Fate/Divine Brush──桜花浄界──   作:一般ガス会社社員

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小休止



The White God Moves

 

 朝の衛宮邸には、昨夜の戦いの匂いがまだ残っていた。

 

 血の匂いではない。

 

 焦げた魔力の残滓、宝石を砕いた後に残る微かな熱、セイバーの甲冑に刻まれた刃の痕。そして、柳洞寺から持ち帰った重い空気。

 

 朝食の湯気が上がっていても、それは完全には消えなかった。

 

 士郎は台所に立ちながら、何度も茶の間へ目を向けた。

 

 セイバーは縁側近くに座っている。腕には昨夜、アサシンの秘剣を受けた時の傷があった。深くはない。けれど、浅いとも言い切れない。柳洞寺の結界で力を抑えられた状態で、あの秘剣を凌いだのだ。無傷で済むはずがない。

 

 それでもセイバーは、いつもと変わらない顔をしていた。

 

「セイバー、本当に大丈夫なのか」

 

 士郎が聞くと、セイバーは静かに頷いた。

 

「問題ありません。戦闘に支障はない傷です」

 

「そういう言い方をする時点で、大丈夫じゃないだろ」

 

「マスター」

 

 セイバーは少し困ったように士郎を見る。

 

「あなたが無茶をしないと約束したように、私も無茶をするつもりはありません」

 

「……ならいいけど」

 

「ですが、昨夜の戦いで分かったことがあります」

 

 セイバーは自分の腕に巻かれた包帯へ視線を落とした。

 

「あのアサシンの剣は、本物でした。彼を越えられたことは、大きい」

 

 山門の剣士。

 

 佐々木小次郎。

 

 アサシンと名乗った男は、セイバーの剣によって消えた。

 

 だが、勝ったというより、越えた、という言葉の方が似合っていた。

 

 セイバーの表情には、勝利の誇りよりも、剣士への敬意が残っている。

 

 凛はちゃぶ台の上に、柳洞寺周辺の簡単な見取り図を広げていた。昨夜、帰ってから眠る間も惜しんで整理したものだ。赤い線、紫の印、黒い丸。境内、本堂、山門、工房の中心らしき位置。そこに慎二が置かれていた場所と、奥へ引き込まれた方向も書き込まれている。

 

 桜はその見取り図を黙って見ていた。

 

 膝の上で手を握っている。

 

 庭にはライダーが伏せていた。朝の光を浴びた白い毛並みは穏やかだったが、その目は凛の見取り図をじっと見ている。背の神鏡は、昨日よりも静かに光っているように見えた。

 

「整理するわ」

 

 凛が言った。

 

「まず、アサシンはセイバーが倒した。山門の迎撃役は消えたと見ていい」

 

 セイバーが小さく頷く。

 

「はい。彼の気配は消えました」

 

「次に、慎二くん。完全に助け出すことはできなかった。でも、支配の主線を一部切った。意識も少し戻った」

 

 桜の指がぴくりと動いた。

 

 士郎は桜を見る。

 

「慎二は、桜が来てないって聞いた時、反応した」

 

「……はい」

 

 桜は小さく答える。

 

「先輩、昨日も言ってくれました」

 

「ああ」

 

「兄さんは、怒っていましたか」

 

 士郎はすぐには答えられなかった。

 

 慎二のかすれた声が耳に残っている。

 

 桜は来てない。

 

 そう伝えた後の、慎二の「そうかよ」という声。

 

 それが安堵だったのか、失望だったのか、士郎には分からなかった。

 

「分からない」

 

 士郎は正直に言った。

 

「でも、聞こえてた。慎二本人の意識は、まだ残ってる」

 

 桜は目を伏せた。

 

 少しだけ息を吐く。

 

 安心したようにも、苦しそうにも見えた。

 

「それだけでも……よかったです」

 

 凛は桜の様子を見てから、話を続けた。

 

「そして一番厄介なのが、キャスターのマスター」

 

 茶の間の空気が、そこでさらに重くなる。

 

「葛木宗一郎。穂群原学園の世界史教師。生徒会顧問」

 

 凛がその名前を口にした瞬間、士郎の胸が沈んだ。

 

 葛木先生。

 

 昨日、柳洞寺の闇の中から、足音も気配もなく現れた男。

 

 学校で何度も見てきた教師が、キャスターの隣に立っていた。

 

 あの光景が、まだ現実とは思えない。

 

「葛木先生は魔術師じゃない」

 

 凛は言った。

 

「少なくとも、私の目にはそう見える。魔術回路の気配もないし、魔術師としての訓練を受けた感じもない。だけど、キャスターの強化を受けた状態だと、サーヴァント相手でも近接戦が成立する」

 

 アーチャーは壁際で腕を組んでいた。

 

 霊体化はしていない。

 

 昨日の戦闘後から、どこか機嫌が悪そうに見える。

 

「成立する、などという生易しいものではない。初見ならば危険だ。あの拳は、普通の武術ではない」

 

「暗殺術か何か?」

 

 士郎が聞く。

 

「おそらくな。殺気がない。予備動作がない。体の使い方が常人と違う。キャスターの強化は威力を上げているだけで、技そのものは葛木宗一郎のものだ」

 

 葛木先生の無音の踏み込み。

 

 アーチャーの干将・莫耶の隙間をすり抜けた拳。

 

 士郎は思い出して、背筋が冷えた。

 

 学校の教壇に立っている男と、昨夜の男が、同じ人物として重ならない。

 

 いや、同じだからこそ怖い。

 

 あの無駄のない立ち姿。

 

 いつも通りの表情。

 

 それが、戦場でもまったく変わらなかった。

 

「……今日、学校にいるのかな」

 

 士郎は思わず呟いた。

 

 凛がこちらを見る。

 

「いるでしょうね」

 

「普通に?」

 

「普通に」

 

 凛の声は苦かった。

 

「向こうが日常に戻ってくるタイプなら、こっちも気づいていないふりをするしかない。学校で手を出すなんて論外よ。一般人が多すぎるし、証拠もない。何より、キャスターがそれを狙っている可能性もある」

 

「もし、授業で会ったら」

 

「普通にして」

 

「できると思うか?」

 

「できなくても、するのよ」

 

 凛はきっぱり言った。

 

「聖杯戦争では、敵が夜だけ敵の顔をしているとは限らない。昼は先生で、夜はマスター。そういう相手だと思うしかない」

 

 士郎は拳を握った。

 

 分かっている。

 

 分かっているが、簡単に飲み込める話ではなかった。

 

 桜も、表情を曇らせている。

 

「葛木先生が……」

 

 その声は小さかった。

 

 桜も学校で葛木を知っている。

 

 当然だ。

 

 日常の中にいた人間が、聖杯戦争の中にいる。

 

 その衝撃は、士郎だけのものではなかった。

 

 ライダーが庭で静かに息を吐いた。

 

 白い神狼の目が、柳洞寺の見取り図へ向く。

 

 凛はその視線に気づき、少しだけ表情を引き締めた。

 

「そして、次の話よ」

 

 凛は見取り図の本堂部分を指差した。

 

「次に柳洞寺へ行くなら、工房そのものを崩す必要がある。慎二くんを助けるには、それしかない」

 

「もう一度、柳洞寺へ行くんだな」

 

「ええ。ただし、同じ戦力では厳しい」

 

 凛の視線が庭へ向いた。

 

 ライダーへ。

 

「正直に言うわ。次は、ライダーの力が必要」

 

 茶の間が静かになった。

 

 ライダーの耳が動く。

 

 桜が顔を上げる。

 

「ライダーさんを……?」

 

「キャスターの術式は、ライダーの神気を嫌がってる」

 

 凛は言った。

 

「これまで何度か確認してる。衛宮邸の聖域に触れた使い魔は焼かれるように消えた。あの赤い糸も、ライダーの神気を避けて歪んでいた。キャスター本人も、ライダーをひどく警戒してる」

 

 凛は少し言葉を選ぶ。

 

「つまり、相性がいい可能性が高い。キャスターの工房、赤い糸、影の兵。あの湿った術式に対して、ライダーの太陽みたいな神気は効くかもしれない」

 

 ライダーは凛を見ていた。

 

 何も言わない。

 

 けれど、その沈黙には重さがあった。

 

 士郎は庭のライダーと、隣に座る桜を見比べる。

 

「でも、ライダーが出るなら、桜はどうするんだ」

 

 その問いに、誰もすぐには答えなかった。

 

 ライダーは桜のサーヴァントだ。

 

 桜を守ることを最優先にしてきた。

 

 桜を衛宮邸に残して、ライダーだけが柳洞寺へ行く。

 

 それがどれほど難しい選択なのか、士郎にも分かる。

 

「桜を柳洞寺に連れていくのは危険すぎる」

 

 凛が言う。

 

「キャスターは慎二くんを餌にして桜を揺さぶろうとした。連れていけば、確実に狙われる」

 

「なら、桜はここに残る。でもライダーがいなくなる。それだって危険すぎるだろ」

 

 士郎は言った。

 

 言わずにはいられなかった。

 

 桜を一人で残す。

 

 それは、どう考えても危うい。

 

 ライダーが衛宮邸にいるからこそ、これまで桜は守られていた。キャスターがライダーを嫌っているなら、なおさらだ。ライダーがいないと分かった瞬間、桜を狙う可能性だってある。

 

 凛は、その不安を否定しなかった。

 

「危険がないとは言わない」

 

 凛の声は真剣だった。

 

「でも、現状で一番可能性が高い動きを考えるなら、キャスター本人は柳洞寺から動けない」

 

「動けない?」

 

「ええ。あの女は柳洞寺の霊地を利用して、工房を作ってる。慎二くんを縛っている術式も、葛木先生への支援も、全部あの工房を中心に組んでる。今キャスターがあそこを離れれば、工房の制御が落ちる。最悪、せっかく作った陣が瓦解する」

 

 アーチャーも静かに言った。

 

「キャスターはすでに山門のアサシンを失った。工房そのものを放棄する余裕はない。こちらが再び柳洞寺へ向かうと分かっているなら、なおさらだ。あの女は工房で待ち構える」

 

「葛木先生は?」

 

 士郎が聞く。

 

「動ける可能性はある」

 

 アーチャーは即答した。

 

「だが、葛木宗一郎が山を離れれば、キャスターの前衛が消える。アサシンを失った今、工房内でキャスターを守れる者は葛木だけだ。こちらがライダーを連れて攻めると読んだなら、奴を外へ出す可能性は低い」

 

 凛が頷く。

 

「もちろん、絶対じゃない。だから衛宮邸の守りを固める。私が結界を補強する。アーチャーにも外周に警戒用の仕掛けを置かせる。ライダーには出発前に、この家の聖域をもう一段強めてもらう」

 

「それでも、桜は一人だ」

 

「そうよ」

 

 凛は士郎を見る。

 

「だから、これは桜が決めることでもある。私たちが勝手に決めていいことじゃない」

 

 士郎は言葉を飲み込んだ。

 

 凛の言うことは分かる。

 

 危険はある。

 

 でも、柳洞寺へライダーを連れていかなければ慎二を助けられない可能性が高い。

 

 桜を連れていくのは、もっと危険。

 

 なら、桜がここに残るしかない。

 

 理屈ではそうだ。

 

 だが、その理屈を桜に押しつけたくはなかった。

 

 凛は桜を見る。

 

「桜。これはあなたにも関わる話よ。私たちが決めていいことじゃない」

 

 桜は黙っていた。

 

 ライダーの方を見る。

 

 ライダーもまた、桜を見ていた。

 

 白い神狼の目は静かだった。

 

 しかし、その目にある感情は簡単に読めない。

 

 行くべきか。

 

 残るべきか。

 

 桜を守るために、桜から離れるべきか。

 

 士郎は桜へ声をかけようとして、やめた。

 

 今、答えるのは桜だ。

 

 桜が、自分で決めることだった。

 

 しばらく沈黙が続いた。

 

 やがて桜は、ゆっくりと口を開いた。

 

「私も……柳洞寺へ行きたい気持ちはあります」

 

 士郎は息を止める。

 

 桜の声は震えていた。

 

「兄さんがいるんですよね。キャスターに利用されていて、苦しんでいるんですよね。だったら、私も行って、見届けなきゃいけないんじゃないかって……そう思う自分がいます」

 

 ライダーが少しだけ身を起こす。

 

 桜は続けた。

 

「でも、行けば足を引っ張ります。兄さんの声を聞いたら、私は動けなくなるかもしれない。キャスターに何か言われたら、また自分が行かなきゃいけないって思ってしまうかもしれない」

 

 桜は膝の上で手を握る。

 

「だから、私は行きません」

 

 その言葉は、小さい。

 

 けれど、はっきりしていた。

 

「でも、ライダーさんを行かせます」

 

 ライダーの耳がぴくりと動く。

 

 桜は庭にいる白い神狼を見つめた。

 

「ライダーさん。先輩たちを助けてください。兄さんを止めるために、力を貸してください」

 

 ライダーは動かなかった。

 

 その目が桜を見つめる。

 

 桜は少しだけ苦しそうに笑った。

 

「怖いです。ライダーさんがいない間、ここにいるのは怖いです。でも、だからって、ライダーさんを私だけのために引き止めるのは違うと思うんです」

 

「桜……」

 

 士郎が名前を呼ぶ。

 

 桜は士郎を見て、それからまたライダーを見る。

 

「私はここを守ります」

 

 その声は、さっきより強かった。

 

「先輩たちが帰ってくる場所を守ります。ライダーさんが帰ってくる場所を、私が守ります」

 

 ライダーは、ゆっくりと立ち上がった。

 

 白い毛並みが朝の光を受ける。

 

 神鏡が淡く光る。

 

 それは桜を拒む光ではなかった。

 

 桜の決意を確かめるような、静かな光だった。

 

 ライダーは縁側へ近づき、桜の前で立ち止まった。

 

 桜は手を伸ばし、ライダーの額に触れる。

 

「お願いします」

 

 ライダーは小さく鼻を鳴らした。

 

 それから、桜の手に頭を預ける。

 

 了承。

 

 士郎には、そう見えた。

 

 ◇

 

 その日の学校は、いつも通りだった。

 

 それが、士郎にはひどく気持ち悪かった。

 

 廊下を歩く生徒たち。

 

 教室で騒ぐ声。

 

 教師の足音。

 

 黒板にチョークが当たる音。

 

 何もかもが、いつもの穂群原学園だった。

 

 昨日の夜、柳洞寺でキャスターと戦っていたことも。

 

 慎二がまだ敵の手にいることも。

 

 葛木先生がキャスターのマスターだったことも。

 

 この学校は何も知らない顔をしている。

 

 午前の世界史。

 

 教室の扉が開く。

 

 葛木宗一郎が入ってきた。

 

 士郎の背筋が固まる。

 

 葛木はいつも通りだった。

 

 地味なスーツ。

 

 無駄のない動き。

 

 出席簿を開き、教室を見渡す目。

 

 昨夜の柳洞寺で、足音も気配もなく闇から現れた男と同じ顔。

 

 だが、今はただの教師として教壇に立っている。

 

「では、前回の続きから始める」

 

 声も、いつも通りだった。

 

 教室の生徒たちは何も気づいていない。

 

 隣の席の生徒が眠そうに欠伸を噛み殺す。

 

 前の席では、誰かがノートを開く。

 

 一成は真面目に背筋を伸ばし、葛木の話を聞いていた。

 

 それが士郎には、ひどく重かった。

 

 一成は何も知らない。

 

 葛木先生を、ただの先生として信頼している。

 

 生徒会の顧問として、日頃から接している。

 

 その相手が、昨夜キャスターの隣にいた。

 

 士郎は黒板を見る。

 

 文字が目に入らない。

 

 葛木の声だけが、妙に耳に残る。

 

 授業の途中、一瞬だけ葛木の視線が士郎へ向いた。

 

 本当に一瞬だった。

 

 他の生徒なら気づかないくらい。

 

 だが、士郎には分かった。

 

 葛木は、士郎が知っていることを知っている。

 

 それでも何も言わない。

 

 学校では、教師の顔をしている。

 

 士郎は拳を握った。

 

 普通にしろ。

 

 凛に言われた言葉を思い出す。

 

 敵が日常に戻ってくるなら、こちらも気づいていないふりをするしかない。

 

 授業が終わる。

 

 一成が葛木のところへ行き、何かを質問していた。

 

 葛木は短く答える。

 

 一成は納得したように頷く。

 

 その光景は、あまりにも普通だった。

 

 普通すぎて、気味が悪い。

 

 士郎は教室の外へ出た。

 

 廊下で、凛が待っていた。

 

 彼女もまた、顔色が少し悪い。

 

「見た?」

 

「ああ」

 

「普通にいたわね」

 

「普通すぎた」

 

 凛は小さく息を吐く。

 

「最悪ね。敵が日常に戻ってくるタイプだわ」

 

「学校でどうにかするのは」

 

「無理」

 

 凛は即答した。

 

「証拠もない。一般人が多すぎる。葛木先生自身が何もしてこない以上、こっちから手を出せば私たちの方が異常者よ。キャスターはそこまで分かってる」

 

「じゃあ、夜に柳洞寺か」

 

「ええ」

 

 凛は廊下の窓から外を見る。

 

「次で、慎二くんを助ける。そのためには、ライダーの力がいる」

 

 士郎は頷いた。

 

 ◇

 

 夜。

 

 衛宮邸の空気が変わった。

 

 凛が結界を補強し、アーチャーが外周に警戒用の仕掛けを置いた後、最後にライダーが庭の中央へ進み出た。

 

 白い神狼は、静かに立っている。

 

 何かを描くわけではなかった。

 

 魔術式を組むわけでもない。

 

 ただ、そこに神がいる。

 

 その事実だけで、庭の空気が塗り替えられていく。

 

 背の神鏡が、ゆっくりと輝き始めた。

 

 月明かりではない。

 

 炎でもない。

 

 内側から滲み出る、柔らかくも圧倒的な太陽の光。

 

 その光が、庭に満ちた。

 

 最初に変わったのは、空気だった。

 

 湿った夜気が薄れ、朝の社に足を踏み入れた時のような清らかさが広がる。畳の奥、柱の木目、庭石の影、門の古い板。その一つ一つに、ライダーの神気が染み込んでいく。

 

 それは結界というより、場そのものの性質を書き換えるものだった。

 

 魔を遮る線を引くのではない。

 

 邪なるものが存在する余地を、空間から奪っていく。

 

 庭の暗がりが薄くなる。

 

 縁側の影が穏やかに沈む。

 

 門の向こうから入り込もうとしていた夜の冷たさが、見えない壁に触れたように止まる。

 

 士郎は息を呑んだ。

 

 衛宮邸が、家の形をした小さな聖域へ変わっていく。

 

 凛も言葉を失っていた。

 

 普段ならすぐに理屈を探す彼女が、しばらく黙ってその光景を見ていた。

 

「……すごい」

 

 やがて、凛はそう呟いた。

 

「これは、術式というより……神域化ね。半端な使い魔じゃ入れない。キャスターの赤い糸も、簡単には通らないはず」

 

「完全には?」

 

 士郎が聞く。

 

「もちろん、完全じゃない。強引に破ろうとする奴が来れば危険はある。でも、時間は稼げる。それに、入ろうとした時点で私の仕掛けにも引っかかる。すぐに分かるわ」

 

 アーチャーも静かに言った。

 

「キャスター本人は動けん。葛木も工房を離れにくい。そこへこの聖域だ。今夜に限れば、桜を狙うには相手の負担が大きすぎる」

 

「今夜に限れば、か」

 

 士郎が言う。

 

「そうだ」

 

 アーチャーははっきりと言った。

 

「安全などという言葉は使わん。だが、勝算はある。何より、柳洞寺を放置すれば慎二はさらに深く縛られる。桜を狙われる危険も、長引くほど増す」

 

 士郎は黙った。

 

 それはその通りだった。

 

 危険だから動かない。

 

 それだけでは、何も守れない。

 

 ライダーの神鏡が、最後に桜へ向いた。

 

 桜は縁側に立っていた。

 

 不安そうだった。

 

 でも、逃げる目ではなかった。

 

 ライダーが桜へ歩み寄る。

 

 桜は膝をつき、その顔を抱きしめるように手を回した。

 

「大丈夫です」

 

 桜は言った。

 

 ライダーに向けて。

 

 そして、自分自身に向けて。

 

「私はここにいます。ここを守ります。だから、ライダーさんは先輩たちをお願いします」

 

 ライダーは桜の頬に鼻先を寄せた。

 

 桜は少しだけ目を閉じる。

 

「帰ってきてください」

 

 ライダーは短く鳴いた。

 

 それは、約束のように聞こえた。

 

 士郎はその光景を見ていた。

 

 桜は震えている。

 

 それでも、自分で送り出している。

 

 ただ守られるだけではなく、守るために待つことを選んだ。

 

 士郎は、その強さを胸に刻む。

 

 凛が立ち上がった。

 

「行くわよ」

 

 出発するのは、士郎、セイバー、凛、アーチャー、そしてライダー。

 

 桜は衛宮邸に残る。

 

 それが今夜の作戦だった。

 

 セイバーは士郎の隣に立ち、アーチャーは少し離れて周囲を警戒している。凛は宝石の残りを確認しながら、いつもより真剣な顔をしていた。

 

 ライダーは庭の門へ向かう。

 

 その背中を、桜は見つめていた。

 

「先輩」

 

 桜が士郎を呼ぶ。

 

 士郎は振り返った。

 

「必ず、帰ってきてください」

 

「ああ」

 

「ライダーさんも、お願いします」

 

「任せてくれ」

 

 士郎はそう言ってから、ライダーを見た。

 

 白い神狼は、当然だと言わんばかりに尻尾を一度だけ振った。

 

 ◇

 

 夜の道を、士郎たちは柳洞寺へ向かった。

 

 前回とは違う。

 

 山門のアサシンはいない。

 

 それでも、気は抜けなかった。

 

 柳洞寺には、キャスターがいる。

 

 葛木宗一郎がいる。

 

 慎二がいる。

 

 そして、工房はまだ生きている。

 

 ライダーは士郎たちの少し前を歩いていた。

 

 白い毛並みは夜の中でも淡く浮かび上がる。神気は抑えられているはずだが、それでも周囲の空気が少しだけ澄んでいくように感じた。

 

 凛がその様子を見ながら、小さく言う。

 

「やっぱり、空気が変わるわね」

 

「ライダーがいると?」

 

「ええ。キャスターの湿った魔力と真逆。柳洞寺の工房に入れば、もっとはっきり出るはず」

 

 セイバーは静かに頷く。

 

「頼もしい味方です」

 

 ライダーは振り返らなかった。

 

 ただ、耳だけが少し動いた。

 

 やがて、柳洞寺の石段が見えてきた。

 

 夜の山は静かだった。

 

 だが、前回とは違う静けさだ。

 

 山門の上に、剣士の影はない。

 

 それでも、山全体を覆う結界の重さは残っている。

 

 柳洞寺という霊地そのものが、侵入者を見定めるように沈黙していた。

 

 士郎は石段の前で足を止める。

 

 前に来た時、ここへ一歩踏み入れた瞬間、セイバーの動きが重くなった。霊山の大結界がサーヴァントの力を抑え込んだ。

 

 今度は、ライダーがいる。

 

 白い神狼が石段の前へ進む。

 

 セイバーの時とは違う反応が起きた。

 

 山の空気が、ざわめいた。

 

 見えないはずの霊気が、ライダーの周囲で波打つ。柳洞寺の結界が、白い神狼を異物として拒んでいるようだった。

 

 だが、それだけではない。

 

 結界の奥。

 

 キャスターの工房へと続く湿った魔力が、ライダーの神気に触れることを嫌がるように、わずかに退いた。

 

 ライダーの背の神鏡が、月明かりではなく、内側から淡く輝いた。

 

 柔らかい光。

 

 けれど、闇を許さない光。

 

 ライダーは一歩、石段へ足を置いた。

 

 その瞬間、山の闇がわずかに退いた。

 

 凛が息を呑む。

 

「……効いてる」

 

 セイバーも、わずかに目を細めた。

 

「この霊山の圧力を、押し返している」

 

 士郎はライダーの背中を見た。

 

 白い神狼は、ただ静かに石段の上を見据えていた。

 

 その姿は、犬でも、獣でもなかった。

 

 桜が送り出した守護者。

 

 太陽の神威を背負う、白い荒神。

 

 柳洞寺の奥。

 

 闇の中で、キャスターが顔を上げた。

 

 紫の術式がかすかに震える。

 

 赤い糸が、熱に怯える蛇のように揺れた。

 

 キャスターの唇が、冷たく歪む。

 

「来たのね」

 

 その声には、嫌悪があった。

 

 そして、警戒があった。

 

「白い荒神」

 

 夜の柳洞寺で、次の戦いが始まろうとしていた。





次回、ライダー出陣!

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