Fate/Divine Brush──桜花浄界── 作:一般ガス会社社員
第26話 狙われた剣
朝の衛宮邸は、いつもより静かだった。
台所から味噌汁の匂いがする。炊飯器からは湯気が上がり、庭には朝日が差し込んでいる。縁側の近くでは、白い神狼が伏せていた。背の神鏡には、淡い朝の空が映っている。
いつもと同じ朝のはずだった。
けれど、空気は違っていた。
衛宮邸の奥の部屋には、慎二がいる。
その事実だけで、家の中の空気が少し重くなっていた。
士郎は味噌汁をよそいながら、ふと廊下の奥を見る。
慎二はまだ起きていない。凛が張った結界と、ライダーの神気が部屋を包んでいる。アーチャーは姿を見せていないが、近くで見張っているらしい。
敵ではなくなった。
少なくとも、今はキャスターに操られていない。
だが、ただの客でもない。
慎二は、保護された危険人物だった。
「士郎、手が止まってる」
凛の声で、士郎は我に返った。
「あ、悪い」
「考え込むのは分かるけど、味噌汁こぼすわよ」
「分かってる」
士郎は椀を並べる。
茶の間には、凛、セイバー、桜が座っていた。桜はいつもより少し顔色が悪い。それでも、自分の席にはちゃんと座っている。ライダーは縁側から桜の様子を見ていた。
慎二がこの家にいる。
桜にとって、それがどれだけ重いことなのか、士郎には完全には分からない。
分からないからこそ、勝手に大丈夫だとは言えなかった。
「桜」
士郎は声をかける。
「大丈夫か」
桜は少しだけ目を伏せた。
「大丈夫、とは言い切れません。でも……ここにいます」
短い答えだった。
それだけで十分だった。
凛が湯呑みに手を添えながら言う。
「慎二くんの状態だけど、命に別状はないわ。ただ、キャスターの術式の残滓がまだ残ってる。しばらくは監視が必要」
「また操られる可能性があるのか?」
士郎が聞く。
「すぐに同じ支配線を繋ぎ直すのは難しいと思う。ライダーが断った線はかなり深い部分まで切れてるし、この家には神気が満ちているから」
凛はそこで少し表情を険しくした。
「でも、完全に安心はできない。キャスターが慎二くんをもう一度利用しようとする可能性はある。少なくとも、桜やあなたを揺さぶる材料としては使えるから」
桜の指が、膝の上で小さく動いた。
ライダーが静かに立ち上がり、桜のそばへ来る。
桜は白い毛並みに触れた。
「私は……まだ、すぐに話すのは難しいです」
「うん」
士郎は頷いた。
「無理しなくていい」
凛も頷く。
「そう。慎二くんがこの家にいるからって、桜が会わなきゃいけないわけじゃない。昨日も言ったけど、決めるのは桜よ」
「はい」
桜は小さく返事をした。
セイバーは静かに士郎を見た。
「マスター。今日は学校へ行くのですか」
士郎は一瞬、言葉に詰まった。
正直に言えば、行きたくない。
慎二はこの家にいる。桜もいる。ライダーがいるとはいえ、キャスターが何か仕掛けてくる可能性もある。
だが、学校には葛木がいる。
敵でありながら、教師として日常に紛れている男。
その動きを見ないわけにもいかない。
凛が先に言った。
「学校には行くわ」
「遠坂」
「全員が休めば、葛木先生にこちらの警戒を悟られる。そもそも、学校はまだ危険な場所よ。大規模な結界は潰したけど、葛木先生が普通にいる以上、情報を取る必要がある」
「でも、桜と慎二は」
「ライダーが残る」
凛は縁側の白い神狼を見る。
「衛宮邸の守りは、今の私たちの中でライダーが一番向いている。キャスターもそれは分かってるはず。少なくとも、正面からここへ手を出すのは避けると思う」
ライダーは凛をじっと見た。
それから、短く鼻を鳴らした。
任せろ、と言っているようだった。
桜はライダーを見る。
「ライダーさん……お願いします」
白い神狼は桜の手に鼻先を寄せる。
その光景を見て、士郎は少しだけ息を吐いた。
頼るしかない。
守るために、全員で同じ場所にいることだけが正解ではない。
「分かった。学校に行こう」
「ただし」
凛が士郎を指差した。
「今日は絶対に単独行動禁止。トイレすら怪しいと思ったら誰かに言いなさい」
「そこまでか」
「そこまでよ」
凛は真顔だった。
「キャスターは慎二くんを失った。次に何を狙うか分からない。昨日までの敵が、今日も同じ手を使うとは限らないわ」
士郎は頷く。
「分かった」
セイバーも真剣な顔で頷いた。
「私もマスターのそばを離れません」
凛はセイバーを見る。
「学校ではいつも通り旧校舎の空き部屋。人払いは私が強めにかける。昼休みに状況確認。放課後は一緒に帰る。いい?」
「承知しました」
作戦というほど大きなものではない。
それでも、今日を過ごすためには必要な取り決めだった。
朝食が終わる頃、奥の部屋から小さな物音がした。
慎二が起きたらしい。
桜の肩が少し跳ねる。
ライダーがすぐに桜の前に立った。
「俺が見てくる」
士郎が立ち上がろうとすると、凛が手で制した。
「私が行くわ。アーチャーもいる」
「でも」
「あなたが行くと話がこじれる」
士郎は反論できなかった。
「……頼む」
凛は軽く頷き、廊下へ出ていった。
◇
慎二は布団の上で体を起こしかけていた。
だが、うまく動けず、肘をついたまま顔をしかめている。
「無理に起きない方がいいわよ」
凛が部屋に入ると、慎二は嫌そうに顔を向けた。
「遠坂……」
「おはよう。最悪の朝でしょうけど、残念ながら生きてるわよ」
「皮肉を言いに来たのかよ」
「状態確認よ」
凛は慎二の近くへ座り、結界の反応を見る。
赤い魔力の残滓は薄くなっていた。ライダーの神気がゆっくりと焼いているのだろう。とはいえ、完全に消えたわけではない。
「まだ少し残ってるわね」
「何が」
「キャスターの術式の残りカス」
慎二の顔がわずかに歪んだ。
その名前を聞くだけで、体が反応するのだろう。
凛は淡々と言った。
「あなたは助かった。でも自由になったわけじゃない。キャスターがあなたをもう一度利用しようとする可能性はある」
慎二は薄く笑った。
「僕にまだ価値があるって?」
「あるわよ」
凛は即答した。
「少なくとも、桜や士郎を揺さぶる材料としてはね」
慎二の笑みが消えた。
「……お前、ほんと容赦ないな」
「容赦する理由がないもの」
凛は結界を調整しながら続ける。
「いい? 今夜まではここで保護する。部屋から勝手に出ないこと。桜の部屋には近づかないこと。キャスターに関する記憶が戻ったら、どんな些細なことでも話すこと」
「命令かよ」
「命令よ」
凛は慎二を見る。
「あなたには選択肢が少ない。けど、ゼロじゃない。少なくとも、またキャスターの糸に戻りたいかどうかは自分で選べる」
慎二は何も言わなかった。
視線を逸らし、天井を見る。
「……桜は」
「会いたくないなら会わない。会うかどうかは桜が決める」
「そうかよ」
短い返事。
その声が何を意味するのか、凛には分からなかった。
ただ、昨日よりは少しだけ弱い声だった。
凛は立ち上がる。
「学校へ行ってくる。アーチャーが監視してるから、変なことは考えないことね」
「監視ね……ほんと囚人扱いだな」
「似たようなものよ」
慎二は何も言い返さなかった。
凛が部屋を出る直前、慎二が小さく呟いた。
「怖い、か」
凛は足を止めた。
慎二は天井を見たままだった。
「何でもない」
「そう」
凛はそれ以上は聞かなかった。
聞くべきではないと思った。
◇
学校は、いつも通りだった。
それが、士郎にはひどく気持ち悪かった。
校門をくぐる生徒たち。
友人同士の会話。
朝の挨拶。
教師の姿。
少し前まで、この学校はキャスターの結界に絡め取られ、慎二の暴走に利用されていた。昨日の夜には、その背後にいたキャスターと葛木宗一郎と戦った。
だが、表の世界は何も知らない。
学校は学校の顔をしている。
士郎の隣にはセイバーがいた。
人目につかないよう、すぐに旧校舎側へ向かう予定だった。凛も少し離れた場所から登校している。いつも通りの優等生の顔をしていた。
凛と視線が合う。
凛は小さく頷いた。
警戒継続。
それだけで伝わった。
「マスター」
セイバーが低く言う。
「今日の校内に、大きな結界の気配はありません」
「そうか」
「ですが、警戒は必要です」
「ああ」
士郎は旧校舎へ向かいながら、廊下の空気を確認する。
赤い糸は見えない。
少なくとも、学校全体を覆うようなものはない。
それでも安心はできなかった。
敵は、学校そのものだけではない。
葛木宗一郎がいる。
日常の顔をした敵が、教壇に立っている。
セイバーをいつもの空き部屋へ案内し、凛の人払いを確認する。
「昼休みに来る」
「はい。マスターもお気をつけて」
「分かってる」
セイバーの目が少し細くなる。
「本当に?」
「本当にだ」
少し前にも、同じような会話をした気がする。
士郎は苦笑しそうになったが、今日は笑えなかった。
教室に戻ると、いつも通りの授業が始まった。
そして、世界史の時間。
葛木宗一郎が教室に入ってきた。
淡々とした足取り。
無駄のない姿勢。
手には教科書と出席簿。
黒板の前に立つその姿は、どう見ても穂群原学園の教師だった。
昨夜、柳洞寺でキャスターの隣に立っていた男と同じ人物だとは、とても思えない。
いや、同じ人物だからこそ不気味だった。
「前回の続きから始める」
葛木の声はいつもと変わらない。
無駄な抑揚がなく、淡々としている。
チョークが黒板に走る。
文字は整っていた。
授業も普通だった。
誰も違和感を抱いていない。
一成が真面目にノートを取り、近くの生徒が眠そうにしている。美綴が小さく欠伸を噛み殺し、教師の声だけが教室に響く。
士郎は、葛木の手を見た。
あの手が、昨夜アーチャーの双剣をすり抜けるように伸びた。
あの拳が、ライダーの神鏡に当たった。
もしライダーがいなければ、凛も、自分も、簡単に倒されていたかもしれない。
だが今、その手はチョークを持っている。
人を殺すためではなく、黒板に文字を書くために動いている。
それが、何より怖かった。
「衛宮」
葛木の声がした。
士郎は一瞬遅れて顔を上げる。
「はい」
「今の部分を読め」
「あ、はい」
教科書を開き、指定された箇所を読む。
声が少し硬くなっていた。
葛木は何も言わない。
ただ、いつものように授業を続ける。
特別な視線もない。
警告もない。
敵意もない。
それが逆に、士郎の背筋を冷たくした。
授業が終わると、一成が葛木へ質問に行った。
葛木はいつも通り簡潔に答えている。
一成は真剣に頷いている。
士郎はその光景を見て、胸の中に重いものを感じた。
一成は知らない。
目の前の教師が、昨夜どこにいたのかを。
何をしていたのかを。
そして自分たちは、それを言えない。
凛が廊下の向こうで士郎を見た。
その目は、同じものを見ている目だった。
日常に戻った敵。
それが、一番厄介だった。
◇
昼休み。
士郎は弁当を持って旧校舎の空き部屋へ向かった。
凛はすでに来ていた。
セイバーも立っている。
今日は弁当の時間というより、作戦会議の空気だった。
「葛木先生、普通だったわね」
凛が言う。
「ああ。普通すぎて気持ち悪かった」
「同感」
凛はため息をつく。
「大規模な結界はない。少なくとも、今の学校にはね。でも、葛木先生がいる限り、ここが安全とは言えない」
セイバーが静かに言う。
「葛木宗一郎は、ただの教師として振る舞っていました。ですが、昨夜の動きを見る限り、彼の危険度は高い」
「あいつ、人間なんだよな」
士郎が呟く。
「ええ。サーヴァントじゃない。だけど、キャスターの強化と本人の技術が合わさると、普通の魔術師どころかサーヴァントにも届く」
凛はセイバーを見た。
「セイバー、体調は?」
「戦闘に支障はありません」
「そう言うと思った」
凛は眉を寄せる。
「でも、万全じゃないわよね」
セイバーは少しだけ黙った。
「……昨日までの連戦で消耗はあります。アサシンとの戦闘、柳洞寺での工房戦。その上、マスターからの魔力供給はまだ安定していません」
士郎は唇を噛んだ。
「俺のせいか」
「マスターだけのせいではありません」
セイバーはすぐに言った。
「私自身も、まだこの時代の戦いに完全に適応できているわけではありません。それに、柳洞寺の結界は私の力を削っていました」
「でも、契約面で脆いのは事実よ」
凛は容赦なく言った。
士郎は顔を上げる。
「契約面?」
「あなたとセイバーのパスは細い。魔力供給も不安定。セイバー本人は強いけど、マスターとの繋がりは強固とは言えない」
「それは、どうすれば」
「訓練するしかない。でも今すぐ完璧にはならない」
凛は真剣な目で士郎を見る。
「そこをキャスターが見逃すと思う?」
士郎は言葉に詰まった。
キャスターは慎二を利用した。
学校を使った。
葛木を日常の中に置いている。
そんな相手が、セイバーと士郎の契約の弱さを見逃すだろうか。
「セイバーを狙うってことか」
「可能性はある」
凛は頷いた。
「キャスターにとって一番厄介なのはライダー。でも、ライダーを奪うのは無理に近い。あれは契約で縛られた普通の英霊というより、桜を中心に神域を作ってる存在に近いから」
セイバーが続ける。
「ならば、私を狙う」
「ええ」
凛は頷く。
「セイバーを倒すか、封じるか、奪うか。どの方法かは分からないけど、次に狙われる可能性は高い」
士郎は拳を握る。
セイバーを奪われる。
その想像だけで、胸の奥が冷えた。
教会で契約を知った時よりも、ずっと具体的な恐怖だった。
セイバーは士郎を見る。
「マスター。私は簡単に奪われるつもりはありません」
「ああ」
「ですが、凛の指摘は正しい。警戒すべきです」
士郎は頷いた。
「分かった。今日は一緒に帰ろう。絶対に離れない」
「はい」
凛は弁当を一口食べてから、低く言った。
「放課後、念のため三人で帰るわ。アーチャーも周囲を見張る。ライダーは衛宮邸から動かさない。桜と慎二くんの守りが優先」
「キャスターがそれを狙ってくるかもしれないんだよな」
「ええ。戦力を分けさせる。それだけでも敵には意味がある」
旧校舎の窓の外には、昼の校庭が見えていた。
何も知らない生徒たちが笑っている。
その普通の光景が、今はひどく遠く見えた。
◇
柳洞寺では、紫の光が本堂の奥で揺れていた。
キャスターは、崩れた工房の一部を修復している。
前夜の戦いで受けた損傷は大きい。ライダーの輝玉で吹き飛ばされた術式の節は、ただ魔力を流せば直るようなものではなかった。神気に焼かれた箇所は、術式そのものが歪んでいる。
それでも、キャスターは手を止めない。
糸を張り直し、結び目を作り替え、使える部分と捨てる部分を分ける。
魔女としての技量が、崩れかけた工房をかろうじて支えていた。
葛木宗一郎は、少し離れた場所に立っている。
昨日と同じように無表情。
昼間、学校で授業をしていた時とも変わらない顔だった。
「慎二くんは失いました」
キャスターが言った。
「学校の結界も、赤い糸も、あの白い荒神によってかなり削られた。正面からぶつかれば、こちらが不利です」
葛木は何も言わない。
キャスターは続ける。
「白い荒神は奪えない。あれは私の魔術で縛るには異質すぎる。契約の形も通常の英霊とは違う。無理に手を出せば、こちらの術式が焼かれるでしょう」
キャスターの声には、強い嫌悪があった。
だが、同時に冷静だった。
怒りに任せて突撃するほど、彼女は愚かではない。
「遠坂のアーチャーも面倒です。主の警戒が厚く、あの弓兵自身も近接戦に対応できる。宗一郎様を完全に止めきれないとはいえ、無視できる相手ではない」
紫の糸が、キャスターの指先で編まれる。
「ですが、セイバーは違う」
その言葉に、葛木がわずかに目を向けた。
「セイバーか」
「ええ。あの騎士は強い。真正面から戦えば厄介です。ですが、マスターが未熟すぎる」
キャスターは薄く笑った。
「士郎くんとセイバーの契約は細い。魔力供給は不安定。強い剣でありながら、柄を握る者の手が弱い」
葛木は淡々と言う。
「剣を奪うのか」
「ええ」
キャスターは手を開いた。
そこに、一本の短剣が現れる。
装飾の少ない、奇妙な短剣。
殺傷のための刃としては、あまりにも頼りない。
だが、その刃に宿る意味は違う。
敵を殺すためではない。
契約を断つための刃。
キャスターはそれを見つめた。
「白い荒神を奪えないなら、剣を奪う。セイバーを失えば、士郎くんは崩れる。遠坂の娘も動揺する。何より、白い荒神を衛宮邸から引き離す口実にもなる」
「危険はある」
葛木が言う。
「あります」
キャスターは素直に認めた。
「ですが、宗一郎様がいれば道は作れます。セイバーはあなたの動きに警戒する。そこに隙が生まれる」
葛木は短剣を見る。
「私は何をすればいい」
「セイバーを前へ出させてください。あの騎士は、マスターを守るためなら必ず前に出る。あなたが士郎くんか遠坂の娘を狙えば、彼女は盾になる」
キャスターは静かに笑う。
「そこを、私が切ります」
短剣が紫の光を帯びる。
「契約など、切ってしまえばいい」
柳洞寺の闇に、魔女の声が溶けていった。
◇
放課後。
校舎から生徒たちが出ていく。
部活動へ向かう者、友人と話しながら帰る者、教室に残る者。いつもの放課後だった。
だが、士郎たちはいつも通りではいられなかった。
凛は下駄箱の前で周囲を確認する。
「大きな反応はない」
「本当にないのか?」
「今のところはね。でも、キャスターなら小さく隠すことくらいできる」
セイバーは士郎のすぐ横にいた。
制服姿の生徒たちに混ざるには目立つが、凛の人払いと認識阻害で、周囲からは違和感が薄められている。完全ではないが、今は仕方がない。
アーチャーは姿を見せていない。
だが、凛の近くに気配がある。
見張っているのだろう。
「帰るわよ」
「ああ」
三人は校門を出た。
夕方の空は赤く染まっている。
学校から離れるにつれて、人通りは少しずつ減っていった。いつもなら気にしない道でも、今日は妙に静かに感じる。
士郎は周囲を見ながら歩く。
セイバーは前を警戒し、凛は後ろと横を確認している。
単独行動はしない。
焦らない。
それを何度も自分に言い聞かせる。
その時だった。
細い路地の奥で、紫の光が一瞬だけ揺れた。
士郎は足を止める。
「遠坂」
「見えた」
凛もすぐに反応した。
「小さい。使い魔か、罠の端」
セイバーが前へ出る。
「マスター、下がってください」
士郎は反射的に前へ出そうになり、踏みとどまった。
下がる。
今は、セイバーの動きを邪魔しない。
「分かった」
その言葉に、セイバーがわずかに頷く。
凛が宝石を構えた。
「誘導かもしれない。追わないわよ」
「でも、あれがキャスターの」
「だから追わないの」
凛の声は鋭かった。
士郎は口を閉じる。
紫の光は、路地の奥でまた揺れた。
まるで、こちらを呼ぶように。
その瞬間、背後の気配が消えた。
いや、消えたのではない。
最初からなかったものが、急に形を取った。
セイバーが振り返るより早く、葛木宗一郎がそこにいた。
「葛木先生……!」
士郎の声が出る。
葛木は答えない。
その目に、学校で見せていた教師の色はない。
怒りもない。
迷いもない。
ただ、目の前の障害を排除するための動き。
葛木が踏み込む。
狙いは士郎だった。
セイバーが一瞬で割り込む。
不可視の剣が構えられる。
葛木の拳が、セイバーの防御へ叩き込まれた。
衝撃が走る。
キャスターの強化を受けた拳。
セイバーは一歩、足を引いた。
「くっ……!」
「セイバー!」
「下がってください、マスター!」
セイバーは叫ぶ。
凛が宝石を構える。
その瞬間、路地の影からキャスターの声がした。
「やはり、あなたは前に出るのね。セイバー」
凛の顔色が変わる。
「まずい、狙いは士郎じゃない──」
影が揺れた。
ローブをまとった女が現れる。
その手には、短剣があった。
紫に光る、小さな刃。
士郎はそれを見ても、最初は何か分からなかった。
だが、凛は違った。
魔術師としての直感が、あの刃の異常さを捉えたのだろう。
「セイバー、避けて!」
凛の声が飛ぶ。
セイバーが葛木の拳を弾こうとする。
だが、葛木はその一瞬だけ、さらに踏み込んだ。
セイバーの注意が葛木に向く。
キャスターの短剣が、影の中から伸びる。
殺すための刃ではない。
鎧を砕くためでもない。
契約を断つための刃。
キャスターは静かに微笑んだ。
「契約など、切ってしまえばいい」
その刃が向けられた先にいたのは、士郎ではない。
セイバーだった。
危ない、セイバー避けて!!
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