Fate/Divine Brush──桜花浄界── 作:一般ガス会社社員
短め……かな
夜の学校に、人の声はなかった。
昼間はあれほど騒がしかった校舎も、夜になれば別の場所のように静まり返る。廊下に並ぶ窓は黒く、教室の机は暗闇の中で沈黙している。昼の残り香のようなチョークの匂いと、床に染みついた埃の匂いだけが、かろうじてここが学校であることを思い出させていた。
その廊下に、慎二は立っていた。
手には、古びた紙片の束がある。
間桐の家に残されていたものだ。臓硯が消えた後、屋敷の奥に残っていた魔術の断片。慎二には、それが何なのか完全には分からない。どこをどう読めばいいのかも分からない。魔術の専門的な理屈など、ほとんど理解できていない。
けれど、触れれば分かった。
これは力だ。
自分にも扱えるかもしれない力だ。
廊下の壁に、薄い赤い線が浮かび上がっている。
最初は頼りない線だった。
だが、慎二が紙片を握るたび、その線はわずかに強く脈打つ。床へ、壁へ、階段へ。校舎の奥へと伸びていく赤い線は、まるで学校そのものに血管を通しているようだった。
「僕だって……」
慎二は呟いた。
声は夜の廊下に吸い込まれる。
「俺だって、できるんだよ」
桜は戻ってこない。
衛宮の家にいる。
あの桜が、自分の家に戻らないと言った。
衛宮士郎がそれを受け入れた。
しかも、遠坂凛まで衛宮の側にいる。
何もかもが気に入らなかった。
今まで、桜は自分の下にいた。衛宮は何も知らないお人好しだった。遠坂は手の届かない場所にいる優等生だった。それでよかった。自分がどうしようもなく空っぽでも、周りがそういう形をしているなら、まだ耐えられた。
なのに、全部崩れた。
臓硯が消えた。
桜が消えた。
衛宮が何かを知った顔をしている。
遠坂が衛宮の隣にいる。
それだけで、慎二の中にあるものが焼けるように疼いた。
「ふざけるなよ」
赤い線が一度、強く光る。
「僕を、見下すな」
慎二は知らなかった。
その赤い線の奥に、別の魔力が混ざっていることを。
自分が動かしていると思っている術式が、少しずつ形を整えられていることを。
廊下の影の中。
人ではない、小さな気配があった。
それは慎二を見ていた。
赤い線を見ていた。
そして、誰かへその光景を届ける目として、ただ静かにそこにいた。
翌朝。
士郎は学校の校門を前にして、立ち止まった。
隣にはセイバーがいる。今日も霊体化できない彼女は、登校中だけ士郎に同行し、校内では旧校舎の空き部屋に待機する予定だった。
だが、校門をくぐる前から、セイバーの表情は険しかった。
「昨日より濃い」
セイバーが低く言った。
「結界か」
「はい。昨日は薄く広がっている程度でした。今日は、明確に校舎全体へ根を伸ばしています」
士郎は校舎を見た。
朝の学校は、いつも通りに見える。生徒たちが眠そうに歩き、友人同士で話し、教師が校門近くで挨拶している。誰も、自分たちの足元に危険な術式が広がっているとは知らない。
それが、士郎には気持ち悪かった。
日常の顔をしたまま、学校が別のものに変わりつつある。
「遠坂は?」
「来ています」
セイバーが視線だけを動かした。
少し離れた場所に、凛がいた。いつものように整った姿で、普通の生徒として校門をくぐっている。だが、目だけは校舎を見ていた。
士郎と視線が合う。
凛は軽く顎を引いた。
後で話す。
それだけで伝わった。
士郎はセイバーを旧校舎側の空き部屋へ案内した。
その途中、廊下の空気が昨日より重いことに気づく。胸の奥に薄く沈むような感覚がある。目に見えない霧の中を歩いているようだった。
セイバーは空き部屋の前で立ち止まる。
「マスター。今日の校内は危険です」
「ああ」
「異変があれば、すぐに呼んでください」
「分かった」
セイバーは真剣な目で士郎を見る。
「昨日のように、一人で前へ出ないでください」
「……分かってる」
「本当にですか」
「本当にだ」
セイバーは少しだけ士郎を見つめ、それから頷いた。
「信じます」
その言葉が、士郎には少し重かった。
授業が始まっても、学校の違和感は消えなかった。
むしろ、昨日よりはっきりしている。
教室では、何人かの生徒が朝からだるそうにしていた。机に突っ伏している者もいる。普段なら騒がしい男子たちも、今日は妙に声が小さい。先生も一度、板書の途中で手を止め、こめかみを押さえていた。
「風邪でも流行ってるのか?」
近くの席の生徒が呟く。
「なんか頭重いんだよな」
「俺も。寝不足かな」
士郎は黙って聞いていた。
違う。
これは風邪でも寝不足でもない。
学校全体から、何かが少しずつ吸い上げられている。
まだ致命的ではない。だが、このまま進めばどうなるか分からない。
士郎は拳を握った。
昼休み。
士郎は弁当を持って旧校舎の空き部屋へ向かった。
凛はすでに来ていた。
セイバーも立っている。
机の上には、凛が書いた簡単な校舎の見取り図が広げられていた。赤いペンでいくつか印がつけられている。
「遅かったわね」
「悪い。人目を避けてきた」
「正解よ。今日は変に動くと目立つ」
凛は見取り図を指差した。
「昨日調べた感じ、結界の基点は複数ある。旧校舎階段裏、屋上、校庭側の倉庫、弓道場近く。それから保健室付近にも薄い反応がある」
「そんなにあるのか」
「校舎全体を覆うタイプだからね。問題は、昨日より進行が早いこと」
凛の顔が険しくなる。
「一晩でここまで整うのはおかしい。慎二くんが残された礼装を適当に動かしているだけなら、もっと雑になるはず。誰かが手を入れてる」
「他のマスターか」
「その可能性が高いわ」
セイバーが言う。
「昨夜、学校にいた気配ですか」
「たぶんね。使い魔か何かを使って、慎二くんの術式を観察していたんだと思う。目的はまだ分からないけど、少なくとも止める気はない」
士郎は歯を食いしばった。
「利用してるってことか」
「ええ。慎二くんをね」
凛は冷たく言った。
「だからこそ厄介なの。慎二くんを止めても、背後の誰かがいる限り終わらない」
「でも、まず学校の結界を止めないと」
「分かってる。放課後まで待つわ。人がいる時間に大きく動けば、逆に騒ぎになる。放課後、人が減ってから基点を確認して潰す」
「今すぐじゃだめなのか」
「焦らない」
凛が士郎を見た。
「昨日の今日よ。あなた、また一人で走ろうとしてない?」
「してない」
「本当に?」
「……少し焦ってるだけだ」
「それを走ろうとしてるって言うのよ」
セイバーも静かに頷いた。
「マスター。焦りは敵に隙を与えます」
士郎は何も言えなかった。
昼食は、ほとんど作戦会議になった。
セイバーは弁当を食べながらも、いつでも動ける姿勢を崩さない。凛は購買のパンを片手に見取り図を見ている。士郎は弁当を口に入れても、味が分からなかった。
学校が危ない。
慎二が関わっている。
その背後に、さらに誰かがいる。
考えれば考えるほど、日常の足場が崩れていくようだった。
放課後。
校舎から生徒が少しずつ出ていく。
部活動へ向かう者、帰宅する者、教室に残る者。まだ完全に人気が消えたわけではないが、昼間よりはずっと動きやすい。
凛は校舎の隅で小さく指を鳴らした。
士郎の視界に、薄赤い線が浮かび上がる。
昨日より濃い。
廊下の壁、床、天井の隅。赤い糸のようなものが、学校中に張り巡らされている。しかも、その線は静かに脈打っていた。
「昨日より……」
「進んでる」
凛の声は低い。
「まず旧校舎階段裏の基点を潰す。セイバーは人目を避けつつ周囲を警戒。士郎は私から離れない」
「分かった」
三人は旧校舎へ向かった。
セイバーは廊下の影を移動し、士郎と凛は階段裏へ入る。そこには、赤い線が集まる小さな節のようなものがあった。壁の内側に埋め込まれた術式。肉眼では見えないが、魔力を通して見ると、はっきりと不気味に脈動している。
凛が宝石を一つ取り出した。
「これを壊す。ただし、全体に反動が行かないように切断してから」
「できるのか」
「やるのよ」
凛が術式に手を伸ばした、その時だった。
廊下の向こうから足音が近づいてきた。
「何してるんだよ」
慎二だった。
士郎は振り返る。
慎二は笑っていた。
だが、昨日よりもさらに不安定だった。目の下には薄い影があり、唇は乾いている。それでも、笑っている。
「また校舎探検? 遠坂まで連れて、ずいぶん楽しそうだな」
「慎二」
士郎は一歩前に出る。
「この結界、お前が関わってるのか」
慎二の笑みが止まった。
それから、ゆっくりと歪む。
「へえ」
慎二は手を広げた。
「分かるんだ」
「やめろ。こんなもの学校に仕掛けるな」
「命令するなよ、衛宮」
慎二の声が低くなる。
「お前、何様のつもりだよ」
「学校の人間を巻き込む気か」
「巻き込む?」
慎二は笑った。
「違うだろ。使えるものを使うだけだ。魔術師ってそういうものなんだろ?」
凛の表情が険しくなる。
「慎二くん。あなた、それが何か分かって言ってるの?」
「分かってるさ」
「分かってない」
凛は即座に言った。
「その術式はあなたの手に余る。今すぐ止めなさい」
慎二の顔が引きつった。
「お前までそう言うのかよ」
「慎二くん」
「遠坂も、衛宮の味方か」
「そういう問題じゃないわ」
「そういう問題だろ!」
慎二の声が廊下に響いた。
赤い線が強く脈打つ。
士郎は身構えた。
物陰にいたセイバーも、わずかに動く。
慎二は肩で息をしていた。
「桜は僕の家の人間だ。僕の妹だ。それを衛宮が勝手に連れて行った。遠坂までそっち側にいる。何なんだよ、お前ら。何で全部、僕を飛ばして進んでるんだよ」
「慎二、桜は戻りたくないって言ったんだ」
「黙れ」
「慎二」
「黙れって言ってるだろ!」
慎二が握っていた紙片が赤く光った。
瞬間、廊下の空気が変わる。
赤い線が一斉に脈打った。
校舎全体が、低く唸ったような感覚。
凛の顔が変わる。
「まずい、部分発動した!」
遠くの教室の方で、誰かが倒れかける音がした。
廊下の向こうで、生徒の声が上がる。
「おい、大丈夫か?」
「何か、急に……」
士郎の背筋が冷たくなる。
結界が動いた。
完全ではない。
だが、学校の中にいる人間から何かを吸い上げ始めている。
「セイバー!」
士郎が叫ぶより早く、セイバーが動いた。
「私は生徒たちを見ます!」
金髪の少女の姿が廊下の影を駆け抜ける。人目につかないように、それでいて倒れそうな生徒を支え、危険な場所から遠ざけるために。
凛は基点へ向き直った。
「士郎、慎二くんを止めて! 私はここを切る!」
「分かった!」
士郎は慎二へ向かう。
「慎二、止めろ!」
「来るな!」
慎二は後ずさる。
しかし、紙片は赤く光り続けている。彼自身が術式を完全に制御できていないのは明らかだった。
「お前、自分で止められないんじゃないのか」
「うるさい!」
「慎二!」
「うるさいんだよ!」
慎二の声に反応するように、赤い線がさらに強く光る。
凛が歯を食いしばった。
「違う……これ、慎二くん一人の術式じゃない」
「遠坂!」
「間桐の術式に、別の系統が混ざってる。吸収効率を上げて、暴走しないように外から支えてる。誰かが手を入れてるわ!」
その時、天井の隅に小さな影が見えた。
虫のようで、鳥のようで、どちらでもないもの。
士郎には一瞬しか見えなかった。
だが、セイバーは気づいた。
廊下の向こうから戻りかけていたセイバーが、不可視の剣を振るう。
影は切られる寸前に、霧のようにほどけた。
「逃げたか」
セイバーの声が低い。
凛は舌打ちする。
「やっぱり、見てた奴がいる」
慎二はその言葉に顔を歪めた。
「何だよ……何の話だよ」
「お前、利用されてるんだ」
士郎は言った。
「慎二、その術式はお前の力じゃない。誰かが裏で──」
「黙れ!」
慎二は叫んだ。
「お前に何が分かる! 僕がどれだけ馬鹿にされてきたか、お前に分かるのかよ! 桜にも、爺にも、遠坂にも、全部! 全部、僕を通り過ぎていくんだ!」
「慎二……」
「お前まで僕を見下すな!」
慎二は士郎を睨んだ。
その目には怒りがあった。
嫉妬があった。
そして、恐怖があった。
「お前に助けられるくらいなら、全部ぶっ壊してやる」
士郎は息を呑んだ。
「慎二、待て!」
士郎が手を伸ばす。
慎二はその手を払いのけた。
「触るな!」
その瞬間、廊下の奥に赤い線が集まり、煙のような影を作った。
慎二自身も驚いた顔をした。
それは、彼自身の意志ではない。
背後の何者かが、術式を通じて彼を強制的に引き抜いたのだ。
影は慎二を包むように揺れ、彼の姿をかき消した。
「慎二!」
士郎が飛び込む。
だが、そこにはもう慎二はいなかった。
赤い線だけが、弱く明滅している。
凛の声が飛ぶ。
「士郎、こっちを手伝って!」
士郎は歯を食いしばり、凛の元へ戻った。
凛は基点の術式を切断しようとしていた。赤い線は抵抗するように脈打ち、校舎全体から低い圧力がかかってくる。
「魔力を流して。強化じゃない。ただ私の指示に合わせて、ここを押さえるだけ」
「分かった」
「回路を作らない!」
「分かってる!」
士郎は息を整える。
痛みを探さない。
無理に線を作らない。
ただ、凛が示した場所へ意識を向ける。
魔力を押さえる。
うまくいっているのか分からない。
けれど、凛が小さく頷いた。
「そのまま!」
宝石が光る。
凛の魔力が術式の節に打ち込まれた。
赤い線が一瞬膨れ上がり、次の瞬間、ぷつりと切れた。
廊下を覆っていた重さが、少しだけ消える。
遠くから聞こえていたざわめきも、少し落ち着いていく。
セイバーが戻ってきた。
「生徒たちは大きな怪我はありません。ただ、数名が体調不良を訴えています」
「部分発動で止められたから、その程度で済んだのよ」
凛は息を吐いた。
「今日は止めた。でも完全に解除できたわけじゃない。基点の一つを潰しただけ。仕掛けた相手も逃げた」
「慎二も……」
士郎は廊下の奥を見る。
慎二の姿はない。
あいつは逃げた。
いや、ただ逃げたのではない。
誰かに連れ去られた。
そんな気がした。
「士郎」
凛が言った。
「今は追わない。追っても罠の可能性が高い」
「分かってる」
本当は追いたかった。
だが、士郎は踏みとどまった。
昨日、桜に言われた言葉。
凛に言われた言葉。
セイバーに言われた言葉。
それが、足を止めた。
夜。
衛宮邸の茶の間で、士郎たちは今日の出来事を桜に話した。
桜は黙って聞いていた。
慎二が結界に関わっていたこと。
学校の生徒が危険に晒されたこと。
慎二が術式を完全には制御できていなかったこと。
そして、その背後に別の誰かがいる可能性が高いこと。
桜の顔色は悪かった。
それでも、途中で耳を塞ぐことはなかった。
「兄さんが……本当に」
桜は小さく呟く。
ライダーは桜の隣に伏せている。
白い神狼の神鏡が、淡く光っていた。
「兄さんは、まだ戻れますか」
その問いに、士郎はすぐには答えられなかった。
慎二の顔が浮かぶ。
怒り、嫉妬、恐怖。
お前に助けられるくらいなら、全部ぶっ壊してやる。
あれは、ただの強がりではなかった。
今の慎二は、自分でも止まれないところまで行きかけている。
「分からない」
士郎は正直に言った。
「でも、止める。学校を巻き込むなら、絶対に止める」
桜は士郎を見る。
それから、静かに頷いた。
「私、兄さんが怖いです」
その声は震えていた。
「今でも、名前を聞くだけで体が動かなくなります。会いたいとは、まだ思えません」
桜は右手を握る。
「でも、兄さんが誰かを傷つけるなら、止めたいです」
凛は黙っていた。
セイバーも、何も言わなかった。
ライダーが桜の手に鼻先を寄せる。
桜はその毛並みに触れた。
「私は、もう何も知らないままではいたくありません」
士郎は頷いた。
「ああ」
凛も小さく息を吐く。
「明日は、残りの基点を探す。慎二くんの行方も追う。ただし、単独行動は禁止。これは絶対」
「分かってる」
「特に士郎」
「俺だけ名指しか」
「当たり前でしょ」
少しだけ空気が緩む。
だが、誰も笑いきれなかった。
◇
その夜、どこか暗い場所で、小さな使い魔が戻ってきた。
湿った石の床。
薄暗い空間。
そこに、ローブをまとった影が立っている。
使い魔は音もなく影の手元へ溶け込んだ。
女の声が、静かに響く。
「そう。間桐の少年は回収できたのね」
声には、驚きはなかった。
むしろ、予定通りだと言わんばかりの響きだった。
「未熟な術式。未熟な嫉妬。けれど、火種としては十分」
暗闇の中で、薄い笑みが浮かぶ。
「遠坂の娘。セイバーのマスター。そして……衛宮邸に潜む、あのおぞましい神気」
そこで、声がわずかに冷えた。
「太陽、などと呼ぶには不愉快すぎる。あれは眩しすぎるわ」
神に愛され、神に弄ばれ、神に捨てられた女の声だった。
その言葉には、嫌悪があった。
同時に、警戒もあった。
「けれど、だからこそ面白い。あの白い影がどこまで届くのか、見極める価値はある」
闇の中に、赤い線の残光が浮かぶ。
学校という日常の底で、まだ結界は完全には消えていない。
慎二は逃げた。
いや、引き抜かれた。
その先にもまた、別の糸が伸びている。
冬木の夜は、静かに絡まり始めていた。
慎二くん……
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