Fate/Divine Brush──桜花浄界──   作:一般ガス会社社員

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Beneath the Ordinary

 

 朝の衛宮邸は、昨日より少しだけ落ち着いていた。

 

 士郎の体は、まだ完全ではない。起き上がれるし、台所にも立てる。けれど、胸の奥には鈍い重さが残っている。バーサーカーの斧剣を受けた傷は、表面だけ見ればほとんど塞がっていた。だが、それは普通ではない速度で治った傷だ。凛にもセイバーにも、無理はするなと何度も釘を刺されている。

 

 だから士郎は、味噌汁の鍋を火にかけながらも、動きすぎないよう意識していた。

 

 桜は今日も学校を休むことになった。

 

 本人は少し迷っていたが、凛が「今は体調と魔力の流れを安定させる方が先」と言い、士郎もそれに頷いた。藤ねえには、昨日に引き続き体調不良ということで説明するしかない。

 

 庭ではライダーが伏せている。

 

 朝の光を浴びた白い神狼の毛並みは、どこか神社の境内に差し込む陽だまりのようだった。紅い隈取は穏やかに浮かび、背の神鏡には空が映っている。

 

 士郎が縁側に目を向けると、ライダーと視線が合った。

 

「桜を頼む」

 

 士郎が言うと、ライダーは当然だと言わんばかりに尻尾を一度だけ振った。

 

 セイバーは今日も同行することになっている。

 

 霊体化できない以上、面倒は多い。だが、昨日の学校待機の方法は一応うまくいった。旧校舎側の使われていない空き部屋に凛が人払いをかけ、セイバーがそこで待機する。昼休みに士郎が弁当を届け、凛が様子を見る。

 

 普通ではない。

 

 だが、聖杯戦争に巻き込まれた今では、それが一番ましな日常だった。

 

「マスター、そろそろ時間です」

 

「ああ」

 

 士郎は鞄を持つ。

 

 桜が玄関まで見送りに来た。

 

「先輩、無理しないでくださいね」

 

「分かってる」

 

 言ってから、士郎は桜の目を見て言い直した。

 

「いや、本当に。今日は無茶しない」

 

 桜は少しだけ安心したように笑った。

 

「はい。いってらっしゃい」

 

「行ってくる」

 

 セイバーも軽く会釈する。

 

「桜、ライダーと共に屋敷をお願いします」

 

「はい。セイバーさんも、先輩をお願いします」

 

「任されました」

 

 真面目に返すセイバーを見て、士郎は少しだけ苦笑した。

 

 その朝は、いつも通りに見えた。

 

 だが、学校に近づくにつれて、セイバーの表情が少しずつ険しくなっていった。

 

「セイバー?」

 

 士郎が声をかけると、セイバーは校門を見つめたまま答えた。

 

「マスター。この場所、昨日より空気が重い」

 

「空気?」

 

「はい。明確な敵意ではありません。ですが、自然な気配ではない。薄く、何かが広がっている」

 

 士郎は校舎を見た。

 

 朝の学校。

 

 登校してくる生徒たち。友人同士の話し声。教師の姿。いつもと変わらない光景だ。

 

 だが、そう言われると、どこか違う気がした。

 

 頭の奥に、薄い膜をかけられたような感覚。

 

 気のせいかもしれない。

 

 昨日の疲れかもしれない。

 

 それでも、セイバーが言うなら無視はできなかった。

 

「結界か?」

 

「断定はできません。ただ、注意すべきです」

 

「分かった。遠坂にも話そう」

 

 士郎はセイバーを昨日と同じ旧校舎側の空き部屋へ案内した。

 

 部屋に入る前、セイバーは廊下の奥を見た。

 

「ここにも、わずかに気配があります」

 

「昨日はなかったのか」

 

「少なくとも、今ほどではありません」

 

 士郎の胸に嫌なものが沈む。

 

 学校に何かが起きている。

 

 日常の場所に、聖杯戦争の影が入り込んでいる。

 

 それだけで、士郎は拳を握った。

 

 授業が始まっても、違和感は消えなかった。

 

 教室の中は普通だった。教師が板書し、生徒がノートを取り、誰かが小さく欠伸をする。いつも通りの午前中。

 

 だが、今日は妙に眠そうな生徒が多かった。

 

 隣の席の生徒が、何度も目をこすっている。前の席では、机に突っ伏しかけて先生に注意されている生徒がいた。廊下を歩く生徒の足取りも、どこか重い。

 

 士郎は自分の体調のせいかと思った。

 

 けれど、違う。

 

 自分だけではない。

 

 学校全体が、わずかに沈んでいる。

 

 休み時間、廊下に出たところで慎二が声をかけてきた。

 

「おい、衛宮」

 

 士郎は振り返る。

 

 慎二はいつものように笑っていた。

 

 だが、その笑みはどこか引きつっていた。余裕ぶっているのに、目の奥が落ち着いていない。

 

「桜、今日も休みなんだって?」

 

「ああ。体調が悪いんだ」

 

「ふうん」

 

 慎二は士郎を見た。

 

「で、何でお前がそんなこと知ってるわけ?」

 

 士郎は少しだけ黙った。

 

 慎二の声には棘があった。

 

「桜はうちにいる」

 

 隠しても意味はないと思った。

 

 慎二の目が細くなる。

 

「うち、ねえ」

 

「戻りたくないって言ってる」

 

 その瞬間、慎二の顔から笑みが消えた。

 

 ほんの一瞬だった。

 

 だが、士郎は見逃さなかった。

 

「何だよ、それ」

 

「そのままの意味だ」

 

「お前、何様のつもりだよ。人の妹を勝手に連れ込んでさ」

 

「勝手じゃない。桜がそうしたいって言った」

 

 慎二の唇が歪む。

 

「桜が? あいつが?」

 

 笑い声は小さかった。

 

 だが、そこには嘲りよりも焦りが混じっていた。

 

「まあ、いいさ」

 

 慎二は士郎の肩越しに校舎の奥を見た。

 

「すぐに分かるよ。誰が上なのか」

 

「慎二?」

 

「何でもない」

 

 慎二はまた笑った。

 

「せいぜい気をつけなよ、衛宮。最近、この学校も物騒だからさ」

 

 そう言って、慎二は去っていった。

 

 士郎はその背中を見つめる。

 

 嫌な予感がした。

 

 慎二は何かを知っている。

 

 あるいは、何かをしようとしている。

 

 昼休み。

 

 士郎は弁当を持って旧校舎の空き部屋へ向かった。

 

 扉を開けると、セイバーはすでに立っていた。待機ではなく、警戒の姿勢だった。

 

「マスター」

 

「何かあったのか」

 

「校内の気配が朝より濃くなっています。まだ発動していない。しかし、何かの下準備が進んでいる」

 

 そこへ、凛が入ってきた。

 

 今日は弁当ではなく、購買のパンを持っている。顔は優等生のままだが、目が鋭い。

 

「セイバーの言う通りよ」

 

「遠坂」

 

「学校全体に薄い線が引かれてる。結界の下準備ね。まだ完全には起動してない。でも、意図的に仕掛けられてる」

 

 士郎の背筋が冷える。

 

「学校に結界って……誰がそんなことを」

 

「マスターがこの学校にいる可能性が高い」

 

 凛は扉の方をちらりと見てから、人払いを強めた。

 

「それも、かなり性質が悪いわ。人払いじゃない。守るための結界でもない。これは内側にいる人間から魔力か生命力を吸い上げるタイプに近い」

 

 士郎は言葉を失った。

 

 学校。

 

 クラスメイト。

 

 先生。

 

 何も知らない人間が、毎日来ている場所。

 

 そこに、そんなものを仕掛ける。

 

「ふざけるな」

 

 士郎の声が低くなる。

 

 凛は冷静だった。

 

「聖杯戦争では、そういうことをするマスターもいる。だから危険なのよ」

 

 士郎は慎二の顔を思い出した。

 

 あの笑い方。

 

 誰が上なのか、すぐに分かる。

 

「心当たりがあるのね」

 

 凛が言った。

 

 士郎は顔を上げる。

 

「何で分かるんだ」

 

「顔に出すぎ」

 

 凛は短く言った。

 

「誰?」

 

「慎二だ」

 

 凛の表情が変わる。

 

「間桐慎二?」

 

「ああ。さっき桜のことで絡まれた。その時、変なことを言ってた。すぐに分かる、誰が上なのかって」

 

 凛は目を細めた。

 

「……怪しいわね」

 

「でも、慎二は魔術師なのか?」

 

「少なくとも、表向きは違う。ただ──」

 

 凛は少し考えるように視線を落とした。

 

「桜は兄というか慎二くんから間桐の家に繋がっていたようなものよ。間桐の後継や魔術の話も、本来ならそこを通して見えてくるはずだった」

 

 その言葉に、士郎は桜の怯えた様子を思い出す。

 

「ただ、臓硯が消えた。桜は間桐に戻っていない。間桐の家に何が残っているか分からない。慎二くんが何かに触れた可能性はある」

 

「何かって」

 

「術式、礼装、残された魔術道具。あるいは、使い方も分からずに危険なものを動かしている可能性」

 

 セイバーが静かに言った。

 

「未熟な者が力だけを得た場合、最も危険です」

 

 士郎は拳を握った。

 

 慎二がやったのか。

 

 まだ分からない。

 

 でも、学校に仕掛けられたものは放っておけない。

 

「放課後に調べるわ」

 

 凛が言った。

 

「士郎、あなたも来なさい。ただし、勝手に突っ走らない。セイバーも人目を避けて同行」

 

「分かった」

 

 昼食は、昨日ほど穏やかではなかった。

 

 セイバーは弁当を食べながらも警戒を解かなかった。凛はパンをかじりながら、校内の構造を頭の中で整理しているようだった。士郎は箸を動かしてはいたが、味がほとんど分からなかった。

 

 学校が狙われている。

 

 その事実が、胃の底に沈んでいた。

 

 放課後。

 

 士郎、凛、セイバーは校内を調べ始めた。

 

 セイバーは人目を避け、旧校舎側や人気の少ない廊下を中心に移動する。凛は廊下の壁、階段の踊り場、校舎の隅を確認していった。

 

 最初は何も見えなかった。

 

 ただの壁。いつもの校舎。

 

 だが、凛は指先に魔力を込めると、そのまま士郎のまぶたに軽く触れた。

 

「集中して見なさい」

 

 次の瞬間、それまで何の変哲もなかった壁の内側に、薄赤色の光の流れが浮かび上がった。

 

 血管のように細く、脈打つように明滅する魔力のライン。

 

 肉眼では決して捉えられないはずの術式が、霊視に近い知覚を通して姿を現している。

 

 それは校舎の壁に沿って伸び、階段へ、廊下へ、教室の下へと這い回り、まるで巨大な生物の循環器官のように学校全体へ広がっていた。

 

「これか……」

 

 士郎が息を呑む。

 

「ええ」

 

 凛の声は冷たかった。

 

「かなり巧妙に隠蔽されてる。普通の魔術師でも、意識して探さなければ見落とすレベルよ」

 

 赤いラインは静かに脈動していた。

 

 まだ弱い。

 

 だが確実に力を蓄えている。

 

「まだ薄い。けど、校舎全体を覆うつもりね。基点はいくつかある。発動すれば、校内の人間から一気に吸い上げることもできる」

 

「そんなことさせられるか」

 

「当然よ。だから発動前に潰す」

 

 凛は壁の線を睨んだ。

 

「ただ、下手に壊すと仕掛けた相手に気づかれる。基点と術式の流れを見てから、まとめて処理する」

 

「慎二がやったのか」

 

「まだ断定はできない」

 

 凛は言った。

 

「でも、慎二くんが何か知っている可能性は高い」

 

 その時、廊下の向こうから声がした。

 

「何してるんだよ、衛宮」

 

 慎二だった。

 

 士郎は振り返る。

 

 凛は一瞬で優等生の顔に戻った。

 

「慎二くん」

 

「遠坂まで一緒かよ。何? 二人で校舎探検?」

 

 慎二は笑っていた。

 

 だが、視線は笑っていない。

 

 士郎は慎二を見据える。

 

「慎二こそ、こんなところで何してるんだ」

 

「僕? 別に。生徒が学校にいて何か悪い?」

 

「放課後の旧校舎側だぞ」

 

「お前もいるじゃないか」

 

 慎二は肩をすくめた。

 

 そして、凛を見る。

 

「遠坂もさ、あんまり変なことに首突っ込まない方がいいよ」

 

「変なこと?」

 

「さあ。何だろうね」

 

 慎二は笑う。

 

「でも、何か起きた時に巻き込まれても知らないよ」

 

 士郎の中で、怒りが膨らんだ。

 

「慎二、お前──」

 

 凛が士郎の腕を軽く掴んだ。

 

 止めろ、という合図だった。

 

 士郎は言葉を飲み込む。

 

 慎二はそれを見て、少しだけ満足そうに笑った。

 

「じゃあな」

 

 そう言って去っていく。

 

 セイバーは物陰からその背を見ていた。

 

 慎二が完全に見えなくなってから、凛が小さく言った。

 

「怪しいどころじゃないわね」

 

「あいつがやったのか」

 

「まだ証拠はない。でも、限りなく黒に近い」

 

 士郎は慎二が消えた廊下を見つめた。

 

 友人だった。

 

 少なくとも、そう思っていた。

 

 だが今、慎二は学校に危険を持ち込もうとしているかもしれない。

 

 それがどうしようもなく重かった。

 

 その夜、衛宮邸に戻った士郎たちは、桜に慎二のことを話した。

 

 茶の間の空気が静かに冷える。

 

「兄さんが……?」

 

 桜の声はかすかに震えていた。

 

 その名前を聞いた瞬間だった。

 

 桜の肩がびくりと跳ねる。

 

 握った指先が白くなり、呼吸が浅くなる。顔から血の気が引き、身体が小刻みに震え始めた。

 

「桜!」

 

 士郎が思わず身を乗り出す。

 

 だが桜は唇を噛み、必死に呼吸を整えようとしていた。

 

 長年染みついた恐怖は、消えたわけではない。

 

 ライダーが臓硯を祓い、間桐の蟲を浄化しても、記憶まで消えるわけではない。

 

 慎二の声。

 

 慎二の視線。

 

 間桐の家で過ごした時間。

 

 その全てが、名前一つで桜の中に戻ってきてしまう。

 

 庭のライダーが静かに立ち上がった。

 

 紅い隈取が夜の中で濃く浮かび、背の神鏡が淡く光る。

 

 怒りではない。

 

 だが、明らかに警戒だった。

 

 ライダーは縁側まで近づき、桜のそばへ頭を寄せる。

 

 桜は震える手で、その白い毛に触れた。

 

「……大丈夫です」

 

 桜は小さく言った。

 

 誰に言ったのか分からない。

 

 士郎にか。

 

 凛にか。

 

 ライダーにか。

 

 それとも、自分自身にか。

 

「大丈夫、です。聞きます」

 

「桜、無理しなくていい」

 

 士郎が言う。

 

 桜は首を横に振った。

 

「無理は、しています」

 

 正直な言葉だった。

 

「でも、知らないままにする方が怖いです」

 

 凛は黙って桜を見ていた。

 

 その目は、いつもの強い遠坂凛のものではなかった。もっと複雑で、苦く、何かをこらえているような目だった。

 

「慎二くんが直接仕掛けたかは、まだ分からない」

 

 凛は慎重に言った。

 

「けれど、学校に結界が仕掛けられているのは事実よ。発動すれば、校内の人間に被害が出る可能性がある。しかも、慎二くんは何かを知っている様子だった」

 

「兄さんは……魔術を使えないはずです」

 

 桜は俯いたまま言った。

 

「少なくとも、私が知っている兄さんは」

 

「ええ。私もそう見ているわ」

 

 凛は頷く。

 

「だからこそ危険なの。本人が魔術師として未熟なら、残された礼装や術式に振り回される可能性が高い。力の仕組みを理解していないまま、使えると思い込んでいるかもしれない」

 

「兄さんが……」

 

 桜は言葉を詰まらせる。

 

 士郎は拳を握った。

 

「慎二を止める」

 

 凛がすぐに士郎を見る。

 

「士郎」

 

「分かってる。突っ走らない。勝手に行かない」

 

「本当に?」

 

「本当に」

 

 桜とセイバーの視線も飛んでくる。

 

 士郎は肩を落とした。

 

「……信用ないな」

 

「昨日の今日で信用があると思う方がすごいわよ」

 

 凛が即答する。

 

 セイバーも静かに頷いた。

 

「マスター、慎重さは美徳です」

 

「セイバーまで」

 

「事実です」

 

 少しだけ空気が緩む。

 

 だが、桜の顔はまだ青い。

 

 ライダーは桜のそばから離れなかった。

 

 凛は話を続ける。

 

「明日は、まず学校の結界の基点を探す。発動前に潰せるなら潰す。ただし、慎二くんが関わっているなら、彼を刺激しすぎるのも危険。焦って発動されたら最悪よ」

 

「つまり、慎二に気づかれないように調べるってことか」

 

「そう。あと、学校の外にも目を向ける必要がある」

 

「外?」

 

 凛の表情が険しくなる。

 

「今日見た結界、間桐の術式にしては妙に整いすぎている部分があった。慎二くんが残されたものを適当に動かしただけなら、もう少し歪みが出てもおかしくない。誰かが調整している可能性もある」

 

「誰かって、他のマスターか?」

 

「分からない。でも、あり得る」

 

 セイバーが静かに口を開く。

 

「利用されている、ということですか」

 

「その可能性もあるわね」

 

 凛は腕を組む。

 

「未熟な人間が危険な術式を動かしている。それを見つけた別の陣営が、止めるどころか利用しようとしている。そう考えると、今日の違和感も説明できる」

 

「慎二だけじゃないかもしれないのか」

 

「ええ」

 

 士郎の胸に、さらに重いものが沈む。

 

 学校の結界。

 

 慎二の焦り。

 

 その背後にいるかもしれない別の影。

 

 聖杯戦争は、日常の底からゆっくりと侵食してくる。

 

 それを実感した。

 

 桜は静かに顔を上げた。

 

「遠坂先輩」

 

「何?」

 

「もし兄さんが、本当に関わっているなら……私も、知りたいです」

 

「桜」

 

「会いたい、とはまだ言えません。でも、逃げたくはありません。兄さんが何をしているのか。どうしてそんなことをしているのか。私は、知らなきゃいけないと思います」

 

 その声は震えていた。

 

 けれど、消えなかった。

 

 凛はしばらく桜を見つめていた。

 

 そして、小さく頷く。

 

「分かった。でも、直接会うのはまだ早い。まずは私たちが調べる。あなたには、必要なことだけ伝える。危険なら止める。それでいい?」

 

「はい」

 

 桜は頷いた。

 

 ライダーが静かに鼻を鳴らす。

 

 それは、桜の答えを認めるような音だった。

 

 その夜、衛宮邸の庭はいつもより静かだった。

 

 ライダーの神鏡には月が映り、縁側には冷たい風が通る。茶の間では、凛が学校の簡単な見取り図を広げ、士郎とセイバーに明日の動きを説明していた。

 

 桜はその横で聞いている。

 

 怖い。

 

 慎二の名前を聞くだけで、まだ体は震える。

 

 それでも、目を逸らさない。

 

 その姿を見て、士郎は何も言えなかった。

 

 守りたいと思った。

 

 だが、守るということは、桜の目と耳を塞ぐことではないのだと、少しずつ分かり始めていた。

 

 ◇

 

 夜の学校。

 

 誰もいない校舎の廊下で、赤い線が薄く光っていた。

 

 壁に、床に、階段の裏に。

 

 それはまだ牙を剥いていない。

 

 けれど、校舎全体をゆっくりと覆うように伸びている。

 

 その線の近くに、慎二が立っていた。

 

 彼の手には、古びた紙片の束のようなものが握られている。間桐の屋敷に残されていたもの。使い方を完全に理解しているわけではない。だが、触れれば分かる気がした。

 

 これが力だと。

 

 自分にも使える力だと。

 

「僕だって……」

 

 慎二は呟いた。

 

「俺だって、できるんだよ」

 

 士郎ばかりが特別な顔をしている。

 

 桜までもが、自分ではなく士郎の家にいる。

 

 遠坂凛まで士郎のそばにいる。

 

 そんなことは認められない。

 

 間桐の家に残されたものが、慎二の手の中でかすかに軋んだ。

 

 赤い線が、廊下の奥で小さく脈打つ。

 

 慎二はそれを見て、笑った。

 

 自分は何も持っていないわけではない。

 

 そう思いたかった。

 

 だが、その声は誰にも届かない。

 

 はずだった。

 

 校舎の影のさらに奥。

 

 闇の中に、小さな気配があった。

 

 人ではない。

 

 鳥でも、虫でもない。

 

 ただ、誰かの目としてそこにいるもの。

 

 それは慎二を見ていた。

 

 赤い線を見ていた。

 

 そして、音もなく闇へ消えた。

 

 どこか遠くで、薄い唇が笑った。

 

 愚かな少年。

 

 未熟な術式。

 

 けれど、利用するには十分な火種。

 

 学校という日常の底で、赤い線が静かに脈打っている。

 

 冬木の夜はもう、誰も無関係ではいさせてくれなかった。





慎二くん! 久しぶりじゃないか!

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