Fate/Divine Brush──桜花浄界──   作:一般ガス会社社員

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続きました



The Changed Night

 

 衛宮士郎は、その夜もいつも通りに台所に立っていた。

 

 夕食の片づけはすでに終わっている。藤ねえは「明日も早いから」と言いながら、いつものように茶の間でだらだらしてから帰っていった。いや、正確には帰っていったというより、眠そうな顔で大河道場の方へふらふら歩いていった、というべきかもしれない。

 

 台所には、洗い終えた皿が並んでいる。

 

 蛇口から落ちる水滴の音が、やけに大きく聞こえた。

 

「……よし」

 

 士郎は布巾を絞り、流しの端を拭いた。

 

 それから、ふと時計を見る。夜はもう深い。桜が来るような時間ではない。普段なら、彼女は朝に来る。早起きして、何食わぬ顔で台所に立って、士郎が気づいた時には朝食の準備を始めている。

 

 最初は悪いから断っていた。

 

 けれど、桜は控えめに笑って、「好きでやってますから」と言った。

 

 その笑顔にどこか無理があるような気がして、士郎は何度か気になったことがある。だが、踏み込んでいいのか分からなかった。聞けば困らせるかもしれない。桜はいつも大丈夫だと言う。なら、自分にできることは、せめてここに来た時くらい落ち着ける場所を作ることだと思っていた。

 

 その考えが甘かったのだと、士郎が知るのは、もう少し後のことだった。

 

 その時、玄関の方で物音がした。

 

「……ん?」

 

 士郎は顔を上げた。

 

 こんな時間に来客など珍しい。藤ねえが忘れ物でもしたのかと思ったが、足音はしない。代わりに、門の外で何かが立ち止まったような気配があった。

 

 気のせいかもしれない。

 

 そう思った直後、控えめにチャイムが鳴った。

 

 士郎は眉をひそめた。

 

「はいはい、今行きます」

 

 玄関へ向かい、引き戸を開ける。

 

 そこに立っていたのは、間桐桜だった。

 

「……桜?」

 

 思わず名前を呼ぶ。

 

 桜は制服の上にコートを羽織っていた。息は少し乱れている。髪も、いつもより乱れていた。夜道を急いで歩いてきたのだろうか。だが、それよりも士郎の目を引いたのは、彼女の顔色だった。

 

 青白い。

 

 泣いた後のようにも見える。

 

「先輩」

 

 桜は小さく言った。

 

 その声は、普段のものと違っていた。いつもの穏やかさはある。だが、その奥に、何かを必死に押さえ込んでいるような響きがあった。

 

「どうしたんだ、こんな時間に。間桐の家で何か――」

 

 そこまで言って、士郎は言葉を止めた。

 

 桜の隣に、何かがいた。

 

 白い狼だった。

 

 いや、狼と呼んでいいのか分からない。

 

 その体は大きく、普通の犬とは比べ物にならない。雪のような白い毛並みに、額から鼻筋、頬へかけて鮮やかな紅い隈取が走っている。四肢にも渦を巻く赤い紋様があり、背には丸い鏡のようなものを負っていた。さらに背から尾へ流れる毛は、夜風の中で赤と橙の炎のように揺れている。

 

 士郎は固まった。

 

 桜も黙っている。

 

 白い狼も、黙って士郎を見上げている。

 

「……桜」

 

「はい」

 

「その、犬……いや、狼か? えっと……」

 

 士郎は言葉を探した。

 

 普通なら叫ぶところだ。近所に通報するべきなのかもしれない。だが、不思議なことに恐怖はなかった。目の前の白い狼からは、獣の荒々しさよりも、神社の境内に立った時のような静かな気配がした。

 

 それでも、玄関先に巨大な白い狼がいる状況はおかしい。

 

「……拾ったのか?」

 

 自分で言ってから、さすがに無理があると思った。

 

 桜も困ったように目を伏せた。

 

「違います」

 

「だよな」

 

 白い狼が、ふん、と鼻を鳴らした。

 

 士郎はますます困った。

 

 その時、桜が右手を胸元に寄せた。士郎は何気なくその手を見て、そこに赤い刻印のようなものが浮かんでいることに気づいた。

 

「桜、その手――」

 

 桜はびくりと肩を震わせた。

 

 隠そうとしたのだろう。けれど、途中でやめた。右手をゆっくりと下ろし、士郎に見せる。

 

 赤い紋様。

 

 まるで血で刻まれたような、けれど傷ではない何か。

 

 士郎には、それが何なのか分からなかった。

 

「怪我、じゃないよな」

 

「……はい」

 

「痛むのか?」

 

「少しだけ。でも、大丈夫です」

 

 また、大丈夫。

 

 士郎はその言葉に引っかかった。

 

 桜はいつもそう言う。大丈夫です。平気です。迷惑じゃありません。けれど、今目の前にいる桜は、どう見ても大丈夫ではなかった。

 

「とにかく入れ。外で話すことじゃない」

 

 士郎がそう言うと、桜は一瞬だけためらった。

 

 視線が白い狼へ向かう。

 

「その子も、ですか?」

 

「……まあ、庭なら」

 

 さすがに家の中に入れるには大きすぎる。そう思って言うと、白い狼は士郎の言葉を理解したように、すっと庭の方へ回った。門をくぐり、敷地に入る動きは驚くほど静かだった。足音がほとんどしない。

 

 桜はその背を見て、少しだけ表情を緩めた。

 

「ありがとうございます、先輩」

 

「礼はいい。何があったのか聞かせてくれ」

 

 士郎は桜を家に上げた。

 

 茶の間に通し、座布団を出す。湯を沸かそうとしてから、今はそんな場合ではないかと思い直した。だが、桜は冷えている。手も震えている。士郎は結局、台所へ戻って温かい茶を淹れた。

 

 茶の間に戻ると、桜は膝の上に両手を置いたまま、じっと俯いていた。

 

 庭には白い狼がいる。

 

 縁側の向こう、月明かりの中で、その姿は妙に現実離れしていた。背の鏡が淡く光り、赤い隈取が闇の中に浮かび上がっている。士郎は茶を置きながら、その存在がただの動物ではないことを改めて理解した。

 

「桜」

 

 士郎は向かいに座った。

 

「ゆっくりでいい。何があった?」

 

 桜はしばらく黙っていた。

 

 口を開きかけて、閉じる。それを何度か繰り返す。話したいことはあるのに、言葉が形にならないようだった。

 

「先輩は……聖杯戦争って、知っていますか」

 

 ようやく出た言葉は、士郎にとって聞き覚えのないものだった。

 

「聖杯戦争?」

 

「はい」

 

「……いや、知らない。何かの、魔術関係か?」

 

 士郎は一応、魔術を知っている。切嗣から教わったことは少ないし、自分に才能がないことも分かっている。それでも、魔術というものがこの世にあることだけは知っていた。

 

 だからこそ、桜の言葉がただの冗談ではないことも分かった。

 

 桜は小さく頷いた。

 

「冬木で行われる、魔術師たちの戦いです。七人のマスターが、七騎のサーヴァントを召喚して、聖杯を奪い合う……そう聞かされました」

 

「マスター? サーヴァント?」

 

「はい」

 

 桜の右手が震える。

 

「私は、そのマスターになったみたいです」

 

 士郎は言葉を失った。

 

 情報が多すぎる。

 

 桜が魔術師の戦いに巻き込まれた。右手の刻印はその証。庭の白い狼が、たぶんサーヴァントというもの。そこまでは理解できた。だが、理解できたからといって、納得できるわけではない。

 

「待て。桜が? なんで桜がそんなものに」

 

「間桐の家が、そういう家だからです」

 

 桜は静かに言った。

 

 その声は、今まで聞いたことがないほど冷えていた。

 

 士郎は息を止める。

 

「お爺様は、私をそのために使おうとしていました。私にサーヴァントを召喚させて、聖杯戦争に参加させるつもりだったんだと思います」

 

「だった、って……」

 

 士郎は庭を見た。

 

 白い狼が、こちらを見ている。まるで会話の内容を理解しているようだった。

 

「その子を召喚したのか」

 

「はい。たぶん……ライダーのサーヴァントです」

 

「ライダー」

 

「クラスの名前です。真名は分かりません。聞いてはいけないとも教えられました。だから、今はライダーさんって呼んでいます」

 

 庭のライダーが、尻尾を軽く揺らした。

 

 士郎はその動きを見て、妙に場違いな感想を抱いた。

 

 少し犬っぽい。

 

 だが、すぐにそんな考えは消えた。

 

「お爺さんはどうしたんだ。桜、さっきから過去形で話してるけど」

 

 桜の指が、膝の上でぎゅっと握られた。

 

「いなくなりました」

 

「いなくなった?」

 

「ライダーさんが……祓ってくれました」

 

 士郎は黙った。

 

 祓った。

 

 その言葉は曖昧だった。倒した、殺した、消した。どれとも違うように聞こえる。桜自身も、どう表現していいか分かっていないのかもしれない。

 

「お爺様だけじゃありません」

 

 桜は続けた。

 

「私の中にあったものも、全部」

 

 士郎は眉を寄せた。

 

「中にあったものって、どういう意味だ」

 

 桜は答えなかった。

 

 答えられなかったのだと思う。唇が震えて、目が伏せられる。士郎はそれ以上、すぐには聞けなかった。だが、胸の奥で嫌な予感が膨らんでいく。

 

 何かがあった。

 

 桜に。

 

 間桐の家で。

 

 ずっと。

 

 士郎は拳を握りしめた。

 

「桜」

 

 声が硬くなった。

 

「その話、俺は聞いていいのか」

 

 桜が顔を上げる。

 

「先輩……?」

 

「言いたくないことなら、今は言わなくていい。でも、助けが必要なら言ってくれ。俺にできることがあるなら、何でもする」

 

 桜の表情が歪んだ。

 

 泣きそうな顔だった。

 

「先輩は、いつもそう言います」

 

「そうか?」

 

「はい。何でもするって。困ったら言えって。でも……」

 

 桜は目を伏せた。

 

「私、言えませんでした」

 

 士郎は何も言えなかった。

 

 その沈黙を破ったのは、庭のライダーだった。

 

 白い神狼が立ち上がり、縁側の近くまで歩いてくる。背の鏡が淡く光る。すると、茶の間の空気が少しだけ暖かくなったように感じた。

 

 桜の肩から力が抜ける。

 

 士郎はそれを見て、ライダーが桜を落ち着かせようとしているのだと分かった。

 

「……すごいな」

 

 思わず呟く。

 

 ライダーは首を傾げた。

 

 士郎は苦笑する。

 

「いや、悪い。何て言えばいいか分からないんだ。おまえ、桜を助けてくれたんだよな」

 

 ライダーは短く鳴いた。

 

 それは肯定のように聞こえた。

 

「なら、ありがとう」

 

 士郎は素直に頭を下げた。

 

 桜が驚いたように目を見開く。

 

 ライダーはしばらく士郎を見て、それから少しだけ鼻を鳴らした。満足しているのか、呆れているのか、士郎には分からなかった。

 

 その頃、冬木の別の場所で、遠坂凛は自室の床に描かれた魔法陣の前に立っていた。

 

 遠坂邸。

 

 広い屋敷の一室に、凛はひとりでいた。部屋には準備した触媒、魔力を込めた宝石、召喚に必要な道具が整えられている。第五次聖杯戦争に向けて、遠坂家の後継者として万全の準備をしたつもりだった。

 

 つもりだった、というのが問題だった。

 

「……何、今の」

 

 凛は窓の方を振り返った。

 

 召喚を始める直前だった。集中しようとした瞬間、街の一角から異様な魔力の波が走ったのだ。

 

 方角は、間桐の家。

 

 それだけなら驚くことではない。間桐も聖杯戦争に関わる御三家の一つだ。召喚が行われたとしても不思議ではない。

 

 だが、今感じた魔力は、凛の知る間桐のそれとはまるで違っていた。

 

 間桐の魔術は湿っている。絡みつく。底に沈む。少なくとも、凛はそういう印象を持っていた。虫のように、影のように、じわじわと何かを侵していく魔力。

 

 だが、今のものは違う。

 

 眩しい。

 

 清らかすぎる。

 

 まるで夜の街に、いきなり太陽が落ちたような魔力だった。

 

「間桐の方角で、あんな魔力……?」

 

 凛は眉をひそめる。

 

 あり得ない。

 

 間桐があんな召喚をするはずがない。いや、できるはずがない。あの家の術式と、今の魔力は性質が違いすぎる。

 

「失敗召喚? 暴走? それとも……」

 

 そこまで考えて、凛は舌打ちした。

 

 気になる。

 

 だが、自分にもやるべきことがある。聖杯戦争は待ってくれない。今は自分のサーヴァントを召喚する方が先だ。間桐の異常を調べるにしても、戦力がなければ話にならない。

 

「落ち着きなさい、私。まずはこっち」

 

 凛は深呼吸した。

 

 魔法陣の前に立つ。

 

 遠坂の後継者として、失敗はできない。いや、失敗するはずがない。準備はしてきた。魔力も十分。時間も見た。あとは呼ぶだけだ。

 

 凛は詠唱を始めた。

 

 その声は凛らしく強く、迷いがない。桜のように途中で祈りへ変わることもない。遠坂凛は、最初から勝つつもりでサーヴァントを呼んでいた。

 

 空気が張りつめる。

 

 魔法陣が輝く。

 

 召喚は成立した。

 

 ただし、結果が凛の想定通りだったかというと、そうでもなかった。

 

 轟音。

 

 煙。

 

 そして、屋敷の一部に被害。

 

 凛はしばらく呆然とし、それからこめかみを押さえた。

 

「……なんでそうなるのよ」

 

 召喚された男は、赤い外套をまとっていた。

 

 白い髪、浅黒い肌、皮肉げな顔。弓兵のクラスで現界したサーヴァント。凛の新たな戦力となるはずの存在。

 

「問おう」

 

 男は落ち着いた声で言った。

 

「君が私のマスターか」

 

 凛は一瞬だけ、その言葉に満足しかけた。

 

 召喚は成功した。

 

 だが、すぐに先ほどの間桐方面の異常が頭をよぎる。目の前のサーヴァントへの確認も必要だ。屋敷の被害についても文句を言いたい。けれど、それ以上に胸騒ぎが消えなかった。

 

「ええ、そうよ。私は遠坂凛。あなたのマスター」

 

「アーチャーのサーヴァントとして召喚に応じた。以後、よろしく頼む」

 

 アーチャーは淡々と言った。

 

 凛は頷き、すぐに窓の外を見た。

 

「それで、アーチャー。今の魔力反応、感じた?」

 

「君の召喚の前に発生したものか」

 

「やっぱり感じてたのね」

 

「感じない方が難しい。通常のサーヴァント召喚とは異なる。少なくとも、あれは人の手だけで整えられた魔術ではない」

 

 凛の表情が険しくなる。

 

「場所は間桐の方角。しかも、あの浄化性。嫌な予感しかしないわ」

 

「調べるのか」

 

「当然。放っておけるわけないでしょ」

 

 凛はコートを掴んだ。

 

 アーチャーは少しだけ眉を上げる。

 

「召喚直後に敵地へ向かうとは、ずいぶんと積極的だな」

 

「敵地って決まったわけじゃないわ。けど、間桐で何かが起きたのは確実。御三家の一角があんな反応を出したなら、確認しない方がおかしい」

 

「なるほど。だが、あの反応の中心はすでに移動している」

 

 凛の手が止まる。

 

「移動?」

 

「ああ。間桐の方角から、別の場所へ。完全に隠す気がないのか、隠せないのかは不明だが、辿るのは容易い」

 

「どこへ向かってるの」

 

 アーチャーは少し沈黙した。

 

 その沈黙が、凛には妙に嫌だった。

 

「衛宮邸の方角だ」

 

 凛は固まった。

 

「……は?」

 

「聞こえなかったか」

 

「聞こえたわよ。聞こえたけど、なんでそこで衛宮くんなのよ」

 

 凛は頭を抱えたくなった。

 

 衛宮士郎。

 

 同じ学校の生徒。魔術師としての素質はあるのかもしれないが、少なくとも聖杯戦争に関わっているようには見えなかった。いや、そもそも関わっていてほしくなかった。

 

 間桐の異常な魔力反応が、衛宮邸へ向かっている。

 

 その時点で、厄介事の予感しかしない。

 

「行くわよ、アーチャー」

 

「了解した」

 

「ただし、姿は隠して。一般人を巻き込むわけにはいかない」

 

「一般人、か」

 

 アーチャーが小さく呟いた。

 

 凛はその言い方に引っかかったが、今は問いただす余裕がなかった。

 

 その少し後。

 

 衛宮邸の茶の間では、士郎が桜の話を必死に整理しようとしていた。

 

「つまり、桜はマスターになった。庭にいるライダーがサーヴァント。間桐のお爺さんはもういない。で、聖杯戦争っていう魔術師同士の戦いが始まる」

 

「……はい」

 

「それで、桜はこれからどうしたいんだ」

 

 桜は顔を上げた。

 

「どう、したい……?」

 

「ああ」

 

 士郎は真っ直ぐに桜を見た。

 

「間桐の家に戻りたいのか。戻りたくないのか。戦うのか、戦いたくないのか。俺は魔術のことも聖杯戦争のこともよく分からない。でも、桜がどうしたいかは聞きたい」

 

 桜は言葉を失った。

 

 どうしたいか。

 

 そんなふうに聞かれることは、あまりなかった。

 

 命令されることはあった。決められることもあった。耐えるしかないこともあった。けれど、自分がどうしたいのかを最初に聞かれることは、ほとんどなかった。

 

「私は……」

 

 桜は右手の令呪を見た。

 

「戦いたくありません」

 

 小さな声だった。

 

 けれど、はっきりしていた。

 

「聖杯もいりません。誰かを傷つけたいわけでもありません。ただ……」

 

 桜はライダーを見た。

 

「もう、戻りたくありません」

 

 士郎は頷いた。

 

「分かった」

 

「でも、先輩。私はマスターになってしまいました。逃げたくても、逃げられないかもしれません」

 

「なら、逃げられる方法を探そう」

 

「そんな簡単に……」

 

「簡単じゃないのは分かってる。でも、戻りたくないなら戻らなくていい。ここにいればいい」

 

 桜が息を呑む。

 

「ここに……?」

 

「部屋なら余ってる。藤ねえには……まあ、説明はなんとかする」

 

 どう説明するつもりなのか、士郎自身にも分からなかった。

 

 桜が夜に突然来た。巨大な白い狼を連れている。聖杯戦争に巻き込まれた。間桐家には戻れない。

 

 普通に説明すれば、藤ねえは確実に混乱する。

 

 だが、それでも士郎は言った。

 

「桜が嫌なら、戻らなくていい」

 

 その言葉に、桜の目が潤む。

 

 庭のライダーが静かに士郎を見た。

 

 その視線には、先ほどよりも少しだけ柔らかさがあった。

 

 その時だった。

 

 門の外に、気配が生まれた。

 

 ライダーの耳が動く。

 

 背の鏡が淡く光った。

 

 士郎も何かを感じて、縁側の方を見る。魔術師として未熟な士郎でも分かるほど、空気が変わった。静かな夜の中に、張りつめた糸のような緊張が走る。

 

「誰か来た」

 

 士郎が立ち上がる。

 

 桜も肩を震わせた。

 

「先輩、待ってください」

 

「大丈夫。様子を見るだけだ」

 

 士郎が玄関へ向かおうとした瞬間、庭のライダーが先に動いた。

 

 白い神狼は縁側の前に立ち、門の方を見据える。赤い隈取が闇の中で燃えるように浮かび、背の鏡が月明かりを受けて淡く輝く。

 

 次の瞬間、門の前に少女が立った。

 

 遠坂凛だった。

 

「……やっぱり、ここだった」

 

 凛は門越しに庭を見て、そして固まった。

 

 視線がライダーに向かう。

 

 白い毛並み。赤い隈取。背の神鏡。炎のように揺れる尾。明らかに普通の動物ではない存在が、衛宮邸の庭にいる。

 

 凛の顔から、いつもの余裕が消えた。

 

「何よ、それ……」

 

 士郎は玄関から出て、凛を見た。

 

「遠坂?」

 

「衛宮くん」

 

 二人の視線がぶつかる。

 

 凛はすぐに士郎の背後を見た。

 

 そこに、桜がいた。

 

 桜は茶の間から出てきて、廊下に立っている。右手を胸元に寄せていた。だが、凛には見えた。

 

 赤い令呪。

 

 凛の表情が変わる。

 

「桜」

 

 その声は、鋭かった。

 

「あなた……マスターになったの?」

 

 士郎は凛を見た。

 

「遠坂、おまえ知ってるのか」

 

「知ってるも何も、衛宮くん。あなた、自分がどれだけ厄介な状況にいるか分かってる?」

 

「分かってない。だから説明してほしい」

 

 凛は一瞬だけ言葉に詰まった。

 

 予想外だったのだろう。士郎がここまで真っ直ぐに返してくるとは思っていなかったのかもしれない。

 

 凛は小さく息を吐き、門を開けた。

 

 その瞬間、ライダーが一歩前に出る。

 

 凛の足が止まった。

 

 見えない圧が庭に広がる。攻撃ではない。だが、警告だった。桜に近づくなら、敵と見る。そう告げるには十分すぎるほどの気配。

 

 凛の背後で、空気がわずかに揺れた。

 

 誰かがいる。

 

 士郎には姿が見えなかった。けれど、ライダーはそちらを見た。凛の背後の空間へ。何もないはずの場所へ。

 

「……アーチャー、姿を出さないで」

 

 凛が低く言った。

 

 士郎は眉をひそめる。

 

「アーチャー?」

 

「私のサーヴァントよ」

 

「遠坂も、マスターなのか」

 

「そう。だから分かるの。桜の隣にいるそれが、どれだけ異常な存在かもね」

 

 凛はライダーを見た。

 

 ライダーは凛を見返す。

 

 赤い隈取が、闇の中で静かに光る。

 

「桜」

 

 凛は慎重に言った。

 

「何があったの。間桐の家で、とんでもない魔力反応があった。しかも、今のあなたからは間桐の汚れた気配がほとんどしない。臓硯は?」

 

 桜の肩が揺れた。

 

 凛の表情がわずかに歪む。

 

 その反応だけで、何かを察したのかもしれない。

 

「……消えました」

 

 桜は答えた。

 

「ライダーさんが、お爺様を……私の中にあったものごと、全部祓ってくれました」

 

 凛は完全に黙った。

 

 士郎には、その言葉の重さがまだ全部は分からない。だが、凛には分かったらしい。表情が硬くなる。怒り、困惑、信じられなさ、そしてほんの少しの安堵が入り混じった顔だった。

 

「全部って……まさか」

 

 凛は桜の右手を見た。

 

「桜、体は?」

 

「大丈夫です」

 

「本当に?」

 

「はい。今までで、一番……楽です」

 

 凛は何かを言おうとして、やめた。

 

 代わりに、ライダーを見た。

 

「あなたがやったのね」

 

 ライダーは答えない。

 

 ただ、背の鏡が淡く光った。

 

 凛は唇を噛む。

 

「神性持ちのサーヴァント……しかも、浄化系。間桐の術式を上から塗り替えるなんて、普通じゃない。ライダーの霊基に収まってるみたいだけど、格が高すぎる」

 

 士郎は話についていけなかった。

 

「遠坂。ちゃんと説明してくれ」

 

「説明したいけど、順番が多すぎるのよ」

 

 凛は士郎を睨み、それからため息をついた。

 

「まず一つ。衛宮くん、今夜見たことを忘れなさい、とはもう言えない。あなたは完全に巻き込まれた」

 

「俺が?」

 

「そうよ。マスターが二人、サーヴァントが二騎、しかもその片方が正体不明の神獣。そんなものを自分の家に入れた時点で、もう無関係じゃいられない」

 

「桜を追い返せっていうのか」

 

 士郎の声が低くなった。

 

 凛は一瞬、言葉に詰まる。

 

「そうは言ってないでしょ」

 

「ならいい。桜はここにいる。戻りたくないって言ったから」

 

 凛は桜を見た。

 

 桜は俯いていたが、否定はしなかった。

 

 その沈黙が答えだった。

 

 凛はしばらく黙っていた。

 

 夜風が庭を抜ける。ライダーの炎のような毛が揺れ、背の鏡に月が映る。凛の背後には、まだ見えないアーチャーの気配があった。聖杯戦争は始まったばかりだというのに、衛宮邸にはすでにありえないほどの情報が集まっていた。

 

「……分かった」

 

 凛は小さく言った。

 

「今夜は、ここで話を整理するわ」

 

 士郎が眉を上げる。

 

「いいのか」

 

「よくないわよ。でも、放っておく方がもっと悪い。桜を間桐に戻す選択肢はなし。衛宮くんを無関係に戻すのも、たぶんもう無理。だったら、少なくとも最低限の知識は入れておかないと危なすぎる」

 

 凛は庭のライダーを見た。

 

「ただし、その子……ライダーが本当に桜を守る存在なのか、確認はさせてもらう」

 

 ライダーが凛をじっと見る。

 

 その目に敵意はなかった。

 

 だが、試すなら受ける、という静かな圧があった。

 

 凛は苦笑した。

 

「……ほんと、何なのよこの子」

 

 士郎は玄関の前に立ったまま、桜を見た。

 

「桜。大丈夫か」

 

 桜は小さく頷いた。

 

「はい。先輩がいて、遠坂先輩もいて……ライダーさんもいますから」

 

 その言葉に、凛が少しだけ目を細めた。

 

「遠坂先輩、ね」

 

 桜ははっとしたように口元を押さえた。

 

 凛は何か言いたそうにしたが、結局言わなかった。

 

「入りましょう。外で話すには冷えるわ」

 

 そう言って、凛は衛宮邸の敷地へ足を踏み入れた。

 

 ライダーはそれを見届けると、静かに道を空けた。完全に警戒を解いたわけではない。だが、凛をすぐ敵と見なすつもりもないようだった。

 

 士郎はその様子を見て、ほんの少しだけ息を吐いた。

 

 何が始まっているのか、まだ分からない。

 

 聖杯戦争。マスター。サーヴァント。間桐。遠坂。ライダー。アーチャー。知らない言葉ばかりが、自分の日常に流れ込んでくる。

 

 だが、一つだけ分かることがあった。

 

 桜は、今ここにいる。

 

 戻りたくないと言った。

 

 なら、守る。

 

 それがどれだけ無謀なことなのかを、士郎はまだ知らない。

 

 庭では、白い神狼が夜空を見上げていた。背の神鏡に月が映り、その赤い隈取が淡く輝く。

 

 夜はまだ明けない。

 

 けれど、衛宮邸にはすでに、夜を終わらせる太陽がいた。





もう続きません

ここまで読んだそこの君!
今すぐ大神をプレイしよう!
そして二次創作を書こう!
私も書いたんだからさっ!
な! な!
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