Fate/Divine Brush──桜花浄界── 作:一般ガス会社社員
戦いは、次の一線で決まる。
そんな予感が、士郎の胸に重く沈んでいた。
柳洞寺の境内は、すでに前の姿を失いかけている。
石畳には
赤い糸が、本堂の奥へ伸びている。
その先に、慎二がいる。
外側にはキャスターの呪い。
内側には慎二自身の魔力の流れ。
その二つが、嫌になるほど複雑に絡み合っていた。
凛が宝石を握りしめる。
「士郎、見えてる?」
「ああ」
士郎は目を細めた。
凛の補助で、赤い糸の流れが見える。だが、見えるからといって簡単に切れるわけではない。むしろ、見えるからこそ分かってしまう。
下手に切れば、慎二まで壊れる。
ライダーの一閃は強すぎる。
輝玉はもっと駄目だ。工房の結び目を吹き飛ばすには有効でも、慎二の体や精神に食い込んだ糸へ使えば、救出ではなく破壊になる。
キャスターはそこを分かっていた。
分かった上で、慎二を盾にしている。
「どうしたの?」
キャスターが薄く笑う。
「さっきまでの勢いはどこへ行ったのかしら。白い荒神の光なら、私の糸など一瞬で消せるのでしょう?」
ライダーが低く唸った。
神鏡が淡く光る。
だが、前へ出ない。
出られない。
その先には慎二がいる。
士郎は拳を握った。
キャスターの挑発に乗れば終わる。
今までの自分なら、たぶん走っていた。慎二が苦しんでいるのを見て、考えるより先に体が動いていた。
だが、今は違う。
助けるために、走らない。
助けるために、止まる。
「遠坂」
「分かってる」
凛は短く答えた。
「士郎、あなたは流れを見る。慎二くん本人の魔力と、キャスターの糸を見分けて。私は結び目を解析する。ライダーは、私たちが指定した外側だけを祓う」
「
「……それが一番だと思ってた」
凛の声に、わずかな迷いが混じった。
「でも、キャスターが糸を編み直してる。さっきよりずっと複雑よ。筆でなぞってほどくには、工房の抵抗が強すぎる。無理に固定すれば、慎二くん側の流れまで巻き込む可能性がある」
つまり、筆しらべでも危険。
士郎はライダーを見る。
白い神狼は、慎二へ続く赤い糸をじっと見ていた。
その目には怒りがある。
だが、それ以上に、慎重な光があった。
壊すための力では救えない。
ライダーも、それを分かっている。
その時、葛木宗一郎が動いた。
足音はなく、気配もない。
ただ、次の瞬間には、凛の間合いへ入り込んでいる。
アーチャーが前へ出た。
干将・莫耶が交差し、葛木の拳を受ける。
衝撃。
アーチャーの腕が沈んだ。
キャスターが葛木への強化を濃くしている。紫の線が葛木の腕と脚に絡みつき、人間の拳とは思えない重さを生んでいた。
「アーチャー!」
「構うな!」
アーチャーは歯を食いしばるように言った。
「こちらは押さえる。お前たちは糸を見ろ」
セイバーも影の兵の群れへ踏み込んでいた。
不可視の剣が一閃するたび、黒い影が散る。だが、影の兵は工房の残った魔力から次々に湧き上がる。数で足を止め、士郎たちの集中を乱すための配置だった。
キャスターは逃げていない。
守っている。
慎二を縛る糸を。
そして、葛木を。
凛が舌打ちした。
「時間がない」
「見えてる。けど、切れる場所が少なすぎる」
士郎は慎二へ伸びる赤い糸を追う。
外側の糸を一本剥がせば、内側が締まる。右を切れば左が慎二に食い込む。まるで、助けようとする行為そのものを罠に変えるような構造だった。
キャスターが笑う。
「救いたいなら、丁寧に扱うしかない。けれど、丁寧に扱う時間を、私が与えると思う?」
赤い糸が震える。
本堂の奥で、慎二が苦しげに呻いた。
「慎二!」
士郎が叫ぶ。
返事はない。
だが、声は届いているはずだった。
前よりも、確かに慎二の意識は戻りかけている。
だからこそ、キャスターは今、慎二を奥へ下げずに、あえて見せている。
人質として。
餌として。
そして、士郎たちの判断を鈍らせる鎖として。
ライダーの神鏡が強く光った。
士郎は一瞬、筆しらべが来ると思った。
だが、違った。
鏡の光が、広がらない。
むしろ、収束していく。
背にある神鏡の輝きが、白い毛並みの上で細く、鋭く、一本の線へ変わっていく。これまで桜を守り、敵の攻撃を受け、穢れを祓ってきた鏡の光が、形を変え始めた。
凛が目を見開く。
「何……?」
アーチャーも葛木を受け止めながら、わずかに視線を向けた。
「神器を、切り替えたか」
「切り替えた?」
士郎が聞き返す。
「鏡は守り、祓うためのものだった。だが今、前に出たのは別の力だ」
白い光が、刃になる。
ライダーの背に、一振りの剣が現れていた。
剣、と呼ぶには異様だった。
人が手に持つには大きすぎる。
だが、獣の背に宿るには、あまりにも神々しい。
深い海のような蒼を湛えた刃。
鍔元には太陽の光を固めたような黄金の装飾が、雲を纏うように渦巻いている。
その刀身には、炎ではなく、静謐な力による冷たい輝きが走っている。
鏡が退き、剣が表へ出る。
守るための神威ではなく、断つための神威。
だが、ただ敵を斬るための剣ではない。
士郎には、なぜか分かった。
これは、斬るべきものを選ぶための剣だ。
ライダーが、一歩踏み出した。
キャスターの表情が変わる。
「今度は剣……? まだ隠していたというの」
ライダーは答えない。
ただ、背の剣が静かに光った。
赤い糸がライダーへ向かって伸びる。
先ほどより複雑に編まれた糸。筆しらべで世界を絵に固定することすら邪魔しようとする、キャスターの対策。
ライダーはそれに向かって走った。
筆は現れない。
世界も止まらない。
白い神狼が、現実の中を駆ける。
背の剣が光を引く。
その一閃が、赤い糸の外側だけを斬った。
糸が落ちる。
慎二へ繋がる内側の流れには触れていない。
凛が息を呑んだ。
「切り分けた……!」
キャスターの目が鋭くなる。
赤い糸をさらに編み直そうとする。
だが、ライダーの剣は早い。
筆しらべのように世界を固定してから干渉するのではない。現実の時間の中で、神域の刃が、不要な縁だけを断っていく。
アーチャーが葛木の拳を弾きながら言った。
「なるほど。ライダーの能力では危険なほど複雑な対象を、刃で直接選別しているのか」
凛が頷く。
「たぶん、そう。あの剣は慎二くんを斬ってない。キャスターの糸だけを、慎二から切り離してる」
士郎は赤い糸を見た。
確かに変わっている。
慎二へ食い込んでいた赤い糸の外側が、少しずつ剥がれている。切られているのではない。慎二から離されている。
剣が、慎二とキャスターの境目を作っている。
「いける……!」
士郎が言う。
だが、キャスターは笑った。
「本当に、そう思う?」
キャスターの声が低くなる。
「なら、思い出させてあげるわ。彼が何を望んで、何を憎んでいたのか」
赤い糸が、慎二の胸元で強く光った。
慎二の体がびくりと震える。
キャスターの言葉が、糸を通じて慎二へ入り込む。
「あなたは奪われたのでしょう。家の中での立場も、魔術師としての誇りも、妹に見せる顔も。何も知らない少年が、あなたの前に立ち、あなたが守れなかったものを守った」
「やめろ、キャスター!」
士郎が叫ぶ。
キャスターは止まらない。
「悔しかったのでしょう。憎かったのでしょう。自分には何もないと知りながら、それでも誰かの上に立ちたかった。だから、私の糸に手を伸ばした」
慎二の周囲の赤い糸が濃くなる。
さっきライダーが切り離したはずの糸が、慎二の内側から再び絡みつこうとしていた。
凛が顔を歪める。
「まずい……! 外から切っても戻ってる。慎二くん本人の感情を燃料にして、糸が内側へ食い込んでる!」
「じゃあ、どうすれば」
「慎二くん本人が拒まないと駄目。外から全部切っても、本人がそれを自分の力だと思っている限り、また繋がる!」
士郎は慎二を見た。
慎二は苦しそうに俯いている。
顔色は悪い。
体は赤い糸に支えられるように宙に浮き、意識も不安定だ。
だが、さっきよりも声は届くはずだった。
「慎二!」
士郎は叫んだ。
「聞こえてるんだろ!」
慎二の指がわずかに動いた。
「うる、さい……」
かすれた声。
けれど、慎二本人の声だった。
「何度も……呼ぶなよ……」
「呼ぶ。聞こえてるなら、何度でも呼ぶ」
「気持ち悪いんだよ……お前……」
「知ってる」
士郎は即答した。
凛が一瞬だけ目を丸くする。
慎二も、わずかに顔を上げた。
「俺は、お前を許すとか、許さないとか、今は分からない」
士郎は言った。
「お前が桜にしたことも、今までのことも、俺は全部分かってるわけじゃない。たぶん、分かってないことの方が多い」
慎二の口元が歪む。
「だったら……黙ってろよ……」
「でも、このままキャスターに使われて終わるのは違うだろ」
慎二の目が揺れた。
キャスターの表情が冷える。
「余計なことを」
赤い糸が士郎へ伸びる。
ライダーが割り込んだ。
背の剣が一閃し、糸を断つ。
士郎は続けた。
「桜を傷つけるための力なんか、お前のものじゃない」
「……っ」
「お前がどれだけ桜に腹を立ててても、遠坂に劣等感を持ってても、俺を嫌ってても、それはお前のものだ。でも、今お前を動かしてるその糸は違う」
慎二の呼吸が荒くなる。
赤い糸が揺れる。
「慎二。そんなものを、自分の力だって言うな」
士郎は一歩踏み出した。
「今ここで、あいつの糸を選ぶな」
柳洞寺の境内が静まり返った。
戦いの音は続いている。
セイバーが影の兵を斬り、アーチャーが葛木の拳を受け、凛が宝石を構えている。
それでも、その一瞬だけ、士郎には慎二の息遣いしか聞こえなかった。
慎二の顔が歪む。
怒り。
悔しさ。
惨めさ。
恐怖。
そして、ほんのわずかな拒絶。
「……こんなの」
慎二が呟いた。
赤い糸が震える。
「こんなの……僕の力じゃ、ない……」
その瞬間、慎二の内側に食い込んでいた赤い糸が緩んだ。
凛が叫ぶ。
「今!」
ライダーが駆けた。
背の剣が、太陽の光を帯びる。
キャスターが咄嗟に糸を締め直そうとする。
だが遅い。
慎二本人が拒んだ。
ほんの一瞬でも、糸を自分のものではないと認めた。
その隙間を、ライダーの剣が逃さなかった。
白い神狼が跳ぶ。
背の剣が弧を描く。
斬撃は慎二へ向かっているように見えた。
だが、士郎には見えた。
剣が狙っているのは慎二ではない。
慎二とキャスターの間にある赤い線。
慎二の魔力に偽装して絡みついていた、最後の支配線。
「断って、ライダー!」
凛が叫ぶ。
剣が走った。
一線。
それは、筆しらべの一閃とは違う。
世界に線を引くのではなく、現実に絡みついた縁を断つ刃。
赤い糸が、音もなく切れた。
慎二の体を縛っていた糸が、一斉に力を失う。
赤い光がほどけ、紫の魔力が霧のように散る。
慎二の体が落ちた。
「慎二!」
士郎が駆け出す。
今度は、ライダーは止めなかった。
士郎は慎二を受け止めるように膝をついた。
慎二は軽かった。
驚くほど軽い。
顔色は悪く、呼吸も荒い。だが、赤い糸はもう慎二の中に深く食い込んでいない。
凛がすぐに駆け寄り、慎二の腕に触れる。
「まだ残滓はある。でも、支配線は切れてる。大丈夫、命に別状はないわ」
士郎は息を吐いた。
慎二が薄く目を開ける。
「……何で」
「慎二?」
「何で……助けるんだよ……」
その声には、怒りがあった。
でも、力はなかった。
士郎は少しだけ黙った。
「俺にも、うまく説明できない」
「は……?」
「でも、桜が止めてほしいって言った。お前をキャスターに使わせたくないって思った。それに……」
士郎は慎二を見る。
「お前がこのまま終わるのは、違うと思った」
慎二は、ひどく嫌そうに顔を歪めた。
「……気持ち悪いんだよ、お前」
「ああ」
「ほんと……昔から……」
慎二はそこで目を閉じた。
意識を失ったのだろう。
士郎は慎二の呼吸を確認し、ほっと息を吐いた。
その直後、柳洞寺の工房が大きく軋んだ。
慎二を失ったことで、キャスターの術式が一気に崩れ始めている。
赤い糸が次々に切れ、影の兵が形を保てず消えていく。工房の一部はライダーの神気で削られ、輝玉で節を吹き飛ばされ、さらに慎二への支配線まで失った。もう、前と同じ形では維持できない。
キャスターは歯を食いしばっていた。
「私の工房を……ここまで……!」
ライダーが前へ出る。
背の剣が光る。
キャスターは後ろへ下がらない。
だが、その前に葛木が立った。
足音もなく。
気配もなく。
いつの間にか、キャスターとライダーの間にいた。
「宗一郎様……」
キャスターの声がわずかに揺れた。
葛木は表情を変えない。
「退くぞ」
「ですが」
「ここで続ける意味は薄い」
葛木は淡々と言った。
「人質は失った。工房も崩れている。今戦えば、こちらの損害が大きい」
キャスターは唇を噛む。
悔しさと怒りが、その顔に浮かんでいた。
だが、葛木を見る目だけは違った。
慎二を見る目とは違う。
道具を見る目ではない。
キャスターはしばらく黙り、それから小さく頷いた。
「……宗一郎様が、そう仰るなら」
凛が宝石を構える。
「逃がすと思う?」
アーチャーも双剣を構え直した。
セイバーが士郎と慎二の前に立つ。
ライダーは剣を背負ったまま、葛木を見据えている。
だが、葛木は動じない。
キャスターが手を上げた。
崩れかけの工房から、最後の赤い糸が吹き上がる。
攻撃ではない。
煙幕。
紫の霧が境内を包んだ。
凛が叫ぶ。
「アーチャー!」
「撃てん。視界だけではない、空間ごとずらしている」
霧が晴れた時、キャスターと葛木の姿は消えていた。
残ったのは、崩れた術式の残滓と、赤い糸の切れ端だけだった。
凛は悔しそうに息を吐いた。
「逃げられた」
「でも、慎二は助けた」
士郎は言った。
腕の中で、慎二はぐったりしている。
セイバーが静かに頷く。
「はい。今はそれが最優先です」
アーチャーも周囲を見渡す。
「キャスターは工房を失ったわけではないが、かなり削られた。次に同じ規模で仕掛けるには時間がかかるだろう」
ライダーの背の剣が、ゆっくりと光を弱める。
剣は白い粒子となって薄れ、再び神鏡の輝きが背に戻った。
守りの鏡。
祓いの神気。
だが、士郎は今見た剣の光を忘れられなかった。
ただ斬るためではない。
救うために断つ剣。
その一線が、慎二をキャスターから切り離した。
凛が慎二の状態を確認しながら言う。
「急いで帰るわ。ここに長居する理由はない」
「うちに連れていくのか」
士郎が聞く。
凛は一瞬だけ黙った。
「……桜がいる」
「ああ」
「慎二くんをいきなり会わせるのは危険よ。桜にも、慎二くんにも」
「分かってる」
「でも、他に安全な場所もない。私の家に運ぶ手もあるけど、キャスターの残滓を落とすにはライダーの神気がある衛宮邸の方がいい」
凛は士郎を見た。
「ただし、会うかどうかは桜が決める。私たちが押しつけることじゃない」
「分かってる」
士郎は慎二を背負った。
慎二は意識を失ったままだった。
軽い。
それが、士郎の胸に妙に重く残った。
◇
衛宮邸へ戻る頃には、夜は深くなっていた。
庭には、ライダーが残していった神気がまだ満ちている。凛の結界も反応していない。桜は無事だ。
士郎は門をくぐる前に、少しだけ足を止めた。
背中には慎二がいる。
家の中には桜がいる。
この二人を会わせることが、正しいのかどうか。
士郎には分からなかった。
でも、隠しておくことも違う。
縁側の明かりがついている。
桜は起きていた。
茶の間から出てきた桜は、士郎たちの姿を見て、最初はほっとした顔をした。
だが、次の瞬間、動きを止めた。
士郎の背にいる人物に気づいたのだ。
「……兄さん」
声が震えた。
ライダーが桜の前へ出た。
守るように。
だが、桜はライダーの背に隠れなかった。
ただ、慎二を見ていた。
士郎は慎二を座敷の端へ慎重に下ろす。凛がすぐに状態を確認し、残った呪いの気配が広がらないように簡単な処置を施した。
「桜」
士郎は静かに言った。
「慎二は助けた。キャスターの支配線は切った。でも、まだ弱ってる。目が覚めても、すぐに話せるかは分からない」
桜は何も言わない。
ただ、慎二を見ている。
「会うかどうかは、桜が決めていい」
士郎は続けた。
「無理に会わなくていい。今は顔も見たくないなら、それでいい。誰も責めない」
凛も頷く。
「そうよ。これはあなたが決めること」
桜の手が震えていた。
怖いのだろう。
当然だ。
兄。
加害者。
家族。
被害者。
そのどれか一つの言葉では片づけられない相手が、目の前で眠っている。
ライダーが静かに桜を見る。
白い神狼の神鏡が、柔らかく光った。
桜はその光を見て、小さく息を吸った。
そして、一歩だけ前に出た。
逃げるような足ではなかった。
けれど、迷いのない足でもない。
震えながら、それでも自分で選んだ一歩だった。
桜は慎二の前で立ち止まる。
しばらく、何も言わなかった。
士郎も、凛も、セイバーも、アーチャーも、何も言わない。
ライダーだけが、桜のすぐそばにいた。
やがて、桜は小さく口を開いた。
「……兄さん」
その声は、夜の衛宮邸に静かに落ちた。
慎二救出!
皆様の感想をお待ちしております!