Fate/Divine Brush──桜花浄界──   作:一般ガス会社社員

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 ROUND 1
  FIGHT!



Sever the Red Web

 

 朝の衛宮邸には、戦いの前の静けさがあった。

 

 それは、普段の穏やかな朝とは違う。

 

 味噌汁の湯気は上がっている。炊き立ての米の匂いもある。庭には朝日が差し込み、縁側の近くでライダーが伏せている。桜も茶の間に座り、凛が広げた学校の見取り図を見つめていた。

 

 けれど、誰も軽い話をしなかった。

 

 昨日、士郎の下駄箱に入っていた紙。

 

 桜を連れてこい。

 

 来なければ、学校を潰す。

 

 それは慎二の筆跡に似ていた。だが、紙には別の魔術の残滓があった。慎二の言葉を使い、慎二の感情を利用し、桜を揺さぶるための罠。

 

 そして、その背後にいるのは、おそらくキャスター。

 

 凛は見取り図の上にいくつか印をつけていた。

 

「今日は残った基点を潰す」

 

 凛の声は、いつもより低かった。

 

「昨日、屋上の基点を一つ切った。でも、学校全体に張られた結界はまだ生きてる。向こうが動くとしたら、今日よ」

 

 士郎は頷いた。

 

「俺は何をすればいい」

 

「私の補助。昨日と同じ。術式の流れを押さえる。勝手に前に出ない。戦わない」

 

「……分かった」

 

 少し前なら、士郎は反射的に言い返していたかもしれない。

 

 でも、今は違う。

 

 バーサーカーの前に飛び出した時、自分が何をしたのか。桜に何を言わせたのか。セイバーにどんな顔をさせたのか。凛がどれだけ怒ったのか。

 

 まだ全部を理解できているとは言えない。

 

 それでも、同じことを繰り返していいとは思えなかった。

 

 セイバーは縁側の近くで静かに立っていた。

 

「私は前衛に立ちます。結界の解除中、マスターと凛を守る」

 

「お願い」

 

 凛は頷いた。

 

「ただし、学校を壊しすぎないで。一般人への被害は絶対に避ける。敵が使い魔を出してきても、大技は使えないと思って」

 

「承知しました」

 

 セイバーは短く答えた。

 

 その声に迷いはない。

 

 だが、士郎は分かっていた。

 

 学校という場所で戦うことは、セイバーにとっても難しい。広い戦場ではない。人の気配がある。建物を傷つければ、誰かが巻き込まれるかもしれない。

 

 力のあるセイバーほど、制限される場所だった。

 

 凛は次に、庭のライダーを見た。

 

「ライダーは衛宮邸に残る。これは変えない」

 

 白い神狼の耳が動いた。

 

 赤い隈取のある顔が、ゆっくりと凛を向く。

 

 その目は静かだったが、納得しきっているようには見えなかった。

 

 桜がそっとライダーの背に手を置いた。

 

「ライダーさん。ここを守ってください」

 

 ライダーは桜を見る。

 

「私はここで待ちます。先輩たちが帰ってくる場所を守ります。だから、ライダーさんも一緒に」

 

 ライダーはしばらく桜を見つめていた。

 

 やがて、短く鼻を鳴らした。

 

 背の神鏡が淡く光る。

 

 朝の光とは違う、柔らかい光だった。

 

 それは士郎たちを包むように、茶の間の中へふわりと広がった。強い加護ではない。遠くの学校まで筆しらべを飛ばすような力でもない。ただ、出ていく者たちの背を軽く押すような、小さな厄除け。

 

 士郎はその光を感じて、ライダーを見る。

 

「ありがとう」

 

 ライダーは、ふん、と鼻を鳴らした。

 

 それが「礼はいらない」と言っているようで、士郎は少しだけ口元を緩めた。

 

 桜が士郎を見た。

 

「先輩」

 

「ああ」

 

「必ず、戻ってきてください」

 

 士郎は頷く。

 

「戻る」

 

 桜の目がわずかに揺れる。

 

「無茶はしないでください」

 

「しない」

 

 今度は、迷わず答えた。

 

 桜はその答えをじっと見つめる。

 

 そして、小さく頷いた。

 

「信じます」

 

 士郎は、その言葉の重さを胸に刻んだ。

 

 学校は、いつもより静かだった。

 

 校門をくぐった瞬間、士郎はそれを感じた。

 

 生徒はいる。教師もいる。授業もある。だが、どこか人数が少ない。昨日の体調不良の影響で、休んでいる生徒が増えたのだろう。部活動も一部は様子見になっているらしい。

 

 けれど、それだけではない。

 

 空気が沈んでいる。

 

 校舎全体が、目に見えない赤い糸で締めつけられているようだった。

 

 セイバーは校門の前で目を細める。

 

「すでに発動しかけています」

 

「まだ人はいるぞ」

 

 士郎は低く言った。

 

「ええ。だから急ぐのよ」

 

 凛は表向きは普通の生徒の顔をしていた。だが、その声は鋭い。

 

「授業が始まる前に、完全発動の兆候がないか確認する。放課後を待てない可能性もあるわ」

 

 アーチャーは姿を見せていない。

 

 だが、凛の背後に薄い気配があった。

 

「アーチャー」

 

 凛が小さく呼ぶ。

 

 返事は空気の中から届いた。

 

「周囲は見ている。校外にも使い魔らしき気配がいくつかあるが、近づきすぎてはいない」

 

「見つけたら落として。ただし、罠の可能性もある。深追いしないで」

 

「了解した」

 

 士郎はその声を聞きながら、校舎を見る。

 

 あの中に、何も知らない人たちがいる。

 

 藤ねえもいる。

 

 一成も、美綴も、クラスメイトもいる。

 

 昨日のような体調不良で済むとは限らない。

 

 赤い糸が本格的に動けば、この学校全体が餌場になる。

 

 士郎は拳を握った。

 

「士郎」

 

 凛が横目で見る。

 

「顔」

 

「……悪い」

 

「謝る前に深呼吸」

 

 士郎は息を吸った。

 

 焦るな。

 

 走るな。

 

 守るためには、まず見る。

 

 セイバーに言われた言葉を思い出す。

 

 ◇

 

 午前の授業中、違和感は急激に強くなった。

 

 教室の中で、数人が机に突っ伏している。先生も何度か言葉を詰まらせ、額を押さえていた。教室の空気は重く、窓を開けても息苦しさは消えない。

 

 士郎の体も、じわじわと重くなっていった。

 

 ただの眠気ではない。

 

 何かが内側から少しずつ抜けていくような感覚。

 

 その時、廊下の向こうで小さな悲鳴が上がった。

 

 授業が止まる。

 

 教師が廊下を覗く。

 

 士郎は立ち上がりかけた。

 

 だが、教室の扉の前に凛がいた。

 

 いつの間に来たのか、凛は廊下から士郎にだけ分かるように視線を送る。

 

 動く。

 

 そういう目だった。

 

 士郎は教師に短く告げる。

 

「先生、少し保健室に行ってきます」

 

「衛宮? お前も具合悪いのか?」

 

「はい。少し」

 

 嘘ではない。

 

 実際、体は重い。

 

 士郎は廊下に出た。

 

 凛が小声で言う。

 

「放課後まで待てない。今、結界が動き始めた」

 

「セイバーは?」

 

「旧校舎から出る。私が一時的に人払いを強めるわ」

 

「一般人は」

 

「まず校舎の一部を隔離する。完全には無理だけど、旧校舎側へ人が来ないようにする。セイバーに倒れそうな生徒を外へ逃がしてもらう」

 

 凛は歩きながら指を鳴らす。

 

 廊下の空気が一瞬だけ揺れた。

 

 魔術の気配。

 

 強い結界ではない。だが、生徒たちがなんとなく旧校舎側へ近づきたくなくなる程度の人払い。

 

 士郎と凛は旧校舎へ向かった。

 

 その途中、壁に薄い赤い線が浮かび上がる。

 

 凛が士郎の視界に合わせるように魔力を流してくれたのだ。

 

 線は、昨日よりもずっと濃かった。

 

 廊下の壁、床、天井。

 

 赤い血管のようなものが校舎中を走っている。しかも、それが脈打つたびに、空気が重くなる。

 

 旧校舎の空き部屋の扉が開いた。

 

 セイバーが出てくる。

 

「凛、マスター」

 

「セイバー、倒れそうな生徒を外へ。人目は気にしていられないけど、できるだけ姿は隠して」

 

「了解しました」

 

 セイバーはすぐに動いた。

 

 金髪の少女の姿が廊下の影を駆け抜ける。普通の生徒には見えたとしても、一瞬の残像程度だろう。倒れかけた生徒の肩を支え、廊下の外へ誘導し、誰かに気づかれる前に次の場所へ移る。

 

 その動きは、戦闘ではない。

 

 だが、確かに守るための動きだった。

 

 凛は階段裏へ向かう。

 

「ここから切る」

 

「昨日潰した場所じゃないのか」

 

「違う。別の基点。昨日のは枝。こっちは幹に近い」

 

 階段裏には、赤い線が集まる節があった。

 

 凛は宝石を取り出す。

 

「士郎、補助。流れを押さえて」

 

「分かった」

 

「回路を作らない」

 

「分かってる」

 

 士郎は息を整える。

 

 痛みを探さない。

 

 無理に体の中へ線を作らない。

 

 凛が示した場所へ意識を向ける。

 

 赤い線が脈打つたび、押し返されるような感覚があった。

 

 重い。

 

 気持ち悪い。

 

 だが、士郎は踏みとどまった。

 

 凛が術式へ手を伸ばす。

 

 宝石が光る。

 

 赤い線が一瞬、強く膨らんだ。

 

 そして──。

 

「違う」

 

 凛の顔色が変わった。

 

「これ、本命じゃない!」

 

 次の瞬間、階段裏の基点が内側から弾けた。

 

 爆発ではない。

 

 赤い糸がほどけ、蜘蛛の巣のように廊下へ広がる。

 

 士郎は反射的に凛の前に出かけた。

 

「出ない!」

 

 凛の声が飛ぶ。

 

 士郎は足を止めた。

 

 その直後、赤い糸の中から白い骨の腕が突き出た。

 

 骨。

 

 人の形をした白い兵士。

 

 剣とも槍ともつかない骨の刃を持ち、廊下に立ち上がる。

 

 一体ではない。

 

 二体、三体、四体。

 

 赤い線から次々に組み上がっていく。

 

「竜牙兵……!」

 

 凛が舌打ちした。

 

「キャスターね、やっぱり!」

 

 竜牙兵が動いた。

 

 士郎と凛に向かって、骨の刃を振り上げる。

 

 その瞬間、横から風が走った。

 

 セイバーだった。

 

 不可視の剣が振るわれ、先頭の竜牙兵が一撃で砕ける。

 

 白い骨が廊下に散った。

 

 だが、砕けた骨片は赤い線に触れると、また形を取り戻そうとする。

 

「再構成されるのか」

 

 士郎が息を呑む。

 

「赤い線から魔力を供給されているようです」

 

 セイバーは剣を構え直す。

 

「ならば、線を断つまで抑えます」

 

 竜牙兵が一斉に襲いかかった。

 

 狭い廊下で、セイバーの剣が閃く。

 

 不可視の刃は見えない。

 

 だが、結果だけは見えた。

 

 骨の腕が飛び、刃が砕け、胴が断たれる。セイバーは一歩も無駄にしない。廊下の壁を壊さないよう、踏み込みを抑え、斬撃の角度を調整し、敵だけを断っていく。

 

 それでも、数が多い。

 

 しかも、学校を傷つけられない。

 

 セイバーの力は明らかに制限されていた。

 

「校舎を壊さずに戦うのは、通常の戦場より難しいですね」

 

 セイバーが静かに言う。

 

「すまない、セイバー」

 

「謝ることではありません。守るべきものがある戦いとは、そういうものです」

 

 士郎は奥歯を噛んだ。

 

 前に出たい。

 

 セイバーだけに戦わせたくない。

 

 だが、今自分が出ても邪魔になる。

 

 バーサーカーの時と同じことをしてはいけない。

 

 凛が叫ぶ。

 

「士郎、こっち!」

 

「分かった!」

 

 凛は見取り図を見ながら、赤い線の流れを追っていた。

 

「囮の基点から、本命へ流れが戻ってる。旧校舎中央……違う、地下に近い。床下か、倉庫!」

 

「行くぞ」

 

「走るわよ」

 

 二人はセイバーの後ろを抜け、旧校舎の奥へ向かった。

 

 竜牙兵が道を塞ぐ。

 

 セイバーが一体を斬り伏せ、もう一体の刃を受け流す。

 

 骨の刃と不可視の剣がぶつかり、魔力の火花が散った。

 

 凛が宝石を投げる。

 

 小さな光弾が廊下の先で炸裂し、竜牙兵の足元を砕いた。

 

「今!」

 

 士郎は凛と共に走る。

 

 廊下の奥へ。

 

 赤い線が濃くなる。

 

 空気が重くなる。

 

 旧校舎の倉庫へ近づくほど、胸が締めつけられるようだった。

 

 その時、廊下の奥に人影が見えた。

 

 慎二だった。

 

 壁際に立っている。

 

 だが、昨日とは違う。

 

 目が虚ろだ。

 

 手には赤く光る紙片。

 

 そして背後から、赤い糸が伸びている。慎二の腕へ、肩へ、首元へ、まるで操り糸のように絡んでいた。

 

「慎二!」

 

 士郎は叫んだ。

 

 慎二がゆっくり顔を上げる。

 

「……桜を連れてこいって、言っただろ」

 

 声は慎二のものだった。

 

 だが、どこか歪んでいる。

 

「お前らが来るから悪いんだ」

 

「慎二、お前、操られてる」

 

「操られてる?」

 

 慎二は笑った。

 

「違う。これは僕の力だ」

 

 赤い糸が脈打つ。

 

「僕がやってる。僕が、お前らに分からせてやるんだ」

 

「違うわ」

 

 凛が冷たく言った。

 

「今のあなたは半分、キャスターの術式に引っ張られてる。自分の意思だと思わされてるだけよ」

 

「黙れ、遠坂」

 

 慎二の顔が歪む。

 

「お前まで僕を馬鹿にするな」

 

「馬鹿にしてるんじゃない。止めようとしてるの」

 

「同じだろ!」

 

 赤い糸が大きく揺れた。

 

 廊下の壁から、新たな竜牙兵が現れる。

 

 セイバーが士郎たちの前に立った。

 

 だが、その時。

 

 校舎の中に、女の声が響いた。

 

「素敵でしょう?」

 

 空気が凍る。

 

 姿はない。

 

 声だけが、赤い糸を通って校舎中に広がる。

 

「未熟な感情ほど、術式の燃料には向いているの。怒り、嫉妬、劣等感、執着。どれも実に扱いやすい」

 

 凛の顔が険しくなる。

 

「悪趣味ね」

 

「魔術師らしい言葉ではなくて?」

 

 女の声は笑っていた。

 

 凛は即座に言い返す。

 

「私はそこまで落ちる気はないわ」

 

「あら。遠坂の娘は随分と綺麗事を言うのね」

 

「綺麗事で結構よ。少なくとも、学校の人間を餌にするよりはましだわ」

 

 声が小さく笑った。

 

「なら止めてみなさい。あなたたちが間に合うなら、ね」

 

 赤い糸が一斉に脈打つ。

 

 校舎全体が軋むような感覚がした。

 

 士郎は息を呑む。

 

 生徒たちがいる。

 

 まだ校舎には人がいる。

 

「凛!」

 

「分かってる!」

 

 凛は見取り図を捨てるように畳んだ。

 

「本命はこの先。倉庫の床下。セイバー、ここを抜ける!」

 

「了解しました」

 

 セイバーが踏み込む。

 

 竜牙兵の群れへ。

 

 不可視の剣が空気を裂く。

 

 一体、二体、三体。

 

 骨の兵士が砕ける。

 

 だが、赤い糸から魔力を受けた一体が、他とは違う動きを見せた。

 

 大きい。

 

 硬い。

 

 骨の装甲が何重にも重なり、刃も太い。キャスターが強化した個体だ。

 

 それがセイバーの前に立ち塞がる。

 

 骨の大剣が振り下ろされた。

 

 セイバーは不可視の剣で受ける。

 

 衝撃が廊下に走った。

 

 壁に細かいひびが入る。

 

「くっ……!」

 

「セイバー!」

 

 士郎が叫ぶ。

 

 足が前に出そうになる。

 

 だが、セイバーは叫んだ。

 

「来ないでください!」

 

 士郎の足が止まる。

 

 セイバーは剣を押し返し、強化竜牙兵の刃を逸らす。

 

「私は問題ありません。マスターは凛を!」

 

 士郎は拳を握った。

 

 行きたい。

 

 助けたい。

 

 けれど、今の自分が前に出れば、セイバーの動きを邪魔するだけだ。

 

「……分かった!」

 

 士郎は凛を追った。

 

 それが、自分にできることだった。

 

 凛と士郎は倉庫へ駆け込む。

 

 古い備品、壊れた机、掃除道具。

 

 その床下から、赤い光が漏れていた。

 

「ここね」

 

 凛が膝をつく。

 

 床板に手を当てると、赤い糸が蜘蛛の巣のように浮かび上がった。

 

 中心に、黒い節がある。

 

 そこが本命。

 

 学校結界の核。

 

「士郎、押さえて」

 

「ああ」

 

「さっきより強いわ。飲まれないで」

 

「分かった」

 

 士郎は手を伸ばす。

 

 赤い糸に意識を向ける。

 

 途端、頭の中に声が流れ込んできた。

 

 怒り。

 

 嫉妬。

 

 悔しさ。

 

 慎二の感情だ。

 

 桜は僕の妹だ。

 

 衛宮なんかに。

 

 遠坂まで。

 

 僕を見下すな。

 

 士郎は歯を食いしばった。

 

 慎二の感情が痛いほど流れてくる。

 

 同情できる部分がないわけではなかった。

 

 だが、だからといって学校を巻き込んでいい理由にはならない。

 

「慎二……!」

 

「集中!」

 

 凛の声が飛ぶ。

 

 士郎は意識を戻した。

 

 赤い糸を押さえる。

 

 流れを止める。

 

 凛が宝石を構える。

 

「アーチャー!」

 

 凛が叫んだ。

 

「外の中継点、見えてる!?」

 

 少し間があった。

 

 そして、声が返る。

 

「見えている。校舎外壁、北側。赤い糸の流れが外へ抜けている」

 

「撃って!」

 

「了解」

 

 次の瞬間、遠くで空気が爆ぜた。

 

 それは矢というにはあまりにも巨大な、空間を強引に貫く魔力の光条だった。

 

 音を置き去りにして飛来した一撃は、校舎の外壁を穿ち、赤い糸の中継点だけを正確に消滅させた。

 

 轟音。

 

 しかし被害は最小限だった。

 

 外壁の隅だけが抉れ、結界の流れを外へ逃がしていた赤い節が消える。

 

 校舎全体を覆っていた赤い線が、一瞬乱れた。

 

「今!」

 

 凛の宝石が光る。

 

 強い魔力が黒い節に打ち込まれた。

 

 士郎は必死に流れを押さえる。

 

 赤い糸が暴れる。

 

 腕が焼けるように熱い。

 

 でも、痛みに頼らない。

 

 回路を作らない。

 

 ただ、押さえる。

 

 黒い節がひび割れた。

 

 凛が叫ぶ。

 

「切れろ!」

 

 赤い光が弾けた。

 

 倉庫の床下から伸びていた糸が、一斉にほどける。

 

 校舎全体から、重さが剥がれ落ちていく。

 

 遠くの廊下で、生徒たちのざわめきが戻った。

 

 空気が軽くなる。

 

 結界が崩れたのだ。

 

 同時に、廊下の竜牙兵たちも動きを止めた。

 

 セイバーの前にいた強化個体が、最後の一撃を振るう。

 

 セイバーはそれを正面から受けず、半身でかわした。

 

 不可視の剣が斜めに走る。

 

 骨の胴が断たれ、強化竜牙兵は崩れ落ちた。

 

 赤い糸の供給が消えた骨は、今度こそ再構成されなかった。

 

 慎二の周囲に絡んでいた糸も、弱くなっていた。

 

 士郎は倉庫から飛び出す。

 

「慎二!」

 

 慎二は廊下に膝をついていた。

 

 顔色は悪い。

 

 だが、まだ意識はある。

 

「終わった。もうやめろ」

 

 士郎は近づく。

 

 慎二は顔を上げた。

 

 その目には、まだ怒りがあった。

 

 だが、それ以上に、怯えがあった。

 

「来るな」

 

「慎二」

 

「来るなって言ってるだろ……!」

 

 赤い糸の残滓が、慎二の足元に集まる。

 

 凛が叫ぶ。

 

「士郎、下がって! まだ繋がってる!」

 

 遅かった。

 

 慎二の背後に黒い影が開く。

 

 それは逃走ではない。

 

 回収。

 

 キャスターの糸が、慎二を再び引き抜こうとしている。

 

「慎二!」

 

 士郎が手を伸ばす。

 

 慎二も、一瞬だけその手を見た。

 

 ほんの一瞬。

 

 助けを求めるようにも見えた。

 

 だが、次の瞬間、慎二は歯を食いしばった。

 

「お前なんかに……!」

 

 影が慎二を包む。

 

「助けられてたまるかよ!」

 

 慎二の姿が消えた。

 

 士郎の手は、空を掴んだ。

 

 赤い糸は、校舎からほとんど消えていた。

 

 だが、慎二はいない。

 

 キャスターもいない。

 

 残ったのは、壊れかけた旧校舎の廊下と、ようやく戻ってきた日常の空気だけだった。

 

 凛が息を吐く。

 

「結界は潰した」

 

 その声には、勝利の響きはなかった。

 

「でも、慎二くんは持っていかれた」

 

 士郎は拳を握った。

 

「次は、慎二を助ける」

 

 凛は士郎を見た。

 

「助ける、ね。簡単じゃないわよ」

 

「分かってる」

 

 士郎は、慎二が消えた場所を見つめた。

 

「でも、このままにはしない」

 

 セイバーが静かに頷いた。

 

「マスターがそう望むなら、私はその道を守ります。ただし、今度こそ無策ではなく」

 

「ああ」

 

 士郎は頷いた。

 

 ◇

 

 同じ頃。

 

 衛宮邸では、ライダーが突然立ち上がっていた。

 

 桜は茶の間で凛から渡された基礎魔術のメモを見ていた。だが、ライダーの動きにすぐ気づく。

 

「ライダーさん?」

 

 庭の空気が変わった。

 

 聖域の外周。

 

 塀の向こう。

 

 何かが触れた。

 

 人ではない。

 

 獣でもない。

 

 キャスターの使い魔。

 

 衛宮邸の聖域を測るための小さな影が、外からそっと覗き込んでいた。

 

 ライダーは吠えなかった。

 

 唸りもしなかった。

 

 ただ、背の神鏡が強く光った。

 

 次の瞬間、庭の空気が白く灼ける。

 

 空中に、闇を断ち切るような墨の一線が走った。

 

 それは黒い線でありながら、白銀の輝きを帯びていた。筆で引かれた一閃の周囲に、真昼の太陽を思わせる熱が宿る。夜の影も、湿った魔術の気配も、その線に触れた端から薄れていく。

 

 筆しらべというには短い。

 

 だが、それだけで十分だった。

 

 聖域に触れかけていた影は、その神聖な熱に焼かれるように、朝日に晒された霜となって一瞬で消滅した。

 

 桜は息を呑む。

 

 ライダーは静かに塀の向こうを見ていた。

 

 その横顔は、いつもの柔らかい神狼ではなかった。

 

 太陽の神威を背負う、守護者の顔だった。

 

「……守ったんですね」

 

 桜が言う。

 

 ライダーは振り返り、桜を見る。

 

 桜は震えていなかった。

 

 少なくとも、今は。

 

「ここを、守ったんですね。先輩たちが帰ってくる場所を」

 

 ライダーは静かに尻尾を振った。

 

 桜は胸元に手を当てる。

 

 外へ行けないことが、ただ悔しいだけではなかった。

 

 ここを守ることも、戦いだった。

 

 桜はそれを、少しだけ理解した。

 

 夜。

 

 士郎たちは衛宮邸に戻った。

 

 学校結界は大部分が解除された。体調不良者は出たが、大きな被害はない。表向きには、集団の軽い体調不良として処理されるだろう。

 

 だが、慎二は戻らなかった。

 

 キャスターの手の中にいる。

 

 桜は、その話を黙って聞いた。

 

 顔色は悪かった。

 

 でも、泣かなかった。

 

「兄さんは……まだ、戻ってこないんですね」

 

「ああ」

 

 士郎は正直に答えた。

 

「でも、次は取り戻す」

 

 桜は士郎を見た。

 

「助けるんですか」

 

「助ける。止める。どっちもだ」

 

 桜は少しだけ目を伏せる。

 

「私は、兄さんが怖いです」

 

「うん」

 

「でも、兄さんが誰かを傷つけ続けるのも嫌です」

 

「ああ」

 

「だから……止めてください」

 

 士郎は頷いた。

 

「分かった」

 

 凛は腕を組んでいた。

 

「次はキャスターの居場所を探す必要がある。学校結界は潰したから、向こうも別の手を打ってくるはずよ」

 

 セイバーは静かに言う。

 

「次は、より直接的な戦闘になる可能性があります」

 

「だろうな」

 

 士郎は拳を握る。

 

 今日、学校は守れた。

 

 でも、終わっていない。

 

 慎二は敵の手の中にいる。

 

 キャスターはまだ姿を見せていない。

 

 そして、こちらの手札も見られた。

 

 ◇

 

 夜のどこか。

 

 暗い空間で、キャスターは戻ってきた糸を見つめていた。

 

 慎二は床に膝をついている。息は荒く、顔色は悪い。結界の燃料にされた負担は小さくない。

 

 だが、キャスターは彼を見下ろすだけだった。

 

「結界は失ったわね」

 

 慎二は顔を上げる。

 

「僕は……」

 

「けれど、十分よ」

 

 キャスターは静かに笑う。

 

「遠坂の娘の腕。セイバーの動き。アーチャーの位置取り。セイバーのマスターの性格。そして、衛宮邸の白い荒神の反応」

 

 その声に、嫌悪と警戒が混ざる。

 

「手札は見えた」

 

 慎二は歯を食いしばる。

 

「次は……どうするんだよ」

 

 キャスターは慎二を見る。

 

 その目は優しくない。

 

 けれど、声だけは優しかった。

 

「次は、こちらから招待してあげましょう」

 

 赤い糸が、暗闇の中で静かに揺れる。

 

 学校を覆っていた糸は断たれた。

 

 だが、魔女の糸はまだ切れていない。

 

 冬木の夜は、次の戦場へ向けて静かに張り詰めていた。





引き分け……かな?

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