Fate/Divine Brush──桜花浄界── 作:一般ガス会社社員
2話連続登場
修正版の再投稿です
朝の衛宮邸は、いつも通りではなかった。
台所からは味噌汁の匂いがしている。炊き上がった米の湯気が立ち、焼き魚の香ばしい匂いが茶の間まで届いていた。士郎はいつものように朝食の支度をしている。包丁を使い、鍋を見て、皿を並べる。その動きだけなら、普段と何も変わらない。
だが、茶の間の光景は、明らかに普段とは違っていた。
桜がいる。
それはまだいい。体調が悪いということにして、衛宮邸に泊まっている。藤ねえにも、そこまでは説明できる。
庭にはライダーがいる。
それも、藤ねえの中ではすでに受け入れられている。藤ねえには、ライダーの紅い隈取も、背中の神鏡も、太陽の神気も見えていない。彼女の目に映るのは、真っ白な大型犬だけだ。しかも昨日の時点で、藤ねえはその大型犬を「ライダーちゃん」と呼んでいた。
問題は、ちゃぶ台のそばに座っている金髪の少女だった。
セイバー。
昨夜、土蔵で士郎が召喚したサーヴァント。
青と銀の甲冑は、今は身につけていない。凛が桜のために持ってきていた着替えを借りて、現代の服を着ている。落ち着いた色合いで、桜が着ても不自然ではないような服だった。華美ではない。だが、セイバー本人にとっては、やはり戦う者の服ではないらしい。
彼女は背筋を伸ばして座っていた。
普通の服を着ているはずなのに、姿勢が完全に騎士だった。視線はまっすぐで、周囲への警戒も解いていない。ちゃぶ台の前に座っているだけなのに、どこか戦場に立つ者の空気が残っている。
「マスター」
セイバーが口を開いた。
「この服装で、本当に問題ないのでしょうか」
士郎は味噌汁をよそいながら答える。
「問題ないと思う。少なくとも、鎧よりはずっと自然だ」
「ですが、防御力が著しく低下しています」
「朝飯の席で防御力を気にする必要は、たぶんない」
「敵襲の可能性は常にあります」
「それはそうだけどな……」
士郎は少し困った顔になる。
セイバーの言っていることは間違っていない。聖杯戦争に巻き込まれた以上、いつ敵が襲ってくるか分からない。実際、ランサーは衛宮邸まで来たし、昨夜は正体不明の使い魔らしきものが屋敷を探ってきた。
だが、それでも、朝食の時間くらいは少しだけ普通でいたかった。
桜が小さく笑う。
「セイバーさん、その服、とても似合っていますよ」
セイバーは少しだけ視線を動かした。
「ありがとうございます、桜。ですが、やはり戦闘には不向きです」
「それは……そうですね」
桜は困ったように笑った。
庭ではライダーが伏せている。
士郎と桜の目には、白い神狼の本来の姿が見えている。雪のような毛並み。額から頬へ走る紅い隈取。背に負った神鏡。尾へ流れる炎のような毛。朝の光を浴びたその姿は、夜に見るよりもずっと穏やかだった。
ただし、穏やかに見えるだけだ。
ライダーは気を抜いていない。庭の空気は清められ、見えない朝日のような気配が衛宮邸全体を包んでいる。外から何かが入り込もうとすれば、すぐに気づくだろう。
その時、玄関の方から門が開く音がした。
「士郎ー! 朝ごはーん!」
藤ねえの声だった。
士郎は手を止めた。
来た。
分かっていた。
ほぼ確実に来ると分かっていた。
それでも、実際に声が聞こえると胃が重くなる。
凛はまだ来ていない。つまり、今この場で説明するのは士郎自身だ。
まずい。
そう思った瞬間、廊下の向こうから藤ねえの足音が近づいてきた。
「おっはよー! 桜ちゃん、体調どう? ライダーちゃんも元気ー?」
いつも通りの声。
いつも通りの勢い。
藤ねえが茶の間に顔を出す。
そして、止まった。
桜がいる。
庭にはライダーがいる。
ちゃぶ台のそばには、金髪の少女が座っている。
沈黙が落ちた。
藤ねえは、ゆっくりと士郎を見た。
「……士郎」
「はい」
「説明」
「えっと」
士郎は言葉に詰まった。
まずい。
完全にまずい。
何から言えばいいのか分からない。
凛の知り合い。海外から来た子。事情があってしばらく預かる。頭では分かっているのに、藤ねえの視線を前にすると言葉が出てこない。
セイバーは真面目な顔で藤ねえを見ている。
桜は少し緊張している。
庭のライダーは、こちらを見ていた。どこか面白がっているようにも見える。
士郎が何かを言おうとした、その時だった。
「おはようございます、藤村先生」
玄関の方から、もう一つ声がした。
凛だった。
士郎は内心で心底ほっとした。
凛は茶の間に入るなり、藤ねえとセイバーの位置関係を見て、一瞬だけ状況を理解した顔になった。それから、何事もなかったかのように微笑む。
「その子、私の知り合いです」
「遠坂さんの?」
「はい。海外から来た子で、少し事情があって、しばらくこちらで預かることになりました」
「なんで士郎の家に?」
凛は一瞬だけ止まった。
「……衛宮くんの家が広いので」
「なるほど!」
凛の表情が少しだけ崩れた。
「納得するんですか!?」
「だって士郎の家、広いし」
藤ねえは本気で納得しているらしい。
士郎は助かったような、助かっていないような気持ちになった。
藤ねえはセイバーに近づき、じっと顔を見る。
「外国の子なんだ。綺麗な髪だねー。名前は?」
士郎の喉が詰まる。
「セ――」
「セイラです!」
凛が即座に遮った。
セイバーは一瞬だけ凛を見た。
それから、真面目に頷く。
「セイラ、です」
「セイラちゃんね!」
藤ねえはぱっと笑った。
「私は藤村大河。士郎の保護者みたいなものです。よろしくね、セイラちゃん」
「よろしくお願いします、藤村先生」
セイバーは丁寧に頭を下げた。
その所作があまりに自然で、逆に藤ねえの目が輝いた。
「礼儀正しい! 士郎、見習いなさい!」
「なんで俺が怒られるんだ」
「普段から!」
「普段からって何だよ」
いつものやり取り。
けれど、そこにセイバーがいるだけで、奇妙な現実感があった。
藤ねえはすぐに座布団へ座り、食卓を見た。
「まあいいや。ごはん食べよう。セイラちゃんも食べるよね?」
セイバーは一瞬、士郎を見た。
「マスター」
その呼び方に、士郎の背筋が凍る。
藤ねえが首を傾げた。
「マスター?」
凛の表情が一瞬で険しくなる。
士郎は慌てて言った。
「ま、マスターっていうのは、その、料理の……」
「料理の?」
「俺が朝飯作ってるから、そういう意味で」
「へえ、外国だと料理作る人のことマスターって言うの?」
「た、たぶん」
凛が小声で呻いた。
「雑すぎる……」
セイバーも状況を察したのか、真面目な顔で頷いた。
「はい。料理を作る者への敬称です」
「そうなんだ!」
藤ねえはまた納得した。
凛が額を押さえる。
士郎はもう何も言わなかった。
朝食が始まった。
藤ねえはいつも通り勢いよく食べる。桜は少し控えめに箸を進める。凛は疲れた顔で味噌汁を飲む。庭のライダーは縁側の近くで伏せたまま、こちらを見ている。
そしてセイバーは、最初の一口を食べた瞬間、わずかに目を見開いた。
「これは……」
士郎が少し不安になる。
「口に合わなかったか?」
「いえ」
セイバーは真剣な顔で言った。
「とても良い食事です」
「そうか。ならよかった」
「米の炊き加減、汁物の温度、魚の焼き加減。どれも丁寧です。マスターは料理に優れているのですね」
またマスターと言いかけたところで、セイバーはほんのわずかに止まった。
「……料理のマスターとして」
凛が小さく吹き出しかけて、必死にこらえた。
藤ねえは感心したように頷く。
「セイラちゃん、分かってるねー。士郎のごはんは美味しいんだよ」
「はい」
セイバーは真剣に頷いた。
「おかわりはありますか」
士郎は少し笑った。
「ああ。あるぞ」
「では、お願いします」
藤ねえは嬉しそうに笑った。
「よく食べる子はいい子だよ!」
セイバーはその言葉を真面目に受け取ったのか、静かに頷いた。
「ありがとうございます」
士郎は茶碗にごはんをよそいながら、少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
セイバーが食卓にいる。
桜がいて、凛がいて、藤ねえがいて、庭にはライダーがいる。
状況だけ見れば異常だ。
けれど、朝食の時間だけは、どこか日常に近かった。
それが少しだけ救いだった。
藤ねえはいつも通り桜を心配し、ライダーに「桜ちゃんをよろしくね」と手を振り、セイラちゃんはしっかり食べるようにと何度も言い、士郎には「隠し事はほどほどに」と釘を刺して帰っていった。
門が閉まる音がしてから、凛は茶の間に突っ伏した。
「……疲れた」
「助かったよ、遠坂」
「本当にね。あなた一人だったら絶対に変なこと言ってたわ」
「否定できない」
セイバーは少し申し訳なさそうに言った。
「私の呼称が問題を起こしかけました。以後、一般人の前では注意します」
「ああ、頼む」
士郎が頷くと、桜が小さく笑った。
「料理のマスター、ですね」
「桜まで」
庭のライダーが短く鳴いた。
明らかに面白がっている声だった。
穏やかな空気は、しかし長く続かなかった。
凛は姿勢を正し、表情を切り替えた。
「昨日の続きよ。衛宮くんが正式にマスターになった以上、放っておくわけにはいかないことがある」
「放っておくわけにはいかないこと?」
「監督役に会いに行く」
士郎は眉をひそめた。
「監督役って、聖杯戦争の?」
「そう。冬木教会の神父、言峰綺礼。聖杯戦争の表向きの管理者よ」
凛はそこで少し言葉を選ぶ。
「あなたはマスターになった。でも、聖杯戦争のことをまだほとんど知らない。私が説明することもできるけど、あなたみたいな素人に現実を突きつけるには、監督役の口から聞かせた方が早い」
「現実って」
「聖杯戦争がどういうものか。マスターが何を背負うのか。戦わない場合、どうなるのか」
凛の声が低くなる。
「それに、戦いたくないなら教会に保護を求めることもできる。令呪を預けて、マスターとしては脱落する。そういう選択肢があることも、あなたは知っておくべきなのよ」
士郎は黙った。
戦わない選択肢。
脱落。
教会の保護。
その言葉は、思っていたよりも重かった。
「遠坂は、俺にそうしてほしいのか」
凛はすぐには答えなかった。
しばらくして、視線を少しだけ落とす。
「分からないわ」
「分からない?」
「魔術師としてなら、あなたみたいな素人は戦場に出るべきじゃない。セイバーを引いたとはいえ、あなた自身は危なっかしすぎる。魔力供給も不安定。魔術の使い方も無茶苦茶。昨日だって、何かあれば死んでた」
凛は士郎を見た。
「でも、あなたが何も知らないまま、誰かを守ろうとして勝手に死ぬのも見たくない」
その言葉に、士郎は返せなかった。
「だから選ばせるの。戦うのか、降りるのか。そのために、まずは知る必要がある」
凛の声は厳しかった。
けれど、その奥には確かに心配があった。
士郎は小さく頷いた。
「分かった。教会へ行く」
その時、桜が口を開いた。
「私も行きます」
茶の間の空気が止まった。
士郎はすぐに桜を見る。
「桜」
「私もマスターです。ライダーさんのマスターです。なら、私も監督役に会うべきなんじゃないですか」
その声は静かだった。
けれど、震えてはいなかった。
凛の表情が複雑に揺れる。
「桜。それは……」
「危ないんですよね」
桜は凛の言葉を先に受け取った。
「言峰教会に行くのは危ない。監督役も完全に信用できない。私のことも、ライダーさんのことも知られたら面倒になる。分かっています」
「だったら」
「でも、私だけ何も知らないまま、ここで待っているのも嫌です」
士郎は言葉を失った。
桜は、ライダーの方を見た。
縁側の近くで伏せていた白い神狼が、静かに桜を見返す。
「私は、ずっと知らないままでした。自分の体に何がされているのかも、家が何をしようとしているのかも、聖杯戦争が何なのかも。知らないまま、ただ流されていました」
桜は両手を膝の上で握った。
「だから、知らないままでいるのは怖いです」
凛は苦しそうに目を伏せた。
士郎も胸が痛んだ。
桜の言葉は責めているわけではない。けれど、それでも重かった。桜がどれほど長く、知らされないまま耐えてきたのか。その一端が見えた気がした。
しかし、凛は首を横に振った。
「それでも、今回は残って」
「遠坂先輩」
「お願い」
凛の声は、思っていたより柔らかかった。
「言峰綺礼に、今のあなたを見せるのは早すぎる。あなたの体から蟲が消えていること、ライダーがどういう存在か、間桐の家で何が起きたか。全部、あの男に見せるには危険すぎる」
「……」
「それに、ライダーを教会へ連れて行くのも危険よ。あの場所は監督役の領域。そこへ神霊級のサーヴァントを連れていくなんて、火薬庫に太陽を持ち込むようなものよ」
ライダーが耳を動かした。
士郎には、不満なのか納得しているのか分からなかった。
セイバーが静かに口を開く。
「桜。今回は、ここに残る方が賢明です」
桜はセイバーを見る。
「貴女までそう言うんですか」
「はい。戦力として考えても、ライダーがこの屋敷に残る意味は大きい。ここはすでに敵に知られています。マスターである貴女が不在となり、ライダーも離れた場合、衛宮邸は守りを失う」
セイバーの言葉は正論だった。
桜は黙る。
士郎は言った。
「桜。俺も、桜にはここにいてほしい」
「先輩まで」
「桜だけ置いていくのが嫌なのは分かってる。でも、ここにはライダーがいる。藤ねえがまた来る可能性もある。もし何かあった時、桜とライダーがいてくれた方が安心できる」
士郎は少しだけ言葉を探した。
「それに、俺はちゃんと戻ってくる。戻ってきたら、聞いたことを全部話す」
桜は士郎を見た。
「全部、ですか」
「ああ。俺に分かる範囲で全部」
凛が横から言う。
「私も補足するわ。桜に必要な情報を隠すつもりはない」
桜はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……分かりました。今日は、ここで待っています」
士郎は少しだけ息を吐いた。
「ありがとう」
「でも、先輩」
桜はまっすぐ士郎を見る。
「無茶はしないでください」
「ああ」
「危ないと思ったら、ちゃんとセイバーさんや遠坂先輩の言うことを聞いてください」
「分かってる」
「本当にですか」
士郎は言葉に詰まった。
桜は少しだけ目を細める。
「先輩は、そういうところが信用できません」
凛が小さく吹き出した。
「分かってるじゃない、桜」
「遠坂」
士郎が抗議すると、セイバーまで真面目な顔で頷いた。
「マスター。私も同意見です」
「セイバーまで」
庭のライダーが、短く鳴いた。
明らかに同意している声だった。
士郎は肩を落とした。
「……分かった。無茶はしない」
それでようやく、桜は少しだけ表情を緩めた。
昼を過ぎてから、士郎たちは教会へ向かうことになった。
士郎と凛、そしてセイバー。
セイバーは鎧ではなく、凛が持ってきた服のままだった。本人はまだ少し不満そうだったが、街中を歩く以上、甲冑姿よりは遥かにましだ。アーチャーは霊体化し、凛のそばについているらしい。
玄関先で、桜が見送る。
その隣にはライダーが座っていた。
昼の光の下では、紅い隈取も神鏡も柔らかく見える。だが、士郎には分かる。ライダーは決して気を抜いていない。庭全体に広がる清めの気配は、昨日よりもさらに安定していた。
「行ってくる」
士郎が言う。
「はい。いってらっしゃい、先輩」
桜は微笑んだ。
その笑みは穏やかだったが、少しだけ不安も混じっている。
士郎はライダーを見る。
「桜を頼む」
ライダーは、当然だと言わんばかりに尻尾を一度だけ振った。
凛がそれを見て、呆れたように言う。
「神霊級サーヴァントに留守番を頼むって、冷静に考えるとすごい光景ね」
「でも、一番安心できるだろ」
「それはそうだけど」
凛は否定できずにため息をついた。
士郎たちは衛宮邸を出た。
門が閉まる。
その音が妙に大きく聞こえた。
士郎たちの姿が見えなくなってからも、桜はしばらく玄関先に立っていた。
風が冷たい。
庭の木々がわずかに揺れる。
ライダーが桜のそばへ来て、そっと頭を下げた。
「……大丈夫です」
桜は小さく言った。
「大丈夫、です」
自分に言い聞かせるような声だった。
ライダーは何も言わない。
ただ、桜の隣に座る。
その白い毛並みに、冬の陽射しが落ちる。
桜はゆっくりとライダーの背に手を置いた。
温かい。
普通の動物の温もりとは違う。もっと穏やかで、柔らかく、胸の奥の冷たいところにまで届く温もりだった。
「先輩は、また危ない方へ行ってしまうんでしょうか」
桜はぽつりと言った。
ライダーの耳が動く。
「先輩は優しいです。でも、優しすぎて、自分のことをいつも後回しにします。セイバーさんが来た今でも、きっと変わらないんだと思います」
桜は俯いた。
「私は、助けてもらいました。ライダーさんに。先輩に。遠坂先輩にも」
右手の包帯を見る。
その下には令呪がある。
もう消えない証。
自分が聖杯戦争のマスターであるという現実。
「でも、助けてもらった後に、何をすればいいのか分からないんです」
ライダーは静かに桜を見ている。
「私は、守られるだけでいいんでしょうか。先輩が危ないことをしようとしても、ただ待っているだけでいいんでしょうか」
言葉にしてから、桜は少し驚いた。
自分の中に、こんな気持ちがあったのだと初めて気づいたような感覚だった。
今までなら、そんなことを考えなかった。
自分に何かできるとは思っていなかった。
何かを選ぶ資格があるとも思っていなかった。
けれど今は違う。
ライダーがいる。
自分の呼び声に応えてくれた太陽がいる。
桜はゆっくりと顔を上げた。
「ライダーさん」
白い神狼が首を傾げる。
「私にも、できることはありますか」
ライダーはしばらく桜を見つめた。
それから、ゆっくりと立ち上がる。
空中に墨の線が走った。
桜は息を呑む。
線は鋭くはなかった。戦いのための一閃ではない。柔らかく、丸く、庭の空気に溶けるような線だった。
線の先に、小さな蕾が生まれる。
次の瞬間、淡い花が咲いた。
光の花びらが、桜の前にふわりと舞い落ちる。
「……綺麗」
桜は思わず呟いた。
花びらは地面に落ちる前に、淡い光になって消える。
けれど、その光は消えきらず、桜の足元に小さな円を描いた。
ライダーはその円の中に前足を置く。
そして、桜を見る。
言葉はない。
だが、桜には少しだけ分かった気がした。
まずは、立つこと。
自分の足で。
守られるだけではなく、自分がどこに立つのかを決めること。
桜は胸に手を当てた。
「……はい」
小さく頷く。
「私、考えます。自分に何ができるのか。何をしたいのか」
ライダーは満足げに短く鳴いた。
◇
一方、士郎たちは教会へ向かっていた。
冬木の街は昼の顔をしている。
通りには人が歩き、車が走り、店の前では買い物客が足を止めている。そんな何気ない風景の中を歩いていると、昨夜までの出来事が嘘のように思える。ランサーの槍も、セイバーの召喚も、ライダーの神鏡も、すべて夢だったのではないかと錯覚しそうになる。
だが、右手の令呪がそれを否定する。
包帯で隠していても、そこにあると分かる。
セイバーは士郎の少し後ろを歩いていた。
普通の服を着ていても、その歩き方には隙がない。人通りを見て、路地を見て、屋根の上まで一瞬だけ視線を向ける。完全に護衛の動きだった。
「緊張してる?」
凛が横から言う。
「してないと言えば嘘になる」
「正直でよろしい」
「遠坂は、その言峰って人を知ってるんだよな」
「ええ。昔からね」
「どんな人なんだ」
凛は少しだけ顔をしかめた。
「説明しにくいわね。神父で、監督役で、私の後見人みたいな立場でもある」
「後見人?」
「父が死んでから、形式上はあの人が遠坂の後見をしていたの。魔術の師ではないけど、聖杯戦争については色々知っている」
「じゃあ、味方なのか」
「違う」
凛の答えは早かった。
士郎は驚いて凛を見る。
凛は前を向いたまま言った。
「敵とも言い切れない。でも味方じゃない。少なくとも、私はそう思ってる」
「……分かった」
「教会では余計なことを言わないで。特に桜とライダーのことは、向こうから聞かれても簡単に話さない。言峰はたぶん、もうある程度知ってる。でも、こちらから情報を渡す必要はない」
「分かった」
「本当に?」
「分かってる」
凛は少し疑わしそうにしたが、それ以上は言わなかった。
丘を上がる。
教会が見えてくる。
昼間の教会は、昨夜の闇を知らないかのように静かだった。白い壁、尖塔、重い扉。人を迎えるための場所でありながら、どこか人を拒むようにも見える。
教会の扉の前で、凛が立ち止まった。
「セイバーはここで待っていて」
セイバーの表情が変わる。
「なぜです」
「ここは聖杯戦争の中立地帯。監督役の管理下よ。サーヴァントを連れて中に入る必要はないし、むしろ刺激になる」
「しかし、マスターから離れることは本意ではありません」
「外で待っていれば十分。何かあればすぐ分かる距離よ」
セイバーは納得していない顔で士郎を見た。
「マスター」
「大丈夫だ。すぐ戻る」
「……分かりました」
セイバーは小さく頷いた。
「ですが、異常を感知した場合は即座に突入します」
「分かった」
士郎はそう答えてから、教会の扉へ向かった。
中は静かだった。
礼拝堂には、人の気配が少ない。長椅子が並び、祭壇には十字架が掲げられている。空気は冷えていて、外の昼の光が入っているにもかかわらず、どこか薄暗く感じた。
祭壇の前に、一人の男が立っていた。
黒い僧衣。
背の高い体。
整った顔立ち。
その表情は穏やかで、声をかける前からこちらを待っていたようだった。
「来たか、凛」
男は言った。
「そして、衛宮士郎」
士郎は眉をひそめた。
「俺のことを知ってるのか」
「知っているとも。君の父を知っていた」
「親父を?」
士郎の声が少し硬くなる。
男は静かに頷いた。
「私は言峰綺礼。この聖杯戦争の監督役を務めている」
凛が一歩前に出た。
「衛宮くんがセイバーを召喚したわ。何も知らないまま放っておくわけにはいかないから連れてきた」
「そのようだな」
言峰の視線が、士郎の右手へ向かう。
包帯で隠しているはずなのに、見えているような視線だった。
「令呪は右手か」
士郎は無意識に手を握った。
「……ああ」
「セイバーは外で待機か。賢明だ」
その言葉に、凛の表情が少し険しくなる。
「覗いていたみたいな言い方ね」
「監督役の教会にサーヴァントが近づけば、気配くらいは分かる」
言峰は淡々と言った。
士郎はその男を見た。
穏やかな声。
落ち着いた態度。
けれど、どこか底が見えない。
この人は信用できない。
凛がそう言った理由が、少しだけ分かった気がした。
その頃、教会の外で、セイバーは一人立っていた。
マスターを中へ行かせ、自分は外で待つ。
本来ならば好ましくない。護衛としては、士郎のそばにいるべきだ。だが、ここは中立地帯だと凛は言った。士郎もすぐ戻ると言った。
ならば待つしかない。
セイバーは教会の扉を見つめた。
「マスターは、まだでしょうか……」
ぽつりと呟く。
朝食は食べた。十分に食べたはずだった。だが、士郎の作った食事は想像以上に良かった。もう少し食べてもよかったかもしれない。
セイバーは真面目な顔で、軽く首を振った。
「……いえ。今は警戒が先です」
そう言い聞かせ、周囲の気配を探る。
丘の上の風は冷たい。
街は静かだ。
それでも、戦場に立つ者の感覚は緩めない。
マスターは中にいる。
ならば自分は、扉の外で剣として待つ。
礼拝堂の中で、言峰は士郎の前に立っていた。
「さて、衛宮士郎。君は聖杯戦争について、どこまで知っている」
「七人のマスターが、七騎のサーヴァントを召喚して戦う。勝ち残れば聖杯が手に入る。万能の願望機だって聞いた」
「大まかには正しい」
「でも、俺は聖杯が欲しいわけじゃない」
士郎はすぐに言った。
言峰の目が、ほんのわずかに細まる。
「ほう」
「俺は、戦いたくてセイバーを呼んだわけじゃない。聖杯で叶えたい願いがあるわけでもない」
「では、降りるか」
言峰の言葉は、静かだった。
士郎は息を呑んだ。
「降りる?」
「聖杯戦争から身を引くということだ。令呪を手放し、教会の保護を受ける。監督役として、脱落したマスターを保護することはできる」
言峰は士郎を見た。
「無論、完全な安全を保証するものではない。だが、マスターとして戦場に立ち続けるよりは、生存の可能性は高くなるだろう」
士郎は黙った。
これが、凛の言っていた選択肢。
戦わない道。
セイバーを手放し、令呪を預け、教会の保護を受ける。
それを選べば、少なくとも自分がマスターとして狙われる理由は薄くなる。
たぶん、凛はそのためにここへ連れてきた。
士郎に戦わせるためではない。
士郎が自分で選べるようにするために。
言峰は続けた。
「君は魔術師として未熟だ。聖杯戦争の知識もない。セイバーを召喚したことは幸運かもしれんが、幸運だけで生き残れる戦争ではない。望みがないのなら、降りるのも一つの選択だ」
言葉は正しかった。
冷静だった。
だからこそ、士郎の中に嫌な重さを残した。
「俺が降りたら」
士郎は聞いた。
「桜はどうなる」
凛が少しだけ目を伏せた。
言峰は表情を変えない。
「間桐桜は別のマスターだ。君が降りても、彼女の立場は変わらない」
「遠坂は」
「遠坂凛もまた、別のマスターだ」
「藤ねえや学校の人たちは」
「聖杯戦争の巻き添えになる可能性は残る」
士郎の拳が震えた。
「なら、俺だけ降りても終わらないじゃないか」
「君自身の安全は増す」
「俺だけだろ」
士郎は言った。
「俺だけ助かっても、桜が狙われるなら意味がない。遠坂が戦うなら意味がない。藤ねえや学校の奴らが巻き込まれるなら意味がない」
言峰は静かに士郎を見る。
「多くを望むのだな」
「望んでるわけじゃない。ただ、放っておけないだけだ」
「その考えは危うい」
「分かってる」
「本当に?」
言峰の声が、わずかに深くなった。
「では、知っておくといい。聖杯戦争は、君が思うほど綺麗な戦いではない」
言峰は祭壇へ視線を向けた。
「サーヴァント同士の戦闘は、人の世の尺度を超える。マスター同士の謀略もある。一般人が巻き込まれることもある。勝利のために人を使い潰す者もいる。願いを叶えるためならば、他者の命を踏み越える者もいる」
「……」
「そして、十年前にも大きな災厄が起きた」
士郎の呼吸が止まった。
十年前。
その言葉だけで、胸の奥に焼け焦げた匂いが蘇る。
炎。
崩れた街。
赤い空。
助けを求める声。
手を伸ばしても届かなかった人たち。
士郎は無意識に拳を握った。
「冬木の大火災」
言峰は言った。
「多くの命が失われた。君もまた、その被害者の一人だったはずだ」
「……あれが」
士郎の声がかすれる。
「あれが、聖杯戦争と関係あるのか」
「可能性は高い」
その言葉は、静かに落ちた。
士郎の中で、何かが軋む。
可能性。
断定ではない。
けれど、十分だった。
十年前の火災。
自分がすべてを失った日。
切嗣に助けられた日。
あの地獄が、魔術師たちの戦争の結果だったかもしれない。
願いを叶えるための聖杯が、あの炎を生んだかもしれない。
「ふざけるな……」
士郎は小さく呟いた。
凛が士郎を見る。
「衛宮くん」
「ふざけるな」
今度は、はっきりと言った。
怒りだった。
だが、誰に向ければいいのか分からない怒りだった。
十年前に死んだ人たちへ。
何も知らずに生き残った自分へ。
聖杯戦争という仕組みへ。
願いのために人を巻き込む魔術師たちへ。
そのすべてに対して、胸の奥が熱くなる。
言峰は静かに士郎を見ていた。
「君が降りることはできる」
言峰は言った。
「だが、戦争は続く」
その言葉は、士郎の胸に深く沈んだ。
自分が逃げても、終わらない。
自分が見ないふりをしても、戦争は続く。
誰かが戦い、誰かが傷つき、またあの火災のようなものが起こるかもしれない。
桜が狙われるかもしれない。
藤ねえが巻き込まれるかもしれない。
学校が、街が、あの赤い空に飲まれるかもしれない。
「なら」
士郎は顔を上げた。
「止めればいい」
凛が息を呑む。
言峰の目がわずかに細くなる。
「聖杯戦争をか」
「少なくとも、十年前みたいなことは起こさせない。桜を守るだけじゃ足りない。藤ねえや、学校の奴らや、街の人たちが巻き込まれるなら、俺はそれを止める」
「それが君の参加理由か」
「そうだ」
士郎は言った。
「聖杯が欲しいから戦うんじゃない。これ以上、あの時みたいな被害者を出さないために戦う」
言葉にしてから、士郎は自分の胸の奥で何かが定まるのを感じた。
桜を守りたい。
それは変わらない。
けれど、それだけではない。
十年前の炎が、聖杯戦争に繋がっているのなら。
自分が巻き込まれた意味が、今ここに繋がっているのなら。
見て見ぬふりはできない。
教会の外で、セイバーが扉の方を見た。
士郎の魔力の流れが、かすかに揺れたのを感じた。
恐怖ではない。
迷いでもない。
決意に近い何か。
セイバーは静かに目を細める。
「マスター……」
礼拝堂の中で、言峰は士郎を見つめている。
その顔に浮かぶ表情は、穏やかだった。
穏やかすぎて、不気味だった。
「なるほど。衛宮切嗣の息子らしい答えだ」
「親父は関係ない」
「そうかな」
言峰は静かに返した。
「君が抱える傷も、願いも、彼から受け継いだものではないと言い切れるか」
士郎は言葉に詰まった。
切嗣。
正義の味方になりたかった男。
その夢を、士郎は受け取った。
受け取ってしまった。
それが自分のものなのか、切嗣のものなのか。士郎にはまだ分からない。
だが、それでも。
「俺が決めたことだ」
士郎は言った。
「誰かから貰ったものだったとしても、今、俺がそうするって決めた」
言峰は、ほんのわずかに笑ったように見えた。
「よかろう。ならば、君はマスターとして戦場に立つことを選んだわけだ」
「そうだ」
「理由は問わん。戦争に立つ者は、それぞれの理由を持つ」
言峰はそこで、わずかに声の調子を変えた。
「ところで、間桐桜は息災か」
空気が変わった。
凛の表情が鋭くなる。
士郎も言峰を睨んだ。
「桜を知ってるのか」
「知っているとも。彼女もまた、聖杯戦争に選ばれたマスターだ。監督役として把握しておく必要がある」
「桜に何をするつもりだ」
「何も」
言峰は即答した。
「少なくとも、今は」
その言い方に、士郎の中で警戒が膨らむ。
「今は、って何だ」
「彼女のサーヴァントは異常だ。ライダーのクラスに収まりながら、神性が高すぎる。さらに、間桐臓硯が沈黙している。監督役としては、看過し難い状況ではある」
「桜は関係ない」
「関係はある。彼女はマスターだ」
「それでも、桜を利用させない」
士郎の声が強くなった。
言峰はその反応を見て、少しだけ目を細めた。
「君は多くを守りたいのだな」
「悪いか」
「悪くはない」
言峰は静かに言った。
「ただし、多くを守ろうとする者ほど、何を守れなかったかに苦しむことになる」
「……っ」
「覚えておくといい、衛宮士郎。聖杯戦争は、君の理想を試す場でもある」
凛が一歩前に出た。
「そこまでよ、言峰」
「忠告だ」
「あなたの忠告はいつも後味が悪いのよ」
凛は士郎の腕を軽く引いた。
「行くわよ、衛宮くん。必要な話は聞いた」
士郎はまだ言峰を睨んでいた。
聞きたいことは山ほどある。
切嗣のこと。
十年前のこと。
桜のこと。
だが、今ここで問い詰めても、言峰が素直に答えるとは思えなかった。
士郎は拳を握り、ゆっくりと頷いた。
「……分かった」
教会を出る。
扉の外では、セイバーが待っていた。
士郎を見るなり、彼女は一歩近づく。
「マスター。異常はありませんか」
「ああ。大丈夫だ」
「そうですか」
セイバーは短く答えた。
だが、その表情はわずかに険しい。
「中で、何かありましたね」
士郎は少しだけ黙った。
「聖杯戦争のことを聞いた。十年前の火災のことも」
セイバーは何も言わなかった。
士郎の言葉を待っている。
外の空気は冷たかった。
昼間のはずなのに、教会の中にいた時間のせいか、外の光が妙に眩しい。士郎は階段を降りながら、右手の令呪を握りしめた。
凛は横で黙っていた。
しばらくして、ぽつりと言う。
「大丈夫?」
「大丈夫じゃない」
士郎は正直に言った。
「でも、聞いてよかった」
「そう」
「あの火災が聖杯戦争のせいかもしれないなら、俺は止めたい。もう二度と、あんなことを起こさせたくない」
凛は士郎を見る。
「それは、簡単なことじゃないわ」
「分かってる」
「本当に?」
「たぶん、まだ分かってない」
士郎は苦く笑った。
「でも、やる理由はできた」
凛は少しだけ目を伏せた。
「……そう」
セイバーは士郎の横を歩きながら、静かに言った。
「マスター。貴方の意思は聞きました。私は、その剣として戦います」
士郎は小さく頷いた。
「ああ。頼む」
◇
その頃、衛宮邸では、桜が庭に立っていた。
ライダーはその前にいる。
空中には淡い墨の線が残っていた。小さな花がいくつも咲き、すぐに光の花びらとなって消えていく。戦いのための力ではない。守るため、整えるため、桜が自分の呼吸を取り戻すための静かな筆しらべだった。
桜は深く息を吸う。
自分の足で立つ。
ただ待つのではなく、考える。
自分に何ができるのか。
先輩を止めるために。
先輩を支えるために。
そして、自分自身がもう一度、誰かの意思だけで動かされないために。
「ライダーさん」
桜は言った。
「私、守られるだけではいたくありません」
白い神狼が桜を見る。
紅い隈取が、昼の光の中で柔らかく浮かぶ。
「まだ怖いです。分からないことばかりです。でも、何も知らないまま、何も選ばないままではいたくないです」
ライダーは静かに鳴いた。
その声は、桜の胸の奥にすっと染み込んだ。
庭の花びらが風に舞う。
桜はライダーの背に手を置いた。
そこには、確かに太陽の温もりがあった。
教会の闇で、士郎は聖杯戦争の傷跡を知った。
衛宮邸の太陽のそばで、桜は自分の足で立つことを知った。
同じ日の空の下で、二人の決意は別々に芽吹いていた。
まだ小さく、まだ頼りなく。
それでも、確かに。
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