Fate/Divine Brush──桜花浄界──   作:一般ガス会社社員

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太陽

 

 衛宮邸の空気は、夜に沈んでいた。

 

 茶の間には凛の広げた紙と、いくつかの宝石が置かれている。士郎はその前に座り、凛の説明を聞いていた。アーチャーは壁際に立ち、ライダーは縁側の近くで静かに座っている。桜はライダーのそばにいた。

 

 桜の右手には、もう一度包帯が巻かれていた。

 

 その下にある令呪の一画は、薄くなっている。

 

 つい先ほど、桜は知らず知らずのうちに令呪を使った。

 

 セイバーさんを、助けてください。

 

 命令のつもりではなかった。

 

 ただ、願っただけだった。

 

 けれど、その願いは令呪として形を取り、ライダーへ届いた。

 

 桜は包帯を巻いた手を見つめている。

 

「私……ライダーさんを、縛ってしまったんでしょうか」

 

 小さな声だった。

 

 士郎は何も言えなかった。

 

 凛もすぐには答えなかった。少しだけ桜の手を見て、それからライダーへ視線を向ける。

 

「令呪は、確かに命令よ。サーヴァントに対する絶対命令。そこは変わらない」

 

 桜の肩がわずかに揺れる。

 

 だが、凛は続けた。

 

「でも、今のは無理やり従わせる命令とは違う。少なくとも、私にはそう見えた」

 

「違う……?」

 

「ライダーの意思と、桜の願いが反発していなかった。だから令呪は、ライダーを縛る鎖というより、願いを通すための道になったんだと思う」

 

 桜はライダーを見た。

 

 白い神狼は何も言わない。

 

 ただ、桜の手に鼻先を寄せた。

 

 それは、責める仕草ではなかった。

 

 怒ってもいない。

 

 命じられたから従うのではなく、桜の願いを受け取ったのだと、そう伝えているようだった。

 

 桜は唇を結ぶ。

 

「……それでも、お願いします」

 

 震える声で、もう一度言った。

 

「セイバーさんを、助けてください」

 

 ライダーは静かに頷くように頭を下げた。

 

 凛は紙を畳む。

 

「確認するわ。目的はセイバーの奪還。キャスターを倒すのも重要だけど、最優先はセイバーを取り戻すこと」

 

「ああ」

 

 士郎は頷いた。

 

「俺は、何をすればいい」

 

「見ることよ」

 

 凛は即答した。

 

「セイバーとキャスターの契約線を見る。あなたは元マスターだから、切られたパスの痕跡に反応できる可能性がある。そこを見つける」

 

「見つけたら?」

 

「私が構造を読む。ライダーが切る。ただし、雑に斬ったらセイバーの霊基ごと傷つく。慎二くんの時よりずっと難しいわ」

 

 士郎は奥歯を噛んだ。

 

 難しい。

 

 そんなことは分かっている。

 

 だが、やるしかない。

 

「アーチャーは葛木先生を止める」

 

「分かっている」

 

 アーチャーは壁にもたれたまま言った。

 

「前回のように奇襲を受けるつもりはない。だが、教会がキャスターの工房になっているなら、葛木宗一郎の強化も安定していると見るべきだ」

 

「つまり、強いってことか」

 

 士郎が言う。

 

「そういうことだ」

 

 アーチャーの返事は短い。

 

 その時、奥の部屋から声がした。

 

「……教会の奥には気をつけろ」

 

 慎二だった。

 

 襖越しに、弱い声が届く。

 

 凛がそちらを向いた。

 

「慎二くん?」

 

「あいつ、光を沈める場所を作ってる」

 

 慎二の声には苛立ちと嫌悪が混じっていた。

 

「あの白いのを弱らせるためだろ。あいつのいた場所、おぞましいくらいに冷たくて暗いんだ。底なし沼みたいでさ。光ごと、全部底へ引きずり込んで窒息させるみたいな、気味の悪い罠を準備してた」

 

 ライダーの耳が動く。

 

 慎二は魔術師ではない。

 

 術式の仕組みなど分からない。

 

 だが、キャスターに繋がれていた時の感覚だけは、体の奥に残っているのだろう。

 

「僕に聞くなよ。詳しいことは知らない。ただ、あいつの場所に正面から入るってことだけは忘れるな。待ってるに決まってるだろ」

 

 凛は慎二の言葉を聞き、即座に眉を寄せた。

 

「光を沈める……神気を拡散させるんじゃなくて、結界の底へ流す。ライダーの力そのものが届く前に鈍らせる術式ね。さすがに用意周到だわ」

 

「だから知らないって言ってるだろ。僕は魔術師じゃない」

 

 慎二は吐き捨てる。

 

 士郎は廊下の奥を見る。

 

「……助かる」

 

「礼なんか言うな。気持ち悪い」

 

 すぐに返事が来た。

 

 慎二らしい言い方だった。

 

 それでも、彼が情報を出したことは事実だった。

 

 凛は立ち上がる。

 

「行くわよ。準備している時間を与えすぎたくない」

 

「ああ」

 

 士郎も立ち上がる。

 

 桜が不安げに見る。

 

「先輩」

 

 士郎は振り返った。

 

 桜は何かを言おうとして、少しだけ迷った。

 

 そして、言った。

 

「戻ってきてください」

 

「ああ」

 

「セイバーさんも、一緒に」

 

 士郎は頷いた。

 

「必ず」

 

 その言葉を、今度こそ軽くしないように。

 

 士郎は胸の奥へ刻んだ。

 

 ◇

 

 夜の冬木を、四つの影が進む。

 

 士郎、凛、アーチャー、そしてライダー。

 

 街の灯りは遠く、教会へ続く道は静かだった。風は冷たい。昼間なら何でもない道のはずなのに、今夜は一歩ごとに重く感じる。

 

 士郎は隣を見た。

 

 そこにセイバーはいない。

 

 いつもなら、真面目な顔でそばを歩いていた。周囲を警戒し、士郎が無茶をしないように見ていた。何かあれば、迷わず前に出た。

 

 その場所が、今は空いている。

 

 代わりに、ライダーが少し前を歩いていた。

 

 白い神狼の背中は大きい。背の神鏡には夜の街灯が淡く映っている。だが、その歩みはいつものように穏やかではなかった。静かで、重い。まるで、これから向かう闇を知っているように。

 

 士郎は拳を握る。

 

 焦るな。

 

 走るな。

 

 走って、奪われた。

 

 なら今度は、考えて取り戻す。

 

「士郎」

 

 凛が横から言った。

 

「前を見る」

 

「……ああ」

 

「取り戻すんでしょ」

 

「分かってる」

 

 士郎は顔を上げた。

 

 教会の屋根が見えてくる。

 

 夜の底に沈んだ冬木教会。

 

 表から見れば、いつもの建物だった。白い壁、暗い窓、静かな扉。監督役のいる中立地帯。聖杯戦争における避難場所。

 

 だが、今は違う。

 

 近づいただけで、凛の表情が変わった。

 

「……ひどい」

 

 凛が低く呟く。

 

「完全に塗り替えられてる」

 

 士郎には、まだ何も見えない。

 

 しかし空気は分かった。

 

 重い。

 

 祈りの場所のはずなのに、胸の奥に冷たいものが沈むような感覚がある。

 

 アーチャーも教会を見上げていた。

 

「監督役の気配はない。……排除されたと見るべきだな」

 

「言峰は……」

 

 士郎が言う。

 

 凛は首を横に振った。

 

「今はセイバー優先。言峰綺礼が本当にやられたかどうかは後で考える」

 

 確かに、言峰が簡単に消える姿は想像しにくい。

 

 だが今は、それよりもセイバーだった。

 

 ライダーが一歩、教会の敷地へ踏み込んだ。

 

 瞬間、地面に紫の糸が浮かび上がった。

 

 細い糸が石畳を這い、ライダーの神気に触れる。背の神鏡が淡く光ったが、その光はいつものようには広がらなかった。広がろうとした光が、見えない底へ引き込まれるように沈む。

 

 凛が息を呑む。

 

「慎二くんの感覚は正しかったみたいね。神気を消しているんじゃない。届くまでの距離を引き伸ばして、広がる前に沈めてる」

 

「ライダーは大丈夫なのか」

 

「平気ではないわ」

 

 凛は即答した。

 

「でも、止まるつもりもないみたい」

 

 ライダーは振り返らなかった。

 

 白い神狼は、そのまま教会の扉へ進む。

 

 士郎たちも続いた。

 

 扉の前に立つ。

 

 凛が宝石を一つ手に取り、軽く魔力を通す。

 

「罠はある。けど、ここで止まっていても始まらない」

 

「ああ」

 

 士郎は頷く。

 

 アーチャーが前へ出る。

 

「開けるぞ」

 

 扉が開いた。

 

 礼拝堂の中に、祈りの声はなかった。

 

 代わりに、紫の糸があった。

 

 床に、柱に、長椅子に、祭壇に。細い糸が絡みつき、教会そのものを別のものへ変えている。本来なら救いを求めるための場所が、今は入った者を絡め取る魔女の工房になっていた。

 

 祭壇の前に、キャスターが立っている。

 

 その隣には葛木宗一郎。

 

 そして、礼拝堂の奥。

 

 紫の糸に縛られたセイバーがいた。

 

 白いドレス姿だった。

 

 戦場で見慣れた鎧ではない。凛とした青い衣でもない。白いフリルのついた、どこか飾り物のような服。腕と胴、足元に紫の糸が絡みつき、祭壇の奥に繋がれている。

 

 剣はない。

 

 けれど、その目には意識があった。

 

 怒りがあった。

 

 屈辱があった。

 

 そして、士郎を見た瞬間、その目がかすかに揺れた。

 

「セイバー……」

 

 士郎の声が漏れた。

 

 体が前へ出そうになる。

 

 だが、止まった。

 

 自分で止めた。

 

 走らない。

 

 ここで走れば、キャスターの思うつぼだ。

 

 セイバーが唇を動かした。

 

「マスター……来ては、いけません……」

 

 その声は震えていた。

 

 けれど、確かにセイバーの声だった。

 

 キャスターが笑う。

 

「来てほしいから見せているのよ。分かるでしょう?」

 

 凛の顔が険しくなる。

 

「趣味が悪いにもほどがあるわね」

 

「剣を奪ったのだから、飾っておくのも悪くないでしょう?」

 

 キャスターは穏やかに言った。

 

 その声音が、余計に悪趣味だった。

 

「それに、この姿の方が分かりやすい。彼女は今、あなたたちの剣ではない。私が奪ったものよ」

 

 士郎の胸の奥に怒りが燃える。

 

 だが、足は動かさなかった。

 

 凛が小さく言った。

 

「よく止まったわね」

 

「……今動いたら、取り戻せないだろ」

 

「そうね」

 

 キャスターは士郎を見る。

 

「あら。つまらないわね。もう少し感情的に飛び込んでくれると思ったのに」

 

「何度も何度も同じ失敗はしない」

 

 士郎は低く言った。

 

 キャスターの目が細くなる。

 

「そう。なら、別の形で動かしてあげる」

 

 キャスターが指を動かした。

 

「立ちなさい、セイバー」

 

 紫の糸が解ける。

 

 いや、解けたように見えただけだった。

 

 セイバーの体から外側の糸は離れたが、もっと細い糸が彼女の内側へ残っている。士郎にはまだ見えない。だが、凛の表情で分かった。

 

 セイバーは抵抗した。

 

 立つまいと、全身に力を込める。

 

 だが、体は動いた。

 

 ゆっくりと立ち上がる。

 

 白いドレスの裾が床を擦る。

 

 その姿が、どうしようもなく痛々しかった。

 

「剣を取りなさい」

 

 キャスターが命じる。

 

 その瞬間、キャスターから伸びた神代の魔力が、強制的にセイバーの霊基へと流れ込んだ。

 

 セイバーの顔が苦痛に歪む。

 

 自らの魔力ではない。

 

 自らの意思でもない。

 

 キャスターの膨大な魔力が、契約線を通して強引に流し込まれ、セイバーの内側にある宝具を外側から叩き起こしている。

 

 空気が揺れた。

 

 セイバーの手元に、強制的に風が集まる。

 

 不可視の剣。

 

 風王結界(インビジブル・エア)

 

 本来なら、セイバー自身が誇りと意思をもって纏うはずの風が、今はキャスターの魔力を燃料として起動させられている。

 

 白いドレス姿のまま、セイバーは剣を握らされた。

 

「……やめ、なさい……」

 

 セイバーの声が震える。

 

「私の剣に、触れるな……!」

 

「あら。契約は私のものよ」

 

 キャスターは冷たく言った。

 

「なら、あなたの剣も私のもの」

 

 セイバーの目に怒りが宿る。

 

 だが、体は逆らえない。

 

「迎えなさい」

 

 キャスターの声が響く。

 

「あなたの元マスターたちを」

 

 セイバーの足が動いた。

 

 士郎へ向かう。

 

 しかし、その前に白い影が立った。

 

 ライダーだった。

 

 セイバーの不可視の剣が振るわれる。

 

 風が裂ける。

 

 ライダーの神鏡が光り、剣を受けた。

 

 金色の光と、見えない剣がぶつかる。

 

 礼拝堂の空気が震えた。

 

「ライダー……退いてください……!」

 

 セイバーの声が苦しげに響く。

 

 ライダーは退かなかった。

 

 吠えもしない。

 

 ただ、神鏡で受け止める。

 

 セイバーを傷つけるためではない。

 

 止めるために。

 

 キャスターは満足そうに笑った。

 

「やはり、攻撃できないのね。優しい太陽」

 

 ライダーの赤い隈取が、わずかに濃く見えた。

 

 怒っている。

 

 だが、その怒りは牙としてセイバーへ向かなかった。

 

 もう一方で、葛木が動いた。

 

 足音はない。

 

 気づいた時には、凛の前に迫っている。

 

 アーチャーが割り込んだ。

 

 干将・莫耶が現れ、葛木の拳を受ける。

 

 重い衝撃が礼拝堂に響いた。

 

「前より速いな」

 

 アーチャーが低く言う。

 

 葛木は答えない。

 

 キャスターの工房の中だからだろう。葛木の強化は安定している。拳の軌道は読みにくく、一撃ごとに殺意が乗っている。アーチャーは双剣で受け流しながら、凛と士郎の位置を守るように動いていた。

 

「凛、解析しろ。長くは持たんぞ」

 

「言われなくても!」

 

 凛は宝石を握り、足元の術式を見た。

 

「士郎、視界を合わせるわ。見るだけ。絶対に動かない」

 

「分かった」

 

 凛の指が士郎の目元に触れる。

 

 次の瞬間、世界の色が変わった。

 

 礼拝堂の床に、紫の線が浮かび上がる。

 

 柱、天井、祭壇、長椅子。

 

 全てに魔術の糸が絡んでいた。

 

 そして、セイバー。

 

 白いドレスの上からではない。

 

 もっと奥。

 

 彼女の霊基に、紫の太い線が入り込んでいる。

 

 キャスターから伸びた契約線。

 

 それが、かつて士郎とセイバーを繋いでいた場所に入り込み、上書きしている。

 

 士郎は吐き気を覚えた。

 

 自分が守れなかった場所に、キャスターの糸が入り込んでいる。

 

「見える……!」

 

「どこ!?」

 

「セイバーの背中側。太い線がある。そこから胸の奥に入ってる。でも、その周りにも細い糸が多すぎる」

 

「表の拘束に惑わされないで。本命は契約線よ」

 

 凛は宝石を構える。

 

 その時、キャスターが笑った。

 

「見せてあげているのよ」

 

 士郎の背筋が冷えた。

 

「何……?」

 

「あなたに見えるように、少しだけ開いてあげているの。そこへ来たくなるでしょう? そこを切れば助けられると思うでしょう?」

 

 キャスターの指が動く。

 

 セイバーの背後の太い線が、わざとらしく脈打った。

 

 罠。

 

 士郎にも分かった。

 

 見えているのではない。

 

 見せられている。

 

 凛が舌打ちする。

 

「やっぱり誘導ね!」

 

「でも、あれが本命なのは間違いない」

 

「だから面倒なのよ!」

 

 ライダーが一歩踏み込もうとした。

 

 その瞬間、礼拝堂の奥、地下へ続く扉が開いた。

 

 紫の光が、底から湧き上がる。

 

 ステンドグラスの影が黒く染まった。

 

 床に張られた糸が一斉に震える。

 

 ライダーの神鏡の光が、さらに沈んだ。

 

「ここは太陽が届かない場所よ」

 

 キャスターの声が、礼拝堂に響く。

 

「白い荒神。あなたの光は、ここでは広がらない。祈りの場は、もう夜の底に沈んでいる」

 

 ライダーの動きが鈍る。

 

 セイバーの剣が走った。

 

 神鏡で受ける。

 

 だが、光が弱い。

 

 不可視の剣が神鏡の端をかすめ、ライダーの肩口の白い毛を裂いた。

 

 金色の神気が、血のようにこぼれる。

 

「ライダー!」

 

 士郎が叫ぶ。

 

 ライダーは倒れない。だが、押されている。

 

 セイバーは苦しげな顔で剣を振るう。

 

 本人は止まりたいはずなのに、キャスターの命令が止めさせない。

 

 しかも、その剣を動かしている魔力はキャスターのものだ。

 

 セイバー自身の誇りも意思も踏みにじり、魔女の魔力で剣だけを振るわせている。

 

「やめてください……ライダー……!」

 

 セイバーの声が震える。

 

 ライダーは神鏡で受け続ける。

 

 爪も立てない。

 

 牙も使わない。

 

 セイバーを傷つけない。

 

 それをキャスターは分かっていた。

 

「救いたいものを盾にすれば、あなたは牙を鈍らせる」

 

 キャスターは笑った。

 

「神であっても、優しさは弱点になるのね」

 

 アーチャーの方でも状況は悪くなっていた。

 

 葛木の拳が双剣の隙間を通り抜ける。

 

 アーチャーは身を捻ってかわすが、肩をかすめた。赤い外套が裂ける。

 

「アーチャー!」

 

「こちらを見るな!」

 

 アーチャーは叫び、葛木の追撃を干将で受けた。

 

 凛も術式の妨害に追われている。

 

 宝石を投げれば、一つの糸は切れる。

 

 だが、別の糸がすぐに補う。

 

 教会そのものがキャスターの工房になっている。どこを壊しても、別の場所から支えが伸びる。

 

「きりがない……!」

 

 凛が歯を食いしばる。

 

 士郎は見えていた。

 

 見えているのに、手が届かない。

 

 セイバーの契約線。

 

 キャスターの罠。

 

 ライダーの神気を沈める結界。

 

 全部が見えている。

 

 なのに、何もできない。

 

 またか。

 

 また、自分は見ているだけなのか。

 

 その思いが胸を焼く。

 

 ……その時、ライダーの神鏡が一瞬だけ強く光った。

 

 ◇

 

 衛宮邸。

 

 遠く離れた茶の間で、桜が右手を押さえていた。

 

 包帯の下。

 

 薄くなった令呪が、強く熱を持っている。

 

「ライダーさん……」

 

 桜は目を閉じる。

 

 祈るように。

 

「セイバーさんを……」

 

 その願いが最高潮に達した瞬間、包帯の下で脈打っていた令呪の一画が、激しい熱と共に完全に消滅した。

 

 桜は息を呑む。

 

 痛みではない。

 

 けれど、右手から何か大きなものが抜け落ちていく感覚があった。

 

 一画の令呪が秘めていた聖杯の魔力が、純粋な祈りの形を取って、距離を越え、まっすぐにライダーの内側へと注ぎ込まれる。

 

 セイバーさんを、助けてください。

 

 最大級の魔力バックアップを得て、ライダーの足が、もう一歩だけ前に出た。

 

 神鏡がセイバーの剣を受け、押し返す。

 

 ほんの一瞬、太陽封じの重さが揺らいだ。

 

 その隙に、ライダーの背で蒼い剣が形を取る。

 

 慎二を救った時の剣。

 

 切るための剣。

 

 殺すためではなく、縛りを断つための刃。

 

 キャスターの顔が歪む。

 

「また、その剣……!」

 

 ライダーが踏み込む。

 

 狙いはセイバーではない。

 

 セイバーの背後に伸びる契約線。

 

 だが、キャスターの命令は早かった。

 

「守りなさい、セイバー」

 

 セイバーの体が動いた。

 

 自分を縛る糸を、守らされる。

 

 不可視の剣が、ライダーの蒼い剣を受けた。

 

 セイバーの顔が苦痛に歪む。

 

「ライダー……私を、斬ってでも……!」

 

 言葉は、そこまでだった。

 

 キャスターの糸がセイバーの声を塞ぐ。

 

 ライダーは斬らなかった。

 

 斬れなかったのではない。

 

 斬らないと、決めていた。

 

 剣の軌道を変え、セイバーの体を避ける。外側に絡む拘束糸の一本だけを狙う。

 

 蒼色の刃が走った。

 

 紫の糸が一本、切れる。

 

 セイバーの腕が一瞬だけ自由になる。

 

 剣の軌道がわずかにずれた。

 

 その瞬間、士郎には見えた。

 

 紫の契約線の奥。

 

 まだ消えきっていない細い痕跡。

 

 かつて、自分とセイバーを繋いでいた道。

 

「セイバー……!」

 

 セイバーも士郎を見た。

 

 ほんの一瞬だけ、命令の隙間から自分の意思で。

 

「マスター……まだ……」

 

 声が震える。

 

「まだ、繋がっています……!」

 

 士郎の胸が強く鳴った。

 

 切られたと思っていた。

 

 全部、奪われたと思っていた。

 

 けれど、まだ残っている。

 

 完全には消えていない。

 

 取り戻せる。

 

 その希望が見えた瞬間、キャスターの表情から余裕が消えた。

 

「そこまで届くの……?」

 

 だが、動揺は一瞬だった。

 

 キャスターはすぐに手を振る。

 

 地下からさらに濃い紫の光が湧いた。

 

「なら、もっと深く沈めるまでよ」

 

 礼拝堂全体が軋んだ。

 

 糸が増える。

 

 床から、柱から、祭壇から。

 

 セイバーの体へ、さらに深い契約の糸が伸びる。

 

 ライダーの神鏡の光が、再び沈む。

 

 セイバーの腕が縛られる。

 

 アーチャーは葛木に押し込まれ、凛は術式の補助に手を割かれ、士郎は見えているだけで届かない。

 

 キャスターは息を整え、冷たく笑った。

 

「終わりよ。白い荒神」

 

 ライダーは、セイバーの剣を受け止めていた。

 

 神鏡は重い。

 

 光は沈む。

 

 肩から漏れる神気が、紫の糸に吸われていく。

 

 この場所は、キャスターが作った太陽の届かない聖堂。

 

 夜の底。

 

 神の家を塗り替えた、魔女の工房。

 

 その中心で、白い神狼は静かに目を細めた。

 

 桜の願いが、内側を満たしている。

 

 セイバーさんを、助けてください。

 

 令呪として刻まれ、完全に消費されたその命令は、鎖ではなかった。

 

 それは、声だった。

 

 震えながらも逃げなかった少女の声。

 

 怖いと言いながら、それでも誰かを救いたいと願った声。

 

 その声が、聖杯戦争のシステムに刻まれた絶対命令権の魔力を伴って、ライダーの霊基へ流れ込んでいる。

 

 ライダーの中で、何かが深く沈み、そして浮かび上がる。

 

 宝具。

 

 聖杯は、そう教えた。

 

 英霊の生涯。

 

 逸話。

 

 人類の歴史に刻まれた象徴。

 

 それらが魔術的に結晶化したもの。

 

 だが、自分は英霊ではない。

 

 英霊の座に刻まれた英雄ではない。

 

 人の歴史に登録された名ではない。

 

 神として呼ばれたもの。

 

 白い獣として大地を駆けたもの。

 

 ならば、自分の宝具とは何か。

 

 鏡か。勾玉か。剣か。

 

 違う。

 

 それらは手段にすぎない。

 

 思い浮かぶものがある。

 

 小さな相棒の声。うるさくて、騒がしくて、けれど誰よりも信じてくれた絵師。

 

 枯れた大地に咲いた花。

 

 呪いに沈んだ村。

 

 空を覆う常闇。

 

 それでも、太陽を待っていた人々。

 

 祈り。

 

 信じる心。

 

 闇を晴らした旅。

 

 ナカツクニ、かつて救った世界。

 

 朝を取り戻した大地。

 

 ならば、宝具とは武器ではない。

 

 技ではない。

 

 己が照らした世界そのもの。

 

 闇に沈んだ場所へ、もう一度夜明けを運ぶこと。

 

 それが、太陽の役目。

 

 それが、◾︎◾︎◾︎◾︎◾︎という存在の結晶。

 

 ライダーの神鏡が、静かに震えた。

 

 紫の糸に沈められていた光が、内側から変わる。

 

 それは、ただ明るくなるのではない。

 

 桜から託された令呪一画分の絶対的な魔力奔流。

 

 それが、神霊としてのライダーの霊基を全盛期へと押し上げ、同時にキャスターが教会に敷いた結界の許容量を、力任せに超過させていく。

 

 夜の底を維持していた術式が震えた。

 

 紫の糸が、一本、また一本と悲鳴を上げるように軋む。

 

 キャスターが作った太陽封じは、ライダーの神気を沈めるためのものだった。

 

 だが、令呪一画分の出力を受けた神霊の霊基変質までは想定していない。

 

 流し込まれた魔力の量が、結界の許容量を超える。

 

 沈めるはずの底が、底でなくなる。

 

 受け止めるはずの闇が、内側から溢れ返る。

 

 礼拝堂の床に、墨のような黒い線が走った。

 

 紫の糸の上を、白い筆跡が横切る。

 

 長椅子の隙間に、一瞬だけ小さな花が咲いた。

 

 ステンドグラスを覆っていた黒い影が、朝焼けの色にひび割れる。

 

 夜の底を維持していた術式が、令呪の出力に耐えきれず、内側から音を立てて決壊していく。

 

 キャスターの目が見開かれた。

 

「何……?」

 

 彼女はすぐに気づいた。

 

 これは結界ではない。

 

 工房の上書きでもない。

 

 もっと根本的なもの。

 

 この場所の世界そのものが、別の理に近づいている。

 

「まさか……土地の霊脈ごと、世界のルールを塗り替えているというの……!?」

 

 白い神狼の姿が、変わり始めた。

 

 体躯が大きくなる。

 

 白い毛並みが朝日のように輝き、紅い隈取が鋭く、深く浮かび上がる。

 

 背の神鏡が、ただの神鏡ではなくなる。

 

 猛る橙の炎を宿した古銅の真経津鏡。そこに清冽な青緑の水紋が走り、すべてを灼く深紅の鏡面──太陽を映す『八咫鏡』へ。

 

 淡い黄金に煌めく六つ宙に連なるの勾玉の足玉が、幾何学的な星の結晶を象り、神秘的な白紫の光を放つ深碧の十二の勾玉──『八尺瓊勾玉』へ。

 

 深い海の如き蒼を湛えた剣の都牟刈太刀が、その身を裂くような黄金の雷光を纏い、雲を裂く至高の剣――『天叢雲剣』へ。

 

 鏡を除く二つの神器が、ライダーの周囲に輪を描くように展開され、また消える。

 

 セイバーの剣を受け止めていた神鏡が、今度は世界を照らす太陽となる。

 

 凛は息を呑んだ。

 

「ライダー……?」

 

 アーチャーも、葛木との間合いを保ったまま目を細める。

 

「これは……宝具か」

 

 士郎は、ただその姿を見ていた。

 

 白い神狼。

 

 いや、違う。

 

 目の前にいるのは、神話の奥から現れた太陽そのものだった。

 

 聖杯から与えられた言葉が、初めて形を持つ。

 

 宝具の解放。

 

 その名は――。

 

大神顕現・中津国の夜明け(おおかみけんげん・なかつくにのよあけ)

 

 圧倒的な神威が、魔女の聖堂を満たしていく。

 

 太陽の届かないはずの場所に。

 

 今、朝が来た。

 





白野威、顕現

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