Fate/Divine Brush──桜花浄界── 作:一般ガス会社社員
衛宮邸の空気は、夜に沈んでいた。
茶の間には凛の広げた紙と、いくつかの宝石が置かれている。士郎はその前に座り、凛の説明を聞いていた。アーチャーは壁際に立ち、ライダーは縁側の近くで静かに座っている。桜はライダーのそばにいた。
桜の右手には、もう一度包帯が巻かれていた。
その下にある令呪の一画は、薄くなっている。
つい先ほど、桜は知らず知らずのうちに令呪を使った。
セイバーさんを、助けてください。
命令のつもりではなかった。
ただ、願っただけだった。
けれど、その願いは令呪として形を取り、ライダーへ届いた。
桜は包帯を巻いた手を見つめている。
「私……ライダーさんを、縛ってしまったんでしょうか」
小さな声だった。
士郎は何も言えなかった。
凛もすぐには答えなかった。少しだけ桜の手を見て、それからライダーへ視線を向ける。
「令呪は、確かに命令よ。サーヴァントに対する絶対命令。そこは変わらない」
桜の肩がわずかに揺れる。
だが、凛は続けた。
「でも、今のは無理やり従わせる命令とは違う。少なくとも、私にはそう見えた」
「違う……?」
「ライダーの意思と、桜の願いが反発していなかった。だから令呪は、ライダーを縛る鎖というより、願いを通すための道になったんだと思う」
桜はライダーを見た。
白い神狼は何も言わない。
ただ、桜の手に鼻先を寄せた。
それは、責める仕草ではなかった。
怒ってもいない。
命じられたから従うのではなく、桜の願いを受け取ったのだと、そう伝えているようだった。
桜は唇を結ぶ。
「……それでも、お願いします」
震える声で、もう一度言った。
「セイバーさんを、助けてください」
ライダーは静かに頷くように頭を下げた。
凛は紙を畳む。
「確認するわ。目的はセイバーの奪還。キャスターを倒すのも重要だけど、最優先はセイバーを取り戻すこと」
「ああ」
士郎は頷いた。
「俺は、何をすればいい」
「見ることよ」
凛は即答した。
「セイバーとキャスターの契約線を見る。あなたは元マスターだから、切られたパスの痕跡に反応できる可能性がある。そこを見つける」
「見つけたら?」
「私が構造を読む。ライダーが切る。ただし、雑に斬ったらセイバーの霊基ごと傷つく。慎二くんの時よりずっと難しいわ」
士郎は奥歯を噛んだ。
難しい。
そんなことは分かっている。
だが、やるしかない。
「アーチャーは葛木先生を止める」
「分かっている」
アーチャーは壁にもたれたまま言った。
「前回のように奇襲を受けるつもりはない。だが、教会がキャスターの工房になっているなら、葛木宗一郎の強化も安定していると見るべきだ」
「つまり、強いってことか」
士郎が言う。
「そういうことだ」
アーチャーの返事は短い。
その時、奥の部屋から声がした。
「……教会の奥には気をつけろ」
慎二だった。
襖越しに、弱い声が届く。
凛がそちらを向いた。
「慎二くん?」
「あいつ、光を沈める場所を作ってる」
慎二の声には苛立ちと嫌悪が混じっていた。
「あの白いのを弱らせるためだろ。あいつのいた場所、おぞましいくらいに冷たくて暗いんだ。底なし沼みたいでさ。光ごと、全部底へ引きずり込んで窒息させるみたいな、気味の悪い罠を準備してた」
ライダーの耳が動く。
慎二は魔術師ではない。
術式の仕組みなど分からない。
だが、キャスターに繋がれていた時の感覚だけは、体の奥に残っているのだろう。
「僕に聞くなよ。詳しいことは知らない。ただ、あいつの場所に正面から入るってことだけは忘れるな。待ってるに決まってるだろ」
凛は慎二の言葉を聞き、即座に眉を寄せた。
「光を沈める……神気を拡散させるんじゃなくて、結界の底へ流す。ライダーの力そのものが届く前に鈍らせる術式ね。さすがに用意周到だわ」
「だから知らないって言ってるだろ。僕は魔術師じゃない」
慎二は吐き捨てる。
士郎は廊下の奥を見る。
「……助かる」
「礼なんか言うな。気持ち悪い」
すぐに返事が来た。
慎二らしい言い方だった。
それでも、彼が情報を出したことは事実だった。
凛は立ち上がる。
「行くわよ。準備している時間を与えすぎたくない」
「ああ」
士郎も立ち上がる。
桜が不安げに見る。
「先輩」
士郎は振り返った。
桜は何かを言おうとして、少しだけ迷った。
そして、言った。
「戻ってきてください」
「ああ」
「セイバーさんも、一緒に」
士郎は頷いた。
「必ず」
その言葉を、今度こそ軽くしないように。
士郎は胸の奥へ刻んだ。
◇
夜の冬木を、四つの影が進む。
士郎、凛、アーチャー、そしてライダー。
街の灯りは遠く、教会へ続く道は静かだった。風は冷たい。昼間なら何でもない道のはずなのに、今夜は一歩ごとに重く感じる。
士郎は隣を見た。
そこにセイバーはいない。
いつもなら、真面目な顔でそばを歩いていた。周囲を警戒し、士郎が無茶をしないように見ていた。何かあれば、迷わず前に出た。
その場所が、今は空いている。
代わりに、ライダーが少し前を歩いていた。
白い神狼の背中は大きい。背の神鏡には夜の街灯が淡く映っている。だが、その歩みはいつものように穏やかではなかった。静かで、重い。まるで、これから向かう闇を知っているように。
士郎は拳を握る。
焦るな。
走るな。
走って、奪われた。
なら今度は、考えて取り戻す。
「士郎」
凛が横から言った。
「前を見る」
「……ああ」
「取り戻すんでしょ」
「分かってる」
士郎は顔を上げた。
教会の屋根が見えてくる。
夜の底に沈んだ冬木教会。
表から見れば、いつもの建物だった。白い壁、暗い窓、静かな扉。監督役のいる中立地帯。聖杯戦争における避難場所。
だが、今は違う。
近づいただけで、凛の表情が変わった。
「……ひどい」
凛が低く呟く。
「完全に塗り替えられてる」
士郎には、まだ何も見えない。
しかし空気は分かった。
重い。
祈りの場所のはずなのに、胸の奥に冷たいものが沈むような感覚がある。
アーチャーも教会を見上げていた。
「監督役の気配はない。……排除されたと見るべきだな」
「言峰は……」
士郎が言う。
凛は首を横に振った。
「今はセイバー優先。言峰綺礼が本当にやられたかどうかは後で考える」
確かに、言峰が簡単に消える姿は想像しにくい。
だが今は、それよりもセイバーだった。
ライダーが一歩、教会の敷地へ踏み込んだ。
瞬間、地面に紫の糸が浮かび上がった。
細い糸が石畳を這い、ライダーの神気に触れる。背の神鏡が淡く光ったが、その光はいつものようには広がらなかった。広がろうとした光が、見えない底へ引き込まれるように沈む。
凛が息を呑む。
「慎二くんの感覚は正しかったみたいね。神気を消しているんじゃない。届くまでの距離を引き伸ばして、広がる前に沈めてる」
「ライダーは大丈夫なのか」
「平気ではないわ」
凛は即答した。
「でも、止まるつもりもないみたい」
ライダーは振り返らなかった。
白い神狼は、そのまま教会の扉へ進む。
士郎たちも続いた。
扉の前に立つ。
凛が宝石を一つ手に取り、軽く魔力を通す。
「罠はある。けど、ここで止まっていても始まらない」
「ああ」
士郎は頷く。
アーチャーが前へ出る。
「開けるぞ」
扉が開いた。
礼拝堂の中に、祈りの声はなかった。
代わりに、紫の糸があった。
床に、柱に、長椅子に、祭壇に。細い糸が絡みつき、教会そのものを別のものへ変えている。本来なら救いを求めるための場所が、今は入った者を絡め取る魔女の工房になっていた。
祭壇の前に、キャスターが立っている。
その隣には葛木宗一郎。
そして、礼拝堂の奥。
紫の糸に縛られたセイバーがいた。
白いドレス姿だった。
戦場で見慣れた鎧ではない。凛とした青い衣でもない。白いフリルのついた、どこか飾り物のような服。腕と胴、足元に紫の糸が絡みつき、祭壇の奥に繋がれている。
剣はない。
けれど、その目には意識があった。
怒りがあった。
屈辱があった。
そして、士郎を見た瞬間、その目がかすかに揺れた。
「セイバー……」
士郎の声が漏れた。
体が前へ出そうになる。
だが、止まった。
自分で止めた。
走らない。
ここで走れば、キャスターの思うつぼだ。
セイバーが唇を動かした。
「マスター……来ては、いけません……」
その声は震えていた。
けれど、確かにセイバーの声だった。
キャスターが笑う。
「来てほしいから見せているのよ。分かるでしょう?」
凛の顔が険しくなる。
「趣味が悪いにもほどがあるわね」
「剣を奪ったのだから、飾っておくのも悪くないでしょう?」
キャスターは穏やかに言った。
その声音が、余計に悪趣味だった。
「それに、この姿の方が分かりやすい。彼女は今、あなたたちの剣ではない。私が奪ったものよ」
士郎の胸の奥に怒りが燃える。
だが、足は動かさなかった。
凛が小さく言った。
「よく止まったわね」
「……今動いたら、取り戻せないだろ」
「そうね」
キャスターは士郎を見る。
「あら。つまらないわね。もう少し感情的に飛び込んでくれると思ったのに」
「何度も何度も同じ失敗はしない」
士郎は低く言った。
キャスターの目が細くなる。
「そう。なら、別の形で動かしてあげる」
キャスターが指を動かした。
「立ちなさい、セイバー」
紫の糸が解ける。
いや、解けたように見えただけだった。
セイバーの体から外側の糸は離れたが、もっと細い糸が彼女の内側へ残っている。士郎にはまだ見えない。だが、凛の表情で分かった。
セイバーは抵抗した。
立つまいと、全身に力を込める。
だが、体は動いた。
ゆっくりと立ち上がる。
白いドレスの裾が床を擦る。
その姿が、どうしようもなく痛々しかった。
「剣を取りなさい」
キャスターが命じる。
その瞬間、キャスターから伸びた神代の魔力が、強制的にセイバーの霊基へと流れ込んだ。
セイバーの顔が苦痛に歪む。
自らの魔力ではない。
自らの意思でもない。
キャスターの膨大な魔力が、契約線を通して強引に流し込まれ、セイバーの内側にある宝具を外側から叩き起こしている。
空気が揺れた。
セイバーの手元に、強制的に風が集まる。
不可視の剣。
本来なら、セイバー自身が誇りと意思をもって纏うはずの風が、今はキャスターの魔力を燃料として起動させられている。
白いドレス姿のまま、セイバーは剣を握らされた。
「……やめ、なさい……」
セイバーの声が震える。
「私の剣に、触れるな……!」
「あら。契約は私のものよ」
キャスターは冷たく言った。
「なら、あなたの剣も私のもの」
セイバーの目に怒りが宿る。
だが、体は逆らえない。
「迎えなさい」
キャスターの声が響く。
「あなたの元マスターたちを」
セイバーの足が動いた。
士郎へ向かう。
しかし、その前に白い影が立った。
ライダーだった。
セイバーの不可視の剣が振るわれる。
風が裂ける。
ライダーの神鏡が光り、剣を受けた。
金色の光と、見えない剣がぶつかる。
礼拝堂の空気が震えた。
「ライダー……退いてください……!」
セイバーの声が苦しげに響く。
ライダーは退かなかった。
吠えもしない。
ただ、神鏡で受け止める。
セイバーを傷つけるためではない。
止めるために。
キャスターは満足そうに笑った。
「やはり、攻撃できないのね。優しい太陽」
ライダーの赤い隈取が、わずかに濃く見えた。
怒っている。
だが、その怒りは牙としてセイバーへ向かなかった。
もう一方で、葛木が動いた。
足音はない。
気づいた時には、凛の前に迫っている。
アーチャーが割り込んだ。
干将・莫耶が現れ、葛木の拳を受ける。
重い衝撃が礼拝堂に響いた。
「前より速いな」
アーチャーが低く言う。
葛木は答えない。
キャスターの工房の中だからだろう。葛木の強化は安定している。拳の軌道は読みにくく、一撃ごとに殺意が乗っている。アーチャーは双剣で受け流しながら、凛と士郎の位置を守るように動いていた。
「凛、解析しろ。長くは持たんぞ」
「言われなくても!」
凛は宝石を握り、足元の術式を見た。
「士郎、視界を合わせるわ。見るだけ。絶対に動かない」
「分かった」
凛の指が士郎の目元に触れる。
次の瞬間、世界の色が変わった。
礼拝堂の床に、紫の線が浮かび上がる。
柱、天井、祭壇、長椅子。
全てに魔術の糸が絡んでいた。
そして、セイバー。
白いドレスの上からではない。
もっと奥。
彼女の霊基に、紫の太い線が入り込んでいる。
キャスターから伸びた契約線。
それが、かつて士郎とセイバーを繋いでいた場所に入り込み、上書きしている。
士郎は吐き気を覚えた。
自分が守れなかった場所に、キャスターの糸が入り込んでいる。
「見える……!」
「どこ!?」
「セイバーの背中側。太い線がある。そこから胸の奥に入ってる。でも、その周りにも細い糸が多すぎる」
「表の拘束に惑わされないで。本命は契約線よ」
凛は宝石を構える。
その時、キャスターが笑った。
「見せてあげているのよ」
士郎の背筋が冷えた。
「何……?」
「あなたに見えるように、少しだけ開いてあげているの。そこへ来たくなるでしょう? そこを切れば助けられると思うでしょう?」
キャスターの指が動く。
セイバーの背後の太い線が、わざとらしく脈打った。
罠。
士郎にも分かった。
見えているのではない。
見せられている。
凛が舌打ちする。
「やっぱり誘導ね!」
「でも、あれが本命なのは間違いない」
「だから面倒なのよ!」
ライダーが一歩踏み込もうとした。
その瞬間、礼拝堂の奥、地下へ続く扉が開いた。
紫の光が、底から湧き上がる。
ステンドグラスの影が黒く染まった。
床に張られた糸が一斉に震える。
ライダーの神鏡の光が、さらに沈んだ。
「ここは太陽が届かない場所よ」
キャスターの声が、礼拝堂に響く。
「白い荒神。あなたの光は、ここでは広がらない。祈りの場は、もう夜の底に沈んでいる」
ライダーの動きが鈍る。
セイバーの剣が走った。
神鏡で受ける。
だが、光が弱い。
不可視の剣が神鏡の端をかすめ、ライダーの肩口の白い毛を裂いた。
金色の神気が、血のようにこぼれる。
「ライダー!」
士郎が叫ぶ。
ライダーは倒れない。だが、押されている。
セイバーは苦しげな顔で剣を振るう。
本人は止まりたいはずなのに、キャスターの命令が止めさせない。
しかも、その剣を動かしている魔力はキャスターのものだ。
セイバー自身の誇りも意思も踏みにじり、魔女の魔力で剣だけを振るわせている。
「やめてください……ライダー……!」
セイバーの声が震える。
ライダーは神鏡で受け続ける。
爪も立てない。
牙も使わない。
セイバーを傷つけない。
それをキャスターは分かっていた。
「救いたいものを盾にすれば、あなたは牙を鈍らせる」
キャスターは笑った。
「神であっても、優しさは弱点になるのね」
アーチャーの方でも状況は悪くなっていた。
葛木の拳が双剣の隙間を通り抜ける。
アーチャーは身を捻ってかわすが、肩をかすめた。赤い外套が裂ける。
「アーチャー!」
「こちらを見るな!」
アーチャーは叫び、葛木の追撃を干将で受けた。
凛も術式の妨害に追われている。
宝石を投げれば、一つの糸は切れる。
だが、別の糸がすぐに補う。
教会そのものがキャスターの工房になっている。どこを壊しても、別の場所から支えが伸びる。
「きりがない……!」
凛が歯を食いしばる。
士郎は見えていた。
見えているのに、手が届かない。
セイバーの契約線。
キャスターの罠。
ライダーの神気を沈める結界。
全部が見えている。
なのに、何もできない。
またか。
また、自分は見ているだけなのか。
その思いが胸を焼く。
……その時、ライダーの神鏡が一瞬だけ強く光った。
◇
衛宮邸。
遠く離れた茶の間で、桜が右手を押さえていた。
包帯の下。
薄くなった令呪が、強く熱を持っている。
「ライダーさん……」
桜は目を閉じる。
祈るように。
「セイバーさんを……」
その願いが最高潮に達した瞬間、包帯の下で脈打っていた令呪の一画が、激しい熱と共に完全に消滅した。
桜は息を呑む。
痛みではない。
けれど、右手から何か大きなものが抜け落ちていく感覚があった。
一画の令呪が秘めていた聖杯の魔力が、純粋な祈りの形を取って、距離を越え、まっすぐにライダーの内側へと注ぎ込まれる。
セイバーさんを、助けてください。
最大級の魔力バックアップを得て、ライダーの足が、もう一歩だけ前に出た。
神鏡がセイバーの剣を受け、押し返す。
ほんの一瞬、太陽封じの重さが揺らいだ。
その隙に、ライダーの背で蒼い剣が形を取る。
慎二を救った時の剣。
切るための剣。
殺すためではなく、縛りを断つための刃。
キャスターの顔が歪む。
「また、その剣……!」
ライダーが踏み込む。
狙いはセイバーではない。
セイバーの背後に伸びる契約線。
だが、キャスターの命令は早かった。
「守りなさい、セイバー」
セイバーの体が動いた。
自分を縛る糸を、守らされる。
不可視の剣が、ライダーの蒼い剣を受けた。
セイバーの顔が苦痛に歪む。
「ライダー……私を、斬ってでも……!」
言葉は、そこまでだった。
キャスターの糸がセイバーの声を塞ぐ。
ライダーは斬らなかった。
斬れなかったのではない。
斬らないと、決めていた。
剣の軌道を変え、セイバーの体を避ける。外側に絡む拘束糸の一本だけを狙う。
蒼色の刃が走った。
紫の糸が一本、切れる。
セイバーの腕が一瞬だけ自由になる。
剣の軌道がわずかにずれた。
その瞬間、士郎には見えた。
紫の契約線の奥。
まだ消えきっていない細い痕跡。
かつて、自分とセイバーを繋いでいた道。
「セイバー……!」
セイバーも士郎を見た。
ほんの一瞬だけ、命令の隙間から自分の意思で。
「マスター……まだ……」
声が震える。
「まだ、繋がっています……!」
士郎の胸が強く鳴った。
切られたと思っていた。
全部、奪われたと思っていた。
けれど、まだ残っている。
完全には消えていない。
取り戻せる。
その希望が見えた瞬間、キャスターの表情から余裕が消えた。
「そこまで届くの……?」
だが、動揺は一瞬だった。
キャスターはすぐに手を振る。
地下からさらに濃い紫の光が湧いた。
「なら、もっと深く沈めるまでよ」
礼拝堂全体が軋んだ。
糸が増える。
床から、柱から、祭壇から。
セイバーの体へ、さらに深い契約の糸が伸びる。
ライダーの神鏡の光が、再び沈む。
セイバーの腕が縛られる。
アーチャーは葛木に押し込まれ、凛は術式の補助に手を割かれ、士郎は見えているだけで届かない。
キャスターは息を整え、冷たく笑った。
「終わりよ。白い荒神」
ライダーは、セイバーの剣を受け止めていた。
神鏡は重い。
光は沈む。
肩から漏れる神気が、紫の糸に吸われていく。
この場所は、キャスターが作った太陽の届かない聖堂。
夜の底。
神の家を塗り替えた、魔女の工房。
その中心で、白い神狼は静かに目を細めた。
桜の願いが、内側を満たしている。
セイバーさんを、助けてください。
令呪として刻まれ、完全に消費されたその命令は、鎖ではなかった。
それは、声だった。
震えながらも逃げなかった少女の声。
怖いと言いながら、それでも誰かを救いたいと願った声。
その声が、聖杯戦争のシステムに刻まれた絶対命令権の魔力を伴って、ライダーの霊基へ流れ込んでいる。
ライダーの中で、何かが深く沈み、そして浮かび上がる。
宝具。
聖杯は、そう教えた。
英霊の生涯。
逸話。
人類の歴史に刻まれた象徴。
それらが魔術的に結晶化したもの。
だが、自分は英霊ではない。
英霊の座に刻まれた英雄ではない。
人の歴史に登録された名ではない。
神として呼ばれたもの。
白い獣として大地を駆けたもの。
ならば、自分の宝具とは何か。
鏡か。勾玉か。剣か。
違う。
それらは手段にすぎない。
思い浮かぶものがある。
小さな相棒の声。うるさくて、騒がしくて、けれど誰よりも信じてくれた絵師。
枯れた大地に咲いた花。
呪いに沈んだ村。
空を覆う常闇。
それでも、太陽を待っていた人々。
祈り。
信じる心。
闇を晴らした旅。
ナカツクニ、かつて救った世界。
朝を取り戻した大地。
ならば、宝具とは武器ではない。
技ではない。
己が照らした世界そのもの。
闇に沈んだ場所へ、もう一度夜明けを運ぶこと。
それが、太陽の役目。
それが、◾︎◾︎◾︎◾︎◾︎という存在の結晶。
ライダーの神鏡が、静かに震えた。
紫の糸に沈められていた光が、内側から変わる。
それは、ただ明るくなるのではない。
桜から託された令呪一画分の絶対的な魔力奔流。
それが、神霊としてのライダーの霊基を全盛期へと押し上げ、同時にキャスターが教会に敷いた結界の許容量を、力任せに超過させていく。
夜の底を維持していた術式が震えた。
紫の糸が、一本、また一本と悲鳴を上げるように軋む。
キャスターが作った太陽封じは、ライダーの神気を沈めるためのものだった。
だが、令呪一画分の出力を受けた神霊の霊基変質までは想定していない。
流し込まれた魔力の量が、結界の許容量を超える。
沈めるはずの底が、底でなくなる。
受け止めるはずの闇が、内側から溢れ返る。
礼拝堂の床に、墨のような黒い線が走った。
紫の糸の上を、白い筆跡が横切る。
長椅子の隙間に、一瞬だけ小さな花が咲いた。
ステンドグラスを覆っていた黒い影が、朝焼けの色にひび割れる。
夜の底を維持していた術式が、令呪の出力に耐えきれず、内側から音を立てて決壊していく。
キャスターの目が見開かれた。
「何……?」
彼女はすぐに気づいた。
これは結界ではない。
工房の上書きでもない。
もっと根本的なもの。
この場所の世界そのものが、別の理に近づいている。
「まさか……土地の霊脈ごと、世界のルールを塗り替えているというの……!?」
白い神狼の姿が、変わり始めた。
体躯が大きくなる。
白い毛並みが朝日のように輝き、紅い隈取が鋭く、深く浮かび上がる。
背の神鏡が、ただの神鏡ではなくなる。
猛る橙の炎を宿した古銅の真経津鏡。そこに清冽な青緑の水紋が走り、すべてを灼く深紅の鏡面──太陽を映す『八咫鏡』へ。
淡い黄金に煌めく六つ宙に連なるの勾玉の足玉が、幾何学的な星の結晶を象り、神秘的な白紫の光を放つ深碧の十二の勾玉──『八尺瓊勾玉』へ。
深い海の如き蒼を湛えた剣の都牟刈太刀が、その身を裂くような黄金の雷光を纏い、雲を裂く至高の剣――『天叢雲剣』へ。
鏡を除く二つの神器が、ライダーの周囲に輪を描くように展開され、また消える。
セイバーの剣を受け止めていた神鏡が、今度は世界を照らす太陽となる。
凛は息を呑んだ。
「ライダー……?」
アーチャーも、葛木との間合いを保ったまま目を細める。
「これは……宝具か」
士郎は、ただその姿を見ていた。
白い神狼。
いや、違う。
目の前にいるのは、神話の奥から現れた太陽そのものだった。
聖杯から与えられた言葉が、初めて形を持つ。
宝具の解放。
その名は――。
『
圧倒的な神威が、魔女の聖堂を満たしていく。
太陽の届かないはずの場所に。
今、朝が来た。
白野威、顕現
皆様の感想をお待ちしております!