Fate/Divine Brush──桜花浄界──   作:一般ガス会社社員

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The Stolen Sword

 

 衛宮邸の茶の間には、重い沈黙が落ちていた。

 

 セイバーが奪われた。

 

 その事実は、言葉にすると短い。

 

 だが、その重さは簡単には飲み込めなかった。

 

 士郎は畳の上に座ったまま、拳を握っていた。爪が掌に食い込んでいる。痛みはある。けれど、その痛みすら遠かった。胸の奥にあったはずの細い繋がりが、今はない。セイバーの気配が、どこにもない。

 

 ついさっきまで、隣にいた。

 

 マスターと呼んでくれた。

 

 守ると言ってくれた。

 

 それなのに、今はいない。

 

「士郎」

 

 凛の声がした。

 

 士郎は顔を上げる。

 

 凛も疲れていた。悔しさを押し殺しているのが分かる。だが、それでも彼女は座り込んではいなかった。広げた紙に簡単な図を描き、魔術的な流れを整理しようとしている。

 

「自分を責めるのは後」

 

「でも、俺が」

 

「後よ」

 

 凛の声が強くなる。

 

「責めたいなら、後でいくらでも責めなさい。悔やみたいなら、取り戻してから悔やみなさい。今やることは、セイバーをどう取り戻すか考えること」

 

 士郎は言葉を失った。

 

 凛の言っていることは正しい。

 

 正しいから、痛かった。

 

「分かってる」

 

 士郎は絞り出すように言った。

 

「でも……俺がもっとちゃんとマスターだったら、セイバーは」

 

「それも、後」

 

 凛は士郎を睨む。

 

「あなたとセイバーの契約が脆かったのは事実よ。そこをキャスターに突かれた。それは認めなさい。でも、それで全部終わりじゃない。切られたなら、取り戻す方法を探す」

 

 凛は短く息を吐いた。

 

「泣き言でセイバーは戻らないわ」

 

 士郎は拳を解いた。

 

 掌に爪の跡が残っている。

 

 その痛みを確かめるように、ゆっくり息を吸った。

 

「分かった。教えてくれ。あの短剣は、何なんだ」

 

 凛は頷いた。

 

「キャスターが言っていた名前は、破戒すべき全ての符(ルールブレイカー)。契約や誓約、魔術による縛りを切る宝具よ」

 

「契約を、切る」

 

「ええ。セイバーと士郎の契約は、あの刃で断たれた。そこへキャスターが自分の契約を上書きした」

 

 士郎の胸が冷える。

 

 分かっていても、改めて言葉にされるときつかった。

 

「セイバーは……意識があるのか」

 

「あると思う」

 

 凛は即答した。

 

「少なくとも、あの場では自分の意思で抵抗していた。心まで消されたわけじゃない。ただ、契約で縛られている以上、キャスターの命令には逆らいにくい」

 

「なら、セイバーは苦しんでる」

 

 士郎は呟いた。

 

 凛は否定しなかった。

 

「そうね」

 

 茶の間が静かになる。

 

 桜はライダーの隣に座っていた。顔色は悪い。それでも、逃げてはいない。白い神狼の毛並みに手を置き、士郎たちの話を聞いている。

 

 ライダーは伏せていなかった。

 

 座ったまま、静かに士郎と凛を見ている。背の神鏡には、夜の光が淡く揺れていた。先ほど桜に頼まれた言葉を、ライダーは忘れていないのだろう。

 

 セイバーを助けてください。

 

 その言葉に応えるように、神鏡は静かに光っている。

 

「ライダーの力で、切れないのか」

 

 士郎は聞いた。

 

「慎二の時みたいに、キャスターの糸だけを」

 

「簡単にはいかない」

 

 凛は首を横に振った。

 

「慎二くんの時は、人間に絡んだ支配線だった。外側の糸を見極めて、慎二くん本人から切り離せばよかった。でも今回は、セイバーの霊基そのものにキャスターとの契約が入ってる」

 

「無理に切ったら?」

 

「セイバーが危ない」

 

 凛ははっきり言った。

 

「契約だけを断てればいい。でも、力任せに断てば、セイバーの存在ごと傷つける可能性がある。ライダーの剣は強い。だからこそ、雑には使えない」

 

 士郎はライダーを見る。

 

 白い神狼は、士郎の視線を受けても動かなかった。

 

 まるで、それを分かっていると言うように。

 

「じゃあ、どうするんだ」

 

「解析するのよ」

 

 凛は紙に線を引いた。

 

「キャスターとセイバーの契約がどう繋がっているかを見極める。私が構造を見る。士郎は、元マスターとして切られたパスの痕跡を辿る。ライダーは、切るべき場所だけを断つ。アーチャーは葛木先生を抑える」

 

 アーチャーは壁際に立っていた。

 

 姿を見せているが、腕を組んだまま黙っている。

 

「簡単に言ってくれる」

 

「簡単じゃないから、役割を分けてるのよ」

 

 凛は言い返した。

 

 アーチャーは小さく肩をすくめる。

 

「葛木宗一郎を抑えるのは引き受けよう。だが、キャスターは次も対策を用意している。今日のように、こちらの攻撃を一手ずつ遅らせる仕掛けを張るだろう」

 

「分かってる」

 

 凛は唇を噛む。

 

「しかも、セイバーを手に入れた。正面戦力も増えた。次に行く時は、こちらが不利よ」

 

 その時、奥の部屋から声がした。

 

「……柳洞寺にいるとは限らないぞ」

 

 慎二だった。

 

 襖越しの声は弱い。

 

 だが、はっきりと聞こえた。

 

 士郎は廊下の方を見る。

 

「慎二?」

 

「入ってくるなよ」

 

 すぐに慎二の声が返る。

 

「話すだけだ」

 

 凛が立ち上がりかけたが、慎二は続けた。

 

「あいつは、自分の場所が荒らされたら、そこに居座らない。罠にするか、別の場所を用意する」

 

 茶の間の空気が変わる。

 

 凛が目を細めた。

 

「キャスターのこと?」

 

「他に誰がいるんだよ」

 

 慎二の声には、苛立ちが混じっていた。

 

 だが、その奥に嫌悪がある。

 

 自分を利用した相手への、はっきりした嫌悪。

 

「あいつに繋がれてた時、何となく分かった。柳洞寺はあいつの工房だ。でも、もう白いのに荒らされてる。神気が残ってる場所には、あいつも長くいたくないはずだ」

 

 ライダーの耳が動いた。

 

「神気が届かない場所がいるって、あいつ言ってた」

 

 凛の表情が険しくなる。

 

「太陽が届かない場所……」

 

「僕に聞くなよ。分かるのは、気持ち悪い感覚だけだ」

 

 慎二は吐き捨てるように言った。

 

「暗い場所だ。山じゃないかもしれない。あいつ、次の場所を探してた」

 

 士郎は息を呑む。

 

 セイバーは柳洞寺にいる。

 

 そう思っていた。

 

 だが、慎二の言葉が正しいなら、キャスターはその裏をかく可能性がある。

 

 凛は考え込む。

 

「柳洞寺を完全に捨てるとは思えない。あそこは霊地だし、工房としての機能もまだ残ってる。でも……本命を移す可能性はある」

 

「どこに」

 

 士郎が聞く。

 

「分からない」

 

 凛は正直に言った。

 

「ただ、キャスターは魔術師よ。拠点にするなら、魔術的に意味のある場所を選ぶ。霊地、結界のある場所、あるいは……人が安全だと思い込む場所」

 

「安全だと思い込む場所……?」

 

 士郎が繰り返す。

 

 凛はすぐには答えなかった。

 

 その答えはまだ見えていない。

 

 ただ、嫌な予感だけが残った。

 

 ◇

 

 柳洞寺の本堂には、紫の光が残っていた。

 

 だが、その光は弱い。

 

 昨日までこの場所を満たしていたキャスターの工房は、もう完全ではなかった。ライダーの神気によって焼かれた術式の跡、輝玉によって抉られた床、セイバー奪取に向けて持ち出された魔力の痕跡。工房はまだ生きているが、傷だらけだった。

 

 その中心に、キャスターは立っていた。

 

 隣には葛木宗一郎。

 

 そして、少し離れた場所にセイバーがいる。

 

 セイバーは剣を持っていた。

 

 だが、構えてはいない。

 

 立っているだけだ。

 

 その目には意識がある。怒りもある。悔しさもある。だが、体はキャスターの契約に縛られている。

 

「ようこそ、私の剣」

 

 キャスターが微笑む。

 

 セイバーは鋭く睨んだ。

 

「私は、あなたのものではありません」

 

「そう言える意思が残っているのは素晴らしいわ」

 

 キャスターは楽しげに言う。

 

「けれど、契約はそう言っていない」

 

 キャスターが指を動かす。

 

 紫の糸がかすかに揺れた。

 

「剣を下ろしなさい」

 

 セイバーの手が震えた。

 

 下ろすまいとする。

 

 剣を握る指に力が入る。

 

 だが、次の瞬間、セイバーの腕はゆっくりと下がった。

 

 剣先が床を向く。

 

 セイバーの顔が悔しさに歪む。

 

「……っ」

 

「命令は通る。心までは折れなくても、体は従う」

 

 キャスターは冷たく言った。

 

「それで十分よ」

 

 セイバーは唇を噛んだ。

 

 マスター。

 

 心の中で、そう呼ぶ。

 

 だが、その繋がりはない。

 

 士郎との契約は切られた。

 

 胸の奥にあった細い道は、もう通じていない。

 

 それでも、セイバーの中の忠義は消えていなかった。

 

 契約ではなく、意思として残っている。

 

 士郎は必ず来る。

 

 そう思う。

 

 だが、同時に来てほしくなかった。

 

 今の自分は、キャスターの命令に逆らいきれない。

 

 もし士郎が来れば、自分は剣を向けさせられるかもしれない。

 

 守るべき相手を、自分の手で傷つけるかもしれない。

 

 それだけは、耐えがたい。

 

「キャスター」

 

 セイバーは低く言った。

 

「私を利用してマスターを誘い出すつもりですか」

 

「もちろん」

 

 キャスターはあっさり答えた。

 

「あの少年は必ず来る。遠坂の娘も、白い荒神も来る。あなたは最高の餌であり、最高の盾よ」

 

「卑劣な」

 

「魔女に清廉さを求めるの?」

 

 キャスターは笑った。

 

 だが、その笑みはすぐに薄れる。

 

 彼女は本堂の傷ついた床を見る。

 

「けれど、ここはもう駄目ね」

 

 セイバーの目が細くなる。

 

「柳洞寺を捨てるつもりですか」

 

「捨てはしないわ。罠としては使える。けれど、本命の場所にするには、白い荒神の匂いが残りすぎた」

 

 キャスターの声には嫌悪があった。

 

「あの神気は不愉快。術式の奥にまで染み込んで、こちらの構造を歪めてくる。まるで、夜の中に無理やり朝を押し込むような力」

 

 彼女はセイバーを見る。

 

「だから、もっと相応しい場所へ移るの」

 

「相応しい場所?」

 

「ええ」

 

 キャスターは薄く笑った。

 

「神の家ほど、魔女の隠れ蓑に向いた場所もないわ」

 

 セイバーはその言葉の意味を考える。

 

 神の家。

 

 この冬木で、そう呼ぶべき場所。

 

 まさか。

 

 セイバーが顔を上げる前に、キャスターが命じた。

 

「来なさい、セイバー」

 

 体が動く。

 

 逆らおうとしても、足が前へ出る。

 

 セイバーは剣を握りしめた。

 

 せめて、自分の意識だけは渡さない。

 

 そう誓いながら、魔女の後を歩くしかなかった。

 

 ◇

 

 冬木教会は、夜の底に沈んでいた。

 

 丘の上に建つその建物は、街の灯りから少し離れている。礼拝堂の窓は暗く、扉の前には冷たい風が吹いていた。

 

 その礼拝堂の中に、言峰綺礼はいた。

 

 祭壇の前。

 

 いつものように、祈っているようにも見える姿勢で立っている。

 

 だが、彼の目は祈りではなく、入口の方を向いていた。

 

 扉が開く。

 

 冷たい夜気と共に、ローブをまとった女が入ってきた。

 

 キャスター。

 

 その後ろに、葛木宗一郎。

 

 さらに、セイバーが続く。

 

 言峰はわずかに目を細めた。

 

「セイバーを奪ったか」

 

 その声に、驚きは少なかった。

 

「やるものだ、キャスター」

 

 キャスターは薄く笑う。

 

「監督役に褒められるとは思わなかったわ」

 

「褒めたつもりはない。ただの評価だ」

 

 言峰の視線がセイバーへ向く。

 

 セイバーは何も言わない。

 

 言えないのではない。

 

 この場で言葉を発すれば、キャスターに利用されると判断しているのだろう。

 

 その誇り高い沈黙を、言峰は興味深そうに見た。

 

「それで、何の用だ」

 

「この教会を使わせてもらうわ」

 

 キャスターはあっさりと言った。

 

「柳洞寺は少し荒らされすぎた。あの白い荒神の神気が残っていて不快なの。だから、別の場所が必要になった」

 

「監督役の拠点を奪うつもりか」

 

「表向きは、そうなるわね」

 

 キャスターは祭壇へ歩く。

 

 長椅子の間を進み、ステンドグラスの影を踏み越える。

 

「神に祈る場所。救いを求める者が訪れる場所。中立と保護の名目で魔術師たちも警戒を緩める場所。実に便利だわ」

 

 言峰は動かなかった。

 

「教会の名において、それを許すわけにはいかない」

 

「あら。止めるの?」

 

 キャスターの指先に紫の光が灯る。

 

 葛木が一歩前へ出た。

 

 足音はない。

 

 セイバーも、命令されれば動くだろう。

 

 言峰はそれを見て、静かに息を吐いた。

 

「今ここで争えば、礼拝堂が壊れるな」

 

「私は構わないわ」

 

「だろうな」

 

 言峰は淡々と答えた。

 

 キャスターは目を細める。

 

「ずいぶん落ち着いているのね」

 

「監督役としては、由々しき事態だ」

 

「監督役としては?」

 

 キャスターが笑う。

 

「個人としては?」

 

 言峰はすぐには答えなかった。

 

 沈黙が落ちる。

 

 礼拝堂の蝋燭が小さく揺れる。

 

 やがて、言峰は言った。

 

「興味深い」

 

 キャスターの笑みが少しだけ消えた。

 

「あなた、やはり神父らしくないわね」

 

「よく言われる」

 

 言峰は祭壇の横へ歩く。

 

 まるで、最初からそこを通るつもりだったかのように。

 

「表向きには、私は排除されたことになるのだろう」

 

「理解が早くて助かるわ」

 

「好きにするといい」

 

 キャスターはわずかに眉を寄せた。

 

 勝ったはずなのに、完全に勝った気がしない。

 

 言峰の態度には、敗北の焦りがない。

 

 それが不快だった。

 

「逃げるの?」

 

「退くだけだ」

 

「同じことよ」

 

「そうかもしれん」

 

 言峰は扉へ向かう前に、一度だけセイバーを見た。

 

 そして、キャスターを見る。

 

「剣を奪い、教会を奪い、次は何を奪う」

 

「太陽の届かない場所で、白い荒神を待つわ」

 

「なるほど」

 

 言峰は小さく笑った。

 

「退屈はしなさそうだ」

 

 キャスターは不快そうに目を細めた。

 

 だが、止めなかった。

 

 言峰綺礼は礼拝堂から姿を消した。

 

 表向きには、監督役は排除された。

 

 教会は、キャスターの手に落ちた。

 

 キャスターは祭壇の前に立つ。

 

 指先から紫の糸が伸びた。

 

 糸は床を這い、長椅子の下を通り、柱へ絡み、ステンドグラスの影に沈んでいく。祈りの場に、魔術の気配が重なる。

 

 神の家が、魔女の工房へ塗り替えられていく。

 

 セイバーはそれを見ていた。

 

 胸の奥で怒りが燃える。

 

 だが、体は動かない。

 

 キャスターは振り返る。

 

「ここなら、少しはあの太陽の光も鈍るでしょう」

 

 紫の糸が祭壇の奥へ沈む。

 

 地下へ。

 

 光の届かない場所へ。

 

「さあ、準備を始めましょう。あの少年は必ず来る。白い荒神も、遠坂の娘も。なら、迎え入れる場所を整えなければ」

 

 キャスターはセイバーの頬に触れようとした。

 

 セイバーは顔をそむける。

 

 キャスターは笑った。

 

「その目、嫌いではないわ。折れていない剣ほど、利用しがいがある」

 

 セイバーは低く言った。

 

「マスターは、必ず私を取り戻します」

 

「ええ。だから待っているのよ」

 

 キャスターの笑みが深くなる。

 

「その時、あなたがそのマスターへ剣を向ける瞬間をね」

 

 セイバーは言葉を失った。

 

 言峰教会の礼拝堂に、紫の糸が静かに広がっていく。

 

 ◇

 

 衛宮邸では、作戦会議が続いていた。

 

 凛は柳洞寺の見取り図を広げていた。以前調べた情報、慎二から聞いた感覚、ライダーが残した神気の反応。それらを合わせて、キャスターの居場所を絞ろうとしている。

 

「柳洞寺は確認する必要がある」

 

 凛が言った。

 

「でも、本命じゃない可能性がある。キャスターなら、工房を罠として残すくらいはする」

 

「じゃあ、どこへ行った」

 

 士郎は焦りを押さえながら聞いた。

 

「それを考えてるの」

 

 凛は苛立ちを隠さなかった。

 

 だが、士郎を責めているわけではない。

 

 自分自身への苛立ちも混じっていた。

 

「霊地。結界。隠れやすい場所。人が警戒しにくい場所。太陽が届かない場所……」

 

 その時、奥の部屋から慎二の声がした。

 

「……違う」

 

 凛が振り返る。

 

「慎二くん?」

 

「山じゃない」

 

 慎二の声は苦しげだった。

 

「今、少しだけ……あいつの気配が動いた。山じゃない。もっと冷たい場所だ」

 

 士郎は立ち上がりかける。

 

 ライダーが静かに前足を動かし、士郎を見た。

 

 落ち着け。

 

 そう言われた気がして、士郎は座り直す。

 

 慎二は続ける。

 

「祈りみたいな匂いがするのに、中が腐ってる。気持ち悪い。柳洞寺じゃない。あれは……」

 

 凛の顔色が変わった。

 

「まさか」

 

「遠坂?」

 

 士郎が聞く。

 

 凛は、ゆっくりと言った。

 

「教会」

 

 茶の間の空気が凍った。

 

「冬木教会……」

 

 士郎は呟く。

 

 あの教会。

 

 聖杯戦争の監督役がいる場所。

 

 脱落したマスターを保護する場所。

 

 中立であるはずの場所。

 

 そこを、キャスターが。

 

「でも、言峰は」

 

「……排除された可能性がある」

 

 凛の声は低かった。

 

「キャスターが教会を乗っ取ったなら、まず監督役をどうにかする。殺したのか、追い出したのか、分からないけど……少なくとも、教会はもう安全地帯じゃない」

 

 士郎は拳を握る。

 

 セイバーはそこにいるのか。

 

 キャスターに縛られたまま。

 

 冬木教会に。

 

 凛は紙を畳んだ。

 

「作戦を組み直すわ。柳洞寺じゃない。次の目的地は教会よ」

 

 ライダーの神鏡が静かに光った。

 

 その光は、先ほどより強い。

 

 怒りに似た、しかし澄んだ光。

 

 神の家が魔女の手に落ちた。

 

 そのことに、白い神狼が反応しているようだった。

 

桜はライダーの背に手を置いた。

 

「ライダーさん」

 

 その声は震えていた。

 

 だが、逃げるための声ではなかった。

 

「お願いします」

 

 桜は、白い神狼の背を見つめる。

 

 セイバーは奪われた。

 

 士郎の剣は、魔女の手に落ちた。

 

 自分は怖い。キャスターも怖い。ライダーが家を離れることも怖い。慎二がまだ同じ家にいることも怖い。

 

 それでも。

 

「セイバーさんを、助けてください」

 

 その瞬間だった。

 

 包帯を巻いていた桜の右手が、淡く光った。

 

「え……?」

 

 桜は息を呑む。

 

 包帯の下では、手の甲に刻まれた令呪の一画が、熱を持って輝いていた。赤い光が脈打ち、桜の言葉を形にするように、ライダーへ流れていく。

 

 命令。

 

 いや、桜には命令したつもりなどなかった。

 

 ただ、願っただけだった。

 

 セイバーを助けてほしい。

 

 先輩の剣を取り戻してほしい。

 

 そう願っただけだった。

 

 だが、その願いは聖杯戦争の契約に触れ、令呪として形を取っていた。

 

 凛が目を見開く。

 

「桜、今の……令呪よ」

 

「私、そんなつもりじゃ……」

 

 桜の声が震える。

 

 包帯を取って手の甲を見ると、令呪の一画が薄くなっていた。

 

 使ってしまった。

 

 知らないうちに。

 

 命令として。

 

 桜の顔から血の気が引く。

 

 だが、ライダーは動揺しなかった。

 

 白い神狼は、静かに桜を見ていた。

 

 その目に、怒りはない。

 

 無理やり従わされた獣の目ではなかった。

 

 むしろ、桜の願いを確かに受け取ったように、背の神鏡が強く、柔らかく光っている。

 

 凛が小さく息を吐いた。

 

「……命令というより、願いに近いわね。でも、令呪は確かに反応した。ライダーに届いたのよ。セイバーを助けて、って」

 

 桜は震える手を握った。

 

 胸の奥が怖かった。

 

 けれど、取り消したいとは思わなかった。

 

 自分の願いが、ライダーを縛ってしまったのかもしれない。

 

 それでも、今は。

 

「……はい」

 

 桜は顔を上げた。

 

「それでも、お願いします。ライダーさん」

 

 ライダーは静かに頭を下げた。

 

 それは服従ではなかった。

 

 桜の願いを、自分の意思で受け入れる仕草だった。

 

 神鏡の光が茶の間に広がる。

 

 慰めではない。

 

 次へ進むための光だった。

 

 ◇

 

 同じ頃。

 

 冬木教会の礼拝堂では、祈りの声はなかった。

 

 祭壇の前に、キャスターが立っている。

 

 その隣には葛木宗一郎。

 

 そして、少し後ろにセイバー。

 

 ステンドグラスから差し込むはずの光は、夜の闇に沈んでいる。代わりに、紫の糸が礼拝堂を覆っていた。柱に、床に、長椅子に、祭壇に。神聖なはずの空間が、静かに魔女の工房へ変わっていく。

 

 キャスターは満足げに息を吐いた。

 

「さあ、来なさい。セイバーを取り戻したいのでしょう?」

 

 セイバーは顔を上げた。

 

 その目には、まだ光がある。

 

 だが、体はキャスターの契約に縛られている。

 

 キャスターはその横顔を見て、静かに笑った。

 

「次は、太陽が届かない場所で会いましょう」

 

 礼拝堂の奥、地下へ続く扉の向こうで、紫の光がゆっくりと濃くなっていく。

 

 神の家は、魔女の手に落ちた。

 

 奪われた剣は、その中心で士郎たちを待っていた。

 





お天道様によるお叱りの時間です

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