からり、と晴れ渡った人里の朝。
心地よい風が吹く路地の片隅で、私は目の前に突きつけられた一枚の紙切れを、お上品につまみ上げて眺めていました。
「文々。新聞……あぁ、おばあちゃんが真実なだけの嘘八百だとか言っていたやつですか」
私がのほほんとそう告げると、私の前にしゃがみ込んでいた
「あやや、ひどい言われようですねぇ」
彼女の背中で、数枚の黒い羽が不満げにふわりと揺れます。
手にした
「……そんな天狗様が、私のような木端の妖怪に何用ですか?」
「ふふ、そんなに
す、と私の鼻先に、煤けたような独特の墨の匂いが漂います。
いつの間に私の隣へと移動したのか、鴉天狗の少女は、手にした手帖の
「はて? ……とは言えさすが天狗様、お耳がお広いんですねぇ。人里の他愛無い怪談話にすら耳がお届きになるなんて」
私は顔布の奥で、小さく、けれど決して外には漏らさぬように嘆息しました。
人里に流した大傘の噂が、これほど早く妖怪の山の上まで駆け上って、あろうことか天狗の風聞屋を呼び寄せることになるとは。
袖で口元を隠して歯噛みながらも、私の頭のなかでは、この油断ならない天狗をどう『ゆらがせて』帰すか、その算段が目まぐるしく回り始めていました。
「あやや、他愛無いだなんて。人里の人間たちが『神の使い』とまで崇め、挙句に十尺の大男の怪異にまで化ける白い布の妖怪ですよ? 新聞記者として、こんな美味しいネタ、見過ごせるはずがありません」
「おや、十尺の大男とやらと白布の怪異というのは別物ではなかったのですか?」
私は首を小さく傾げ、顔布の奥から純粋な疑問を装った視線を投げかけました。
人里に流した怪談の細部をあえてこちらから指摘することで、彼女がどこまで『真実』を掴んでいるのか、その底を探るための小さな揺さぶりです。
「あやや? ……そうでしたそうでした、これは失敬。私としたことが噂の混同をしてしまっていたみたいですねぇ」
天狗の少女はわざとらしく自分の額を軽く叩き、ちろりと舌を出してみせました。
ですが、その手帖を握る指先は微塵も揺らいでいません。うっかり間違えたフリをして、こちらの反応を観察しているのは明白でした。
「ふふ、お戯れを」
そういう割に、この目の前の天狗様はどこまでも飄々としておられます。
差し出された新聞の紙面が、朝の風に吹かれてかさかさと乾いた音を立てました。
お互いに笑顔の仮面を被ったまま、喉元に刃を突きつけ合うような、奇妙で、けれどひどく静かな時間が二人の間に流れていきます。
「そのお噂がお気になられるのでしたら、その大男の方を追った方が良いのでは? 聞くところによると天候の神などと吹聴されておられるとか」
私はそっと視線をずらし、昨日みすちーの屋台で大泣きしていた、どこまでも健気で哀れな唐傘の少女の顔を思い浮かべました。
天狗の矛先が私から小傘ちゃんへと向くのは少し忍びないですが、これも怪異の
「それはそうなんですけれど。なまじ本物の神でしたら厄介ですからねぇ。ああいう手合いは守屋の神で痛いほど懲りてまして」
天狗の少女は羽扇でぽんぽんと自分の肩を叩きながら、あからさまに嫌そうな顔をしてみせました。
山に新しくやってきたあの信仰に貪欲な神々と、それを迎え撃った天狗社会の
「守屋? ……ああ、『博麗の巫女ではない方』ですか」
「そうです。全く、妖怪より『我がまま』ですよ。神というものは」
ふふと私は顔布の奥で唇の端を吊り上げました。
天狗の少女がほんの一瞬、己の苦労話を吐き出して「隙」を見せた。その一瞬の『ゆらぎ』を、私は見逃しません。
「それは、天狗様方の上司であらせられた鬼の方々にも当てはまるのでは?」
かつて山の
「あやや、黙秘を貫かせてもらいます!」
大袈裟に両手を突き出して降参のポーズを取る彼女を見て、私は胸の内で、お上品に小さく
「では、私も白布の怪異については黙秘をさせていだきましょう」
私は袖を優雅に
天狗の少女が自分で掘った墓穴です。これ以上ない綺麗な形で、こちらの口を閉ざす大義名分が整いました。
「む……沈黙は肯定だという良い言葉がありまして」
「ふふ、それでは先程の黙秘も肯定ということで?」
「……む、むむむ……」
天狗の少女は手帖を握りしめたまま、苦虫を噛み潰したような顔で
普段は言葉の刃で他者を一方的に切り刻む風聞屋が、自分の言葉に足をすくわれて言葉に詰まっている。顔布の奥で、思わず笑みが
ですが、私の目的は、単にこの天狗を言い負かすことではありません。
私はすうと背筋を伸ばし、周囲の『ゆらぎ』を静かに沈め、一人の怪異としての輪郭を正しました。
「私とて人里に
朝の光が差し込む路地裏に、私の言葉だけが、ひんやりとした重みを持って響きます。
「ですが、それを天狗様のような方々に『売る』というのは、少々
のほほんとした声音のまま、けれど明確な一線を引く一言。
人里に潜む怪異には、怪異なりの平穏と、守るべき
山の上から面白半分に真実を掻き回しにくる風聞屋に、易々と明け渡していい秘密など、ここには一つとして存在しないのです。
「……怖れられることでしか、飢えを満たせない癖に、口は回るのね?」
――途端に、人里の朝の温かみが、嘘のように消え失せました。
カラス天狗の少女から「あやや」というおどけた響きが完全に消え、路地裏の空間そのものが、圧し潰されそうなほどの風圧でギチギチと鳴り始めます。
千年以上、山の社会で絶対的な強者として君臨してきた大妖怪の、それが裏の
手帖を閉じた彼女の赤き瞳は、私の顔布を透かして、のっぺら布の本質である『飢え』を冷酷に値踏みしていました。
「怖れにも創意工夫がございますので。畏れられるばかりで、そちらが疎かなのでは?」
ですが、私はその暴風のような威圧のなかで、静かに、お上品に微笑んでみせました。
周囲の『ゆらぎ』が、彼女の放つ傲然たる風を、水面が波紋を逃がすように受け流していきます。
力で人間を従える天狗の「畏れ」は、確かに妖怪にとって得難く、欲するものに違いありません。
ですが、それでも。
人里の片隅で細々と、けれど確かに人間の心に残り続ける私たちの「怖れ」に比べれば、あまりにも大雑把で、大味なものに感じられるのです。
顔布をしゃんと整え直し、私は一歩も退かずに、その千年の天狗を見据え返しました。