服従を誓う儀式として行っていた」

 

 学者の表情が変わる。

 

「地面へ膝をつき、頭を下げ、水や食物を差し出す。細部は違うが、動きが妙に似ている」

 

 学者は何も言わなかった。ただ祭りを見ている。村人たちは低い声で祈りの言葉を唱えていた。意味は分からない。だがその響きは古く、どこか物悲しい。夜風に乗って流れるその声は、まるで遠い昔から届いているようだった。

 

「もちろん偶然かもしれない」

 

 私は肩をすくめた。

 

「祭りなんて似たようなものが世界中にあるしな」

 

 だが学者は返事をしなかった。彼の目が変わっていた。先ほどまで祭りを眺めていた視線ではない。何かを追い始めた目だった。遺跡から川へ走る。水を汲む。戻る。膝をつく。頭を下げる。彼はその流れを何度も目でなぞっていた。まるで見えない線を引くように。

 

「……なぜ川だと思う」

 

 やがて彼が呟く。

 

「何?」

 

「感謝の祭りなら泉でも井戸でもいい。遺跡には昔、井戸があったことが分かっている」

 

 声が少し震えていた。

 

「なぜわざわざ東の川まで走る」

 

 私は答えられなかった。だが学者はもう私を見ていなかった。彼の頭の中では別の景色が広がっているようだった。昼間の子どもたち。石積みの間を走り回る姿。歌。――東の川へ逃げろ。――橋を渡れ。――舟を隠せ。その言葉。そして今の祭り。東へ走る村人たち。川の水。額を地面につけるほど深い礼。学者の唇がわずかに動く。

 

「逃げろ……東へ……川へ……」

 

 その瞬間、私は彼の頭の中で何かが回り始めたのを感じた。何十年も集め続けた断片。土地台帳。墓地の配置。消された村の記録。老人たちの昔話。意味不明の童歌。図書館で読んだ徴税記録。そして今見ている祭り。それらが一斉に浮かび上がり、組み替えられている。学者は額を押さえた。

 

「いや……待て……」

 

 独り言だった。

 

「もしこれは感謝ではなく記憶なら……」

 

 視線が川へ向く。

 

「逃げた先が川だった?」

 

 今度は遺跡を見る。

 

「ならここは……」

 

 言葉が途中で止まる。彼は再び首を振った。

 

「違う。飛躍しすぎだ」

 

 だが次の瞬間には別のことを考えている。

 

「いや、だが童歌だけではない。祭りも同じ方向を指している」

 

 呼吸が少し速くなっていた。私は初めて見た。学者が興奮している姿を。普段はどんな史料を見ても冷静な男だった。仮説を立てても慎重で、証拠が足りないと言っては保留する。その男が今、頭の中で猛烈な勢いで計算していた。何十年も積み上げた知識が、一つの可能性へ向かって雪崩を起こしている。

 

「……そんな簡単なことを見逃していたというのか」

 

 彼は呆然と呟いた。

 

「私は文字こそが真実だと思っていた。だがこれは何だ」

 

 夜風が吹く。灯火が揺れる。伏した人々の影が遺跡の石壁に長く伸びる。その姿は祈る者たちというより、何かから逃れ、生き延びた者たちのように見えた。そしてその時初めて、学者は祭りを研究対象としてではなく、歴史そのものが残した傷跡として見ていた。

ーー

 私が村を発つ日、朝はよく晴れていた。荷車の紐を締め直しながら振り返る。相変わらず寒村だった。立派な城もなければ市場もない。旅人がわざわざ立ち寄る理由などほとんどない場所だ。だが、ほんの数週間前よりは少し違って見えた。遺跡の石積み。東へ流れる川。子どもたちの遊び歌。名前も知らない祭り。そのどれもが何かを隠しているように思えた。

 

 謎は謎のままの方が面白いこともある。少なくとも私は部外者だ。これ以上学者の研究に首を突っ込むより、ここで別れる方がいいだろう。そう考え、私は学者に別れを告げることにした。

 

 村外れでは学者が待っていた。相変わらず髪は乱れ、服も古い。だが妙に機嫌が良さそうだった。

 

「もう行くのか」

 

「旅人だからな」

 

「いや、お前はもう私の助手だ」

 

 学者は笑った。

 

「お前が来てから忙しくなった」

 

 彼は抱えていた紙束を軽く持ち上げた。

 

「歌と祭りを調べ直さなければならん」

 

「それは良かった」

 

「良くない。調べることが三倍に増えた」

 

 そう言いながら口元は少し笑っている。以前図書館で見たときよりも、ずっと生き生きしていた。

 

「東の川へ逃げろ、か。昔は意味のない遊び歌だと思っていた」

 

「今は?」

 

「分からん。考えれば考えるほど仮説は分裂する」

 

 正直な答えだった。

 

「だが、分からないから面白い」

 

 その言葉に私は少しだけ笑った。たしかに歴史学者らしい。答えより謎の方を喜んでいる。

 

「祭りも変だ。感謝の祭りのはずなのに感謝しているようには見えない」

 

「服従の儀式に見えると言っていたな」

 

「あれも調べる。古い地図も見直す。伝承も集める。周辺の村も回る。遺跡の測量もやり直す」

 

 私は思わず苦笑した。

 

「何十年かかるんだ」

 

「知らん」

 

 学者も肩をすくめる。

 

「だがいつか必ず突き止める。この村に何があったのか。なぜ誰も語らないのか。なぜ記録から消されたのか」

 

 風が吹き、紙束の端が揺れた。

 

「成果を国中に轟かせてやる」

 

 その宣言は少し滑稽だった。寒村の片隅で周囲から変人扱いされている学者。資金もない。地位もない。協力者もいない。そんな男が国の歴史を書き換えると言っている。だが不思議と笑う気にはなれなかった。彼は本気だったからだ。

 

「期待している」

 

 私がそう言うと、学者は鼻を鳴らした。

 

「軽々しく期待するな」

 

「どっちなんだ」

 

「鉱脈を探して山を掘るようなものだ。どこにあるかも分からない。大半はただの石だし、何年掘っても何も出ないこともある。それでも少しずつ土をどかし、石を砕き、昨日より一歩だけ先へ進む」

 

 実に学者らしい返答だった。

 

 私は荷車の取っ手を握る。

 

「では」

 

「ああ」

 

 短い別れだった。私は歩き出した。学者はしばらくその場に立っていたが、やがて村の方へ戻っていった。もう頭の中は研究のことでいっぱいなのだろう。

 

 私はその背中を見送りながら思う。たぶん、おそらく、彼が生きているうちに答えは出ない。そんな気がした。歴史というものはあまりにも遠い。証拠は失われる。記録は燃える。伝承は変質する。真実は地面の奥へ沈み続ける。学者一人の人生など、果てしない過去に比べればあまりにも短い。彼自身もきっと分かっている。それでも調べ続けるのだ。答えを得るためだけではなく、次の誰かに渡すために。歌を書き留める。祭りを記録する。地図を作る。仮説を残す。そうやって少しずつ土台を積み上げる。そして何十年後か、あるいは百年後か、誰かがその上に立つ。彼が見つけられなかった証拠を見つけ、彼が解けなかった謎を解く。その時になって初めて、この寒村に埋もれていた歴史が日の下へ出るのかもしれない。

 

 私はふと思い出す。かつて出会った画家のことを。絵を描く男だった。彼は、自分が描いた人物が後世に残るなど考えてもいない。それでも描いた。誰かがここで生きていた証を残すために。歴史学者も少し似ている。彼らは過去を作れない。英雄にもなれない。ただ記録するだけだ。それでも誰かがやらなければならない。

 

 私は荷車を引く。遠ざかる村を振り返る。小さな遺跡が見えた。子どもたちの声も聞こえる。

 

 ――東の川へ逃げろ。

 

 意味のない歌かもしれない。あるいは千年前の叫びかもしれない。今はまだ誰にも分からない。だが一人の学者は、その違いを知りたいと願っている。そしてきっと、それこそが歴史学という営みなのだろう。

 

 私は前を向いた。

 

 人生は旅だ。

 

 歩みを止めなければ、いつか誰かが続きを見つける。

 

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