Fate/Divine Brush──桜花浄界──   作:一般ガス会社社員

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「大神」20周年おめでとうございます。



Heaven’s Bloom

 

 間桐の地下室には、夜よりも深い闇が沈んでいた。

 

 冬木の夜は冷える。けれど、この地下にある冷たさは、ただの気温ではない。石の床に染みついた古い魔術、壁に残る湿った匂い、空気そのものに混じった腐ったような重さ。それら全てが、ここが普通の家の地下ではないことを物語っていた。

 

 間桐桜は、その中心に立たされていた。

 

 足元には魔法陣が描かれている。赤黒い線は、床に刻みつけられた傷のようにも見えた。桜は自分の指先が震えていることに気づいていたが、それを止めることはできなかった。寒いからではない。怖いからだ。これから何が始まるのか、完全には知らされていない。けれど、良いことではないということだけは分かっていた。

 

「始めよ、桜」

 

 背後から老人の声がした。

 

 間桐臓硯。暗がりの中に立つその姿は、人間というよりも、長い時間の底に沈んだ影のようだった。桜は振り返らなかった。振り返ってしまえば、きっともう声が出なくなる。

 

「聖杯戦争は近い。間桐が再び聖杯へ手を伸ばすためには、駒が要る。おまえはそのための器じゃ」

 

 桜は唇を結んだ。

 

 器。

 

 何度も聞かされた言葉だった。けれど、そのたびに自分が人間から少しずつ遠ざけられていくような気がした。

 

「……はい」

 

 小さく答える。

 

 それ以外に、返す言葉はなかった。

 

 床の魔法陣が薄く光り始める。桜の体の奥で、何かが脈打った。胸の奥が熱くなり、同時に全身から血の気が引いていく。逃げ出したい。そう思った。けれど足は動かなかった。逃げる場所など、最初からどこにもなかった。

 

 臓硯は満足そうに目を細めた。

 

「よいか。召喚の言葉は、器へ道を通すための楔じゃ。迷うな。おまえの身に宿る魔力、血筋、回路、その全てをもって英霊を呼べ」

 

 桜は頷いた。

 

 教え込まれた言葉を思い出す。

 

 意味は分かる。けれど、その意味が自分のものだとは思えなかった。英霊を呼ぶための言葉。契約を結ぶための言葉。戦争に参加するための言葉。どれも自分の意思ではない。

 

 それでも、言わなければならない。

 

 桜は息を吸った。

 

「──告げます」

 

 声は震えていた。

 

 魔法陣が応えるように、淡い光を放つ。

 

「我が身は聖杯に選ばれし器。我が血は契約を結ぶための楔。我が魔力は、汝をこの地へ繋ぎ留める鎖」

 

 空気が重くなる。

 

 地下室の隅で何かが蠢いた気がした。桜の背中に冷たい汗が伝う。体の奥にいる何かがざわめいている。桜は唇を噛み、それでも続けた。

 

「汝、七つの座より来たる者。聖杯の理に従い、この呼び声に応じるならば、我が前に姿を現しなさい」

 

 魔法陣の光が強くなる。

 

 桜の影が、床の上で不自然に伸びた。自分の影なのに、自分のものではないように見える。桜は目を伏せた。怖い。怖い。怖い。だけど止められない。

 

「我が命運を汝に預け、汝の力を我がもとに置く。契約はここに結ばれ、汝は我が従者となり──」

 

 言葉が詰まった。

 

 従者。

 

 その言葉が、喉の奥で引っかかった。

 

 自分が誰かを従える。自分が誰かを戦わせる。そんなことができるとは思えなかった。自分はずっと、誰かに従う側だった。命じられ、黙り、耐える側だった。

 

 だから、次の言葉は詠唱ではなかった。

 

「……違う」

 

 小さく、桜は呟いた。

 

 臓硯の眉が動く。

 

「桜?」

 

「違うんです」

 

 桜は震える両手を握りしめた。

 

 魔法陣の光が揺らぐ。

 

「私は、誰かを従わせたいわけじゃありません。誰かを傷つけたいわけでもありません。聖杯が欲しいわけでも、戦いたいわけでもありません」

 

「何を言っておる」

 

 臓硯の声が低くなる。

 

「続けよ、桜。儀式を乱すな」

 

 桜は聞こえていた。聞こえていたのに、止まれなかった。

 

 今言わなければ、きっともう二度と言えないと思った。

 

「それでも、もし……私の声がどこかに届くなら」

 

 魔法陣の赤黒い光に、ほんのわずかな金色が混じった。

 

「私を戦わせるためじゃなくて、私を縛るためじゃなくて」

 

 桜の目から涙がこぼれた。

 

「私を、ここから連れ出してくれる誰かに」

 

 地下室の空気が震えた。

 

 臓硯が目を見開く。

 

「桜、やめ──」

 

「どうか、来てください」

 

 その瞬間、儀式は決壊した。

 

 桜の中から魔力が引きずり出される。けれど、それは臓硯が用意した術式の流れとは違っていた。召喚陣の線が、まるで誰かに上から筆でなぞられるように、別の形へ変わっていく。

 

 赤黒い魔術の線の上を、見えない筆が走った。

 

 ぐるり、と円を描き塗りつぶす。

 

 ひと筆ごとに、床の傷のようだった魔法陣が塗り替えられていく。間桐の術式が、誰かの手によって別の意味を与えられていく。召喚のために開かれた道は、ただ英霊を呼ぶための穴ではなく、闇の底へ朝を招くための門へと描き直されていた。

 

 それは、筆しらべ。

 

 世界に線を引き、世界の在り方を一瞬だけ変える神の技。

 

 最初の一筆は、歪んだ陣を描き直すためのものだった。

 

 床に刻まれた赤黒い線が、金色に染まる。

 

 地下室の空気が震えた。

 

 湿った匂いが薄れていく。石壁に染みついた重苦しさが、朝霧のようにほどける。天井に窓などあるはずがないのに、桜は光を感じた。

 

 朝日の色だった。

 

「……なんじゃ、これは」

 

 臓硯の声に、初めて警戒が混じる。

 

 光の中心に、影が現れる。

 

 人ではなかった。

 

 四つの足。しなやかな体。雪のような白い毛並み。だが、それはただ白いだけの狼ではない。額から頬へ、そして細い鼻筋へと、鮮やかな紅い隈取が炎の線のように走っていた。肩や脚にも渦を巻くような赤い紋様が刻まれ、白い毛並みの上で神楽の化粧のように浮かび上がっている。

 

 背には、円い神鏡があった。

 

 青銅にも翡翠にも見えるその鏡は、古い水面のように静かで、中心には太陽を閉じ込めたような紋が刻まれている。さらに背から尾へ流れる毛並みは、ただの毛ではなかった。赤と橙の炎がたなびくように揺れ、地下室の闇を照らすたび、火ではなく朝焼けの気配を残していく。

 

 白い神狼が、魔法陣の中心に立っていた。

 

 ただの獣ではない。

 

 桜にも、それだけはすぐに分かった。そこにいるのは、人に飼われる犬でも、森に生きる狼でもない。もっと大きなもの。もっと古いもの。人が言葉を持つ前から朝を連れてきたような、そんな気配をまとった存在だった。

 

 白い神狼は、ゆっくりと顔を上げた。

 

 その瞳が桜を見た。

 

 言葉はなかった。だが、桜にはなぜか分かった。

 

 ──大丈夫。

 

 そう言われた気がした。

 

「……あなた、は」

 

 桜の声は震えていた。

 

 白い神狼は短く鳴いた。

 

 それは地下室の闇を震わせる声だった。吠えたわけではない。威嚇でもない。けれど、その一声だけで、床に染みついた重い気配が少しだけ後ずさったように感じられた。

 

 桜の右手が熱を持つ。

 

 令呪が浮かび上がっていた。赤い刻印。聖杯戦争のマスターである証。けれど桜は、その刻印よりも目の前の白い神狼から目を離せなかった。

 

「……召喚、できたの……?」

 

 桜は小さく呟く。

 

 白い神狼は答えない。

 

 ただ、桜の前に一歩進んだ。

 

 臓硯が杖を鳴らす。

 

「下がれ、桜」

 

 その声は命令だった。

 

 桜は反射的に肩を震わせる。けれど、足は動かなかった。白い神狼が、桜と臓硯の間に立ったからだ。

 

 その瞬間、臓硯の表情が変わった。

 

「……ほう。サーヴァントとしては成立しておるか」

 

 臓硯は、白い神狼を値踏みするように見た。

 

「人型ではない。だが霊基はある。背の鏡、神性に近い気配……いや、近いどころではないか。クラスは……セイバーではない。キャスターでもアサシンでもない。なるほど、これは」

 

 臓硯は、忌々しそうに笑った。

 

「ライダーの器に収まった神獣か」

 

 桜はそこで、初めてその言葉を聞いた。

 

「ライダー……」

 

 七つのクラスのひとつ。

 

 桜にも、その程度の知識は与えられていた。セイバー、アーチャー、ランサー、ライダー、キャスター、アサシン、バーサーカー。聖杯戦争に呼ばれる英霊は、そのいずれかの器に収まる。

 

 ならば、目の前の白い神狼は。

 

 この存在は、ライダーのサーヴァントなのだ。

 

「この子が……」

 

 桜はまだ、そう呼ぶことに戸惑った。

 

 犬ではない。狼でもない。けれど、サーヴァントと呼ぶにはあまりにも温かすぎた。

 

 白い神狼の背にある鏡が、淡く輝いた。

 

 直後、桜は奇妙なものを見た。

 

 何もない空中に、墨の線が走った。

 

 円を描く。

 

 白い神狼が筆を咥えているわけではない。誰かが手を動かしているわけでもない。それでも、空中には確かに太い墨の線が引かれていた。円が閉じると、その内側に光が満ちる。

 

 太陽だった。

 

 地下室の天井近くに、小さな太陽が描かれていた。

 

 それは本物の太陽ではない。だが、ただの幻でもなかった。金色の光が地下室へ降り注ぎ、湿った床も、壁の影も、間桐の術式も、全てを白日の下にさらしていく。

 

 第二の筆しらべ。

 

 夜を終わらせる光明。

 

「ぐ……!」

 

 臓硯が後ずさる。

 

 老人の顔が歪んだ。陽光に照らされた瞬間、臓硯の体から黒い靄のようなものが剥がれた。それは肉体の影ではない。長い年月をかけて積み重ねた執念。人を道具として扱い、血筋を器として見なし、命を自分の目的のために歪め続けた魔術。その全てが、白日の下に引きずり出されていく。

 

「貴様……何者じゃ」

 

 臓硯の声が低くなる。

 

 白い神狼は答えない。

 

 ただ、桜の前に立った。

 

 それだけで十分だった。

 

 桜は胸を押さえた。体の奥で、ずっと自分の一部のように居座っていたものが騒いでいる。けれど、それは今までのように桜を沈める痛みではなかった。絡みついていた黒い糸が、一本ずつほどけていくような感覚だった。

 

「っ……」

 

 膝から力が抜ける。

 

 倒れそうになった桜のそばに、白い神狼が寄り添った。桜は思わずその毛並みに手を置いた。温かい。信じられないほど温かい。地下室の冷たさも、体の奥の重さも、その温度に触れた瞬間、ほんの少し遠ざかった。

 

 白い神狼は、桜を見上げた。

 

 その目は、桜の中に巣食うものを見ていた。

 

 次の瞬間、空中にまた墨の点が現れる。

 

 今度は円ではなく、マスターである桜に筆を走らせる。

 

 墨は桜の体に触れ、服をすり抜けて肌の内側へ染み込んでいく。

 

 痛みが走った。

 

 桜は息を詰めた。けれど、それは今までのような、内側から汚される痛みではなかった。体の奥で絡みついていた異物が、墨に触れた瞬間、ひとつずつほどけていく。暴れようとしたものも、逃げようとしたものも、桜の体を傷つける前に光の中へ包まれて消えていく。

 

 第三の筆しらべ。

 

 命を咲かせ、穢れを分ける桜花。

 

 それは桜を壊さなかった。

 

 桜の中の、桜ではないものだけを選び取るように、静かに、確かに、祓っていく。

 

 桜の目から涙が落ちた。

 

「……私……」

 

 声が震える。

 

「私、まだ……私だったんだ……」

 

 誰も答えない。

 

 けれど白い神狼は、桜の手に額を押しつけた。額の赤い紋様が、桜の手のひらに温かな光を移す。

 

 それが答えだった。

 

「やめろ」

 

 臓硯が一歩踏み出した。

 

「桜は間桐のものじゃ。その娘の中にあるものも、魔術回路も、役割も、全て儂が──」

 

 白い神狼が、臓硯を見た。

 

 ただ、それだけだった。

 

 臓硯の言葉が止まる。

 

 地下室の隅から、黒い気配が集まった。間桐の魔術。間桐の歴史。間桐の執着。それらが老人の影に絡みつき、形を保とうとする。

 

「儂はまだ終わらん……! 聖杯を、根源を、永遠を──!」

 

 臓硯の足元から、無数の黒い線が伸びた。

 

 それは桜へ向かっていた。地下室の奥へ向かっていた。間桐の家に染みついた術式へ向かっていた。一本一本が、誰かを縛るための糸だった。

 

 白い神狼は前足を床につけ、静かに息を吐いた。

 

 空中に、最後の墨線が走る。

 

 それは短かった。

 

 ただ一筋。

 

 真横に引かれた、鋭い線。

 

 その線が走った瞬間、世界が一拍だけ静止したように見えた。

 

 そして、切れた。

 

 臓硯から伸びていた黒い糸が。地下室に絡んでいた術式が。桜へ繋がろうとしていた支配が。老人の姿をこの世に留めていた執着が。

 

 第四の筆しらべ。

 

 一閃。

 

 何かを斬るのではない。

 

 終わるべきものを、終わらせるための一線だった。

 

「馬鹿な……」

 

 臓硯の声がかすれた。

 

「この儂が……このような……獣一匹に……」

 

 白い神狼の背の鏡が、一際強く輝く。

 

 地下室に描かれた太陽が、その光に応じた。花びらが舞い、金色の波紋が床を走る。臓硯の姿は炎に焼かれるように消えるのではなかった。ただ、朝の光に照らされた影のように、そこにいられなくなっていく。

 

 積み重ねてきた時間が、執着が、他人を縛るための術が、太陽の前で意味を失っていく。老人は何かを叫ぼうとした。だが、その声は光に溶けた。

 

 そして、間桐臓硯はいなくなった。

 

 あまりにも静かな終わりだった。

 

 勝利の音はなかった。断末魔もなかった。ただ、地下室に染みついていた暗さがひとつ消えた。それだけだった。

 

 桜はその場に座り込んだまま、呆然と自分の手を見ていた。

 

 右手には令呪がある。

 

 それ以外には、もう何もない。

 

 自分を縛っていたもの。自分の体を自分のものではないと思わせていたもの。夜の底へ沈め続けていたもの。それらは、白い神狼の筆しらべによって祓われていた。

 

「……終わった、んですか」

 

 桜は小さく言った。

 

 白い神狼は尻尾を揺らし、短く鳴いた。

 

 その仕草が少しだけ犬のようで、桜はこんな時なのに笑いそうになった。笑えるはずがないと思っていた。けれど、口元がかすかに動いた。

 

「あなたは……」

 

 桜は少し迷った。

 

 先ほど臓硯が言っていた言葉を思い出す。

 

 ライダー。

 

 この白い神狼は、そのクラスのサーヴァントとして現界している。なら、そう呼ぶべきなのかもしれない。けれど、初めて会ったばかりの存在をいきなり記号のように呼ぶことに、桜は少し抵抗を覚えた。

 

「……ライダー、って呼べばいいんでしょうか」

 

 白い神狼は首を傾げた。

 

 嫌がっているようには見えない。むしろ、桜が困っていることを面白がっているようにも見えた。

 

「その……ごめんなさい。真名を聞くのは、危ないんですよね」

 

 聖杯戦争において、サーヴァントの真名は弱点に繋がる。桜も、臓硯から最低限の知識として教えられていた。だから、本当の名前を尋ねることはできない。

 

 白い神狼は、桜の周りをゆっくり歩くと、背の鏡を小さく光らせた。

 

 すると、床に残った金色の光が形を取った。

 

 文字ではない。

 

 絵だった。

 

 太陽。

 

 桜はそれを見つめる。

 

「太陽……?」

 

 白い神狼が短く鳴く。

 

 桜は少しだけ考えて、それから控えめに言った。

 

「じゃあ……今は、ライダーさん、でいいですか」

 

 白い神狼は尻尾を揺らした。

 

 それが了承なのかどうかは分からない。けれど、桜にはそう思えた。

 

 その時、地下室の外で物音がした。

 

 桜は肩を震わせる。

 

 白い神狼──ライダーが扉の方を見る。

 

 階段の上から、誰かが降りてくる足音がした。乱暴で、焦ったような足音。桜にはすぐに分かった。間桐慎二だ。

 

「おい、爺さん! 何やってんだよ、さっきからうるさ──」

 

 扉が開く。

 

 慎二はそこで言葉を失った。

 

 地下室は、彼の知っている地下室ではなくなっていた。陰気な闇も、嫌な匂いも、床に這うような気配もない。代わりに、柔らかな光が満ちている。そしてその中心に、桜と白い神狼がいた。

 

「……は?」

 

 慎二の顔が引きつる。

 

「なんだよ、それ。犬? いや、なんで地下室がこんな……爺さんは?」

 

 桜は答えられなかった。

 

 けれど、ライダーが一歩前に出た。

 

 慎二は反射的に後ずさる。

 

「な、なんだよ……こっち来んなよ……!」

 

 ライダーは唸らなかった。ただ、慎二を見ていた。その目に敵意はなかったが、甘さもなかった。これ以上、桜に近づくな。そう告げるには、それだけで十分だった。

 

 慎二は顔を歪め、桜を睨む。

 

「桜、おまえ……何したんだよ」

 

 桜は震える息を吸った。

 

 今までなら、謝っていたかもしれない。何もしていなくても謝って、下を向いて、怒りが過ぎるのを待っていたかもしれない。

 

 でも、今はライダーが隣にいる。

 

 温かい体温が、すぐそばにある。

 

「……分かりません」

 

 桜は正直に言った。

 

「でも、お爺様はもういません」

 

「いないって……どういう意味だよ」

 

「そのままの意味です」

 

 自分の声が、思ったよりもはっきりしていたことに桜自身が驚いた。

 

 慎二も驚いたように目を見開いた。

 

 桜はライダーの毛並みにそっと触れながら、続けた。

 

「私は、もう……お爺様の言う通りにはなりません」

 

 地下室に沈黙が落ちた。

 

 慎二の表情が怒りに変わりかける。だが、ライダーが一歩動いた瞬間、その怒りは恐怖に塗り替えられた。

 

「……っ、勝手にしろよ!」

 

 慎二は吐き捨てるように言い、階段を駆け上がっていった。

 

 扉が乱暴に閉まる。

 

 桜はしばらくその音を聞いていた。胸の奥がまだ震えている。怖くないわけではない。これで全てが終わったわけでもない。慎二のこと、間桐家のこと、聖杯戦争のこと、そして自分がマスターになったという事実。考えなければならないことは山ほどあった。

 

 それでも、ひとつだけ確かなことがあった。

 

 もう、あの地下室の闇は戻らない。

 

「……ライダーさん」

 

 桜が呼ぶと、白い神狼がこちらを向いた。

 

「私、どうすればいいんでしょう」

 

 問いかけてから、桜は苦笑した。

 

 答えが返ってくるわけがない。目の前のサーヴァントは言葉を話さない。少なくとも、今のところは。

 

 けれどライダーは、桜の周りをゆっくり歩き、階段の方を見た。

 

 上へ。

 

 地上へ。

 

 この家の外へ。

 

 桜はその意味を理解した。

 

「……先輩のところに、行けってことですか」

 

 ライダーは短く鳴いた。

 

 桜は目を伏せた。

 

 衛宮士郎。

 

 その名前を思い浮かべるだけで、胸が苦しくなる。助けてほしいと思う。けれど、知られたくないとも思う。自分のことを知られて、嫌われるのが怖かった。今さら綺麗になったからといって、今までの自分がなかったことになるわけではない。

 

 だが、ライダーは桜の手に鼻先を押し当てた。

 

 温かい。

 

 桜はゆっくりと息を吸った。

 

「……そうですね」

 

 声はまだ小さかった。

 

 けれど、地下室にいた時とは違っていた。

 

「私は、ちゃんと話さないといけないんですね」

 

 ライダーは桜の隣に立つ。

 

 桜は立ち上がった。足元はまだふらついている。それでも歩けた。階段へ向かう。地下から地上へ。一段ずつ、ゆっくりと。

 

 背後を振り返ると、地下室にはまだ光が残っていた。

 

 あの場所は、もう夜の底ではない。

 

 桜は右手の令呪を見た。

 

 第五次聖杯戦争は、始まってしまった。

 

 けれど、間桐桜の物語は、今この瞬間に初めて始まったのかもしれない。

 

 玄関へ向かう廊下で、ライダーが軽く尻尾を振る。白い毛並みに、どこからともなく差し込んだ朝日のような光が揺れた。背の神鏡が淡く輝き、赤い隈取が廊下の暗がりに浮かび上がる。

 

 桜は小さく笑った。

 

「行きましょう、ライダーさん」

 

 白い神狼は、静かに桜の隣を歩き出した。

 

 夜を終わらせた太陽は、今度は少女の足元を照らしていた。





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