「ゆら、あんた、妖怪の山の天狗に喧嘩売ったって?」
「はい?」
おばあちゃんのお店でお店番をしていた時のこと。
お店の
「あはは、妖怪の噂というものは広がるのがお早いですねぇ」
「答えなさいよ」
「うーん、喧嘩を売った覚えはありませんよ?」
きっ、とこちらを鋭く見つめてくるお赤ちゃん。
人里に馴染もうとしつつも、その赤い瞳に大妖怪のそれとは違う、鋭利な警戒心を宿らせる彼女に対し、私はのんびりと首を傾げてみせました。
嘘は言っていません。喧嘩を売ったというよりは、天狗様が勝手にあたりを付けて、私を詮索してきたと言いますかね?
「そう、いつものようにただふらふらしてただけですよ、私は」
「それが喧嘩売ってるっていうのよ、おばか」
「ひどい」
顔布の奥で私が小さく唇を尖らせると、お赤ちゃんは呆れたように、ふいと首を横へ……文字通り、物理的に少しだけ不自然に向けました。
天狗を相手に大立ち回りを演じた自覚がまるでない私のマイペースさに、彼女は心底ハラハラさせられているようでした。
「……はあ。というか、お婆さんはどうしたのよ」
「おばあちゃんなら、材料がなくなったとかで買い出しに行かれました。私はそのお店番ですね」
これ以上言っても無駄だと悟ったのか、お赤ちゃんは盛大にため息をつくと、店内の様子をそわそわと見回しました。
以前、おばあちゃんがぎっくり腰を患った際の一件がありますからね。彼女としては、あの腰の重いお婆さんが店を空けていること自体が、不思議でならなかったのでしょう。
「……案外大雑把なのね、あのお婆さん」
「ふふ、その辺りは柔軟なだけかもしれませんよ?」
いつものマントの襟元に顔を半分ほど埋めながら、呆れたように呟くお赤ちゃん。
私はそんな彼女のために、手際よく冷たいお茶を淹れながら、顔布の奥でのんびりと微笑み返しました。
人里の人間と、それに寄り添う怪異の距離感。その境界線を誰よりも繊細に見極めているおばあちゃんの大雑把さは、私にとっては心地よく、お赤ちゃんにとっては少々、ひやひやさせられるもののようでした。
「腰を痛めたばっかりなんだから、そこののっぺら白布妖怪をきりきり働かせればいいのに」
「あはは、私もそう思ってお伝えしたんですけどねぇ」
私が湯呑みを差し出すと、お赤ちゃんは「ありがと」と小さく呟き、仕方のなさそうな風を装って私の隣へと腰掛けてくれました。
人里の天狗騒ぎを本気で心配して、わざわざ様子を見にきてくれた彼女の優しさが、お茶の湯気と一緒にじんわりと店内に広がっていくようです。
「『ぎっくり腰になったからこそ動くんだよ』って。私の提案は一蹴されてしまいました」
「……訂正するわ。大雑把なんじゃなくて、ただ剛気なだけね」
お赤ちゃんはお茶を一口啜り、呆れ果てたように、けれどどこか感心したように吐き捨てました。
おばあちゃんの無茶苦茶な理屈に、さすがのろくろ首も首を傾げて……物理的に少し伸ばす? しかないようです。
「まあ、そんなお婆さんだからこそ、私もこうしてのんびりと居候をさせてもらえているのですけれど」
「ふん。あんたが甘やかすから、あの婆さんも調子に乗るのよ」
文様を相手にした時のあの張り詰めた空気は、今の路地裏の陽だまりには影も形もありません。
怒りながらもお茶を美味しそうに飲むお赤ちゃんと、それを眺める私。
天狗に目をつけられようとも、私の守りたい「平穏」は、確かにこの場所にあるのでした。
「……いや、あんたも、ね。あのお婆さんもあんたを甘やかしてるわけだし」
「おや、そうですか?」
「そうよ。……全く、人里の人間ってのはどいつもこいつも」
「ふふ」
お茶を喉へと流し込みながら、お赤ちゃんは少しだけ目を伏せてそう吐き捨てました。
その言葉は、きっと私をのんびり店番させてくれているおばあちゃんだけではなく、彼女自身を雇ってくれている、あのお茶屋の店主さんにも向けられているのでしょう。
妖怪である正体を隠しきれているとも限らない彼女を、「よく働くから」と気前よく迎え入れてくれている、本当に気のいいおじさんですからねぇ、あの方も。
「本当ですねぇ。噂に聞く博麗の巫女とは、随分と大違いの人柄です」
「……ん、そういえばあんたってあの巫女と
「ありませんね」
お赤ちゃんからの不意の問いかけに、私は湯呑みを隠すようにして、顔布の奥で小さく苦笑いを浮かべました。
出会ったことがない――。
それが私にとって幸か不幸かは、分かりません。
私は今日まで、幻想郷を揺るがすような大異変に巻き込まれたこともなければ、自ら騒ぎを先導したこともありません。
それに、かの空飛ぶ博麗の巫女は、基本的には人里から少し離れたあの寂れた神社から滅多に出てきませんからね。人里の路地裏やお茶屋の周辺をふらふらとしているだけの私たちが、彼女の赤い紅白の姿と交わらないのは、ある意味では当然の
「……たまに湖の方まで出張ってるくせに、そういう縁には恵まれないのね。羨ましい」
「まあ、こんな地味な能力をしてますから。妙な力や因果に絡まれにくい、というのもあるやもしれません」
お赤ちゃんは湯呑みを
対して私は、己の『ゆらぎ』の性質を思い浮かべ、顔布の奥で苦笑しました。私の力は存在の錯覚。厄介な異変の気配からも、ふらりと軸をずらして逃げることなど造作もないのです。
「それでも、よ。……ま、あの緑色の妖精が何にも巻き込まれないんなら、それでいいんでしょうけど」
「おや、大妖精さんのことをご存知で?」
「まあね」
ふいと視線を逸らすお赤ちゃん。どうやら彼女も、私がたまに湖で泥遊びをしているあの大人しい妖精のことが、少なからず気にかかっていたようです。
「わかさぎ姫っていう、湖の方に住んでる妖怪が、たまに話とかするみたいよ。あの緑色のは、妖精にしては中々の礼儀正しさを持ち合わせてるってさ」
「なるほど。……大妖精さんは確かに、他の方々に比べれば随分と落ち着きがありますから」
わかさぎ姫、ですか。名前だけは風の噂に聞いたことがありましたが、まさかお赤ちゃんがその方と繋がっていたとは。
湖の妖怪から見ても、大妖精さんの「ちゃんとしたお姉さん」っぷりは一目置かれている。その事実が何だか誇らしくて、私は自分のことのように嬉しくなってしまうのでした。
「とはいえ、相応の妖精らしさも抱えてるんですよ、あの子も」
「そうなの?」
「はい。この前なんて、私があげた金平糖にそれはもう、分かりやすく目を輝かせておいででしたから」
私がそう言って、ふふと笑うと、お赤ちゃんは意外そうな顔をして、それから「ふーん」と口元を緩めました。
人里やお茶屋の店先では、いつも妖怪としての正体を隠して気を張っている彼女です。だからこそ、湖の妖精たちのそんな他愛のない、無邪気な様子を聞くのが少しだけ新鮮だったのかもしれません。
「……まあ、それもそうか。いくら礼儀正しいって言ったって、本質は妖精だものね。お菓子一つでそこまで喜べるなら、大した悩みもなさそうで結構なことじゃない」
「ふふ、本当ですねぇ」
お赤ちゃんはお茶を最後の一滴まで飲み干すと、ふぅ、と小さく息を吐き出しました。
天狗を文字通り煙に巻いた私のことを、本気で心配して、わざわざ様子を見にきてくれた優しいろくろ首。
そんな彼女と、どこか大雑把で剛気なおばあちゃん、そして金平糖一つで幸せになれる湖の友人たち。
――例えいつか、あの紅白の巫女や、風を操る天狗の羽音がこの人里を騒がせることがあろうとも。
私は私の『ゆらぎ』の力で、この愛おしい日常の手触りだけは、ひらりと守り抜いてみせるのだと。
湯呑みから立ち上る温かな湯気を見つめながら、私は顔布の奥で、静かにそんな決意を新たに心に抱くのでした。