Fate/Divine Brush──桜花浄界── 作:一般ガス会社社員
桜の声は、夜の衛宮邸に静かに落ちた。
「……兄さん」
その一言の後、茶の間には誰の声もなかった。
慎二は座敷の端に寝かされている。顔色は悪く、呼吸も浅い。キャスターの糸から切り離されたばかりの体には、まだ赤い魔力の残滓が薄くまとわりついていた。凛が応急処置として簡易の結界を張り、ライダーの神気がそれを外側から包んでいる。
危険は、ひとまず去った。
だが、安心できる空気ではなかった。
士郎は座ったまま、桜を見ていた。
桜は慎二の前に立っている。
すぐそばにはライダーがいる。白い神狼は桜を隠すのではなく、ただ寄り添うように立っていた。桜が一歩下がれば守れる位置。桜が一歩前に出れば、すぐ隣で支えられる位置。
桜の手は震えていた。
けれど、目を逸らしてはいなかった。
「本当に……助かったんですね」
桜が小さく言った。
「ああ」
士郎は答える。
「キャスターの糸は切った。まだ完全に安全とは言えないけど、もう操られてはいないって遠坂が」
「ええ」
凛が頷いた。
「支配線は切れてる。残滓はあるけど、それはライダーの神気でゆっくり落とせると思う。今すぐ誰かを傷つける状態ではないわ」
桜は慎二を見下ろしたまま、少しだけ唇を噛んだ。
「よかったって、思っています」
その声は震えていた。
「でも、怖いとも思っています」
誰もすぐには返事をしなかった。
それは矛盾ではない。
助かってよかった。
でも、怖い。
その二つは、同時にあっていいものなのだと、士郎は思った。
けれど、それを言葉にするのは難しかった。
凛も、セイバーも、アーチャーも黙っている。
ライダーだけが、桜の指先に鼻先をそっと寄せた。
桜はその毛並みに触れる。
「変、ですよね」
「変じゃないわ」
凛が即座に言った。
桜が顔を上げる。
凛は、いつもの強気な顔をしていた。けれど、その声は少しだけ柔らかかった。
「怖い相手が助かって、よかったと思うことは変じゃない。助かってよかったと思っても、すぐに怖くなくなるわけじゃない。それだけよ」
「遠坂先輩……」
「だから、無理に近づかなくていい。今ここで何か言わなきゃいけないわけでもない」
凛は慎二を見る。
「慎二くんは助けた。でも、それは桜が何かを許さなきゃいけないって意味じゃない」
その言葉に、桜の肩が少しだけ揺れた。
慎二が小さく呻いたのは、その時だった。
士郎は身を乗り出す。
「慎二?」
慎二のまぶたが動く。
ゆっくりと目が開いた。
最初、その目は焦点が合っていなかった。天井を見上げ、何度か瞬きをする。ここがどこなのか分かっていない顔だった。
「……ここ、どこだよ」
かすれた声。
慎二らしい、尖った言い方のはずなのに、ひどく弱々しかった。
「俺の家だ」
士郎が答える。
慎二は目だけを動かして、士郎を見た。
そして、心底嫌そうに顔を歪める。
「最悪だ……」
「助けてもらって第一声がそれ?」
凛が呆れた声を出す。
慎二は凛の方を見ようとしたが、体がうまく動かないらしい。少し顔を動かしただけで、苦しそうに眉を寄せた。
「遠坂……」
「動かない方がいいわよ。体に残った魔力が滅茶苦茶になってる。下手に動くと倒れるわ」
「誰のせいで……」
「キャスターのせいでしょ」
凛は冷たく言った。
「あと、そんなものに手を伸ばしたあなた自身のせいでもある」
慎二は口を閉じた。
言い返そうとしたのかもしれない。
だが、言葉は出なかった。
その視線が、ゆっくりと横へ動く。
そして、桜を見つけた。
慎二の顔が固まった。
桜も動かなかった。
茶の間の空気がさらに重くなる。
「……桜」
慎二が呟く。
桜の指が震える。
ライダーが一歩、静かに前へ出た。
慎二と桜の間に、わずかに立つ。
それだけだった。
吠えもしない。
唸りもしない。
だが、その白い神狼がそこにいるだけで、慎二はそれ以上言葉を強くできなくなった。
「何で……いるんだよ」
慎二の声には、怒りよりも混乱があった。
桜は深く息を吸った。
士郎は思わず口を開きかける。
だが、桜は自分で答えた。
「ここは、私が今いる場所です」
慎二の目が揺れた。
その言葉は、たぶん慎二にとって予想外だった。
桜が、自分の居場所を自分で言った。
それだけのことが、慎二の表情を変えた。
「……衛宮の家が?」
「はい」
「何だよ、それ」
慎二は笑おうとした。
でも、うまく笑えなかった。
「桜まで、そんな顔して……僕を見るなよ」
桜は俯きかけた。
けれど、そこで止まった。
ライダーの毛並みに触れていた指に、少しだけ力が入る。
桜はもう一度、慎二を見た。
「兄さん」
声は小さい。
でも、逃げてはいなかった。
「私は、兄さんが怖いです」
慎二の表情が止まった。
士郎も、凛も、何も言わない。
桜は続けた。
「今でも怖いです。名前を聞くだけで、体が動かなくなることがあります。顔を見ると、どうしていいか分からなくなります」
「……」
「でも、キャスターさんに使われたままでいてほしいとは思いませんでした」
慎二は、何も言えなかった。
桜の声は震えていた。
だが、一つ一つ、自分の言葉で話している。
「兄さんが誰かを傷つけ続けるのは嫌でした。学校を巻き込むのも、先輩たちを傷つけるのも、嫌でした。だから、止まってほしいと思いました」
「怖い、ね……」
慎二がかすかに笑った。
その笑いには、いつものような嘲りがない。
ただ、ひどく乾いていた。
「そりゃ、そうか」
桜の目が少しだけ揺れる。
慎二は天井を見る。
「僕は……お前に、何を言えばいいんだよ」
その声は、ひどく弱かった。
謝罪ではなかった。
でも、開き直りでもなかった。
何を言えばいいのか分からない。
その言葉が、今の慎二に出せる精一杯なのだと、士郎には感じられた。
凛が静かに口を開いた。
「慎二くん」
慎二は視線だけを凛へ向ける。
「あなたを助けたのは、桜のためでもある。でも、だからといって、あなたが桜に近づく権利を取り戻したわけじゃない」
慎二の顔がわずかに歪む。
凛は続ける。
「桜が会いたくないと言ったら、あなたは会えない。話したくないと言ったら、話せない。今後どうするかは、あなたじゃなくて桜が決める」
「遠坂、お前……」
「何?」
凛の声は冷たかった。
「何か文句があるなら聞くけど」
慎二は黙った。
たぶん、いつもなら言い返していた。
だが、今は違う。
凛がいる。
士郎がいる。
セイバーがいる。
アーチャーがいる。
そして、何よりライダーが桜のそばにいる。
慎二はもう、桜を一方的に見下ろせる場所にいない。
その事実が、彼にも分かったのだろう。
士郎は慎二を見る。
「慎二」
「……何だよ」
「俺はお前を助けた。でも、桜とのことは俺が決めることじゃない」
慎二が士郎を睨む。
力のない目だった。
「じゃあ、何で助けたんだよ」
「キャスターに使われたまま終わるのは違うと思った」
士郎は正直に言った。
「それだけだ」
「それだけで、あそこまで来たのかよ」
「ああ」
「馬鹿じゃないのか」
「かもな」
慎二は疲れたように目を閉じた。
「ほんと……気持ち悪いんだよ、お前……」
その言葉には、もう棘はほとんどなかった。
あるのは、疲れと、混乱と、少しの悔しさだけだった。
ライダーが慎二をじっと見ている。
慎二はそれに気づき、目を開けた。
「……あの時の犬か」
ライダーの耳がぴくりと動く。
士郎は少しだけ顔を引きつらせた。
「慎二、それはたぶん言い方が」
ライダーは唸らなかった。
ただ、じっと慎二を見る。
慎二はその視線に耐えきれず、目を逸らした。
「……犬じゃ、ないんだろ」
かすれた声で言う。
「キャスターも、そう言ってた。あれには近づくなって」
ライダーの神鏡が淡く光る。
慎二は苦い顔をした。
「僕は、あれを相手に桜を連れ戻そうとしてたのかよ」
自嘲。
それに近い響きだった。
誰も笑わなかった。
凛が立ち上がる。
「今夜のことを決めるわ」
全員の視線が凛へ向く。
「慎二くんは一晩ここで保護する。キャスターの残滓が残ってる以上、外に出すのは危険。教会に預けるのも論外。私の家でも処置はできるけど、今はライダーの神気があるこの家が一番安全よ」
「ここに置くのか」
士郎が聞く。
「ただし、桜とは完全に部屋を分ける」
凛ははっきり言った。
「慎二くんは別室。結界を張る。私とアーチャーが監視する。ライダーの神気も届くようにしておくけど、桜の部屋には絶対に近づかせない」
慎二が顔をしかめる。
「僕は囚人かよ」
「そう思ってもらって結構」
凛は即答した。
「今のあなたは保護対象であると同時に、キャスターの術式の残滓を持ち込んだ危険物でもあるの。文句を言える立場じゃないわ」
「……最悪だ」
「二回目ね、それ」
凛はため息をつく。
桜は黙って聞いていた。
士郎は桜を見る。
「桜、それでいいか」
桜は少しだけ考えた。
それから、頷いた。
「はい」
声は小さい。
でも、自分で決めた返事だった。
「兄さんがこの家にいるのは怖いです。でも、ライダーさんがいてくれるなら……それに、部屋を分けてもらえるなら、大丈夫だと思います」
「無理はしないで」
凛が言う。
「途中で嫌になったら、すぐ言いなさい」
「はい」
ライダーが桜の手に鼻先を寄せる。
桜はその毛並みを撫でた。
慎二はそれを黙って見ていた。
その目に何があったのか、士郎には分からなかった。
嫉妬かもしれない。
諦めかもしれない。
悔しさかもしれない。
ただ、少なくとも今の慎二は、そこへ割り込もうとはしなかった。
凛とアーチャーが慎二を別室へ運ぶ準備を始める。
慎二はほとんど動けなかった。
士郎が手を貸そうとすると、慎二は嫌そうに顔を歪めたが、拒む力もないらしい。
「触るなって言いたいところだけどな」
「言うだけにしとけ」
「……本当に腹立つ」
士郎は慎二を支えながら、廊下へ向かった。
その背中を、桜は見送っていた。
声はかけなかった。
慎二も振り返らなかった。
ただ、すれ違う瞬間に、ほんの一瞬だけ慎二の視線が桜の方へ動いた。
桜は目を逸らさなかった。
それだけで、十分だった。
◇
柳洞寺の夜は、まだ終わっていなかった。
本堂の奥、崩れかけた工房の中で、キャスターは立っていた。
赤い糸の多くは切られた。
慎二は奪われた。
山門を守っていたアサシンも失った。
工房の外周はライダーの輝玉によって抉られ、いくつかの術式は修復不能なほど神気に焼かれている。
それでも、キャスターは倒れていない。
紫の光が、柱の影で細く揺れている。
彼女はその光を見つめていた。
怒りはある。
屈辱もある。
だが、それ以上に、あの白い神狼への嫌悪が胸の奥で燃えていた。
「あれは……本当に不快ね」
キャスターが呟く。
「神気で術式を祓うだけならまだしも、世界を絵として扱い、最後には神器まで切り替える。あれほど雑で、あれほど原始的で、それでいて私の術に届く」
その声は冷たい。
だが、わずかに揺れていた。
葛木宗一郎は、少し離れた場所に立っている。
いつも通り無表情だった。
工房の損傷にも、慎二を失ったことにも、怒りを見せない。
ただ、そこにいる。
「宗一郎様」
キャスターは振り返る。
「申し訳ありません。人質を失いました」
「生きているなら、次を考えればいい」
葛木は淡々と言った。
その言葉に、キャスターは一瞬だけ目を伏せた。
慰めではない。
葛木は慰めるつもりで言ったのではないだろう。
それでも、キャスターにとっては十分だった。
「……はい」
彼女は静かに頷く。
「ですが、正面からあの白い荒神を相手にするのは愚かですね。私の術式は、あの神気と相性が悪すぎる」
「ならば、正面から相手にしなければいい」
「ええ」
キャスターの目が細くなる。
怒りが、思考へ変わっていく。
「太陽が届く場所で戦う必要はありません。ならば、太陽が届かない場所を作ればいい」
工房の奥で、紫の光が再び揺れた。
「慎二くんは失いました。ですが、まだ手はある。あの屋敷の中に踏み込めないなら、外へ出た瞬間を狙えばいい。あるいは、彼らが守らずにはいられないものを作ればいい」
葛木は何も言わない。
キャスターは静かに笑った。
その笑みには、まだ魔女の冷たさがあった。
「次は、もっと深く沈めましょう。光が届かない底まで」
柳洞寺の夜に、紫の魔力が細く広がっていく。
魔女は敗れたわけではない。
ただ、一つの糸を失っただけだった。
◇
慎二は、衛宮邸の奥の部屋に寝かされた。
部屋の入口には凛の結界が張られ、窓際にはアーチャーの監視がついている。さらに、ライダーの神気が部屋の外周を薄く包んでいた。赤い糸の残滓が外へ漏れ出そうとすれば、すぐに焼かれる。
慎二は眠っているように見えた。
だが、完全には眠れていなかった。
体は重い。
頭も痛い。
目を閉じると、赤い糸が見える。
キャスターの声が聞こえる。
衛宮の声も聞こえる。
桜の声も。
私は、兄さんが怖いです。
その言葉が、頭から離れなかった。
慎二は天井を見た。
衛宮の家の天井。
何度か来たことのある家。
以前は、ただのお人好しの家だと思っていた。
今は違う。
自分が戻れない場所になっていた。
「怖い、か」
慎二は小さく呟いた。
その声は誰にも届かなかった。
怒りはあった。
悔しさもあった。
惨めさもあった。
だが、それらの下に、別のものが沈んでいる。
自分が何をしたのか。
桜が自分をどう見ているのか。
それを、今さら理解し始めている。
慎二は目を閉じた。
眠りは浅かった。
それでも、キャスターの糸に引かれる感覚は、もうなかった。
◇
縁側では、桜がライダーの隣に座っていた。
夜の庭は静かだった。
月明かりが庭石に落ち、縁側の木目を淡く照らしている。ライダーの背の神鏡には、夜空が映っていた。
桜は、しばらく何も言わなかった。
ライダーも何も言わない。
ただ、白い神狼の体温がすぐ隣にある。
それだけで、桜は少し呼吸がしやすかった。
「兄さんが助かって、よかったと思います」
桜はぽつりと言った。
「本当に、そう思っているんです」
ライダーは静かに桜を見る。
「でも、怖いです」
桜の声が小さくなる。
「同じ家にいると思うと、体が少し震えます。声が聞こえたらどうしようって思います。起きて、前みたいに私を呼んだらって……そう考えてしまいます」
ライダーが桜の手に鼻先を寄せた。
桜はその鼻先に触れる。
「この気持ちは、変ですか」
ライダーは何も言わない。
ただ、尻尾を一度だけ静かに振った。
桜は少しだけ目を細めた。
「変じゃない、って言ってくれているんですか?」
ライダーはもう一度、尻尾を振った。
桜は、小さく笑った。
泣きそうな笑顔だった。
「ありがとうございます」
桜はライダーの毛並みに額を寄せる。
「私は、兄さんを許せるか分かりません」
夜の空気に、その言葉が溶けていく。
「でも、今はそれでいいんですよね」
ライダーの神鏡が淡く光る。
答えの代わりのように、柔らかな光が桜を包んだ。
桜は目を閉じる。
兄は助かった。
けれど、全てが戻ったわけではない。
むしろ、もう昔には戻れない。
それでも、ここには今の居場所がある。
隣には白い神狼がいる。
怖いままでいい。
許せないままでもいい。
そのまま、少しずつ前へ進めばいい。
桜は静かに息を吐いた。
夜の衛宮邸は、まだ眠らない。
それでも、庭に満ちる神気は穏やかだった。
兄妹の距離は、まだ遠い。
けれど、初めてその距離を、自分の足で測る夜が来ていた。
慎二くん……
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