とある日の、人里の中でも一際、人気の少ない通りにて。
おばあちゃんから頼まれたちょっとした用事を済ませ、あてどなく歩いていた時のことです。
「ねえねえ、お姉さん!」
「……おやおや、貴女ですか。こんにちは」
「こんにちは!」
耳元で弾けたような溌剌とした声に、私は足を止め、顔布をそちらへと向けました。
――いつから、そこにいたのでしょう。
周囲の風景に溶け込むでもなく、かと言って気配を忍ばせていたわけでもない。
私の『ゆらぎ』の五感すら完全にすり抜け、まるで最初からそこに咲いていた名もなき花のように、心の
他者から『忘れ去られること』でその存在を確立している、私にとっては天敵とも言える在り方の少女。
けれど、そんな彼女がこうして私の前にふらりと現れ、私の存在を認めて声をかけてくれる。
私は袖で口元を隠しながら、顔布の奥でくすくすと笑みを漏らしました。
……これはまた、退屈しなさそうな予感がしますねぇ。
「今日はいいお天気だよね、お姉さん」
「そうですねぇ」
見上げる空は、太陽の姿など欠片も見えない雲まみれの曇天模様。
ええ、確かに。この少女の瞳に映る世界がどうなっているのか、私には知る由もありませんが。
「……ぼーっとしていたくなる、素晴らしい日差しですねぇ」
「うん! だからかくれんぼをしましょう? まずは、あなたが鬼!」
「相も変わらず、唐突ですね」
思わず顔布の奥で苦笑いが零れました。
この子はこんな、今にも雨が降り出しそうな空模様の日に、私へと「かくれんぼ」を所望する。
ええ、ええ。彼女の口から出た無茶苦茶な理屈の、その実、言わんとすることはちゃんとわかりますよ。
存在のあり方を不確かにし、他者に『錯覚』を与える私と。
そもそも他者の認識の網の目にすら引っかからず、『無意識』に座する貴女。
そんな私たちが、まともにルールを維持したまま、かくれんぼをして遊べる
……いえ、ただ能力を看破して見つけ出すだけならば、彼の妖怪の山におられるという、千里の目を持つ白狼天狗のような方など、他にもできる相手はいるのかもですが。
私はそんな無粋な相手は知りませんし、なんなら「このかくれんぼの
「いいでしょう。では……十秒だけ、数えさせていただきますね?」
私はため息混じりに割烹着を軽く整えると、その場に立ち尽くしたまま、顔布の手前でそっと両手を合わせました。
ーー実のところ、この勝負私すっごく不利だなって。数を数え始めると、毎回思うんですよ。
何せ私が力として定義している部分の要は「錯覚」、つまり対象が認識していること、が肝心なんですよ。
ざっくりと表現するならば……こいしちゃんの能力にかかれば、私の錯覚すら無かったことにできちゃいます、ということです。
「……はち、きゅう、じゅう。……もういいですか?」
合わせていた両手を下ろし、顔布の奥の瞳を開きます。
当然、そこに少女の姿も、帰ってくる声もありません。
それどころか、先ほどまで微かに聞こえていたはずの周囲の生活音や、風の音すらもが、私の意識から「すとん」と抜け落ちてしまったかのように消え去っていました。
まるで、最初から世界には私一人しかいなかったかのような、圧倒的な虚無。
これです。これこそが、彼女が無意識のうちに周囲へと展開する、認識阻害の最果て。
「本当に、お上手ですねぇ」
私は小さく独りごちると、今度は私の番だとばかりに、人里の薄暗い路地に向けて『ゆらぎ』の力をじわりと広げ始めました。
どこにいるかも分からない相手を、どこを向いているかも分からない私が探す。
世界で一番おかしな、けれど不思議と心地よい、私たちだけの時間が始まりました。
「彼女を見つけるなら、錯覚の部分とは別の要素が必要になりますから、ね?」
私のゆらぎは、本来ならば『相手の視界に水月という偽りの自分を残して、自分という本体は好き勝手に動いてもばれませんよ』という、騙し討ちのための力。
とはいえ、です。
それだけでは、そもそもこちらの存在すら認識していないこいしちゃんの相手なんて、到底できるはずもありません。ええ、だからこそ天敵なのです、この子は。
……まあ、そんな相手に、何故だか知らないうちに酷く懐かれてしまっていますけれど!
「っ……相変わらず、頭の痛い能力です」
ずきずきと頭に鳴り響くような、こめかみを走る鋭い痛みに、私は思わず顔布の上から額を押さえました。
これは、その水月への解釈を深めたもの。
ゆらいだ先……すなわち、鏡面に映る不確かな世界を、こいしちゃんの座する
そこに私の『ゆらぎ』を、境目に挟み込み、弾けた世界の割れ目から、彼女のいる領域へと無理矢理に垣間
隙間に分け入る、とでも言い表すべきでしょうか。
掴みどころのない彼女を引っ張り出すための、これは私なりの苦肉の策。
ですが、これ本当にすっごく頭が痛くなるんですよ? 何せ、『誰も見えないように、気づかないように閉じられている部分』に対して、こちらの都合で無理矢理に目を向けて、こじ開けているわけですから。
視界が白く明滅するほどの頭痛に耐えながら、私はゆらりと、確かな手応えを感じた『虚無の空間』へと、その白い掌を伸ばしました。
鏡の向こう側で、楽しそうに息を潜めているであろう、あの子の気配に向けて――。
「ここです」
「ーーあはは! 今日もだめだったねぇ。お姉さん?」
「む……はぁ、相変わらずお強い、ですねぇ……」
私の指先が虚空をかすめた次の瞬間。なんの前触れもなく、視界の端からひょっこりと、こいしちゃんがその愛らしい顔を覗かせました。
歪みかけた空間は一瞬で元の退屈な路地裏へと戻り、ずきずきと響いていた痛みも、潮が引くように収まっていきます。
まあ。
顔布の奥で大きく息を吐き出しながら、私は内心で苦笑いを浮かべました。
これほど無茶な力技を仕掛けて、世界の隙間を覗き見ることまではできても、やはり彼女の本体にまでは届かない。それが現状なのです。
そもそも、この『ゆらぎを鏡面に見立ててこじ開ける』という解釈の発端からして、この子にいきなかくれんぼを挑まれ、本当に手の打ちようがない極限状態の中で、私が半ばやけくそで見つけ出した悪あがきですからね。
まともな勝負になっているかと言われれば、甚だ怪しいもので。
ええ、お恥ずかしい話。
こうして始まった私たちの勝負は、今のところ、私の全戦全敗中なのですよ。
「でも、お姉さん、前よりちょっとだけ惜しかったよ? えへへ、楽しかった!」
私の全敗を責めるでもなく、こいしちゃんは満足そうに私の周りをぱたぱたと跳ね回っています。
届きはしなかった。けれど、彼女の閉じた無意識の領域に、私の『ゆらぎ』がほんの少しだけ触れた。それだけで、この誰からも忘れ去られる少女は、こんなにも嬉しそうに笑ってくれるのです。
……まあ、負けたけれどこれでもいいか、と思えてしまうのですから。
これもいいことなのでしょう、はい。というかそう思わないとちょっと悔しさが勝ちそうです。