Fate/Divine Brush──桜花浄界──   作:一般ガス会社社員

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Sword in the Ordinary

 

 朝は、何事もなかったように来た。

 

 障子の向こうから淡い光が差し込み、台所では味噌汁の湯気が上がっている。炊き上がった米の匂い。焼き魚の香ばしさ。包丁がまな板を叩く音。

 

 それだけなら、いつもの衛宮邸だった。

 

 けれど、士郎の体にはまだ鈍い痛みが残っていた。

 

 昨日、バーサーカーの斧剣の前に飛び出した。普通なら死んでいた。凛にそう言われた。セイバーにも叱られた。桜には、泣きそうな顔で怒られた。

 

 それでも、士郎は台所に立っている。

 

 体は重い。

 

 腕を上げるたびに、胸の奥がきしむような感覚がある。

 

 だが、動けないほどではなかった。

 

 それが逆に、気味が悪かった。

 

 自分の中にある何か。セイバーとのパス。ライダーの画龍による修復。それらが重なって、士郎の体はありえない速度で回復している。

 

 凛は昨夜、何度も言っていた。

 

 普通じゃない、と。

 

 それでも朝食は作らなければならない。

 

 士郎はそう思った。

 

「マスター」

 

 背後から声がした。

 

 振り返ると、セイバーが台所の入り口に立っていた。凛が持ってきた服を着ている。甲冑ではない。けれど背筋は伸び、目は真剣だった。

 

「起きていて大丈夫なのですか」

 

「大丈夫……いや、無理はしてない」

 

 言い直すと、セイバーは少しだけ目を細めた。

 

「昨日よりは学習していますね」

 

「褒められてるのか、それ」

 

「はい」

 

 即答だった。

 

 士郎は少しだけ苦笑する。

 

「朝飯くらいは作れる。というか、作らないと藤ねえが来る」

 

「藤村先生ですか」

 

「ああ。たぶんもうすぐ来る」

 

 そう言った直後、門の方から元気すぎる声が響いた。

 

「士郎ー! 朝ごはーん!」

 

 士郎はため息をついた。

 

「ほらな」

 

 セイバーは真面目な顔で頷く。

 

「予測通りです」

 

「そこは別に戦術分析しなくていい」

 

 茶の間には、すでに桜が座っていた。顔色は昨日より少し落ち着いている。だが、まだ学校へ行ける状態ではなさそうだった。縁側の外にはライダーが伏せている。藤ねえの目には真っ白な大型犬に見えるが、士郎たちには紅い隈取と神鏡を背負った白い神狼の姿が見えている。

 

 藤ねえは茶の間に入るなり、士郎を見て眉をひそめた。

 

「士郎、顔色悪くない?」

 

「寝不足だ」

 

「だめだよー、若いからって無理しちゃ。最近いろいろ大変そうなんだから」

 

「別に大変じゃない」

 

 そう言いかけた士郎の横で、桜とセイバーの視線が同時に刺さった。

 

 士郎は咳払いする。

 

「……無理はしない」

 

「そうそう、それ大事!」

 

 藤ねえは満足げに頷き、今度は桜を見る。

 

「桜ちゃんは? 今日は学校どうする? 無理しない方がいいよ?」

 

 桜は少し迷ってから、静かに答えた。

 

「今日は、もう少し休ませてもらいます」

 

「うんうん、それがいいね。休める時はちゃんと休む! でも勉強は忘れないでよ?」

 

「はい」

 

 桜は小さく笑った。

 

 藤ねえは次に、縁側の方へ顔を向ける。

 

「ライダーちゃんも、桜ちゃんのことお願いね」

 

 ライダーは一度だけ尻尾を振った。

 

 藤ねえは満足げに笑う。

 

「いい子!」

 

 士郎はその光景を見ながら、内心で妙な気分になった。

 

 藤ねえにとっては、大きな白い犬。

 

 けれど本当は、間桐の地下室を浄化し、桜を救い、衛宮邸を聖域に変えた太陽のサーヴァント。

 

 日常と聖杯戦争が、同じ茶の間で朝食を食べている。

 

 その違和感は、昨日よりも強くなっていた。

 

 朝食が終わると、士郎は学校へ行く準備を始めた。

 

 本当は休むべきなのかもしれない。

 

 だが、何も言わずに休めば藤ねえが騒ぐ。学校にも余計な心配をかける。何より、士郎自身、昨日のことで日常から逃げたくなかった。

 

 制服に着替え、鞄を手に取る。

 

 その時、セイバーが当然のように横に立った。

 

「私も同行します」

 

「学校まで来るのか?」

 

「当然です。昨夜の襲撃を忘れたのですか」

 

「忘れてないけど……」

 

「マスターを単独で移動させることはできません」

 

 セイバーの声に迷いはなかった。

 

 士郎が困っていると、玄関先にいた凛が腕を組んで言った。

 

「今回はセイバーが正しいわ。衛宮くんを一人で登校させる方が怖いもの」

 

「遠坂まで」

 

「まで、じゃないでしょ。昨日、自分が何をしたかもう忘れたの?」

 

「忘れてない」

 

「だったら従う」

 

 凛は短く言い切った。

 

 その呼び方は、まだ衛宮くんだった。

 

 昨日あれだけ同じ茶の間で話し合って、同じ戦場をくぐり、同じ食卓についた。それでも、凛は学校へ向かう玄関先で、いきなり距離を詰めるようなことはしなかった。

 

 遠坂凛は、そういうところを簡単には崩さない。

 

「ただし、学校では絶対に目立たないように。セイバーは霊体化できない。教室には入れない。だから、学校内では人目につかない場所で待機」

 

「場所は?」

 

 士郎が聞くと、凛は少し考えた。

 

「弓道場裏はだめ。人目が少ないように見えて、部活関係者が来る可能性が高い。あなたの関係者もいるでしょ」

 

「美綴とかか」

 

「そう。そんな場所に外国人の女の子が一人でいたら、一発で噂になるわ」

 

 凛は校舎の配置を思い出すように視線を上げた。

 

「旧校舎側に、ほとんど使われてない物置みたいな空き部屋があったはずよ。授業では使われてないし、普段は誰も近づかない。そこを使いましょう」

 

「よく知ってるな」

 

「学校の構造くらい把握しておくわよ。魔術師としても、生徒としても」

 

 さらりと言うあたりが凛らしかった。

 

「それと、私が軽く人払いをかける。強い結界じゃないわ。一般生徒がなんとなく近づきたくなくなる程度のもの。認識をずらすだけだから、魔術師相手には気休めだけど、隠匿には役立つ」

 

「そんなこともできるのか」

 

「基礎よ、基礎」

 

 凛は当然のように言った。

 

 セイバーは頷く。

 

「了解しました。学校敷地内におけるマスターの護衛任務ですね」

 

「任務って言われると重いな……」

 

 士郎が呟くと、セイバーは真顔で返した。

 

「実際に重い任務です」

 

 反論できなかった。

 

 登校中、セイバーは士郎の少し後ろを歩いた。

 

 距離は近すぎず、遠すぎない。見た目だけなら、外国から来た知り合いの少女が一緒に歩いているようにも見える。だが、セイバーの意識は完全に護衛だった。

 

 通行人。

 

 車。

 

 路地。

 

 塀の向こう。

 

 すべてを確認している。

 

 士郎は何度か「そんなに警戒しなくても」と言いかけたが、昨日のバーサーカーを思い出してやめた。

 

 学校に近づくと、士郎はセイバーを旧校舎側へ案内した。

 

 凛も少し遅れて合流する。

 

 使われていない空き部屋は、普段ならただの物置だった。古い椅子、壊れた机、使われなくなった掃除用具。窓はあるが、外から中は見えにくい。埃っぽさはあるが、身を隠す場所としては悪くない。

 

 凛は入り口の周囲に指で小さく印を切った。

 

 淡い魔力が流れる。

 

 すぐに消えた。

 

「これで、普通の生徒はここに用事があることを思い出しにくくなる。誰かが探し物でもしない限り、まず来ないわ」

 

「助かる」

 

「昼休みに様子を見に来なさい。弁当も持ってくるんでしょ?」

 

「なんで分かるんだ」

 

「あなたがセイバーを放置できる性格じゃないのは分かってるもの」

 

 凛はそれだけ言って教室へ向かった。

 

 セイバーは空き部屋の中を確認してから、士郎を見る。

 

「問題ありません。ここで待機します」

 

「悪いな」

 

「謝る必要はありません。護衛は私の役目です」

 

「昼に来る。弁当も持ってくるから」

 

 セイバーの目がわずかに動いた。

 

「弁当」

 

「ああ。朝、多めに作ってある」

 

「そうですか」

 

 表情は変わらない。

 

 けれど、どこか声が柔らかくなった気がした。

 

 士郎は少し笑いそうになりながら教室へ向かった。

 

 授業は、いつもよりずっと長く感じた。

 

 教師の声は聞こえている。黒板の文字も見えている。けれど、頭の奥では別のことばかりが回っていた。

 

 十年前の火災。

 

 言峰綺礼。

 

 イリヤスフィール。

 

 バーサーカーの斧剣。

 

 セイバーの前に飛び出した自分。

 

 桜の「生きていてほしい」という声。

 

 そして、今この学校のどこかにセイバーが隠れているという事実。

 

 普通の授業を受けている自分と、聖杯戦争の中にいる自分が、うまく繋がらなかった。

 

 休み時間、廊下で凛とすれ違った。

 

 凛はいつもの優等生の顔をしていた。周囲の生徒に軽く挨拶をして、自然に士郎の横を通る。

 

 その瞬間、小声で言った。

 

「昼休み。旧校舎の空き部屋」

 

「遠坂も来るのか」

 

「様子を見るだけよ。あの子を学校の中に隠してるんだから、確認くらいするわ」

 

 それだけ言って、凛は何事もなかったように去っていった。

 

 士郎は小さく息を吐く。

 

 やはり凛には隠せない。

 

 昼休みになると、士郎は弁当を持って旧校舎へ向かった。

 

 廊下は静かだった。

 

 人払いの影響なのか、たまたまなのか、生徒の気配はない。空き部屋の扉を軽く叩くと、中から低い声がした。

 

「マスターですか」

 

「ああ、俺だ」

 

 扉を開けると、セイバーは部屋の奥で静かに座っていた。古い机を背にし、窓と扉の両方を見られる位置。完全に待機というより、拠点防衛に近い姿勢だった。

 

「待たせたな」

 

「問題ありません。周囲に異常はありませんでした」

 

「腹は?」

 

「……異常はありません」

 

 その瞬間、かすかに音がした。

 

 士郎はセイバーを見る。

 

 セイバーは視線を逸らさない。

 

「生命活動に伴う自然現象です」

 

「そうか。なら食べよう」

 

 士郎が弁当を差し出すと、セイバーは少しだけ表情を和らげた。

 

「ありがとうございます、マスター」

 

「学校ではその呼び方、気をつけろよ」

 

「はい。ですが、今は周囲に人の気配はありません」

 

「それも確認済みか」

 

「当然です」

 

 二人が弁当を広げようとしたところで、廊下に足音が響いた。

 

 セイバーが即座に身構える。

 

 士郎も振り向く。

 

「やっぱりここね」

 

 入ってきたのは凛だった。

 

 手には購買で買ったらしいパンと紙パックの飲み物を持っている。

 

「遠坂」

 

「衛宮くん。学校敷地内の空き部屋でサーヴァントと昼食って、なかなかすごい状況ね」

 

「俺もそう思う」

 

 凛は部屋の入り口を確認し、軽く指を鳴らした。

 

 空気が一瞬だけ揺れる。

 

「念のため、人払いを少し強めたわ。大声を出さない限り、誰も来ないはず」

 

「助かる」

 

「本当にね。見つかったら言い訳できないもの。遠坂凛が衛宮士郎と外国人の女の子と一緒に旧校舎の物置で昼食、なんて噂になったら最悪よ」

 

「確かに、それは困るな」

 

「困るで済まないわよ」

 

 凛はため息をつきながら、近くの椅子に座った。

 

「私もここで食べるわ。どうせ情報共有も必要だし」

 

 士郎は少し驚いた。

 

「いいのか。遠坂、教室で食べなくて」

 

「たまにはいいでしょ。それに、放っておいたらあなた、セイバーに弁当だけ渡して自分は適当に済ませそうだし」

 

「そんなことは……」

 

 言いかけて、士郎は口を閉じた。

 

 やりかねないと思ったからだ。

 

 凛は呆れたようにため息をつく。

 

「そういうところよ」

 

 セイバーは士郎の弁当を見て、静かに箸を取った。

 

 一口食べる。

 

 そして、真剣な顔で頷いた。

 

「やはり、マスターの食事は士気維持に有効です」

 

「それ、褒めてるの?」

 

 凛が突っ込む。

 

「はい。極めて高く評価しています」

 

「評価が軍隊みたいなのよ」

 

 士郎は少し笑った。

 

 旧校舎の空き部屋で、三人がひっそりと昼食を取る。

 

 普通ならあり得ない光景だった。

 

 けれど、その時間だけは、昨日の怪物も、教会の冷たさも、少しだけ遠くに感じられた。

 

 放課後、士郎はセイバーと合流して衛宮邸へ戻った。

 

 桜は縁側近くに座っていた。朝より顔色は良くなっている。庭ではライダーが伏せている。士郎を見ると、桜はほっとしたように表情を緩めた。

 

「おかえりなさい、先輩」

 

「ああ。ただいま」

 

 その言葉が、いつもより重く感じた。

 

 帰ってこられた。

 

 ただそれだけが、今は大事だった。

 

 夕方になると、凛が衛宮邸を訪れた。

 

 今日はアーチャーも霊体化して近くにいるらしい。姿は見えないが、ライダーは何度か空中の一点へ視線を向けていた。アーチャーの気配を把握しているのだろう。

 

 茶の間に、士郎、桜、凛が座る。

 

 縁側近くにはセイバー。

 

 庭にはライダー。

 

 凛は全員を見回し、はっきりと言った。

 

「状況が状況だから、改めて確認するわ。私たちは当面、同盟を組む」

 

 士郎は頷いた。

 

 桜も静かに頷く。

 

「遠坂、具体的にはどうするんだ」

 

「まず、戦闘方針。桜は前線に出さない。ライダーは基本的に桜の護衛と衛宮邸の防衛。衛宮くんとセイバーは外での行動担当。私は情報収集と戦術判断。アーチャーは偵察と援護」

 

「俺は?」

 

「あなたはまず、勝手に死にに行かないこと」

 

「いきなりそこか」

 

「一番大事だからよ」

 

 凛は士郎を指差した。

 

「それと……」

 

 そこで、凛は少しだけ言葉を止めた。

 

 士郎は首を傾げる。

 

「それと?」

 

「……もう、いいわ」

 

「何が」

 

「同盟を組む以上、毎回“衛宮くん”って呼ぶのもまどろっこしいのよ。戦闘中にそんな悠長な呼び方してられないでしょ」

 

 凛は少しだけ視線を逸らした。

 

「だから、士郎って呼ぶわ」

 

 茶の間が一瞬だけ静かになった。

 

 士郎は何度か瞬きをした。

 

「今?」

 

「今よ」

 

「いや、別にいいけど」

 

「別にいいなら変な顔しないで」

 

「してたか?」

 

「してた」

 

 凛は少し早口になった。

 

「勘違いしないでよ。あくまで同盟上の都合だから。あなたをセイバーのマスターとしてだけじゃなくて、一応、対等な同盟相手として扱うってこと。だから呼び方も合わせる。それだけ」

 

「一応なのか」

 

「一応よ。昨日みたいなことをもう一回したら、即座に評価は下がるわ」

 

「厳しいな」

 

「当然でしょ」

 

 桜が少しだけ目を瞬かせた。

 

「遠坂先輩が、先輩のことを……」

 

 言いかけて、桜は口を閉じた。

 

 凛も一瞬だけ視線を逸らす。

 

「同盟だからよ。同盟」

 

「二回言わなくても分かる」

 

「うるさいわね」

 

 セイバーは真面目に頷いた。

 

「呼称の簡略化は、戦場において有効です」

 

「セイバーまで真面目に拾わないで」

 

 少しだけ空気が緩んだ。

 

 その後、夕食になった。

 

 士郎は体調を見ながら台所に立ったが、今日は桜も手伝い、凛も少しだけ手を貸した。セイバーは「見張りを」と言いながらも、料理の匂いに何度か視線を向けていた。

 

 食卓には、昨日より少しだけ穏やかな空気があった。

 

 セイバーはよく食べた。

 

 凛は最初こそ呆れていたが、すぐに慣れたようだった。

 

「この家、戦争中とは思えないくらい食卓がちゃんとしてるわね」

 

「飯は食べないと動けないからな」

 

「その通りです」

 

 セイバーが深く頷く。

 

 凛は半眼で見る。

 

「あなたは本当に食事に関しては迷いがないわね」

 

「戦士にとって食事は重要です」

 

「まあ、否定はしないけど」

 

 桜が小さく笑った。

 

 その笑顔を見て、士郎は少しだけ安心した。

 

 夕食の後、茶の間は魔術訓練の場になった。

 

 凛はちゃぶ台を片付け、木刀といくつかの小物を並べる。士郎が以前使った、古い木刀もあった。

 

 凛はまず士郎を見た。

 

「前に見た時点で分かってたけど、士郎の魔術は危険すぎる。今日は強化の成功率を上げる前に、起動のやり方を直す」

 

「起動のやり方?」

 

「そう。回路を作るんじゃない。開くの」

 

 士郎は眉をひそめた。

 

「でも、そうしないと魔力が通らない」

 

「だから別の通し方を覚えるの」

 

 凛はきっぱり言った。

 

「あなたは毎回、鍵を開ける代わりに壁を壊して部屋に入ろうとしてるようなものよ。入れたとしても、家が壊れる。そんなやり方を続けてたら、いつか本当に壊れる」

 

 士郎は言葉に詰まる。

 

 前にも言われた。

 

 死ぬ、と。

 

 それでも、長年それしか知らなかったせいで、魔術を使おうとすると体が自然にその感覚を探してしまう。

 

「まず目を閉じて。魔力を流そうとしない。痛みを探さない」

 

「痛みを探さない?」

 

「そう。痛いから成功してるんじゃない。痛い時点で間違ってる可能性が高い」

 

 士郎は目を閉じた。

 

 いつものように、体の中に線を作ろうとする。

 

「待ちなさい」

 

 凛の声が飛んだ。

 

 士郎は目を開ける。

 

「まだ何もしてないぞ」

 

「顔で分かるのよ。あなたの場合、魔術を使おうとすると毎回死にに行く顔になる」

 

「そんな顔してるか?」

 

「してる」

 

 凛だけでなく、桜もセイバーも小さく頷いた。

 

 士郎は少しだけ落ち込んだ。

 

「……そんなにか」

 

「そんなに」

 

 凛はため息をつきながらも、声を少し柔らかくした。

 

「いい? 今日は成功しなくていい。むしろ無理に成功させようとしない。自分の中に既にある回路を探す。新しく作らない。壊さない。まずはそこから」

 

 士郎は頷いた。

 

 次に、凛は桜の方を向いた。

 

「桜は、今日は何もしなくていい」

 

「何もしない、ですか?」

 

「正確には、動かさない。自分の中の魔力の流れを感じるだけ。押し込めない。無理に出さない。怖くなったらすぐ止める」

 

 桜は右手を握った。

 

 庭のライダーが、静かに耳を動かす。

 

 凛はそれに気づいて、少しだけ表情を緩めた。

 

「ライダーに全部預けるんじゃなくて、支えてもらうくらいでいいわ。あなた自身の感覚を見失わないこと。それが今日の課題」

 

「はい」

 

 桜は小さく頷いた。

 

 訓練は静かに始まった。

 

 士郎は何度も失敗した。

 

 痛みを探してしまう。

 

 回路を作ろうとしてしまう。

 

 そのたびに凛が止めた。

 

「違う」

 

「今のも?」

 

「今のも」

 

「難しいな」

 

「今までの癖を直してるんだから当然よ」

 

 一方で、桜は目を閉じ、自分の内側を探っていた。

 

 最初は指先が震えていた。呼吸も浅かった。けれど、ライダーの神鏡が淡く光ると、少しずつ落ち着いていく。

 

 凛は桜の様子を見ながら、慎重に言った。

 

「怖くなったら止めていい」

 

「……はい」

 

「でも、怖いから全部見ないふりをする必要はない。少しずつでいい。自分のものとして、感じなさい」

 

 桜はゆっくりと息を吸った。

 

「私の、もの……」

 

 その言葉を、確かめるように呟く。

 

 庭のライダーが静かに目を細めた。

 

 夜が深くなる頃、訓練は終わった。

 

 大きな成果があったわけではない。

 

 士郎はまだ危なっかしい。

 

 桜もまだ不安定だ。

 

 けれど、二人とも一歩目を踏み出した。

 

 凛は疲れたように肩を回す。

 

「今日はここまで。無理に続けても逆効果よ」

 

「分かった」

 

「士郎。あなたは特に、勝手に自主練しないこと」

 

「しないって」

 

「信用がないのよ」

 

 即答だった。

 

 士郎は何も言えなかった。

 

 セイバーが静かに言った。

 

「今日一日、貴方は無茶をしませんでした」

 

「褒められてるのか、それ」

 

「はい。大きな進歩です」

 

「俺、どれだけ信用なかったんだ……」

 

 桜が小さく笑う。

 

 凛も呆れたように笑った。

 

 庭ではライダーが月を見上げている。

 

 背の神鏡に、夜空の光が映っていた。

 

 聖杯戦争は続いている。

 

 バーサーカーという怪物も、イリヤスフィールという少女も、まだ冬木のどこかにいる。

 

 だが、その夜、衛宮邸にあったのは剣と太陽だけではなかった。

 

 守るために学ぼうとする者たちの、小さな灯りがあった。





凛先生……!! 魔術が、学びたいです……

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