家出人、別名「歴史の観測者」   作:未来で勘違い

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教育家編

 

 

「麦酒二つ追加だ!」「こっちは肉の煮込み!」「おい坊主、皿が足りねえぞ!」 「お前注ぐ量をわざと減らしてるな!」

 

 怒鳴り声と笑い声が飛び交い、ジョッキで傷だらけの卓を叩く音が響く。酒と焼いた肉の匂いが立ち込める店内を私は汗だくで行き交っていた。

 

 そうしながらここで働くまでのことを思い出す。

 

 どうして元貴族の私が厳粛な実家の食卓と真逆の荒々しい酒場で皿を運んでいるのか。答えは単純だ。金がないからである。家を抜け出し、持っていた金も旅の途中で底をつき、次の町へ向かうこともできない。つまり現状を把握すれば私は浮浪者に等しい。すぐにでも生活費と旅費を稼ぐ必要に駆られたが、この国で身元のはっきりしない男を雇う主人を見つけるのは時間がかかった。

 

 幸いこの町の酒場の主人は気前のいい男だった。客として何度か通っているうちに話が合い、求職中なのを伝えると「そんなに暇なら働け」と半ば同情心をもって言われ、そのまま雇われたのである。

 

 仕事は決して楽ではない。朝は樽を運び、昼は皿を洗い、夜になれば酔っ払いの相手をする。飲酒をせずとも心身に異常をきたしそうになった。それでも不思議と嫌ではなかった。旅の途中では人と話す機会も多いが、酒場にはまた違った面白さがある。港で稼ぐ船乗り、景気のいい商人、失恋話を延々と語る職人。酒が入れば皆聞いてもないことをよく喋るし、時には思いもよらない話が聞ける。近所の庭師の手拭いは下着で出来ている話や向かいの果物屋の柑橘系はうちの酒を養分にして育てたといったものだ。主人も客もいい加減な振る舞いをするが、気づけば私はすっかりこの店に馴染んでいた。

 

 そんな中で特に親しくなったのが給仕の青年だった。本人の自称する年齢からすれば私と同年代の青年と言えるが、それよりもずっと幼く見えた。その童顔らしからぬ深い隈を目の下につけているのも特徴だ。働き者というほどではないが要領は良く、客の懐に入るのも上手い。忙しい時間が終われば二人で余った料理をつつきながら他愛もない話をした。酒は飲めないそうなのでお互いに控えた。

 

 小さな違和感が間違っていなかったことに気づくのはある日のこと。昼間、街の中心地へ買い出しに出かけた私は、人混みの向こうに見覚えのある姿を見つけて足を止めた。

 

 制服姿の彼だった。

 

 酒場ではいつも動きやすい仕事着しか見たことがない。だがその日は、仕立ての良い濃紺の制服を身にまとい、胸元には見慣れない徽章が輝いていた。周囲には同じ制服の者たちもいて、どう見てもただの給仕仲間には見えない。

 

 彼は酒場で見せる気安い笑顔ではなく、どこか張り詰めた表情で通りを歩いていた。

 

 そういえば彼は客の相手も上手かったが、言葉遣いには時折不自然なほど洗練されたところがあった。忙しい時間帯でも周囲を観察する癖があり、町の出来事にも妙に詳しい。

 

 ただ利発な青年なのだと思っていた。だが今思えば、給仕にしては言葉遣いが整いすぎていた。今目の前にいる彼は、酒場で働く少年とは別人で制服姿がしっくりきた。

 

 その姿を見た瞬間、これまで胸の奥に引っかかっていた小さな違和感が一気に形を持った。

 

 眺めていると、不意に彼と目が合った。私は目を逸らして立ち去った。

ーー

 私はその日のことを主人には告げ口しなかった。中等学生が酒場で働いているからといって私に害があるわけでもないし、本人が望んで働いているならそのままにしておけば良いと考えた。彼が自分から話したくなるまで放っておけばいいだろうと思っていた。

 

 そこからさらに数日後、店が開く前のことだった。樽を運び終えた私のところへ彼がやって来た。いつもの気軽な様子はなく、どこか落ち着かない顔をしている。

 

「見ましたよね」

 

 何のことかとぼけることはしなかった。

 

「街で」

 

「ああ」

 

 彼はしばらく口をもごもご動かしていたが、やがて覚悟を決めたように口を開いた。

 

「店長には言わないでください」

 

「言うつもりはないが」

 

 彼はほっとしたように息を吐くとすぐに切羽詰まった顔をした。

 

「学校にも本当に黙っていてくれますか」

 

「もちろん」

 

 私が即答に彼は拍子抜けした。もっと説教でもされると思っていたのかもしれない。

 

 酒場の賃金は決して高くない。退学の危険まで冒して身を粉にして働く理由は何だろうか。客のほら話を聞きたくて、というのはまさか考えられなかった。

 

「学費か」

 

 彼の表情が固まる。

 

「家の事情か」

 

 私がそう尋ねると、彼はしばらく黙っていた。言うべきか迷っているようだったが、やがて小さくため息をつく。

 

「父が病気なんです」

 

 その一言で大体の事情は察せられた。

 

「元々余裕のある家じゃありませんでした。父が倒れてからはもっと厳しくなって……学費も何度か滞納しています」

 

 彼は自嘲気味に笑った。

 

「本当なら退学して働くべきなんでしょうけど」

 

「そういう者も多いな」

 

「あと一年なんです」

 

 その言葉には妙な力があった。

 

 聞けば彼は学年でも常に上位の成績を維持しているらしい。そして主席で卒業できれば、高等部への進学資格と学費免除を得られるという。

 

「だから今辞めたら全部無駄になるんです。高等部に進めればもっと良い仕事に就ける可能性もありますし、父の治療費だって返せるかもしれない」

 

 「まあ、そんなに上手くいく保証はありませんけど」

 

 私は黙って話を聞いていた。学生というものは大変だなと思う。私が彼くらいの年齢だった頃は、勉強だけでなく剣術や舞踏会の作法を覚える方も重要だった。だが少なくとも学費の心配をしたことはない。

 

「いくら足りないんだ」

 

 彼は目を瞬かせた。

 

「え?」

 

「だから、卒業までに必要な金だ」

 

「いや、そんな話じゃ」

 

「いくらだ」

 

 私が重ねて尋ねると、彼は困ったように頭を掻いた。

 

「今すぐ全部必要なわけじゃありません。ただ滞納分と来期の納付分を合わせると……」

 

 彼が口にした金額は、確かに学生一人が酒場の給金だけで捻出するには重かった。一人で背負うのであれば。

 

 私は懐から革袋を取り出し、中の硬貨を数えて彼へ差し出した。生活費を今や酒場で稼ぐ私も裕福な方ではないが、親しくなった仲間に手を差し伸べるのは自然な事だった。

 

「これでいいか」

 

 彼は一瞬何をされたのか理解できないという顔をした。

 

「……え?」

「いや、受け取れません」

 

 返事は即座だった。

 

「なぜ」

 

「なぜって……そんな大金」

 

 彼は誘惑を断つように慌てて首を振る。

 

「借りる理由がありません」

 

「投資と思えばいい」

 

 私がそう言うと、彼はますます困惑した。

 

「投資ですか?」

 

「ああ。君は成績が良いのだろう。主席で卒業できれば高等部にも進める。なら将来もっと稼げるようになるかもしれない」

 

「その時に、酒場で働いているどこかの貧乏な旅人へ酒の一杯でも奢ってくれれば十分だ」

 

 彼はしばらく黙っていた。受け取るべきか、それとも断るべきか。真面目な性格らしく葛藤しているのがよく分かる。

 

やがて彼は観念したように頭を下げた。

 

「……必ず返します」

 

「返さなくてもいい」

 

「返します」

 

 妙に頑固な声だった。

 

 その日から私たちの関係は少し変わった。私は時折、学費や書籍代の足しになる程度の金を渡し、代わりに彼から学校の話を聞いた。授業のこと、試験のこと、教師の愚痴、将来の夢。私には縁のなかった世界の話ばかりだったが、なかなか面白かった。彼もまた旅の話を聞きたがり、仕事終わりには二人で厨房の片隅に座って夜更けまで語り合うこともあった。

ーー

 そんな奇妙な関係は数か月後、唐突に終わりを告げる。

 

 ある夜、店じまいの後だった。私は空になった樽を裏口へ運び、冷えた夜風に当たりながら宿へ向かっていた。人気の少ない路地を通りかかった時、前方から若者たちの笑い声が聞こえてくる。酒瓶を回し飲みし、煙草の煙を吐きながら騒ぐ不良少年たちだった。

 

 私は特に気にせず通り過ぎようとしたが、その中に見覚えのある顔を見つけて足を止めた。

 

 彼だった。制服こそ着ていなかったが見間違えるはずがない。優等生である反面このような人付き合いもしているのかと驚いたその瞬間、彼も私に気づいた。

 

 あの日、街中で制服姿を見られた時と同じように目が合う。ほんの一瞬だったが、彼の表情が強張ったのが分かった。

 

 私は何も言わなかったし、向こうも何も言わなかった。ただそのまま互いに視線を逸らし、私は歩き去った。

 

 次に店で顔を合わせた時、彼は明らかに私を避けていた。

 

 注文を伝える時も必要以上に近寄らない。休憩時間も別の場所にいる。以前なら仕事終わりに雑談をしていたのに、その日は目を合わせようともしなかった。理由は考えるまでもない。

 

 彼は学費を稼ぐために働き、病気の父を支え、将来のために勉強している。ついでに私からも金を貰っている。そんな自分が不良仲間と酒を飲んでいるところを見られたのだから気まずいのも当然だった。

 

 とはいえ私としては彼への失望や怒りは微塵も湧かなかった。……友人はしっかりと選んだ方が身の為だと思うが。彼にはむしろ無理して酒を飲んでいたことへ心配があったので、気遣うつもりで私から話しかけることにした。

 

 忙しい時間帯だった。客の怒鳴り声と笑い声が飛び交い、皿のぶつかる音が絶えない。

 

 すれ違いざま、私は彼にだけ聞こえる声でささやいた。

 

「酒はやめた方がいい」

 

 彼の肩がぴくりと震える。

 

「君の身体には合っていない」

 

 続けて酔って頭に瓶を乗せた大道芸人の常連客を顎で示した。

 

「そのうちにああなる」

 

 彼はしばらく何も言わなかったが、やがて小さく

 

「……ごめんなさい」

 

 とだけ呟いた。

 

 私は別に謝らせるつもりはなかった。彼を誤解させる声かけをしてしまったかもしれないと反省した。

 

 その後、彼はほとんど口を利かなかった。そして翌日、店に来なかった。その次の日も。さらにその次の日も。

 

 主人は「若い奴は気まぐれだ。そういうお年頃なのさ」と笑っていたが、私は彼の茶化しに上手く反応できなかった。

ーー

 彼が店へ来なくなって一か月が過ぎた。

 

 相変わらず主人はそのうち戻るだろうと言っていたが心配の色が見えた。私はどうにも気になったので休みの日に彼の通う中等学校へ向かうことにした。校門の前で待っていれば会えるだろうと思っただけで、特別な考えがあったわけではない。

 

 放課後、生徒たちが次々と校舎から出てくる。その中に彼の姿もあった。だが声をかけようとして私は足を止めた。

 

 彼は一人ではなかった。あの日路地で見かけた不良少年たちに囲まれていたのである。彼らは彼の鞄を奪って荷物を持たせ、飲み物を買いに行かせ、気に入らないことがあると肩を小突いて笑っていた。友人同士のじゃれ合いではない。誰が見ても分かる程度には、一方的な関係だった。

 

 私はしばらく様子を見ていたが、そのうち一人が彼の頭を強く叩いた。

 

 そこで考えるのをやめた。近づき、彼を庇うように間へ入る。

 

 「なんだおっさん」

 

 不良の一人が睨んできた。

 

 私は何も答えなかった。その後のことはあまり覚えていない。気づけば数人が地面に転がり、残りは罵声を吐きながら逃げていた。「おっさん」という言葉に反応した訳では断じてない。

 

 彼は呆然と私を見ていた。

 

「帰るぞ」

 

 彼は抵抗せずについてきた。帰り道の間、しばらく会話はなかった。夕暮れの街を二人で歩き、彼の方から口を開くのを待つ。

 

「情けないですよね。主席目指すって話した奴がこんな風になるなんて」

 

 私は返事をしなかった。すると彼は観念したように笑った。

 

「最初は断ってたんです。でも勉強も家のことも全部上手くいかなくなって……。あいつらといる時だけ、何も考えなくて済んだ。酒も嫌な事を忘れさせてくれるって教わりました」

 

 彼は俯く。

 

「それに、貰ったお金も使いました」

 

「そうか」

 

「学費じゃなくて奴らのために」

 

「そうか」

 

 私の反応が薄かったのが意外だったのか、彼は困ったような顔をした。

 

「怒らないんですか? あなたのお金ですよ」

 

 私は少し考えた。

 

「私は投資だと言ったはずだ。多少の損はつきものだ」

 

 彼は何も言えなくなる。しばらく歩いてから私は尋ねた。

 

「もう目指さないのか」

 

 その言葉に彼の肩が震えた。

 

「主席は……無理です」

 

「なぜ」

 

「この状態を見ればわかるでしょう!」

 

「今は、だろう。まだ卒業まで時間はある」

 

 彼は答えない。

 

 私は酒場で見てきた客たちの顔を思い浮かべた。商売に失敗した者。家族を失った者。夢を諦めた者。皆、酒を飲みながら同じ話をする。

 

 あの時こうしていれば、と。

 

「私の金のことは気にしなくていい」

 

「だが落ちぶれた後になって、いつもの酒場に座りながら後悔を口にする客にはなるな」

 

 彼は黙ったまま歩いていた。

 

 やがて住宅街の外れにある小さな家へ辿り着く。壁は古く、屋根も傷んでいる。彼が話していた通り、暮らし向きは決して良くなさそうだった。

 

 扉が開く。中から小さな少女が飛び出してきた。

 

「お兄ちゃん!」

 

 彼女は彼へ駆け寄り、その姿を見た彼の表情が少しだけ柔らかくなる。

 

 私はその様子を見て言った。

 

「主人もこの子のようにして待っているぞ」

 

「……え?」

 

「戻ってこない給仕の代わりを探すのは面倒らしい」

 

 私は軽く手を振り、そのまま踵を返した。

ーー

 彼が酒場へ戻ってきたのは、その数日後の昼下がりだった。扉を開けて入ってきた彼を見た瞬間、主人は大声を上げた。

 

「おお、生きてたか! 親愛なる給仕よ」

 

 客たちがどっと笑う。彼が困惑していると、主人は機嫌良さそうに肩を叩いた。

 

「お前が戻ってくるかどうかで賭けをしてたんだ」

 

「賭けですか」

 

「そうだ」

 

 彼は呆れた顔で私を見る。私は知らないふりをした。

 

「ちなみに店長はどっちに賭けたんですか」

 

 主人は盛大にため息をついた。

 

「まあその話はいいじゃないか。かなりの額負けたのさ」

 

 店内がまた笑いに包まれる。常連の一人が野次を飛ばした。

 

「自分の部下を信じないなんてクソ主人だ!」

 

「商売人は現実的なんだ」

 

 そんな客とのやり取りを聞きながら、私は彼の顔色を見ていた。以前より痩せている。目の下には濃い隈ができていた。

 

 それでも逃げるような雰囲気はなかった。笑われても言い返さず、からかわれても視線を逸らさない。どこか張り詰めたものを抱えながらも、自分の足でここへ戻ってきた人間の顔をしていた。

 

 主人が冗談半分に言った。

 

「で、どうだった。悩みは取れたか」

 

 彼は少しだけ考え、それから静かに首を振った。

 

「まだです」

 

 その一言に彼の真剣さを感じ、店内の笑いが一瞬だけ止まる。彼自身も気づいていないのかもしれない。数日の間に、何かが決定的に変わっていたことを。

 

 逃げるか、立ち向かうか。その選択を終えたようだ。

 

 それからの日々、彼は本当によく働いた。昼は学校へ行き、放課後は酒場で働き、閉店後は勉強する。

 

 時折店の隅で眠りそうになっていることもあった。

 

 私は勉強など得意ではなかったが、歴史や地理、語学くらいなら多少は教えられる。試験前になると客のいない時間に問題を出してやることもあった。

 

 以前は疲れると弱音を吐くこともあったが、その頃の彼は違った。間違えた問題があれば黙って解き直し、分からなければ納得するまで質問する。

 

 閉店後、誰もいなくなった店で一人ノートに向かう姿を何度も見た。眠気で文字が歪んでも、顔を洗って戻ってくる。

 

 諦める理由ならいくらでもあったはずなのに、彼はそれを一つも口にしなかった。

 

 ある日、私は主人へ尋ねた。

 

「ところで彼が学生だということは知っていたのか」

 

 主人は不思議そうな顔をした。

 

「当たり前だろ」

 

 私は思わず黙った。近くで酒を飲んでいた常連が吹き出す。

 

「制服着たまま裏口から入ってくるところ何度も見たぞ」

「勉強道具も持ってたしな」

「隠す気あったのかあいつ」

 

 皆が口々に言う。主人は肩を竦めた。

 

「まあ事情があるんだろうと思ってな。本人が言うまで知らんふりしてただけだ。俺たちは紳士だからそれくらいのことはできる」

 

 どうやら秘密だと思っていたのは私たちだけだったらしい。

 

 季節はあっという間に過ぎ、ついに最終試験が終わった。卒業式を目前に控えたある日の夕方には酒場の誰もがその結果を気にしていた。主人も客たちも落ち着かない。いつもなら競馬や景気の話をしている連中まで、彼が入って来る扉ばかり見ている。

 

 扉を開けた瞬間、店内が静かになる。皆が彼を見る。しかし彼の表情を見た瞬間、皆は察した。

 

 駄目だったのだろう、と。

 

 あれだけ努力しても届かなかったのかと思った。だが話を聞くと違った。

 

「主席でした」

 

 店内が歓声に包まれる。主人など涙ぐんでいる。ついでに初対面の客も号泣している。だが彼は唇を噛み締めており、全く嬉しそうではなかった。

 

「高等部への推薦は取り消されました」

 

 静まり返る店内で、彼は絞り出すように続ける。

 

「学費の滞納歴があること、家庭環境が不安定なこと、それに酒場で働いていた件も調査で知られたそうです」

 

 誰も何も言わない。

 

「学校としては、主席に相応しくない生徒を特待生には制度上できないとその日に言われました」

 

「おいふざけるな」

 

 一瞬の沈黙の後誰かが吐き捨てた。続いて別の客が机を叩く。

 

「病気の父親を支えながら主席になった奴が相応しくないだと?」

「相応しくないのは学校の方だろうが」

「成績で決めると言っておいて後から条件を増やすな」

 

 主人も珍しく怒っていた。顔を真っ赤にして酒瓶を握りしめている。

 

 彼だけが俯いたままだった。だが私は知っていた。数か月前の彼なら、この場に来ることすらできなかっただろう。理不尽を突きつけられれば、自分が悪かったのだとすぐに諦めていたはずだ。それでも彼はここへ来た。俯いてはいたが、逃げてはいなかった。震える声だが事実を話した。

 

 重苦しい沈黙が店内を支配していた。彼は俯いたまま拳を握り締めている。私はしばらく考えた。学校が問題にしているのが彼の能力ではないのなら、解決策は単純なはずだ。長い長い数か月の苦学が、理不尽な一言で否定されたのだから、黙っている方が後味が悪かった。私は沈黙を破った。

 

「つまり、身元を保証できる人間がいればいいのか」

 

 彼は顔を上げた。

 

「え?」

 

「なら保証すればいい」

 

 彼は力なく笑った。

 

「そんな簡単な話じゃありません」

 

「なぜだ」

 

「保証人になれるような知り合いなんていません。貧しい家ですし、親戚も頼れません」

 

 私は首を傾げる。私自身、この国の制度には疎い。だが、彼の話を聞く限り、必要なのは信用を示す人間だ。もしそうなら、私が名乗り出る理由は十分にあるように思えた。

 

「私がなればいいんじゃないか」

 

 その瞬間、店内が静まり返った。客の一人が飲みかけの酒を吹き出しそうになり、主人は固まったままこちらを見ている。やがて主人が低い声で言った。

 

「お前、この国で保証人になる意味を分かって言ってるのか」

 

 私は少し考えた。正直なところ、よく分かっていなかった。皆の反応を見る限り、私が想像していたよりずっと重い話なのだろう。だが今さらそう答えるわけにもいかないし、何より、意味を知らないからといって彼を見捨てる理由になるとも思えなかった。

 

「卒業させるために必要なんだろう」

 

「それだけじゃねえ」

 

 主人は机を叩く。

 

「何かあれば責任は全部保証人に降りかかる。借金を作れば保証人が肩代わりする。罪を犯せば保証人も同罪と見なされることだってある。最悪の場合財産どころか命で償わされるんだぞ。この国で保証人になるってのはな、そいつの人生に自分の人生を縛り付けるってことだ」

 

 店内の客たちも真剣な顔で頷いている。

 

 私は彼を見る。数か月前から今に至る姿。確かに一度は道を踏み外しかけた。だが戻ってきた。逃げずに勉強を続けた。そして主席になった。それを私は知っている。

 

 もちろん未来のことなど誰にも分からない。学校は彼が問題を起こす未来を恐れ、主人は責任を背負う未来を案じている。そして私は、彼が成功する未来を勝手に信じているだけだった。それでもここまで見てきた彼を疑い、顔も知らない制度上の危険を信じる気にはなれなかった。

 

「別に構わない」

 

 私は言った。

 

「私は賢い制度の話は分からん」

 

 主人が呆れた顔をする。

 

「だが、こいつがどんな人間かは知っている」

 

 私は彼を紹介するように手を向けた。

 

「これ以上何を証明しろと言うんだ」

 

 誰も何も言わなかった。彼だけが目を見開いている。

 

 私は肩を竦める。本当は少しだけ不安もある。だが、それ以上に、この少年なら信じる価値があるという確信の方が強かった。

 

「私なら喜んで賭けよう」

 

 沈黙の後、別の者が核心に触れるように口にする。

 

「待て。こいつが将来犯罪者になったらどうする? 責任取れるのか」

「止めろそんな事言うな」

 

 場は学生を置いて荒れようかという時、急に頭を抱え出した主人に視線が集まる。

 

「……馬鹿だな」

 

「本当に馬鹿だ」

 

 そう言いながら立ち上がる。

 

「だが、一人に全部背負わせるのはもっと馬鹿だ」

 

 主人は彼の方を向いた。

 

「俺も名前を貸す」

 

 今度は常連客の一人が立ち上がった。

 

「仕方ねえな。これも賭けだ」

「俺も乗る」

「俺もだ」

「何かあったら店主になすりつければいいしな」

 

 気づけば次々と手が挙がっていた。船乗り。商人。職人。酒場の常連たち。皆が笑っている。

 

 彼は何が起きているのか理解できないという顔をしていた。やがて目を真っ赤にして呟く。

 

「どうして……」

 

 主人は豪快に笑って返した。誰かが口笛を吹き、誰かが杯を掲げる。酒瓶同士がぶつかり合い、笑い声が天井を揺らした。

 

「よし! 明日学校に乗り込むぞ!」

 

「おう!」

「文句があるなら俺たち全員に言ってもらおうじゃねえか!」

 

 野次とも応援ともつかない声が飛び交い、誰かが追加の酒を注文し、主人が「今日は祝いだ!」と叫ぶ。酒場はますます勢いを増し、まるで祭り当日の広場のような熱狂に包まれていた。

ーー

 卒業式の日はよく晴れていた。私たちは特例で学校へ足を運んだ。主人は「こんな堅苦しい場所は性に合わん」と文句を言いながら一番前の席に座り、常連たちも妙に身なりを整えて集まっている。

 

 そして壇上にいた彼は以前のような擦り切れた服ではなかった。卒業生の正装に身を包み、背筋を伸ばして立っている。

 

 名前が呼ばれ、賞状が渡される。主人は隣で目を赤くして鼻をすすっていた。

 

 彼の挨拶は酒場で眠い目を擦りながら勉強していた姿を知っている私たちには不思議と胸に響いた。

 

 式が終わった後私は主人へ打ち明けた。

 

「ところで私も卒業しようと思う」

 

 主人が顔をしかめる。

 

「何の話だ」

 

「この酒場だ」

 

 私は肩を竦めた。

 

「……そうか」

 

 主人はしばらく黙っていた。驚くほどあっさりしている。いや、あっさりしたふりをしているだけかもしれない。

 

「また会おうとは言わねえ、酒場の人間は女々しく別れを惜しみはしない。お前だってそうだろう? 旅には終わりがある」

 

 私は曖昧な笑みで誤魔化した。

 

「どこかで働けよ。少なくとも酒の扱いは覚えただろう」

 

「ああ。客の作り話をあしらうこともな」

 

 短い会話だった。だがそれで十分だった。

 

 私は酒場へ戻らず、そのまま街の門へ向かった。門を抜ける前に一度だけ振り返る。見慣れた街並みが春の陽射しの中に広がっていた。

 

 旅路へ戻ろうとして立派な服を着た一人の青年が立っていることに気づいた。どうやら先回りされていたらしい。

 

「待っていたのか」

 

「はい」

 

 彼は笑った。以前より少し大人びた顔だった。私は軽く手を挙げる。

 

「卒業おめでとう」

 

「ありがとうございます」

 

 彼はこれ以上ないほど深く頭を下げた。そしてしばらく黙り込む。何か言おうとしているのだろう。

 

 春の風が吹き抜けた。彼は遠くを見るような目をしたまま言う。

 

「将来、何をするべきか考えていられませんでした」

 

 私は黙って聞く。

 

「でも」

 

 彼は少し笑った。

 

「あなたたちを見ていたら、やりたいことが見つかった気がします」

 

 それが何を指すのか聞くことはしなかった。この子がどんな未来を手にするのか、帰り道を歩きながら想像したかったからだ。

 

「ほう、楽しみにしている。頑張れ」

 

 ありきたりな言葉だった。しかし彼は嬉しそうに笑った。

 

 私は手を振り、そのまま街道へ足を向ける。

 

「私に賭けたリターンは大きいですよ!」

 

 投資なのだからそうでなくては困る。背後からの声に私は振り返らなかった。ただ片手を上げて応え、そのまま歩き続けた。

 

 背中に感じる街は一冊読み終えた本のように静かに頁を閉じていく。

 

 あの少年は学び舎を卒業し、未来へ向かう道を見つけた。そして私もまた、この街と酒場の日々を卒業して次の道へ進む。

 

 自ら選んだ別れに少し胸が痛む。この切なさはそれぞれが自分の地図を手にし、違う空の下へ歩き出すための合図なのだろう。そう言い聞かせると春風が吹き、街道脇の若葉が揺れた。私はその風に背を押されるまま歩く。

 

 高く広がる春の空の下、交わった旅路は再び分かれ、それぞれの未来へ続いていく。

 

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