家出人、別名「歴史の観測者」   作:未来で勘違い

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コメディアン編

 その国は近代化の波に乗り、これまで見たことがないほど目覚ましい発展を遂げていた。私は秋の終わりにその首都を訪れた。かつて石畳だった大通りは舗装され、馬車と蒸気機関車が並んで走っている。街路には電灯が立ち並び、夜になっても人の流れは途絶えない。巨大な駅舎からは一日に何本もの列車が発着し、各地から商人や労働者、観光客が押し寄せていた。

 

 駅前広場は騒々しいほどの活気に満ちていた。新聞売りの少年が号外を掲げて走り回り、楽団が演奏を披露し、露店商たちは声を張り上げて客を呼び込んでいる。私は帳面を片手に広場を歩いていた。この国の近代化政策について記録するためである。

 

 すると広場の片隅に人だかりを見つけた。正確には、人だかりになり損ねた集団だった。十数人ほどの通行人が足を止めているものの、その多くは退屈そうな顔をしている。中心には一人の若い女が立っていた。年齢は二十代半ばほどだろうか。派手な衣装ではないが、人目を引く話し方をする。手振りを交えながら身振り大きく物語を語っていた。

 

「そこで伯爵様は言ったんです。『私に任せろ』と!」

 

 女は胸を張った。

 

「ところが任された結果どうなったと思います?」

 

 観客は静かだった。女はしばらく待った。

 

「屋敷が半分燃えました」

 

 数人が苦笑するがそれ以上広がらない。誰かが咳払いをし、別の誰かが時計を見た。女は一瞬だけ表情を固めたが、すぐ笑顔を作る。

 

「いやいや、ちょっと待ってください! ここからが面白いところなんですから」

 

 しかし数人がその場を離れていった。

 

 私は足を止めた。人を選ぶ話だが悪くなかった。声は通るし、話の組み立ても自然で身振りも豊かだ。なのに笑いが生まれない。女もそれに気づいているらしく、話を続けながら時折わずかに視線が揺れる。期待した反応が返ってこない苛立ちと焦りが見えた。

 

 十分ほどして話が終わると、残っていた観客たちも拍手一つせず散っていった。女は深く息を吐く。帽子を地面に置いていたが、その中身を見て肩を落としていた。

 

「……今日も駄目か」

 

 そう呟く声が私の耳に届いた。私は近くの屋台で買った温かい茶を飲みながら、その様子を眺めていた。

「笑い話をしてるのに、誰も笑わないなんてね」

 

 独り言のつもりだったのだろう。しかし私は思わず口を開いた。

 

「別に面白くなかったわけじゃない」

 

 女が顔を上げる。

 

「慰めですか?」

 

「いや」

 

 私は首を振った。

 

「むしろ不思議だった。話は悪くないのに誰も笑わなかった」

 

 女は鼻で笑った。

 

「そんなこと言うのはあなただけですよ」

 

 彼女は帽子を拾い上げた。

 

「次もここでやるのか?」

 

 私が何気なく尋ねると、女は首を横に振る。

 

「いいえ。明日は別の広場です。この辺じゃもう顔を覚えられてますから」

 

 そう言って苦笑した。女は歩き出したが、数歩進んだところでふと振り返る。

 

「あの」

 

 呼び止められて私は足を止めた。女は少し言いにくそうに視線を泳がせた。

 

「あの……もし、本当に面白かったと思ったなら」

 

 そこで言葉を切り、帽子をわずかに持ち上げる。帽子の中には先ほど見た数枚の硬貨しか入っていない。

 

 私は一瞬きょとんとしたが、すぐに懐を探った。

 

「ああ、すまない。忘れていた」

 

 旅先では大道芸人や語り手に小銭を渡すことも珍しくない。私は財布から硬貨を数枚取り出し、帽子の中へ落とした。

 

 硬貨の触れ合う音が小さく鳴る。女は目を丸くしたあと、少しだけ肩の力を抜いた。

 

「ありがとうございます」

 

「礼を言うほどでもない。話は最後まで聞くのは当然だからな」

 

 女は苦笑しながら帽子を抱えた。

 

「そういう人、案外少ないんですよ」

 

「そうかもしれない」

 

 皮肉めいた短いやり取りのあと、今度こそ互いに別々の方向へ歩き出した。私は宿へ向かい、女は夕暮れの人混みの中へ消えていく。振り返ることはなかった。

ーー

 それから数週間後のことである。

 

 私は首都から少し離れた工業地区を訪れていた。新設された工場群や鉄道網を調べるためだった。

 

 夕方、仕事を終えた労働者たちが駅へ向かう通りを歩いていると、どこか聞き覚えのある声が耳に入った。

 

「そこで市長は言いました。『騒音問題は解決した』と」

 

 私は思わず足を止める。

 

 通りの脇では屋台が湯気を上げ、帰宅を急ぐ人々が絶えず行き交っていた。

 

「翌日、代わりに異臭騒ぎがしました」

 

 案の定、誰も笑っていない。数人が立ち止まっていたが、話の途中で次々と去っていく。

 

 中心に立っていたのは、あの女だった。懸命に話しているが、客足は遠のくばかりだ。

 

 近くの工場の終業ベルが鳴り、さらに人の流れが増える。誰もが家路を急ぎ、彼女の話に耳を傾ける余裕はなさそうだった。

 

 私は少し離れた場所から最後まで見届けた。

 

 やがて話が終わる。残った観客は二人だけだった。帽子の中に落ちた硬貨も数枚しかない。

 

 女は観客が見えなくなるのを待ってから深々とため息を吐いた。

 

「今日は前より酷かったな」

 

 私が声をかけると、女は驚いた顔をした。

 

「あ」

 

 そして苦笑する。

 

「またあなたですか」

 

「縁があるらしい」

 

「受けないところばかり見られてますね」

 

 私は少し考えた後、言った。

 

「時間がもしあれば酒でも飲むか」

 

 女は目を丸くする。

 

「……口説いてるんですか?」

 

「いや。話を聞きたい」

 

 女は数秒考えた後、小さく肩をすくめた。

 

「奢りなら付き合います」

 

 その夜、私たちは駅近くの酒場に入った。

 

 店内は労働者や車掌たちで賑わっている。煙草の煙と酒の匂いが混ざり合い、誰もが一日の疲れを忘れようとしていた。

 

 奥の席では仕事帰りの男たちが大声で景気の話をし、給仕は忙しなくジョッキを運んでいた。

 

 女は安い葡萄酒を一口飲み、ようやく人心地ついたように息を吐いた。

 

「それで、こんな私から何が聞きたいんです?」

 

 そう言いながら、隣の卓から聞こえてきた笑い声にちらりと目を向ける。

 

「どうして芸人になった」

 

 女は少し意外そうな顔をした。

 

「そんなことですか」

 

 彼女はグラスを見つめた。ランプの灯りが赤い酒面に揺れている。

 

「別に立派な理由じゃありません」

 

「子供の頃、父がよく笑わせてくれたんです」

 

「芸人だったのか」

 

「いいえ。ただの技師です」

 

 女は笑った。その拍子に給仕が料理の皿を置き、香ばしい肉の匂いが漂う。

 

「失敗した日も、金がない日も、冗談を飛ばしてました」

 

「その父親は芸人を応援してくれているのか」

 

「もちろん反対していますよ。『女らしく家に入れ』と。今では引退して引きこもる父が一番女らしい」

 

「それでも続けるのはどうしてだ」

 

 そして窓の外を眺める。夜の街には無数の灯りが輝いていた。

 

「この国は豊かになりました。パンはどこにも売っていますし道は歩きやすく舗装された」

 

 女は静かに言う。その声は店の騒がしさと対照的に落ち着いていた。

 

「それなのにみんな疲れてる」

 

「働いて、時間に追われて、暮らしは良くなったはずなのに、私たちは大事なことに気づいていないんです」

 

 女は苦笑する。

 

「それを気づかせたくて笑わせたいんです」

 

 あまり論理的な説明ではないし、他の芸人ならこんな事言わないだろう。だがその言葉には迷いがなかった。

 

「少しでも肩の力を抜いてほしい。それで始めました」

 

 私はしばらく広場での様子を思い出す。急ぎ足の労働者。皆、何かに追われていた。

 

「思い切って場所を変えてみたらどうだ」

 

 女は首を傾げる。

 

「場所?」

 

 彼女はグラスを回しながら問い返す。

 

「広場や駅前以上に」

 

 私は酒を一口飲んだ。周囲では酔客たちの笑い声が絶えず響いている。

 

「笑いを忘れた場所に」

 

 女は怪訝そうな顔になる。

 

「そんな場所がありますかね」

 

「さあ」

 

 私は肩をすくめた。

 

「少なくとも、急いでいる人間を笑わせるのは難しい」

 

 女は黙り込んだ。

 

 店内の喧騒の中で、彼女だけが考え込むように視線を落とす。その夜の彼女は冗談を返さなかった。ただグラスを手にしたまま、私の言葉を反芻しているようだった。

ーー

 翌朝、宿の扉を叩く音で目が覚めた。まだ日も昇りきっていない。寝ぼけ眼のまま扉を開けると、女が立っていた。酔った拍子で泊まる場所を教えてしまったのが運の尽きだった。

 

「思いつきました」

 

 開口一番だった。

 

「何をだ」

 

「昨日話した笑いを忘れた場所についてです」

 

「酔いで全く覚えていない」

 

 彼女はあれだけ飲んだというのに妙に晴れやかな顔をしている。

 

「しばらく暇でしょう」

 

「いや」

 

「付き合いなさい」

 

 返事を待たずに歩き出したので、私はため息をつきながら後を追った。こういう時の人間は止めても無駄だと旅の経験が教えていた。

 

 私は彼女に眠っていた奇人としての性質を解き放ってしまったかも知れないと、後に後悔することになる。

ーー

 その日から私は半ば強制的に彼女の手伝いをさせられることになった。もっとも、道具を運び、場所を探し、人に話を聞く程度だが、彼女は冗談めかして私を「責任者」と呼んだ。何かあったら私に責任を押し付けたいだけだろう。

 

 数日後、私たちは郊外の教会へ向かっていた。黒服の人々が静かに集まっている。見知らぬ人の葬儀だった。

 

「どうしてこんな所に行く。帰るぞ」

 

 嫌な予感がした私は即座に言った。

 

「まだ何もしてません」

 

「何をするつもりなんだ」

 

「取材です」

 

 参列者が比較的多かったこと、私たちの服装が堅かったこともあり、そのまま葬儀に入り込めてしまった。

 

 女は平然と参列者の輪へ入り込み、親族に対しては「故人の友人です」と、友人には「私は彼の親族だ」と身分を偽った。故人がどんな人だったのか、どんな癖や失敗があり、どんなことで笑われていたのかをあちこち聞いて回った。話術をここで活かしてほしくは無かった。

 

 やがて式が終わり、人々が少しずつ緊張を解き始めた頃、女は棺の近くへ進み出た。これまで以上に胸騒ぎがした。そして案の定だった。

 

「皆さん」

 

 故人との思い出を話していた参列者たちが振り返る。

 

「少しだけ聞いてください。故人は大変立派な方でした。ですがこれだけは言いたい。遅刻癖は最後まで治してくれなかった」

 

 何人かが顔をしかめたが、女は止まらない。

 

「約束の時間に来ない。仕事にも遅れる。結婚式にも間抜けな顔をして遅れた」

 

 親族の一人が思わず吹き出した。

 

「それなのに! 今回は集合時間を間違えて」

 

 女は棺を見た。

 

「皆さんより先に逝きすぎました」

 

 一瞬の沈黙の後、どこかで笑いが漏れた。小さな笑いだったが確かに笑いだった。誰かが肩を震わせ、別の誰かが涙を拭きながら笑う。

 

「この人はこれまで周りを散々巻き込んで、最期は一人で満足そうな顔をしています。でもそんな所が魅力的でした。そうでしょう?」

 

 女はその反応を見て、故人の失敗談や酒での失態、若い頃の無鉄砲な話を集めた話と繋ぎながら語っていった。最初は怒っていた参列者たちもいつしか聞き入り、泣きながら笑う者まで現れた。

 

 しかし当然ながら限度はあった。

 

「誰だお前は!」

 

 ついに不審に思った教会の関係者が怒鳴った。

 

「葬儀を何だと思ってる!」

 

 数分後、私たちは教会の外へ追い出されていた。女は石段に座り込んで笑っている。

 

「いやあ、惜しかった」

 

「惜しくない。君がそんなにイカれてるとは思わなかった」

 

 つい淑女相手に相応しくない言葉を投げてしまった。すると後ろから声がした。

 

「お嬢さん」

 

 振り返ると故人の娘らしい女性が立っていた。目は泣き腫らしている。私たちはすぐに謝罪をしようとしたが、彼女はそれを手で止め深く頭を下げた。

 

「ありがとうございました」

 

 女が目を丸くする。

 

「父が死んでから初めて、家族みんなで笑いました。怒られるかもしれませんけど」

 

 少しだけ笑う。

 

「父もたぶん、あっちで笑ってます」

 

 彼女が去った後もしばらく沈黙が続いた。やがて女は小さく呟く。

 

「見つけたかもしれない」

 

「何をだ」

 

「私の笑わせる相手です」

 

「本気か?」

 

 私の酒場での思いつきのような助言が、彼女を完全に間違った方向へ走らせてしまったのなら、それを止める義務は私にある。何より彼女の遠くの両親に申し訳が立たない。

 

「ご安心ください。娘さんは立派な芸人になりました。他人の葬儀に潜り込んでは遺族を笑わせています」

 

 などと報告したところで、感謝される未来はまったく見えなかった。

 

 「君の無限大の笑いへの才能は葬式では発揮されるものではない」とあの手この手で彼女を正しい方向に戻そうとした。学者みたく倫理に訴えたり法的問題を指摘したりした。

 

 だが聞く耳を持たぬ彼女の目は、駅前で小銭を集めていた時とはまるで違っていた。揺るがぬ指針を得てしまった彼女にこれ以上の説得は諦めた。

ーー

 そしてある日の朝だった。

 

「次です」

 

 彼女はそう言った。私は嫌な予感しかしなかった。案の定、その予感は当たった。

 

 彼女に連れて行かれたのは、戦地から運ばれた負傷兵たちを収容する国立病院だった。大きな赤煉瓦の建物で、入口には絶えず救急車両が出入りしている。廊下には消毒薬の匂いが漂い、窓際には松葉杖が何本も立てかけられていた。

 

 私は受付で事情を聞いた。病院では患者の精神的な負担を軽減するため、定期的に演奏会や朗読会などの慰問行事を開いているらしい。そこへ彼女が自ら名乗り出てしまったのである。

 

「断れ」

 

 私は小声で言った。

 

「なぜです?」

 

「君は慰問向きの人間じゃない」

 

「だから来たんです」

 

 意味が分からなかった。病院関係者は彼女を優しい語り部か何かだと思っているらしかった。私は真実を話すべきか悩んだが、説明しても信じてもらえない気がした。不幸にも時間だけが過ぎていった。

 

 やがて案内された病棟へ入る。空気は重かった。若い兵士たちが並ぶ病室。腕を失った者、足を失った者、顔に大きな傷を残した者。聞けば夜になると悪夢で叫ぶ者もいるという。誰もが生き延びた代償を背負っていた。

 

 集会室へ患者たちが集められる。病院の職員たちは穏やかな笑顔を浮かべていた。きっと心温まる励ましの言葉でも始まると思っているのだろう。

 

 彼女は壇上へ上がった。そして開口一番こう言った。

 

「皆さん、優しくされるのはもう飽きたでしょう」

 

 職員たちの顔色が変わった。患者たちは呆気に取られる。

 

「頑張りましたね。国の誇りです。かわいそうですね。毎日そんなことばかり言われてませんか」

 

 病院長らしき男が青ざめていた。私は帰りたくなった。

 

「私なら絶対に言いません。英雄のようには扱いません」

 

「こんな体になるまで国を守って戦った俺たちだぞ!」

 

 その声を彼女は落ち着いて制した。

 

「そうです! その怒りだって人間らしさです。みんな同じ人間でしょう?」

 

 数人の患者が顔を上げた。

 

「皆さん生き残ったじゃないですか」

 

 静まり返る部屋。彼女は構わず話を続ける。

 

「もちろん酷い目には遭ったでしょう。足も腕も返ってきません」

 

 そこで一人の兵士を見る。

 

「失礼ながらそこのあなたは足を一本失いました」

 

 兵士が眉をひそめる。

 

「つまり靴代は半分です」

 

 一瞬の沈黙。次の瞬間、どこかで吹き出す音がした。

 

「国から補助金をもらっているなら黒字かもしれません」

 

 笑い声が増える。病院職員たちはますます青ざめていった。

 

「戦地の記憶でうなされる?」

 

「いいじゃないですか。もう居眠りできませんよ」

 

「他に話を聞いてほしい人はいますか?」

 

 彼女は次々と話し患者の声を拾った。戦場での失敗談、兵士たち自身から聞いた逸話、無茶な上官の話、どう考えても生きている方がおかしい出来事。悲惨な話ばかりなのに、不思議と笑いが生まれていく。最初は戸惑っていた患者たちも次第に身を乗り出し始めた。誰かが笑い、別の誰かが続きを叫び、さらに別の誰かが自分の失敗談を話し始める。集会室の空気が変わっていった。

 

 そして最後には爆笑だった。腹を抱えて笑う者、涙を流して笑う者、車椅子を叩いて笑う者。私はその光景を見ていた。彼らは傷を忘れたわけではない。戦争を許したわけでもない。だがほんのひととき、自分たちを不幸な存在としてではなく、生きている人間として笑っていた。

 

 公演が終わると、一人の兵士が彼女に声をかけた。

 

「ここだけの話だ。戦争は二度としたくない。でもこんな体験ができるなら軍学校に進んで入っている」

 

 別の男も続く。

 

「ありがとう。また来てくれ。その時は傷も塞がってる。片足を売る靴屋も探さないとな」

 

 彼女は珍しく照れ臭そうに頭をかいた。

 

 病院を何とか出た後、私は街路を歩きながら言った。

 

「君がからかいで笑わしている訳ではないのは理解した」

 

「当たり前でしょう。笑いのない所に笑いを思い出させる。話したじゃないですか」

 

「だが病院側が君を危険人物だと思ったのも理解できる」

 

 彼女は声を上げて笑った。

 

「それはお互い様です」

 

私は首を傾げた。

 

「なぜだ」

 

「だってあなた、開演前から私以上に逃げる準備をしてたでしょう。共犯者と思われても仕方ないです」

 

 否定できなかった。

ーー

 それから数か月後、私は再びその都市を発つことになった。

 

 駅へ向かう道を歩きながら周囲を見回すと、空には工場の煙突から吐き出される灰色の煙がたなびき、蒸気機関の汽笛が響き、石炭の匂いが風に乗って流れてきた。昼間だというのに建物の壁は煤で薄黒く汚れ、人々は忙しそうに行き交っている。初めてこの街を訪れた時は発展と活気に満ちた未来の都市だと思ったが、人々はそこに感情を置き去りにしているようにも見えた。

 

 駅の待合室で彼女を見つけた。以前より少しだけ身なりが良くなっており、聞けば国内の小さな劇場から出演依頼が来ているらしい。最近では新聞に名前が載ることも増えたという。

 

「出世したな」

 

 私が言うと、彼女は鼻を鳴らした。

 

「まだまだですよ」

 

「この前までは帽子に硬貨が数枚だったじゃないか」

 

「その話は忘れてください」

 

 そう言いながらも、どこか誇らしそうだった。

 

 列車到着の鐘が鳴り、いよいよ別れの時間となる。私は荷物を肩に担いだ。

 

「君には」

 

 彼女がこちらを見る。

 

「何度心臓に悪い思いをさせられたか分からない」

 

「それは光栄です」

 

「褒めていない」

 

 彼女は肩を揺らして笑った。その表情には、駅前広場で日銭を追っていた頃の危うさはなく、迷いの代わりに確かな自信が宿っていた。

 

「まあ頑張れ」

 

 私はそう言った。

 

「君のやっていることは大勢に石を投げられることだ」

 

「ええ」

 

「だが大勢を救うかもしれない。正直そのどちらか見当がつかない」

 

 彼女は少しだけ真面目な顔になった。

 

「どちらでも構いません。この街の人たち、自分が疲れてることすら忘れて働いてるでしょう。だから少しくらい立ち止まって怒ってくれれば十分です」

 

「笑わせるんじゃなかったのか」

 

「怒るのも体力が要りますからね」

 

「なるほど。君は人を元気にしたいのではなく、面倒を増やしたいらしい」

 

「今さら気づいたんですか」

 

 列車がホームへ滑り込んでくる。蒸気が噴き上がり、人々が慌ただしく乗り込んでいく。私は客車の階段を上って窓際の席に腰を下ろした。発車までまだ少し時間があったので、売店で買った新聞を何気なく広げると、地方欄の小さな記事が目に入った。

 

『戦傷兵病院での公演、大反響』

 

『一方で不謹慎との批判も』

 

『新しい喜劇か、それとも冒涜か』

 

 記事には賛成と反対の意見が並んでいた。悲しみを笑いに変えることへの称賛と、悲しみを笑いの題材にすることへの非難。そのどちらももっともらしく見える。私は記事を読み終えると小さく笑った。

 

 たぶん彼女はこれからも問題を起こすだろう。劇場でも病院でも葬儀場でも、もしかすると国中を巻き込むかもしれない。だが、それでいいのだと思った。

 

 列車がゆっくりと動き始める。ホームに立つ彼女が小さくなっていく中、私は新聞を畳んで窓の外へ目を向けた。この先、彼女がどんな芸人になるのか。人々に愛されるのか、嫌われるのか。歴史に残るのか、それとも忘れられるのか。それはまだ誰にも分からない。だが私は少しだけ楽しみだった。この騒がしい時代が生んだあの女が、どんな未来を笑い飛ばしていくのかを。

 

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