Fate/Divine Brush──桜花浄界──   作:一般ガス会社社員

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2話連続登場

修正版の再投稿です



Scars of the Grail

 

 朝の衛宮邸は、いつも通りではなかった。

 

 台所からは味噌汁の匂いがしている。炊き上がった米の湯気が立ち、焼き魚の香ばしい匂いが茶の間まで届いていた。士郎はいつものように朝食の支度をしている。包丁を使い、鍋を見て、皿を並べる。その動きだけなら、普段と何も変わらない。

 

 だが、茶の間の光景は、明らかに普段とは違っていた。

 

 桜がいる。

 

 それはまだいい。体調が悪いということにして、衛宮邸に泊まっている。藤ねえにも、そこまでは説明できる。

 

 庭にはライダーがいる。

 

 それも、藤ねえの中ではすでに受け入れられている。藤ねえには、ライダーの紅い隈取も、背中の神鏡も、太陽の神気も見えていない。彼女の目に映るのは、真っ白な大型犬だけだ。しかも昨日の時点で、藤ねえはその大型犬を「ライダーちゃん」と呼んでいた。

 

 問題は、ちゃぶ台のそばに座っている金髪の少女だった。

 

 セイバー。

 

 昨夜、土蔵で士郎が召喚したサーヴァント。

 

 青と銀の甲冑は、今は身につけていない。凛が桜のために持ってきていた着替えを借りて、現代の服を着ている。落ち着いた色合いで、桜が着ても不自然ではないような服だった。華美ではない。だが、セイバー本人にとっては、やはり戦う者の服ではないらしい。

 

 彼女は背筋を伸ばして座っていた。

 

 普通の服を着ているはずなのに、姿勢が完全に騎士だった。視線はまっすぐで、周囲への警戒も解いていない。ちゃぶ台の前に座っているだけなのに、どこか戦場に立つ者の空気が残っている。

 

「マスター」

 

 セイバーが口を開いた。

 

「この服装で、本当に問題ないのでしょうか」

 

 士郎は味噌汁をよそいながら答える。

 

「問題ないと思う。少なくとも、鎧よりはずっと自然だ」

 

「ですが、防御力が著しく低下しています」

 

「朝飯の席で防御力を気にする必要は、たぶんない」

 

「敵襲の可能性は常にあります」

 

「それはそうだけどな……」

 

 士郎は少し困った顔になる。

 

 セイバーの言っていることは間違っていない。聖杯戦争に巻き込まれた以上、いつ敵が襲ってくるか分からない。実際、ランサーは衛宮邸まで来たし、昨夜は正体不明の使い魔らしきものが屋敷を探ってきた。

 

 だが、それでも、朝食の時間くらいは少しだけ普通でいたかった。

 

 桜が小さく笑う。

 

「セイバーさん、その服、とても似合っていますよ」

 

 セイバーは少しだけ視線を動かした。

 

「ありがとうございます、桜。ですが、やはり戦闘には不向きです」

 

「それは……そうですね」

 

 桜は困ったように笑った。

 

 庭ではライダーが伏せている。

 

 士郎と桜の目には、白い神狼の本来の姿が見えている。雪のような毛並み。額から頬へ走る紅い隈取。背に負った神鏡。尾へ流れる炎のような毛。朝の光を浴びたその姿は、夜に見るよりもずっと穏やかだった。

 

 ただし、穏やかに見えるだけだ。

 

 ライダーは気を抜いていない。庭の空気は清められ、見えない朝日のような気配が衛宮邸全体を包んでいる。外から何かが入り込もうとすれば、すぐに気づくだろう。

 

 その時、玄関の方から門が開く音がした。

 

「士郎ー! 朝ごはーん!」

 

 藤ねえの声だった。

 

 士郎は手を止めた。

 

 来た。

 

 分かっていた。

 

 ほぼ確実に来ると分かっていた。

 

 それでも、実際に声が聞こえると胃が重くなる。

 

 凛はまだ来ていない。つまり、今この場で説明するのは士郎自身だ。

 

 まずい。

 

 そう思った瞬間、廊下の向こうから藤ねえの足音が近づいてきた。

 

「おっはよー! 桜ちゃん、体調どう? ライダーちゃんも元気ー?」

 

 いつも通りの声。

 

 いつも通りの勢い。

 

 藤ねえが茶の間に顔を出す。

 

 そして、止まった。

 

 桜がいる。

 

 庭にはライダーがいる。

 

 ちゃぶ台のそばには、金髪の少女が座っている。

 

 沈黙が落ちた。

 

 藤ねえは、ゆっくりと士郎を見た。

 

「……士郎」

 

「はい」

 

「説明」

 

「えっと」

 

 士郎は言葉に詰まった。

 

 まずい。

 

 完全にまずい。

 

 何から言えばいいのか分からない。

 

 凛の知り合い。海外から来た子。事情があってしばらく預かる。頭では分かっているのに、藤ねえの視線を前にすると言葉が出てこない。

 

 セイバーは真面目な顔で藤ねえを見ている。

 

 桜は少し緊張している。

 

 庭のライダーは、こちらを見ていた。どこか面白がっているようにも見える。

 

 士郎が何かを言おうとした、その時だった。

 

「おはようございます、藤村先生」

 

 玄関の方から、もう一つ声がした。

 

 凛だった。

 

 士郎は内心で心底ほっとした。

 

 凛は茶の間に入るなり、藤ねえとセイバーの位置関係を見て、一瞬だけ状況を理解した顔になった。それから、何事もなかったかのように微笑む。

 

「その子、私の知り合いです」

 

「遠坂さんの?」

 

「はい。海外から来た子で、少し事情があって、しばらくこちらで預かることになりました」

 

「なんで士郎の家に?」

 

 凛は一瞬だけ止まった。

 

「……衛宮くんの家が広いので」

 

「なるほど!」

 

 凛の表情が少しだけ崩れた。

 

「納得するんですか!?」

 

「だって士郎の家、広いし」

 

 藤ねえは本気で納得しているらしい。

 

 士郎は助かったような、助かっていないような気持ちになった。

 

 藤ねえはセイバーに近づき、じっと顔を見る。

 

「外国の子なんだ。綺麗な髪だねー。名前は?」

 

 士郎の喉が詰まる。

 

「セ――」

 

「セイラです!」

 

 凛が即座に遮った。

 

 セイバーは一瞬だけ凛を見た。

 

 それから、真面目に頷く。

 

「セイラ、です」

 

「セイラちゃんね!」

 

 藤ねえはぱっと笑った。

 

「私は藤村大河。士郎の保護者みたいなものです。よろしくね、セイラちゃん」

 

「よろしくお願いします、藤村先生」

 

 セイバーは丁寧に頭を下げた。

 

 その所作があまりに自然で、逆に藤ねえの目が輝いた。

 

「礼儀正しい! 士郎、見習いなさい!」

 

「なんで俺が怒られるんだ」

 

「普段から!」

 

「普段からって何だよ」

 

 いつものやり取り。

 

 けれど、そこにセイバーがいるだけで、奇妙な現実感があった。

 

 藤ねえはすぐに座布団へ座り、食卓を見た。

 

「まあいいや。ごはん食べよう。セイラちゃんも食べるよね?」

 

 セイバーは一瞬、士郎を見た。

 

「マスター」

 

 その呼び方に、士郎の背筋が凍る。

 

 藤ねえが首を傾げた。

 

「マスター?」

 

 凛の表情が一瞬で険しくなる。

 

 士郎は慌てて言った。

 

「ま、マスターっていうのは、その、料理の……」

 

「料理の?」

 

「俺が朝飯作ってるから、そういう意味で」

 

「へえ、外国だと料理作る人のことマスターって言うの?」

 

「た、たぶん」

 

 凛が小声で呻いた。

 

「雑すぎる……」

 

 セイバーも状況を察したのか、真面目な顔で頷いた。

 

「はい。料理を作る者への敬称です」

 

「そうなんだ!」

 

 藤ねえはまた納得した。

 

 凛が額を押さえる。

 

 士郎はもう何も言わなかった。

 

 朝食が始まった。

 

 藤ねえはいつも通り勢いよく食べる。桜は少し控えめに箸を進める。凛は疲れた顔で味噌汁を飲む。庭のライダーは縁側の近くで伏せたまま、こちらを見ている。

 

 そしてセイバーは、最初の一口を食べた瞬間、わずかに目を見開いた。

 

「これは……」

 

 士郎が少し不安になる。

 

「口に合わなかったか?」

 

「いえ」

 

 セイバーは真剣な顔で言った。

 

「とても良い食事です」

 

「そうか。ならよかった」

 

「米の炊き加減、汁物の温度、魚の焼き加減。どれも丁寧です。マスターは料理に優れているのですね」

 

 またマスターと言いかけたところで、セイバーはほんのわずかに止まった。

 

「……料理のマスターとして」

 

 凛が小さく吹き出しかけて、必死にこらえた。

 

 藤ねえは感心したように頷く。

 

「セイラちゃん、分かってるねー。士郎のごはんは美味しいんだよ」

 

「はい」

 

 セイバーは真剣に頷いた。

 

「おかわりはありますか」

 

 士郎は少し笑った。

 

「ああ。あるぞ」

 

「では、お願いします」

 

 藤ねえは嬉しそうに笑った。

 

「よく食べる子はいい子だよ!」

 

 セイバーはその言葉を真面目に受け取ったのか、静かに頷いた。

 

「ありがとうございます」

 

 士郎は茶碗にごはんをよそいながら、少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。

 

 セイバーが食卓にいる。

 

 桜がいて、凛がいて、藤ねえがいて、庭にはライダーがいる。

 

 状況だけ見れば異常だ。

 

 けれど、朝食の時間だけは、どこか日常に近かった。

 

 それが少しだけ救いだった。

 

 藤ねえはいつも通り桜を心配し、ライダーに「桜ちゃんをよろしくね」と手を振り、セイラちゃんはしっかり食べるようにと何度も言い、士郎には「隠し事はほどほどに」と釘を刺して帰っていった。

 

 門が閉まる音がしてから、凛は茶の間に突っ伏した。

 

「……疲れた」

 

「助かったよ、遠坂」

 

「本当にね。あなた一人だったら絶対に変なこと言ってたわ」

 

「否定できない」

 

 セイバーは少し申し訳なさそうに言った。

 

「私の呼称が問題を起こしかけました。以後、一般人の前では注意します」

 

「ああ、頼む」

 

 士郎が頷くと、桜が小さく笑った。

 

「料理のマスター、ですね」

 

「桜まで」

 

 庭のライダーが短く鳴いた。

 

 明らかに面白がっている声だった。

 

 穏やかな空気は、しかし長く続かなかった。

 

 凛は姿勢を正し、表情を切り替えた。

 

「昨日の続きよ。衛宮くんが正式にマスターになった以上、放っておくわけにはいかないことがある」

 

「放っておくわけにはいかないこと?」

 

「監督役に会いに行く」

 

 士郎は眉をひそめた。

 

「監督役って、聖杯戦争の?」

 

「そう。冬木教会の神父、言峰綺礼。聖杯戦争の表向きの管理者よ」

 

 凛はそこで少し言葉を選ぶ。

 

「あなたはマスターになった。でも、聖杯戦争のことをまだほとんど知らない。私が説明することもできるけど、あなたみたいな素人に現実を突きつけるには、監督役の口から聞かせた方が早い」

 

「現実って」

 

「聖杯戦争がどういうものか。マスターが何を背負うのか。戦わない場合、どうなるのか」

 

 凛の声が低くなる。

 

「それに、戦いたくないなら教会に保護を求めることもできる。令呪を預けて、マスターとしては脱落する。そういう選択肢があることも、あなたは知っておくべきなのよ」

 

 士郎は黙った。

 

 戦わない選択肢。

 

 脱落。

 

 教会の保護。

 

 その言葉は、思っていたよりも重かった。

 

「遠坂は、俺にそうしてほしいのか」

 

 凛はすぐには答えなかった。

 

 しばらくして、視線を少しだけ落とす。

 

「分からないわ」

 

「分からない?」

 

「魔術師としてなら、あなたみたいな素人は戦場に出るべきじゃない。セイバーを引いたとはいえ、あなた自身は危なっかしすぎる。魔力供給も不安定。魔術の使い方も無茶苦茶。昨日だって、何かあれば死んでた」

 

 凛は士郎を見た。

 

「でも、あなたが何も知らないまま、誰かを守ろうとして勝手に死ぬのも見たくない」

 

 その言葉に、士郎は返せなかった。

 

「だから選ばせるの。戦うのか、降りるのか。そのために、まずは知る必要がある」

 

 凛の声は厳しかった。

 

 けれど、その奥には確かに心配があった。

 

 士郎は小さく頷いた。

 

「分かった。教会へ行く」

 

 その時、桜が口を開いた。

 

「私も行きます」

 

 茶の間の空気が止まった。

 

 士郎はすぐに桜を見る。

 

「桜」

 

「私もマスターです。ライダーさんのマスターです。なら、私も監督役に会うべきなんじゃないですか」

 

 その声は静かだった。

 

 けれど、震えてはいなかった。

 

 凛の表情が複雑に揺れる。

 

「桜。それは……」

 

「危ないんですよね」

 

 桜は凛の言葉を先に受け取った。

 

「言峰教会に行くのは危ない。監督役も完全に信用できない。私のことも、ライダーさんのことも知られたら面倒になる。分かっています」

 

「だったら」

 

「でも、私だけ何も知らないまま、ここで待っているのも嫌です」

 

 士郎は言葉を失った。

 

 桜は、ライダーの方を見た。

 

 縁側の近くで伏せていた白い神狼が、静かに桜を見返す。

 

「私は、ずっと知らないままでした。自分の体に何がされているのかも、家が何をしようとしているのかも、聖杯戦争が何なのかも。知らないまま、ただ流されていました」

 

 桜は両手を膝の上で握った。

 

「だから、知らないままでいるのは怖いです」

 

 凛は苦しそうに目を伏せた。

 

 士郎も胸が痛んだ。

 

 桜の言葉は責めているわけではない。けれど、それでも重かった。桜がどれほど長く、知らされないまま耐えてきたのか。その一端が見えた気がした。

 

 しかし、凛は首を横に振った。

 

「それでも、今回は残って」

 

「遠坂先輩」

 

「お願い」

 

 凛の声は、思っていたより柔らかかった。

 

「言峰綺礼に、今のあなたを見せるのは早すぎる。あなたの体から蟲が消えていること、ライダーがどういう存在か、間桐の家で何が起きたか。全部、あの男に見せるには危険すぎる」

 

「……」

 

「それに、ライダーを教会へ連れて行くのも危険よ。あの場所は監督役の領域。そこへ神霊級のサーヴァントを連れていくなんて、火薬庫に太陽を持ち込むようなものよ」

 

 ライダーが耳を動かした。

 

 士郎には、不満なのか納得しているのか分からなかった。

 

 セイバーが静かに口を開く。

 

「桜。今回は、ここに残る方が賢明です」

 

 桜はセイバーを見る。

 

「貴女までそう言うんですか」

 

「はい。戦力として考えても、ライダーがこの屋敷に残る意味は大きい。ここはすでに敵に知られています。マスターである貴女が不在となり、ライダーも離れた場合、衛宮邸は守りを失う」

 

 セイバーの言葉は正論だった。

 

 桜は黙る。

 

 士郎は言った。

 

「桜。俺も、桜にはここにいてほしい」

 

「先輩まで」

 

「桜だけ置いていくのが嫌なのは分かってる。でも、ここにはライダーがいる。藤ねえがまた来る可能性もある。もし何かあった時、桜とライダーがいてくれた方が安心できる」

 

 士郎は少しだけ言葉を探した。

 

「それに、俺はちゃんと戻ってくる。戻ってきたら、聞いたことを全部話す」

 

 桜は士郎を見た。

 

「全部、ですか」

 

「ああ。俺に分かる範囲で全部」

 

 凛が横から言う。

 

「私も補足するわ。桜に必要な情報を隠すつもりはない」

 

 桜はしばらく黙っていた。

 

 そして、ゆっくりと頷いた。

 

「……分かりました。今日は、ここで待っています」

 

 士郎は少しだけ息を吐いた。

 

「ありがとう」

 

「でも、先輩」

 

 桜はまっすぐ士郎を見る。

 

「無茶はしないでください」

 

「ああ」

 

「危ないと思ったら、ちゃんとセイバーさんや遠坂先輩の言うことを聞いてください」

 

「分かってる」

 

「本当にですか」

 

 士郎は言葉に詰まった。

 

 桜は少しだけ目を細める。

 

「先輩は、そういうところが信用できません」

 

 凛が小さく吹き出した。

 

「分かってるじゃない、桜」

 

「遠坂」

 

 士郎が抗議すると、セイバーまで真面目な顔で頷いた。

 

「マスター。私も同意見です」

 

「セイバーまで」

 

 庭のライダーが、短く鳴いた。

 

 明らかに同意している声だった。

 

 士郎は肩を落とした。

 

「……分かった。無茶はしない」

 

 それでようやく、桜は少しだけ表情を緩めた。

 

 昼を過ぎてから、士郎たちは教会へ向かうことになった。

 

 士郎と凛、そしてセイバー。

 

 セイバーは鎧ではなく、凛が持ってきた服のままだった。本人はまだ少し不満そうだったが、街中を歩く以上、甲冑姿よりは遥かにましだ。アーチャーは霊体化し、凛のそばについているらしい。

 

 玄関先で、桜が見送る。

 

 その隣にはライダーが座っていた。

 

 昼の光の下では、紅い隈取も神鏡も柔らかく見える。だが、士郎には分かる。ライダーは決して気を抜いていない。庭全体に広がる清めの気配は、昨日よりもさらに安定していた。

 

「行ってくる」

 

 士郎が言う。

 

「はい。いってらっしゃい、先輩」

 

 桜は微笑んだ。

 

 その笑みは穏やかだったが、少しだけ不安も混じっている。

 

 士郎はライダーを見る。

 

「桜を頼む」

 

 ライダーは、当然だと言わんばかりに尻尾を一度だけ振った。

 

 凛がそれを見て、呆れたように言う。

 

「神霊級サーヴァントに留守番を頼むって、冷静に考えるとすごい光景ね」

 

「でも、一番安心できるだろ」

 

「それはそうだけど」

 

 凛は否定できずにため息をついた。

 

 士郎たちは衛宮邸を出た。

 

 門が閉まる。

 

 その音が妙に大きく聞こえた。

 

 士郎たちの姿が見えなくなってからも、桜はしばらく玄関先に立っていた。

 

 風が冷たい。

 

 庭の木々がわずかに揺れる。

 

 ライダーが桜のそばへ来て、そっと頭を下げた。

 

「……大丈夫です」

 

 桜は小さく言った。

 

「大丈夫、です」

 

 自分に言い聞かせるような声だった。

 

 ライダーは何も言わない。

 

 ただ、桜の隣に座る。

 

 その白い毛並みに、冬の陽射しが落ちる。

 

 桜はゆっくりとライダーの背に手を置いた。

 

 温かい。

 

 普通の動物の温もりとは違う。もっと穏やかで、柔らかく、胸の奥の冷たいところにまで届く温もりだった。

 

「先輩は、また危ない方へ行ってしまうんでしょうか」

 

 桜はぽつりと言った。

 

 ライダーの耳が動く。

 

「先輩は優しいです。でも、優しすぎて、自分のことをいつも後回しにします。セイバーさんが来た今でも、きっと変わらないんだと思います」

 

 桜は俯いた。

 

「私は、助けてもらいました。ライダーさんに。先輩に。遠坂先輩にも」

 

 右手の包帯を見る。

 

 その下には令呪がある。

 

 もう消えない証。

 

 自分が聖杯戦争のマスターであるという現実。

 

「でも、助けてもらった後に、何をすればいいのか分からないんです」

 

 ライダーは静かに桜を見ている。

 

「私は、守られるだけでいいんでしょうか。先輩が危ないことをしようとしても、ただ待っているだけでいいんでしょうか」

 

 言葉にしてから、桜は少し驚いた。

 

 自分の中に、こんな気持ちがあったのだと初めて気づいたような感覚だった。

 

 今までなら、そんなことを考えなかった。

 

 自分に何かできるとは思っていなかった。

 

 何かを選ぶ資格があるとも思っていなかった。

 

 けれど今は違う。

 

 ライダーがいる。

 

 自分の呼び声に応えてくれた太陽がいる。

 

 桜はゆっくりと顔を上げた。

 

「ライダーさん」

 

 白い神狼が首を傾げる。

 

「私にも、できることはありますか」

 

 ライダーはしばらく桜を見つめた。

 

 それから、ゆっくりと立ち上がる。

 

 空中に墨の線が走った。

 

 桜は息を呑む。

 

 線は鋭くはなかった。戦いのための一閃ではない。柔らかく、丸く、庭の空気に溶けるような線だった。

 

 線の先に、小さな蕾が生まれる。

 

 次の瞬間、淡い花が咲いた。

 

 光の花びらが、桜の前にふわりと舞い落ちる。

 

「……綺麗」

 

 桜は思わず呟いた。

 

 花びらは地面に落ちる前に、淡い光になって消える。

 

 けれど、その光は消えきらず、桜の足元に小さな円を描いた。

 

 ライダーはその円の中に前足を置く。

 

 そして、桜を見る。

 

 言葉はない。

 

 だが、桜には少しだけ分かった気がした。

 

 まずは、立つこと。

 

 自分の足で。

 

 守られるだけではなく、自分がどこに立つのかを決めること。

 

 桜は胸に手を当てた。

 

「……はい」

 

 小さく頷く。

 

「私、考えます。自分に何ができるのか。何をしたいのか」

 

 ライダーは満足げに短く鳴いた。

 

 ◇

 

 一方、士郎たちは教会へ向かっていた。

 

 冬木の街は昼の顔をしている。

 

 通りには人が歩き、車が走り、店の前では買い物客が足を止めている。そんな何気ない風景の中を歩いていると、昨夜までの出来事が嘘のように思える。ランサーの槍も、セイバーの召喚も、ライダーの神鏡も、すべて夢だったのではないかと錯覚しそうになる。

 

 だが、右手の令呪がそれを否定する。

 

 包帯で隠していても、そこにあると分かる。

 

 セイバーは士郎の少し後ろを歩いていた。

 

 普通の服を着ていても、その歩き方には隙がない。人通りを見て、路地を見て、屋根の上まで一瞬だけ視線を向ける。完全に護衛の動きだった。

 

「緊張してる?」

 

 凛が横から言う。

 

「してないと言えば嘘になる」

 

「正直でよろしい」

 

「遠坂は、その言峰って人を知ってるんだよな」

 

「ええ。昔からね」

 

「どんな人なんだ」

 

 凛は少しだけ顔をしかめた。

 

「説明しにくいわね。神父で、監督役で、私の後見人みたいな立場でもある」

 

「後見人?」

 

「父が死んでから、形式上はあの人が遠坂の後見をしていたの。魔術の師ではないけど、聖杯戦争については色々知っている」

 

「じゃあ、味方なのか」

 

「違う」

 

 凛の答えは早かった。

 

 士郎は驚いて凛を見る。

 

 凛は前を向いたまま言った。

 

「敵とも言い切れない。でも味方じゃない。少なくとも、私はそう思ってる」

 

「……分かった」

 

「教会では余計なことを言わないで。特に桜とライダーのことは、向こうから聞かれても簡単に話さない。言峰はたぶん、もうある程度知ってる。でも、こちらから情報を渡す必要はない」

 

「分かった」

 

「本当に?」

 

「分かってる」

 

 凛は少し疑わしそうにしたが、それ以上は言わなかった。

 

 丘を上がる。

 

 教会が見えてくる。

 

 昼間の教会は、昨夜の闇を知らないかのように静かだった。白い壁、尖塔、重い扉。人を迎えるための場所でありながら、どこか人を拒むようにも見える。

 

 教会の扉の前で、凛が立ち止まった。

 

「セイバーはここで待っていて」

 

 セイバーの表情が変わる。

 

「なぜです」

 

「ここは聖杯戦争の中立地帯。監督役の管理下よ。サーヴァントを連れて中に入る必要はないし、むしろ刺激になる」

 

「しかし、マスターから離れることは本意ではありません」

 

「外で待っていれば十分。何かあればすぐ分かる距離よ」

 

 セイバーは納得していない顔で士郎を見た。

 

「マスター」

 

「大丈夫だ。すぐ戻る」

 

「……分かりました」

 

 セイバーは小さく頷いた。

 

「ですが、異常を感知した場合は即座に突入します」

 

「分かった」

 

 士郎はそう答えてから、教会の扉へ向かった。

 

 中は静かだった。

 

 礼拝堂には、人の気配が少ない。長椅子が並び、祭壇には十字架が掲げられている。空気は冷えていて、外の昼の光が入っているにもかかわらず、どこか薄暗く感じた。

 

 祭壇の前に、一人の男が立っていた。

 

 黒い僧衣。

 

 背の高い体。

 

 整った顔立ち。

 

 その表情は穏やかで、声をかける前からこちらを待っていたようだった。

 

「来たか、凛」

 

 男は言った。

 

「そして、衛宮士郎」

 

 士郎は眉をひそめた。

 

「俺のことを知ってるのか」

 

「知っているとも。君の父を知っていた」

 

「親父を?」

 

 士郎の声が少し硬くなる。

 

 男は静かに頷いた。

 

「私は言峰綺礼。この聖杯戦争の監督役を務めている」

 

 凛が一歩前に出た。

 

「衛宮くんがセイバーを召喚したわ。何も知らないまま放っておくわけにはいかないから連れてきた」

 

「そのようだな」

 

 言峰の視線が、士郎の右手へ向かう。

 

 包帯で隠しているはずなのに、見えているような視線だった。

 

「令呪は右手か」

 

 士郎は無意識に手を握った。

 

「……ああ」

 

「セイバーは外で待機か。賢明だ」

 

 その言葉に、凛の表情が少し険しくなる。

 

「覗いていたみたいな言い方ね」

 

「監督役の教会にサーヴァントが近づけば、気配くらいは分かる」

 

 言峰は淡々と言った。

 

 士郎はその男を見た。

 

 穏やかな声。

 

 落ち着いた態度。

 

 けれど、どこか底が見えない。

 

 この人は信用できない。

 

 凛がそう言った理由が、少しだけ分かった気がした。

 

 その頃、教会の外で、セイバーは一人立っていた。

 

 マスターを中へ行かせ、自分は外で待つ。

 

 本来ならば好ましくない。護衛としては、士郎のそばにいるべきだ。だが、ここは中立地帯だと凛は言った。士郎もすぐ戻ると言った。

 

 ならば待つしかない。

 

 セイバーは教会の扉を見つめた。

 

「マスターは、まだでしょうか……」

 

 ぽつりと呟く。

 

 朝食は食べた。十分に食べたはずだった。だが、士郎の作った食事は想像以上に良かった。もう少し食べてもよかったかもしれない。

 

 セイバーは真面目な顔で、軽く首を振った。

 

「……いえ。今は警戒が先です」

 

 そう言い聞かせ、周囲の気配を探る。

 

 丘の上の風は冷たい。

 

 街は静かだ。

 

 それでも、戦場に立つ者の感覚は緩めない。

 

 マスターは中にいる。

 

 ならば自分は、扉の外で剣として待つ。

 

 礼拝堂の中で、言峰は士郎の前に立っていた。

 

「さて、衛宮士郎。君は聖杯戦争について、どこまで知っている」

 

「七人のマスターが、七騎のサーヴァントを召喚して戦う。勝ち残れば聖杯が手に入る。万能の願望機だって聞いた」

 

「大まかには正しい」

 

「でも、俺は聖杯が欲しいわけじゃない」

 

 士郎はすぐに言った。

 

 言峰の目が、ほんのわずかに細まる。

 

「ほう」

 

「俺は、戦いたくてセイバーを呼んだわけじゃない。聖杯で叶えたい願いがあるわけでもない」

 

「では、降りるか」

 

 言峰の言葉は、静かだった。

 

 士郎は息を呑んだ。

 

「降りる?」

 

「聖杯戦争から身を引くということだ。令呪を手放し、教会の保護を受ける。監督役として、脱落したマスターを保護することはできる」

 

 言峰は士郎を見た。

 

「無論、完全な安全を保証するものではない。だが、マスターとして戦場に立ち続けるよりは、生存の可能性は高くなるだろう」

 

 士郎は黙った。

 

 これが、凛の言っていた選択肢。

 

 戦わない道。

 

 セイバーを手放し、令呪を預け、教会の保護を受ける。

 

 それを選べば、少なくとも自分がマスターとして狙われる理由は薄くなる。

 

 たぶん、凛はそのためにここへ連れてきた。

 

 士郎に戦わせるためではない。

 

 士郎が自分で選べるようにするために。

 

 言峰は続けた。

 

「君は魔術師として未熟だ。聖杯戦争の知識もない。セイバーを召喚したことは幸運かもしれんが、幸運だけで生き残れる戦争ではない。望みがないのなら、降りるのも一つの選択だ」

 

 言葉は正しかった。

 

 冷静だった。

 

 だからこそ、士郎の中に嫌な重さを残した。

 

「俺が降りたら」

 

 士郎は聞いた。

 

「桜はどうなる」

 

 凛が少しだけ目を伏せた。

 

 言峰は表情を変えない。

 

「間桐桜は別のマスターだ。君が降りても、彼女の立場は変わらない」

 

「遠坂は」

 

「遠坂凛もまた、別のマスターだ」

 

「藤ねえや学校の人たちは」

 

「聖杯戦争の巻き添えになる可能性は残る」

 

 士郎の拳が震えた。

 

「なら、俺だけ降りても終わらないじゃないか」

 

「君自身の安全は増す」

 

「俺だけだろ」

 

 士郎は言った。

 

「俺だけ助かっても、桜が狙われるなら意味がない。遠坂が戦うなら意味がない。藤ねえや学校の奴らが巻き込まれるなら意味がない」

 

 言峰は静かに士郎を見る。

 

「多くを望むのだな」

 

「望んでるわけじゃない。ただ、放っておけないだけだ」

 

「その考えは危うい」

 

「分かってる」

 

「本当に?」

 

 言峰の声が、わずかに深くなった。

 

「では、知っておくといい。聖杯戦争は、君が思うほど綺麗な戦いではない」

 

 言峰は祭壇へ視線を向けた。

 

「サーヴァント同士の戦闘は、人の世の尺度を超える。マスター同士の謀略もある。一般人が巻き込まれることもある。勝利のために人を使い潰す者もいる。願いを叶えるためならば、他者の命を踏み越える者もいる」

 

「……」

 

「そして、十年前にも大きな災厄が起きた」

 

 士郎の呼吸が止まった。

 

 十年前。

 

 その言葉だけで、胸の奥に焼け焦げた匂いが蘇る。

 

 炎。

 

 崩れた街。

 

 赤い空。

 

 助けを求める声。

 

 手を伸ばしても届かなかった人たち。

 

 士郎は無意識に拳を握った。

 

「冬木の大火災」

 

 言峰は言った。

 

「多くの命が失われた。君もまた、その被害者の一人だったはずだ」

 

「……あれが」

 

 士郎の声がかすれる。

 

「あれが、聖杯戦争と関係あるのか」

 

「可能性は高い」

 

 その言葉は、静かに落ちた。

 

 士郎の中で、何かが軋む。

 

 可能性。

 

 断定ではない。

 

 けれど、十分だった。

 

 十年前の火災。

 

 自分がすべてを失った日。

 

 切嗣に助けられた日。

 

 あの地獄が、魔術師たちの戦争の結果だったかもしれない。

 

 願いを叶えるための聖杯が、あの炎を生んだかもしれない。

 

「ふざけるな……」

 

 士郎は小さく呟いた。

 

 凛が士郎を見る。

 

「衛宮くん」

 

「ふざけるな」

 

 今度は、はっきりと言った。

 

 怒りだった。

 

 だが、誰に向ければいいのか分からない怒りだった。

 

 十年前に死んだ人たちへ。

 

 何も知らずに生き残った自分へ。

 

 聖杯戦争という仕組みへ。

 

 願いのために人を巻き込む魔術師たちへ。

 

 そのすべてに対して、胸の奥が熱くなる。

 

 言峰は静かに士郎を見ていた。

 

「君が降りることはできる」

 

 言峰は言った。

 

「だが、戦争は続く」

 

 その言葉は、士郎の胸に深く沈んだ。

 

 自分が逃げても、終わらない。

 

 自分が見ないふりをしても、戦争は続く。

 

 誰かが戦い、誰かが傷つき、またあの火災のようなものが起こるかもしれない。

 

 桜が狙われるかもしれない。

 

 藤ねえが巻き込まれるかもしれない。

 

 学校が、街が、あの赤い空に飲まれるかもしれない。

 

「なら」

 

 士郎は顔を上げた。

 

「止めればいい」

 

 凛が息を呑む。

 

 言峰の目がわずかに細くなる。

 

「聖杯戦争をか」

 

「少なくとも、十年前みたいなことは起こさせない。桜を守るだけじゃ足りない。藤ねえや、学校の奴らや、街の人たちが巻き込まれるなら、俺はそれを止める」

 

「それが君の参加理由か」

 

「そうだ」

 

 士郎は言った。

 

「聖杯が欲しいから戦うんじゃない。これ以上、あの時みたいな被害者を出さないために戦う」

 

 言葉にしてから、士郎は自分の胸の奥で何かが定まるのを感じた。

 

 桜を守りたい。

 

 それは変わらない。

 

 けれど、それだけではない。

 

 十年前の炎が、聖杯戦争に繋がっているのなら。

 

 自分が巻き込まれた意味が、今ここに繋がっているのなら。

 

 見て見ぬふりはできない。

 

 教会の外で、セイバーが扉の方を見た。

 

 士郎の魔力の流れが、かすかに揺れたのを感じた。

 

 恐怖ではない。

 

 迷いでもない。

 

 決意に近い何か。

 

 セイバーは静かに目を細める。

 

「マスター……」

 

 礼拝堂の中で、言峰は士郎を見つめている。

 

 その顔に浮かぶ表情は、穏やかだった。

 

 穏やかすぎて、不気味だった。

 

「なるほど。衛宮切嗣の息子らしい答えだ」

 

「親父は関係ない」

 

「そうかな」

 

 言峰は静かに返した。

 

「君が抱える傷も、願いも、彼から受け継いだものではないと言い切れるか」

 

 士郎は言葉に詰まった。

 

 切嗣。

 

 正義の味方になりたかった男。

 

 その夢を、士郎は受け取った。

 

 受け取ってしまった。

 

 それが自分のものなのか、切嗣のものなのか。士郎にはまだ分からない。

 

 だが、それでも。

 

「俺が決めたことだ」

 

 士郎は言った。

 

「誰かから貰ったものだったとしても、今、俺がそうするって決めた」

 

 言峰は、ほんのわずかに笑ったように見えた。

 

「よかろう。ならば、君はマスターとして戦場に立つことを選んだわけだ」

 

「そうだ」

 

「理由は問わん。戦争に立つ者は、それぞれの理由を持つ」

 

 言峰はそこで、わずかに声の調子を変えた。

 

「ところで、間桐桜は息災か」

 

 空気が変わった。

 

 凛の表情が鋭くなる。

 

 士郎も言峰を睨んだ。

 

「桜を知ってるのか」

 

「知っているとも。彼女もまた、聖杯戦争に選ばれたマスターだ。監督役として把握しておく必要がある」

 

「桜に何をするつもりだ」

 

「何も」

 

 言峰は即答した。

 

「少なくとも、今は」

 

 その言い方に、士郎の中で警戒が膨らむ。

 

「今は、って何だ」

 

「彼女のサーヴァントは異常だ。ライダーのクラスに収まりながら、神性が高すぎる。さらに、間桐臓硯が沈黙している。監督役としては、看過し難い状況ではある」

 

「桜は関係ない」

 

「関係はある。彼女はマスターだ」

 

「それでも、桜を利用させない」

 

 士郎の声が強くなった。

 

 言峰はその反応を見て、少しだけ目を細めた。

 

「君は多くを守りたいのだな」

 

「悪いか」

 

「悪くはない」

 

 言峰は静かに言った。

 

「ただし、多くを守ろうとする者ほど、何を守れなかったかに苦しむことになる」

 

「……っ」

 

「覚えておくといい、衛宮士郎。聖杯戦争は、君の理想を試す場でもある」

 

 凛が一歩前に出た。

 

「そこまでよ、言峰」

 

「忠告だ」

 

「あなたの忠告はいつも後味が悪いのよ」

 

 凛は士郎の腕を軽く引いた。

 

「行くわよ、衛宮くん。必要な話は聞いた」

 

 士郎はまだ言峰を睨んでいた。

 

 聞きたいことは山ほどある。

 

 切嗣のこと。

 

 十年前のこと。

 

 桜のこと。

 

 だが、今ここで問い詰めても、言峰が素直に答えるとは思えなかった。

 

 士郎は拳を握り、ゆっくりと頷いた。

 

「……分かった」

 

 教会を出る。

 

 扉の外では、セイバーが待っていた。

 

 士郎を見るなり、彼女は一歩近づく。

 

「マスター。異常はありませんか」

 

「ああ。大丈夫だ」

 

「そうですか」

 

 セイバーは短く答えた。

 

 だが、その表情はわずかに険しい。

 

「中で、何かありましたね」

 

 士郎は少しだけ黙った。

 

「聖杯戦争のことを聞いた。十年前の火災のことも」

 

 セイバーは何も言わなかった。

 

 士郎の言葉を待っている。

 

 外の空気は冷たかった。

 

 昼間のはずなのに、教会の中にいた時間のせいか、外の光が妙に眩しい。士郎は階段を降りながら、右手の令呪を握りしめた。

 

 凛は横で黙っていた。

 

 しばらくして、ぽつりと言う。

 

「大丈夫?」

 

「大丈夫じゃない」

 

 士郎は正直に言った。

 

「でも、聞いてよかった」

 

「そう」

 

「あの火災が聖杯戦争のせいかもしれないなら、俺は止めたい。もう二度と、あんなことを起こさせたくない」

 

 凛は士郎を見る。

 

「それは、簡単なことじゃないわ」

 

「分かってる」

 

「本当に?」

 

「たぶん、まだ分かってない」

 

 士郎は苦く笑った。

 

「でも、やる理由はできた」

 

 凛は少しだけ目を伏せた。

 

「……そう」

 

 セイバーは士郎の横を歩きながら、静かに言った。

 

「マスター。貴方の意思は聞きました。私は、その剣として戦います」

 

 士郎は小さく頷いた。

 

「ああ。頼む」

 

 ◇

 

 その頃、衛宮邸では、桜が庭に立っていた。

 

 ライダーはその前にいる。

 

 空中には淡い墨の線が残っていた。小さな花がいくつも咲き、すぐに光の花びらとなって消えていく。戦いのための力ではない。守るため、整えるため、桜が自分の呼吸を取り戻すための静かな筆しらべだった。

 

 桜は深く息を吸う。

 

 自分の足で立つ。

 

 ただ待つのではなく、考える。

 

 自分に何ができるのか。

 

 先輩を止めるために。

 

 先輩を支えるために。

 

 そして、自分自身がもう一度、誰かの意思だけで動かされないために。

 

「ライダーさん」

 

 桜は言った。

 

「私、守られるだけではいたくありません」

 

 白い神狼が桜を見る。

 

 紅い隈取が、昼の光の中で柔らかく浮かぶ。

 

「まだ怖いです。分からないことばかりです。でも、何も知らないまま、何も選ばないままではいたくないです」

 

 ライダーは静かに鳴いた。

 

 その声は、桜の胸の奥にすっと染み込んだ。

 

 庭の花びらが風に舞う。

 

 桜はライダーの背に手を置いた。

 

 そこには、確かに太陽の温もりがあった。

 

 教会の闇で、士郎は聖杯戦争の傷跡を知った。

 

 衛宮邸の太陽のそばで、桜は自分の足で立つことを知った。

 

 同じ日の空の下で、二人の決意は別々に芽吹いていた。

 

 まだ小さく、まだ頼りなく。

 

 それでも、確かに。





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