Fate/Divine Brush──桜花浄界──   作:一般ガス会社社員

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展開が進まんなぁ……



Threads of the Witch

 

 慎二が目を覚ました時、最初に感じたのは冷たさだった。

 

 床が冷たい。

 

 石のような感触が背中にある。湿った空気。古い土と苔の匂い。学校ではない。間桐の家でもない。衛宮邸など、当然ありえない。

 

 暗い。

 

 天井は高いのか低いのか分からない。薄い明かりがどこかにあるが、それは部屋を照らすというより、闇の輪郭を浮かび上がらせているだけだった。

 

「……どこだよ、ここ」

 

 慎二は身を起こした。

 

 頭が痛い。

 

 記憶がぼやけている。

 

 学校。赤い線。衛宮。遠坂。結界。自分の手の中で光った古い紙片。衛宮が手を伸ばしてきた。自分はそれを払いのけた。

 

 その直後。

 

 赤い影に包まれた。

 

 自分が逃げたわけではない。

 

 何かに引き抜かれた。

 

 慎二は歯を食いしばる。

 

「くそ……何なんだよ」

 

「目が覚めたようね」

 

 女の声がした。

 

 慎二は弾かれたように振り向く。

 

 闇の中に、ローブをまとった女が立っていた。顔ははっきり見えない。だが、声だけで分かる。普通の人間ではない。

 

 優しげで、冷たい。

 

 近づいてくるようで、決して触れさせない声。

 

「お前……誰だよ」

 

「あなたを助けた者、とでも言っておきましょうか」

 

「助けた?」

 

 慎二は笑った。

 

「ふざけるな。僕を勝手に連れてきたんだろ」

 

「ええ。あのままでは、遠坂の娘に術式を断たれ、セイバーに捕まっていたでしょうから」

 

「捕まる? 僕が?」

 

 慎二は立ち上がろうとした。

 

 だが、膝が震えた。

 

 力が入らない。

 

 女はそれを見ても、笑わなかった。

 

 ただ、静かに言う。

 

「無理をしないことね。あなたはまだ、力の使い方を知らない」

 

「知ったような口を利くなよ」

 

「知っているもの」

 

 女の声は変わらなかった。

 

「あなたは力を欲しがっている。自分を見下した者たちを見返したい。妹を奪った少年が許せない。あなたを通り過ぎていく者たちが許せない」

 

 慎二の顔が歪む。

 

「黙れ」

 

「違う?」

 

「黙れって言ってるだろ!」

 

 慎二の声が暗い空間に響いた。

 

 しかし女は怯まない。

 

 むしろ、その反応を待っていたかのように、ゆっくりと言葉を重ねた。

 

「悔しいのね」

 

 慎二は息を詰めた。

 

「力はあった。少なくとも、触れられるものはあった。けれど、誰もあなたに正しい使い方を教えなかった」

 

「……」

 

「あなたが劣っていたのではないわ。あなたは、知らされていなかっただけ」

 

 その言葉は、慎二の胸の奥に入り込んだ。

 

 知らされていなかっただけ。

 

 教えられていなかっただけ。

 

 なら、自分が悪いわけではない。

 

 自分が空っぽだったわけではない。

 

 自分に価値がなかったわけではない。

 

 慎二は、それを信じたかった。

 

 信じたくてたまらなかった。

 

「……じゃあ、お前なら教えられるのかよ」

 

 女は、薄く笑った。

 

「ええ」

 

 暗闇の中で、慎二の手元に赤い光が浮かぶ。

 

 彼が握っていた古い紙片は、まだそこにあった。ただし、昨夜とは違う。紙片の端には、細い糸のような魔力が絡んでいる。間桐の古い術式に、別の魔術が重ねられていた。

 

 慎二には分からない。

 

 だが、女には分かる。

 

 この少年は、火種としては十分だった。

 

「あなたが本当に望むものを手に入れる方法を、教えてあげる」

 

「本当に望むもの……?」

 

「そう。奪われたものを取り戻す方法よ」

 

 慎二の目に、暗い光が宿る。

 

「桜を……」

 

「妹を連れ戻したいのでしょう?」

 

 女は静かに言った。

 

「衛宮士郎から。遠坂凛から。あの奇妙な獣から」

 

 慎二は眉をひそめる。

 

「獣?」

 

「衛宮邸にいる白い影よ」

 

「ああ……あの犬か」

 

 女の声が一瞬だけ冷えた。

 

「犬などではないわ」

 

 その響きに、慎二は言葉を止めた。

 

「あなたは、あれには近づかないことね」

 

「何でだよ」

 

「あなたが扱えるものではないから」

 

「またそれかよ。僕には無理だって言うのか」

 

「いいえ」

 

 女は柔らかく言った。

 

「無理な相手に、正面から近づく必要はないと言っているの。戦いは力だけでするものではないわ」

 

 慎二は黙る。

 

 女は続けた。

 

「衛宮邸に潜む、あのおぞましい神気。……どこぞの異境の荒神か知らないけれど、太陽などと呼ぶには不愉快すぎる。あれは眩しすぎるわ」

 

 その声には、嫌悪があった。

 

 神に愛され、神に弄ばれ、神に捨てられた者の、深い嫌悪。

 

 そして、神代の魔女だからこそ感じ取れる警戒があった。

 

「だから、まずは外から動かすの」

 

「外?」

 

「学校」

 

 慎二の手の中で、紙片が赤く光った。

 

「衛宮士郎も、遠坂凛も、学校を捨てられない。なら、そこを使う」

 

 慎二はゆっくりと笑った。

 

 怖かった。

 

 だが、それ以上に甘かった。

 

 誰かが自分に方法を教えてくれる。

 

 自分にもできると言ってくれる。

 

 その言葉だけで、慎二はもう、女の糸に絡め取られ始めていた。

 

 ◇

 

 衛宮邸では、朝から重い空気が流れていた。

 

 昨日の学校結界の部分発動。

 

 慎二の消失。

 

 背後にいる何者か。

 

 その全てを整理するため、凛は朝食の後、茶の間に簡単な見取り図とメモを広げた。

 

 士郎、桜、凛がちゃぶ台を囲む。

 

 縁側近くにはセイバー。

 

 庭にはライダーが伏せている。

 

 アーチャーは姿こそ見せていないが、近くにいるらしい。時折、ライダーが何もない空間へ視線を向けていた。

 

「まず確認するわ」

 

 凛が言った。

 

「昨日の結界は、慎二くん一人のものじゃない。間桐の古い術式を土台にしているけど、その上に別系統の魔術が重ねられていた」

 

「別系統って、キャスターか?」

 

 士郎が聞く。

 

「可能性は高いわ。断定はまだできないけど、あの細かい調整は普通のマスターが片手間でできるものじゃない。サーヴァント級の魔術師が関わっていると考えた方がいい」

 

 セイバーが静かに頷く。

 

「キャスターのクラスであれば、納得できます」

 

「でしょうね」

 

 凛は顔をしかめる。

 

「厄介なのは、慎二くんが利用されているだけじゃ済まないことよ」

 

 桜が顔を上げた。

 

「兄さんは、利用されているんですよね」

 

「その可能性は高い」

 

 凛ははっきり言った。

 

「でも、利用されているから無罪、とは言えない。学校の結界を動かしたのは慎二くん自身でもある。少なくとも、学校の人間を巻き込むことへの抵抗は薄かった」

 

 桜の指が震える。

 

 ライダーの耳が動いた。

 

 士郎は桜を見た。

 

「桜、無理に聞かなくても──」

 

「聞きます」

 

 桜は小さく、しかしはっきりと言った。

 

「怖いです。でも、聞きます」

 

 士郎は言葉を飲み込む。

 

 守ることは、耳を塞ぐことではない。

 

 そのことを、士郎は少しずつ学んでいる。

 

 凛は桜を見つめた。

 

「桜。あなたから見て、あの術式に心当たりはある?」

 

「直接は分かりません。でも……」

 

 桜は記憶を辿るように目を伏せた。

 

「間桐の家の地下に、古い棚がありました。お爺様が、絶対に触るなと言っていたものです。紙や木札のようなものが、いくつか保管されていて……兄さんがそれを見つけたのかもしれません」

 

「なるほど」

 

 凛はメモを取る。

 

「吸収型の結界に使えそうな礼装か術式の断片が残っていた可能性があるわね」

 

「でも」

 

 桜は少しだけ眉を寄せた。

 

「それだけでは、学校全体に広げるほど整った形にはならないと思います。間桐の術式は、もっと……湿っていて、絡みつくような感じです。昨日、遠坂先輩が話していた結界は、兄さんが一人で動かすには、形が整いすぎています」

 

 凛が驚いたように桜を見る。

 

「よく分かるわね」

 

 桜は少し苦しそうに笑った。

 

「分かりたくて分かったわけではありません」

 

 凛は一瞬、言葉を失う。

 

 それから、静かに頷いた。

 

「そうね。ごめん」

 

「いえ」

 

 桜は首を横に振った。

 

 士郎は二人のやり取りを黙って見ていた。

 

 桜は守られているだけではない。

 

 怖がりながらも、自分の経験を言葉にしようとしている。

 

 それが、士郎には少し眩しかった。

 

 凛は見取り図へ視線を戻す。

 

「今日、私たちは学校へ行く。残りの基点を確認するわ。昨日一つ潰したけど、まだいくつも残ってる。向こうが手を入れているなら、昨日より隠蔽が強くなっているはず」

 

「ライダーは?」

 

 士郎が聞く。

 

 凛は庭の白い神狼を見る。

 

「ライダーは衛宮邸から動かさない」

 

 ライダーの耳がぴくりと動いた。

 

 凛は慎重に言葉を続ける。

 

「敵がライダーを警戒している可能性がある。なら、逆にここを空けるのは危険よ。桜を狙われる可能性もあるし、衛宮邸の守りが薄くなる」

 

 ライダーは凛をじっと見た。

 

 不満げにも見える。

 

 だが、桜がそっとライダーの背に手を置いた。

 

「ライダーさん。ここを守ってください」

 

 白い神狼が桜を見る。

 

「私はここにいます。だから、せめて先輩たちが帰ってくる場所を守りたいです」

 

 ライダーはしばらく桜を見つめていた。

 

 やがて、短く鼻を鳴らし、伏せ直した。

 

 了承。

 

 少なくとも、士郎にはそう見えた。

 

「じゃあ、学校には俺と遠坂とセイバーか」

 

「ええ。アーチャーは周囲の監視。キャスターが絡んでいるなら、使い魔を見逃したくない」

 

 凛は士郎を見た。

 

「それと、士郎」

 

「分かってる。単独行動はしない」

 

「よろしい」

 

 即答だった。

 

 学校は、昨日よりも明らかに重かった。

 

 校門をくぐった瞬間、士郎の体にまとわりつくような感覚があった。視界が赤く染まるわけではない。誰かが倒れているわけでもない。けれど、空気そのものが湿っている。

 

 セイバーは眉をひそめる。

 

「隠蔽が強くなっています」

 

「やっぱりか」

 

「はい。昨日よりも見えにくい。しかし、気配は濃い」

 

 凛も近くで校舎を見上げていた。

 

「昨日、基点を一つ潰したせいで、向こうが守りを固めたわね」

 

「キャスターが?」

 

「おそらく」

 

 凛の声は硬かった。

 

「手口が嫌らしいわ。こちらが解除しようとした場所を補強してる。こっちがどう動くか見ている証拠よ」

 

 士郎は校舎を見る。

 

 この中に藤ねえがいる。

 

 クラスメイトがいる。

 

 美綴も、一成も、名前を知っている人間も、知らない生徒もいる。

 

 昨日は数人の体調不良で済んだ。

 

 だが次もそうとは限らない。

 

「士郎」

 

 凛が呼ぶ。

 

「顔が突っ走る顔になってる」

 

「……悪い」

 

「悪いと思うなら深呼吸しなさい」

 

 士郎は言われた通りに息を吸った。

 

 焦っている。

 

 それは分かっている。

 

 けれど、焦って動けば相手の思うつぼだ。

 

 セイバーも静かに言った。

 

「マスター。守るためには、まず見ることです」

 

「ああ」

 

 士郎は頷いた。

 

 その日の学校では、昨日の体調不良者の話が少しだけ広がっていた。

 

 休み時間、藤ねえが廊下で士郎を見つけると、すぐに声をかけてきた。

 

「士郎、昨日この辺りで気分悪くなった子がいたんだって。士郎も顔色まだ良くないんだから、本当に無理しないんだよ」

 

「ああ。分かってる」

 

「ほんとに?」

 

「ほんとに」

 

 藤ねえは士郎の顔をじっと見た。

 

「最近、士郎は大丈夫って言う時ほど大丈夫じゃないからなあ」

 

 士郎は言葉に詰まった。

 

 藤ねえは普通に言っただけだ。

 

 だが、その言葉は桜や凛に言われたことと重なった。

 

「……気をつける」

 

「うん、それならよし!」

 

 藤ねえは笑って去っていった。

 

 士郎はその背を見送る。

 

 藤ねえも巻き込まれるかもしれない。

 

 それだけは、絶対に嫌だった。

 

 放課後。

 

 士郎、凛、セイバーは再び旧校舎へ向かった。

 

 セイバーは人目を避け、士郎と凛は凛の人払いを使って移動する。校舎の中は昨日より静かだった。部活へ向かう生徒の声も遠く、廊下には夕方の光が斜めに差し込んでいる。

 

 凛が指先に魔力を通す。

 

 士郎の視界に、赤い線が浮かんだ。

 

「……見えにくくなってる」

 

「ええ。隠蔽が強化されてる」

 

 昨日は血管のように見えていた線が、今日は壁や床に溶け込むように薄くなっている。だが、完全に消えたわけではない。むしろ、奥に潜ったぶん不気味だった。

 

「基点の一つは屋上にあるはずよ」

 

 凛が言う。

 

「そこを確認する」

 

 三人は階段を上がった。

 

 屋上へ続く扉の前で、セイバーが足を止める。

 

「気配があります」

 

「敵か?」

 

「使い魔かもしれません。ですが、弱い」

 

 凛は眉をひそめた。

 

「弱い気配をわざと残している?」

 

「罠か」

 

「可能性はある」

 

 屋上に出ると、夕方の風が吹いた。

 

 校庭が見える。

 

 部活動の声が遠くに聞こえる。

 

 その日常の上に、薄く赤い線が重なって見えた。

 

 屋上の隅。

 

 給水塔の影に、小さな術式の節があった。

 

 凛が近づく。

 

 その瞬間、黒い影が壁から剥がれた。

 

 小さな使い魔。

 

 昨日と似た気配。

 

 セイバーが即座に動く。

 

 不可視の剣が空を裂く。

 

 影は切られる寸前でほどけた。

 

 だが、消える直前、その目のようなものが士郎たちを見た。

 

 見た。

 

 そして、何かを持ち帰るように霧散した。

 

「囮ね」

 

 凛が苦々しく言った。

 

「わざと見せたのか」

 

「たぶん。こちらがどの基点を調べたか、向こうに伝わった」

 

「じゃあ、今のは」

 

「偵察。あるいは挑発」

 

 凛は屋上の基点を見る。

 

「それでも、ここは潰す。残しておく方が危険よ」

 

 凛が術式へ手を伸ばす。

 

 士郎は横で魔力の流れを押さえる。

 

 昨日より少しだけ、凛の指示に合わせられた。

 

 無理に回路を作らない。

 

 痛みを探さない。

 

 まだぎこちないが、昨日よりはましだった。

 

 凛が小さく頷く。

 

「その調子。無茶しなければ、少しは使えるじゃない」

 

「褒めてるのか、それ」

 

「褒めてるわよ、一応」

 

 宝石が光り、屋上の基点が切断された。

 

 赤い線が少しだけ薄くなる。

 

 だが、完全には消えない。

 

「まだ残ってる」

 

「ええ。しかも、向こうにこちらの動きが読まれた。今日はここまでね」

 

「続けないのか」

 

「続ければ罠に誘導される」

 

 凛はきっぱり言った。

 

「相手はこっちを観察してる。こちらが焦れば焦るほど、向こうの思うつぼよ」

 

 士郎は唇を噛んだ。

 

 だが、頷いた。

 

 帰り際。

 

 士郎は下駄箱で、一枚の紙を見つけた。

 

 無造作に差し込まれていた。

 

 最初はただのプリントかと思った。

 

 だが、手に取った瞬間、指先にピリリとした不快な感覚が走った。

 

 紙そのものに、微かな魔力の残滓がある。

 

 間桐のものに似た湿った気配。

 

 しかし、その上に、別の誰かが編み込んだ細い糸のような術式が重なっていた。

 

 紙には、短い文字が書かれていた。

 

 桜を連れてこい。

 

 来なければ、学校を潰す。

 

 筆跡は、慎二に似ていた。

 

 だが、どこか不自然だった。

 

 怒りに任せて書いたにしては、妙に整っている。

 

 文字そのものが、紙に書かれているというより、紙へ定着させられているようにも見えた。

 

 士郎は紙を握りしめる。

 

「士郎?」

 

 凛が気づいた。

 

 士郎は紙を渡した。

 

 凛の表情が変わる。

 

「……なるほど。そう来たか」

 

「慎二なのか」

 

「筆跡は慎二くんのものに似てる。文面も慎二くんらしい部分はある。でも、紙に編み込まれた術式は別の誰かの手によるものよ」

 

「術式?」

 

「ええ。普通の紙じゃない。あなたが確実に手に取るように、下駄箱へ滑り込ませるための簡単な誘導。それから、文字を紙に定着させる呪詛の残滓。士郎、あなたたちを確実に揺さぶるために、わざわざこういう形にしたのね」

 

 セイバーが低く言う。

 

「罠ですね」

 

「間違いなく」

 

 凛は紙を睨んだ。

 

「桜を釣り出すつもりよ。慎二くんの名前と、学校を人質にして」

 

 士郎の胸が冷える。

 

 桜を。

 

 慎二の名を使って。

 

 学校を人質にして。

 

「ふざけるな」

 

 士郎の声が低くなる。

 

 凛がすぐに言った。

 

「怒るのは後。今は持ち帰る。桜には話すわ。隠す方が危険だから」

 

「桜に……」

 

 士郎は言葉を詰まらせる。

 

 話せば、桜は揺れる。

 

 怖がる。

 

 それでも、隠せない。

 

 士郎は頷いた。

 

「分かった」

 

 衛宮邸に戻ると、桜はすぐに士郎たちの様子に気づいた。

 

 茶の間に集まり、凛が紙を置く。

 

 桜はその文字を見た。

 

 桜を連れてこい。

 

 来なければ、学校を潰す。

 

 桜の呼吸が浅くなる。

 

 ライダーが静かに立ち上がった。

 

 背の神鏡が淡く光る。

 

 士郎は思わず言った。

 

「桜、これは罠だ。行く必要はない」

 

「分かっています」

 

 桜は小さく答えた。

 

 だが、その声は震えていた。

 

「分かっているんです。これは罠で、私が行っても何も良くならないって。兄さんが本当に書いたのかも分からないって」

 

 桜は膝の上で手を握る。

 

「でも」

 

 言葉が詰まる。

 

 茶の間の空気が静かになる。

 

「行きたい、じゃありません」

 

 桜は俯いたまま言った。

 

「行かなきゃ、と思ってしまう自分が、まだいるんです」

 

 士郎は何も言えなかった。

 

 桜は続ける。

 

「兄さんに呼ばれたら、行かなきゃいけない。逆らったらいけない。そう思ってしまう自分が、まだいます」

 

 ライダーが桜の前に立つ。

 

 白い神狼は何も言わない。

 

 ただ、桜と紙切れの間に立った。

 

 凛は静かに言った。

 

「それを言えたなら、十分よ」

 

 桜が顔を上げる。

 

「十分……?」

 

「ええ。自分がどう揺れているかを分かっている。それを隠さず言えた。それは、行かなきゃいけないと思い込んだまま動くより、ずっといい」

 

 セイバーも頷いた。

 

「恐怖を口にすることは、弱さではありません」

 

 士郎は桜を見る。

 

 桜は震えていた。

 

 けれど、逃げていなかった。

 

「怖いです」

 

 桜は言った。

 

 声は小さい。

 

 けれど、消えなかった。

 

「兄さんが怖いです。学校が傷つくのも怖いです。私のせいで誰かが巻き込まれるのも怖いです」

 

 ライダーの神鏡が、柔らかく光る。

 

 桜はその光の中で、ゆっくりと息を吸った。

 

「でも、もう何も知らないまま、言われた通りに動くのは嫌です」

 

 凛は紙を見下ろした。

 

「明日、学校の結界を潰すわ」

 

 士郎が頷く。

 

「ああ」

 

「慎二くんが出てくるなら止める。キャスターが出てくるなら、その尻尾を掴む。桜は衛宮邸に残る。ライダーもここを守る」

 

 桜は少しだけ唇を噛んだ。

 

 だが、頷いた。

 

「はい」

 

 士郎は桜に言った。

 

「必ず戻る」

 

 桜は士郎を見た。

 

「無茶はしないでください」

 

「ああ。しない」

 

 その答えに、桜は少しだけ目を細めた。

 

「信じます」

 

 士郎はその言葉を、今度こそ軽く受け取れなかった。

 

 その紙切れは、ただの脅迫状だった。

 

 けれど、そこに書かれた名前は、桜の過去を掴んで離さない鎖そのものだった。

 

 兄。

 

 その一文字だけで、桜の呼吸は浅くなる。

 

 それでも桜は、顔を上げた。

 

 怖いです。

 

 そう言えたことが、逃げないための最初の一歩だった。

 

 夜の庭で、ライダーの神鏡が静かに月を映している。

 

 衛宮邸の外では、まだ赤い糸が学校に絡みついている。

 

 そしてその糸の先で、魔女が次の手を待っていた。





次回戦闘シーン行けるか……?

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