「――あ、ゆらさん」
「?」
「えっと、よかったら……もうちょっとだけ、奥に一緒に行ってもらえませんか?」
「奥、ですか?」
大妖精さんは、倒木に当てていた手を離すと、私の割烹着の裾をほんの少しだけ掴むようにして、上目遣いに私を見つめました。
奥、というのは。
この状況において、倒木の先にあるあの不気味な黒い木々が広がる場所――『魔法の森』の深部、ということ以外あり得ませんね。
「構いませんよ」
「いいんですか……?」
「ふふ、大妖精さんの頼みですから。どこまでもお供いたしますとも」
怪異を拒むような濃密な魔力が漂う森を前にして、私は何食わぬ顔で顔布を揺らしてみました。
先ほど胸に受けた仄かな痛みは、すでに心の奥の引き出しへと、お上品にしまい込んであります。
普段なら人里の平穏から一歩も出ない私ですが、この健気な妖精さんが勇気を出して私を誘ってくれたのです。ならば、その歩調にどこまでも寄り添うのが、年上の怪異としての粋というものでしょう。
ーーそうして、二つ返事で大妖精さんのお願いを聞き、彼女の案内に従って森の奥へと進んだのですが。
「大妖精さん、私たちはどこまでお向かいに?」
「えっと……もうすぐ、のはずです。もうすぐ……」
気がつけば、思っていたよりもずっと多くの距離を歩いてしまっていました。
周囲の空気は魔法の森のそれよりもさらに冷え込み、木々の隙間から差し込む光が、どこか現実味を失っていくような奇妙な感覚に襲われます。この、存在の軸がブレるような感覚に、私の『ゆらぎ』が微かに警告を発し始めました。
「大妖精さん、まさか……無縁塚の方にご用が?」
無縁塚、というのは、この幻想郷という箱庭の端っこに該当する場所のことでして。
簡潔に述べますと……まあ、私たちのような「人ならざる存在」にとっては、凄まじく危険な場所ですね。何せ外の世界との境目であり、下手をすれば存在の根底を消し去られかねない、呪われた墓所なのですから。
「むえんづか……? いえ、そういう場所では、ない……ですよ? たぶん」
「なるほど……?」
首を傾げる大妖精さんの様子を見るに、嘘を言っているようには見えません。
無縁塚ではない、となると、迷い人が行き着くという再思の道に向かっているわけでもない?
……ふむ、となれば、ここは私の知らない場所、ということになりますかね?
ああいえ、偉そうに危険だ何だと語ってはみましたが、かく言う私自身、無縁塚のことも周りの妖怪から聞く程度の知識しか持ち合わせてはいないのですけれど。
けれど、妖精である彼女が、自覚もないままに幻想郷の「最果て」へと惹きつけられている。
その事実が、私の顔布の奥の肌を、じわりと冷たい汗で濡らしていくのでした。
「あ、ありました! あれです!」
「あれは……」
大妖精さんが嬉しそうに指差した先。
木々のカーテンを割り、私たちがたどり着いたその場所に、それは静かに佇んでいました。
「……大きいですね。それに、枯れてる……?」
それは、樹齢が私の何十倍、あるいは何百倍にも達していそうな一本の大木でした。
けれど、その巨大な幹に緑の葉はなく、すでに静かにその長い命を終えている場所だったのです。
「それに、その大木を囲うように、植物たちが咲いている……?」
……本当に、不思議な場所ですね。
先程まで私の『ゆらぎ』を苛んでいた、世界の境界に晒されるようなあのヒリついた感覚が、この空間に足を踏み入れた途端、ふっと嘘のように消え去ってしまったかのようです。
「えへへ、すごいですよね」
「はい。……それで、ここは?」
「わかりません! チルノちゃんたちと探検していた時に偶然見つけて……私はここが大好きなんですけど、チルノちゃんたちは、戻るとすぐここのことを忘れちゃうんです」
「なるほど……?」
妖精たちの、刹那を生きるがゆえの
「でも、私は本当にここが好きなので……ゆらさんにも、見せたいなって思って」
生を終えて、悠久の時間をかけて風化した大木。それが剥き出しの死を晒すのではなく、鮮やかな苔に、瑞々しい木々に、咲き誇る花々に優しく囲われて、ひとつの完成された幻想的な風景を作っている。陽の光すら届かないこの暗い場所で、それらは確かに息づいていました。
「確かに、落ち着きますね。すごく、懐かしいというか……」
「あ、ですよね! えへへ、ゆらさんと一緒で嬉しいです」
顔布の奥で、私はそっと深く息を吸い込みました。
『忘れ去られまい』と怯えていた先ほどの痛みが、この大木の死を包む生命の温もりに触れて、優しく融解していくのを感じます。
「この場所にふら〜っと来ると、忘れ去られてもいいなぁって、そう感じるようになって」
大ちゃんは倒木にそっと寄り添いながら、ぽつりと、けれど心底幸せそうに呟きました。
形あるものが忘れ去られ、土に還り、また新たな緑を育む。
その大いなる自然の巡りの一部になれるなら、消えることも恐怖ではない。彼女のその無垢な言葉が、今度は痛みを伴わずに、私の心へと温かく染み込んでくるようです。
「……名前でも、付けますか?」
「えっ?」
「ふふ、だって、氷の妖精さんたちは忘れてしまっているのでしょう?」
驚いたようにパチパチと瞬きをする大ちゃんを見つめ、私は顔布の奥で、慈しむような笑みを深めました。
「大妖精さんの好きなこの場所に、名前がないというのは寂しいではありませんか」
『忘れ去られること』を美しいと受け入れる彼女の在り方を、私はもう否定するつもりはありません。
けれど、誰からも認知されず、ただ消えていくだけの白地図の空白に、たった一つだけでも確かな『記憶の
他の誰が忘れてしまおうとも、私と、大ちゃんの二人だけが知っている特別な名前。
そうすれば、この最果ての暗い場所は、ただ朽ち果てていくだけの無名な死地ではなく、私たちにとっての、かけがえのない『秘密の庭』になるのですから。
「ゆらさんと私の、二人だけの名前……ですか?」
そう呟いた大妖精さんの頬が、じわりと嬉しそうに、林檎のように赤く染まっていくのを、私は袖越しに愛おしく眺めていました。
……とはいえ、あまり大仰な名では、静かに眠るこの大木を驚かせてしまう。かと言って、ただの大木と呼ぶと、あの龍神伝説の噂に名前負けしてしまいます。
「そうですね……『忘れ路の
「わすれじの……こしょ?」
大ちゃんは、その響きを確かめるように、小さな唇でぽつぽつと私の言葉をなぞりました。
「はい。氷の妖精さんたちが、ここへ来る道をすぐに忘れてしまう、秘密の場所。そして、誰に知られることもなく命を終えた大木が、今もこうして花々に囲まれて静かに佇んでいる、大切な『木々の居所』。……少し、寂しげな名前でしょうか?」
「ううん、そんなことないです! ……すごく、すごく綺麗」
大ちゃんはぱぁっと、今日一番の、本当に嬉しそうな満面の笑みを咲かせてくれました。
金平糖に目を輝かせていたあの無邪気な妖精の姿はどこへやら。私を見上げるその瞳には、私と彼女の二人だけが共有する『世界の名前』を見つけた、誇らしげな光が宿っていました。
「忘れ路の木所……えへへ、なんだか、私とゆらさんだけの特別な場所になったみたいで、すっごく嬉しいです!」
そう言って、私の割烹着の裾をきゅっと握り直す大ちゃん。
誰の記憶にも残らず消えていくはずだった最果ての空白に、私たちが今、確かに一つの名前を刻み込んだ。
『忘れ去られまい』と怯えていた私の胸の刺創は、大ちゃんのその笑顔と、私たちが付けた優しい名の手触りによって、いつの間にか綺麗に消え去っているのでした。