Fate/Divine Brush──桜花浄界──   作:一般ガス会社社員

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感想を頂いたので続きです



The Divine Guest

 

 衛宮邸の茶の間に、いつもと違う空気が流れていた。

 

 普段なら、この時間の茶の間はもっと緩い。藤村大河が座布団を占領し、茶菓子を食べながら好き勝手に喋り、士郎がそれに呆れつつも茶を淹れる。桜がいる時は、少し静かになる。けれど、それは居心地の悪い静けさではない。穏やかで、台所から味噌汁の匂いがするような、日常の中の沈黙だった。

 

 だが、今は違う。

 

 ちゃぶ台を挟んで、衛宮士郎、間桐桜、遠坂凛が座っている。

 

 庭には、白い神狼がいた。

 

 雪のような毛並み。額から鼻筋、頬へ走る紅い隈取。四肢に刻まれた渦のような紋様。背には太陽を宿したような神鏡を負い、尾へ流れる毛は夜風の中で赤と橙の炎のように揺れている。縁側越しにその姿が見えるたび、士郎はどうしても現実感を失いそうになった。

 

「……まず確認するわ」

 

 凛が額に手を当てながら言った。

 

「衛宮くん。あなた、聖杯戦争のことは本当に何も知らないのね?」

 

「ああ」

 

 士郎は頷いた。

 

「魔術があるのは知ってる。親父に少しだけ教わったからな。でも、聖杯戦争とか、サーヴァントとか、マスターとかは初耳だ」

 

「少しだけ、ね……」

 

 凛は疲れたように息を吐いた。

 

「それで、よりによってこの状況に巻き込まれるわけ。ほんと、どうしてこうなるのよ」

 

「俺に言われても困る」

 

「分かってるわよ」

 

 凛は士郎を軽く睨んだ後、桜へ視線を向けた。

 

 桜は俯いている。右手を膝の上に置き、その上に左手を重ねていた。赤い令呪は袖で隠れているが、そこにあることを全員が知っている。

 

 凛はしばらく言葉を選ぶように沈黙してから、口を開いた。

 

「聖杯戦争は、冬木の地で行われる魔術師同士の戦いよ。七人のマスターが選ばれ、それぞれ一騎ずつサーヴァントを召喚する。セイバー、アーチャー、ランサー、ライダー、キャスター、アサシン、バーサーカー。この七つのクラスのどれかに英霊が収まり、マスターと契約する」

 

「英霊っていうのは?」

 

「簡単に言えば、過去の英雄や伝説上の存在の影法師みたいなもの。本体じゃない。聖杯というシステムに呼ばれた、戦うための使い魔に近い存在」

 

 そこで、庭の白い神狼が耳を動かした。

 

 凛は縁側の方をちらりと見る。

 

「……まあ、普通はね」

 

「普通じゃないのか」

 

「普通じゃないでしょ、どう見ても」

 

 凛は白い神狼を指差した。

 

「あれを見て、普通の英霊ですって言える?」

 

 士郎は庭を見た。

 

 白い神狼──桜がライダーさんと呼ぶサーヴァントは、縁側の近くで伏せていた。けれど、完全にくつろいでいるわけではない。凛に対しても、周囲の気配に対しても、常に注意を向けているようだった。

 

「……確かに、普通ではないな」

 

「でしょうね」

 

 凛は深くため息をついた。

 

「しかも、ただの神獣じゃない。神性が高すぎる。霊基はライダーに収まっているみたいだけど、本質は英霊というより神霊に近いわ。そんなものが間桐の召喚陣から出てくるなんて、普通ならありえない」

 

「神霊?」

 

「神様そのもの、あるいはそれに近い存在ってこと。現代の聖杯戦争で、完全な神霊は普通呼べない。器に収まらないから。でも、あの子は呼ばれている。たぶん、完全な本体じゃなくて、何かしら制限された分霊に近い形で」

 

 士郎は眉を寄せる。

 

「つまり、桜は神様みたいなサーヴァントを召喚したってことか」

 

「雑に言うとそう」

 

 凛は頭を抱えた。

 

「本当に雑だけど、今はそう理解しておいて」

 

 士郎はまた庭を見た。

 

 ライダーは首を傾げていた。

 

 その仕草だけを見ると、どうにも神様というより犬に見える。いや、犬と言うにはあまりにも神々しすぎるのだが、それでも先ほどから士郎の中で「すごい犬」という認識が顔を出してくる。

 

「……犬っぽいな」

 

 士郎が小さく呟く。

 

 凛の眉が跳ねた。

 

「衛宮くん。神霊級のサーヴァントに向かって、その感想は危機感がなさすぎるわよ」

 

「いや、でも今、首を傾げてるし」

 

 ライダーが、ふん、と鼻を鳴らした。

 

 士郎はますます少し笑いそうになった。

 

 桜も、ほんのわずかに口元を緩める。

 

 凛はその表情を見て、言いかけた言葉を飲み込んだ。

 

 しかし、その和らいだ空気は長く続かなかった。

 

 庭のライダーが、すっと頭を上げた。

 

 耳が動く。

 

 紅い隈取が、夜の中でわずかに濃く浮かび上がった。士郎には分からなかったが、ライダーの視線は凛の背後、何もないはずの空間へ向けられている。

 

 それまで静かにしていたライダーが、ゆっくりと立ち上がった。

 

 桜が不安そうに顔を上げる。

 

「ライダーさん……?」

 

 ライダーは唸らなかった。

 

 吠えもしなかった。

 

 ただ、桜の前に立った。

 

 その動きだけで、茶の間の空気が一気に変わった。温かかった神気が、薄い刃のような緊張を帯びる。桜を守るための位置。凛との間ではなく、凛の背後にある何かとの間に、自分の体を置くような動きだった。

 

 士郎はその視線を追った。

 

 何も見えない。

 

 だが、確かに何かがいる。

 

 空気の一部だけが、薄く張りつめている。

 

「遠坂」

 

 士郎は低く言った。

 

「そこに、何かいるのか」

 

 凛は一瞬、黙った。

 

 それから観念したように息を吐く。

 

「……アーチャー。姿を出して」

 

 凛の背後の空気が揺らいだ。

 

 何もない空間から、人影が現れる。

 

 赤い外套。浅黒い肌。白い髪。背筋を伸ばした男が、腕を組んで立っていた。士郎は思わず立ち上がりかけた。

 

「遠坂、こいつがサーヴァントか?」

 

「そう。私のサーヴァント、アーチャーよ」

 

 凛は短く紹介した。

 

 士郎はアーチャーを見る。

 

 庭のライダーは明らかに人間ではない。だが、目の前の男は違う。普通に人間に見える。いや、雰囲気は普通ではない。だが、姿だけなら街中にいてもおかしくない。

 

「……人間に見える」

 

 士郎が呟く。

 

 アーチャーは片眉を上げた。

 

「失礼な感想だな」

 

「悪い。サーヴァントって、もっとこう、庭にいるライダーみたいなのを想像してた」

 

「比較対象が悪すぎるわよ」

 

 凛が即座に突っ込んだ。

 

 アーチャーは士郎から視線を外し、庭のライダーを見た。

 

 ライダーもアーチャーを見ている。

 

 両者の間に、言葉はない。

 

 けれど、士郎にも分かった。

 

 これは、ただ見ているだけではない。

 

 互いを測っている。

 

 アーチャーの視線は冷静だった。驚きはあるが、それに呑まれてはいない。相手の立ち位置、呼吸、魔力の流れ、桜との距離、凛との距離。その全てを見ているようだった。

 

 一方で、ライダーは静かだった。

 

 牙を見せない。

 

 唸らない。

 

 だが、桜の前から退くつもりもない。

 

 紅い隈取が淡く光り、背の神鏡が月光を受ける。庭にいるだけで、夜の一部が切り取られ、そこだけ朝の気配を帯びているようだった。

 

 アーチャーが小さく息を吐く。

 

「神性が高すぎるな」

 

 凛が眉をひそめる。

 

「やっぱり、あなたから見てもそう?」

 

「ああ。ライダーの霊基に収まっているが、本質は英霊というより神霊に近い。しかも、ただ力を振るう類ではない。場そのものを変える性質を持っている」

 

 アーチャーの声は落ち着いていた。

 

 だが、その目は警戒を解いていなかった。

 

「敵に回すべき相手ではないな」

 

 その言葉に、桜が小さく息を呑む。

 

 士郎もアーチャーを見る。

 

「そんなに危ないのか」

 

「危険、という言葉だけでは足りない。格が違う。ただし──」

 

 アーチャーはライダーを見る。

 

「今のところ、攻撃性は低い。優先順位がはっきりしている。そちらのマスターを守ること。それが第一だ。それ以外のものに対しては、こちらから踏み込まない限り、積極的に噛みつくつもりはないらしい」

 

 ライダーは黙っている。

 

 けれど、その尾がわずかに揺れた。

 

 図星だと言っているようにも見えた。

 

 アーチャーは肩をすくめる。

 

「安心しろ。今夜、そちらのマスターに危害を加える気はない」

 

 ライダーはアーチャーをじっと見つめたままだった。

 

 数秒。

 

 庭の空気が張りつめる。

 

 士郎は無意識に桜の方へ体を向けていた。何かが起これば庇うつもりだった。だが、自分に何ができるのかは分からない。それでも、体だけが先に動いていた。

 

 やがて、ライダーの背の神鏡の光がほんの少し弱まった。

 

 桜の前から完全には退かない。

 

 だが、戦うための構えではなくなった。

 

 アーチャーはその変化を確認し、わずかに口元を緩めた。

 

「賢明な判断に感謝する」

 

 ライダーは、ふん、と鼻を鳴らした。

 

「……今の、馬鹿にされてない?」

 

 凛が小声で言う。

 

「かもしれん」

 

 アーチャーは平然と返した。

 

 士郎はまた少しだけ笑いそうになった。

 

 緊張感は残っている。

 

 だが、少なくとも今すぐ戦いになる空気ではなかった。

 

 桜もそれを感じたのか、そっとライダーの背に手を伸ばした。縁側越しに届く距離ではなかったが、その仕草だけでライダーは桜の方を振り返る。赤い隈取のある顔が、先ほどまでの神域の獣から、少しだけ優しいものに変わった気がした。

 

 凛はその様子を見て、ゆっくりと息を吐いた。

 

「……とにかく、今のところ戦闘の意思はなし。そう見ていいわね」

 

「そうだな」

 

 アーチャーが答える。

 

「ただし、ライダーのマスターに危害が及ぶと判断した場合は別だろう。おそらく、その時は容赦がない」

 

「分かってるわよ」

 

 凛は真剣な顔で頷いた。

 

「だからこそ、今夜は変な刺激をしない。桜の状態確認と、今後の方針を決める。それだけにする」

 

 ライダーはその言葉を聞いたように、静かに伏せた。

 

 ただし、桜の前からは動かない。

 

 アーチャーもまた、壁際に移動し、腕を組んだ。

 

 士郎は改めて思った。

 

 これがサーヴァント。

 

 人の形をした英霊と、白い神狼の姿をしたライダー。どちらも、目の前にいるのに、まるで別の世界の存在だった。

 

 凛は気を取り直すように咳払いをした。

 

「話を戻すわ。桜。あなたの状態を確認させて」

 

 桜の肩がわずかに震える。

 

 士郎は反射的に口を開いた。

 

「遠坂、桜に無理はさせるな」

 

「分かってるわよ。あなたに言われなくても」

 

 凛は少し強く返したが、その声にはいつもの棘がなかった。

 

 桜を見る目も、魔術師が対象を観察するそれではない。少なくとも士郎には、そう見えた。もっと複雑で、言葉にしにくい感情がそこにあった。

 

「無理なら言って。詳しいことは後でいい。今確認したいのは、体に危険が残っているかどうかだけ」

 

 桜は凛を見た。

 

 しばらくして、小さく頷く。

 

「……お願いします、遠坂先輩」

 

 凛の表情が一瞬だけ揺れた。

 

 遠坂先輩。

 

 学校では自然な呼び方だ。けれど、この場でその呼び方をされると、凛は何かをこらえるように唇を結んだ。

 

「じゃあ、右手を出して」

 

 桜は袖を少し上げ、右手を差し出した。

 

 赤い令呪が、茶の間の明かりの下に現れる。

 

 士郎はそれを見つめた。

 

 凛の手にも、同じような赤い刻印がある。形は違うが、同じ系統のものだと分かる。二人ともマスター。つまり、聖杯戦争の参加者。

 

 凛は桜の手首に軽く指を添えた。

 

 魔力を見るためなのか、凛の指先に淡い光が宿る。桜は少し身を強張らせたが、逃げなかった。

 

 庭のライダーが、静かに凛を見ている。

 

 アーチャーもその視線に気づいているのか、壁際で目を細めた。

 

 数秒。

 

 凛の表情が変わった。

 

「……嘘でしょ」

 

 小さな声だった。

 

 士郎が身を乗り出す。

 

「遠坂?」

 

「待って。もう少し見る」

 

 凛は桜の手首から、腕、肩、胸元へと視線を移した。直接触れるのは手首だけだったが、魔力の流れを追っているのだろう。表情はどんどん険しくなる。だが、それは危険を見つけた顔ではなかった。

 

 むしろ、信じられないものを見た顔だった。

 

「痕跡はある」

 

 凛は呟いた。

 

「間桐の蟲術の痕跡。回路に絡みついていた形跡も、無理に作り替えられた部分もある。でも……本体がない。残ってない。焼き払ったわけでも、無理に引き抜いたわけでもない。こんなの、ありえるの?」

 

 桜は不安そうに凛を見る。

 

「遠坂先輩……?」

 

 凛ははっとして、桜の手を離した。

 

「ごめん。怖がらせる言い方をしたわね」

 

「いえ」

 

「桜、今のところ、危険な異物は見当たらない。少なくとも、私が見る限りでは。魔術回路は負担を受けているけど、壊れてはいない。むしろ、今まで無理に押し込められていたものが消えて、流れが整いつつある」

 

 桜は、しばらくその言葉を理解できないようだった。

 

「……もう、大丈夫なんですか」

 

「断言はできない。専門的な検査が必要な部分もある。でも、少なくとも今すぐ命に関わるような状態じゃない」

 

 桜の目に、涙が浮かんだ。

 

 それを見て、士郎の胸が痛んだ。

 

 桜は泣かなかった。泣きそうになりながらも、唇を結んで耐えている。たぶん、これまでずっとそうしてきたのだろう。泣くことさえ、許されない場所にいたのかもしれない。

 

 士郎は拳を握った。

 

 凛は庭のライダーを見た。

 

「あなたがやったのね」

 

 ライダーは答えない。

 

 ただ、背の神鏡が淡く光る。

 

「何なのよ、本当に……桜本人を傷つけずに、桜じゃないものだけを選んで祓うなんて。そんなの、ただの浄化じゃない。対象の本質を見分けてる」

 

 アーチャーが口を開いた。

 

「浄化というより、修復に近いな」

 

 士郎はアーチャーを見る。

 

「修復?」

 

「壊れた器を無理に焼いて直したのではない。異物を取り除き、歪められた流れを本来の形に戻している。かなり精密な干渉だ。少なくとも、現代の魔術師が容易にできる芸当ではない」

 

 凛は苦々しげに頷いた。

 

「でしょうね。そんなことを簡単にやられたら、魔術師の立場がないわ」

 

 ライダーがまた首を傾げる。

 

 士郎はそれを見て、やはり少し犬っぽいと思った。

 

 だが、口には出さなかった。凛に怒られそうだったからだ。

 

「それで」

 

 凛は気を取り直すように言った。

 

「ここからが問題よ」

 

「まだあるのか」

 

 士郎が言うと、凛は鋭い目で睨んだ。

 

「問題しかないわよ。むしろ、今までのは状況確認。ここからどうするかを決めなきゃいけない」

 

 凛は指を一本立てる。

 

「まず、桜はマスターになった。これはもう変えられない。令呪が出ている以上、聖杯戦争のシステムに認識されている」

 

 二本目。

 

「次に、ライダーは桜のサーヴァント。クラスもおそらくライダーで間違いない。正体は不明。ただし、神性が高く、浄化能力を持つ規格外の存在」

 

 三本目。

 

「そして、間桐臓硯が消えた。これは聖杯戦争全体にとっても大事件よ。御三家の一角の実質的な管理者が、開戦前に消滅したんだから」

 

「消滅って……」

 

 士郎は桜を見た。

 

 桜は俯いたまま、小さく言った。

 

「ライダーさんが、祓ってくれました。お爺様を……お爺様だったものを」

 

 凛の表情が一瞬だけ暗くなる。

 

「そう」

 

 それだけだった。

 

 責める言葉はなかった。

 

 士郎はそれに少しだけ驚いた。凛なら、魔術師として臓硯の消滅をもっと問題にするかと思っていた。けれど、凛の声にあったのは、別の感情だった。

 

 安堵。

 

 もしくは、怒りの行き場を失ったような響き。

 

「じゃあ、桜はもう間桐の家に戻らなくていいんだな」

 

 士郎が言う。

 

 桜が顔を上げる。

 

 凛は一瞬、目を閉じた。

 

「魔術的には、戻す理由は薄いわ。臓硯がいないなら、あの家に桜を縛る中心は消えた。ただ、問題は慎二くんね」

 

「慎二?」

 

「彼がどう動くか分からない。マスターじゃないなら戦力としては問題にならないけど、外部に情報を漏らしたり、桜を連れ戻そうとしたり、面倒なことをする可能性はある」

 

 桜の肩がまた小さく震えた。

 

 ライダーの耳が動く。

 

 凛はそれを見て、慎重に言葉を続けた。

 

「それと、他のマスターに桜の存在が知られた場合も危険。サーヴァント戦は、マスターを狙うのが基本だから」

 

「マスターを?」

 

 士郎の声が低くなる。

 

「そう。サーヴァント同士で正面から戦うより、マスターを倒した方が早い。桜はもう、狙われる側なの」

 

 士郎は黙った。

 

 桜が狙われる。

 

 その言葉だけで、胸の奥に冷たいものが走った。

 

「だったら、桜はここにいればいい」

 

 士郎は言った。

 

 凛がこちらを見る。

 

「衛宮くん」

 

「戻りたくないって言った。なら戻らなくていい。部屋はある。食事も作れる。桜がここにいたいなら、ここにいればいい」

 

「あなた、聖杯戦争を舐めてるの?」

 

 凛の声が鋭くなる。

 

「相手は魔術師とサーヴァントよ。一般人の家にマスターを匿うなんて危険すぎる。結界も監視も不十分。敵に見つかったらどうするつもり?」

 

「じゃあ、桜をどこに連れて行くんだ」

 

「遠坂の家よ。少なくとも魔術的な防備はある。私が管理できる」

 

 桜が息を呑んだ。

 

 士郎はその反応を見逃さなかった。

 

「桜は遠坂の家に行きたいのか」

 

「それは……」

 

 桜は言葉に詰まる。

 

 凛も桜を見る。

 

 茶の間に沈黙が落ちた。

 

 桜は両手を握りしめ、長い時間をかけて、ようやく口を開いた。

 

「私は……」

 

 声は小さい。

 

 けれど、消えなかった。

 

「先輩の家に、いたいです」

 

 凛は何も言わなかった。

 

 桜は続ける。

 

「遠坂先輩が、私のことを心配してくれているのは分かります。でも、私は……今は、ここにいたいです。ここなら、息ができる気がするんです」

 

 息ができる。

 

 その言葉は、重かった。

 

 士郎は凛を見る。

 

「だそうだ」

 

「だそうだ、じゃないわよ」

 

 凛は苛立ったように言ったが、反論は弱かった。

 

「衛宮くん、あなた本当に分かってる? 桜をここに置くってことは、あなたも聖杯戦争の危険に巻き込まれるってことよ。サーヴァントが襲ってくるかもしれない。魔術師が家に入り込むかもしれない。あなた自身が狙われるかもしれない」

 

「それで桜を追い出すのか」

 

「……っ」

 

 凛が言葉を詰まらせる。

 

 士郎は静かに続けた。

 

「危ないから戻れって言うのは、違うだろ。桜が戻りたくないって言ったんだ。なら、ここにいればいい。俺にできることが少ないのは分かってる。でも、追い出す理由にはならない」

 

 凛は士郎を睨んだ。

 

 だが、その目には怒りだけではないものがあった。

 

「ほんと、あなたって……」

 

 凛は言いかけて、やめた。

 

 そして深く息を吐く。

 

「分かったわ」

 

 桜が顔を上げる。

 

「遠坂先輩……?」

 

「今夜はここでいい。少なくとも、無理に遠坂邸へ連れて行くことはしない」

 

 士郎は少しだけ肩の力を抜いた。

 

「助かる」

 

「ただし、条件がある」

 

 凛は指を立てた。

 

「一つ。桜とライダーのことは絶対に外部に漏らさない。藤村先生にも、学校の人間にも、慎二くんにも、余計なことは言わない」

 

「藤ねえにはどう説明するんだ」

 

「それはあなたが考えなさいよ」

 

「無茶言うな」

 

「無茶な状況を作ってるのはそっちでしょ」

 

 士郎は言い返せなかった。

 

 凛は二本目の指を立てる。

 

「二つ。衛宮くん、あなたには聖杯戦争の最低限の知識を覚えてもらう。マスターじゃないから関係ない、とはもう言えない。桜を匿う以上、知らないままでは危険すぎる」

 

「分かった」

 

「三つ。私がこの家に簡易結界を張る。外からの魔術的な探知や侵入を少しでも防ぐためよ」

 

 庭のライダーが耳を動かした。

 

 凛はそちらを見る。

 

「もちろん、あなたの許可も必要でしょうけど」

 

 ライダーはしばらく凛を見つめ、それから短く鳴いた。

 

 許可なのかどうか、士郎には分からなかった。

 

 凛はそれをどう判断したのか、肩をすくめる。

 

「たぶん、いいってことね」

 

 アーチャーが口を開く。

 

「念のため、私が周辺を監視しよう。今夜のあの反応は他の陣営にも感知されている可能性がある」

 

「お願い」

 

 凛は頷いた。

 

 ライダーがアーチャーを見る。

 

 アーチャーはまた両手を軽く上げた。

 

「先ほども言ったが、そちらのマスターに危害を加えるつもりはない。監視対象は外だ」

 

 ライダーはまだ見ている。

 

「警戒心が強いな」

 

 アーチャーが言う。

 

「桜を守ってるんだ」

 

 士郎が答えた。

 

 アーチャーは士郎を見て、少しだけ目を細める。

 

「そうか。ならば、良いことだ」

 

 その言い方が妙に引っかかったが、士郎は深く考えなかった。

 

 凛は立ち上がった。

 

「じゃあ、まずは家の周囲を見せてもらうわ。結界を張る場所を確認したい」

 

「分かった。案内する」

 

 士郎も立ち上がる。

 

 桜も立とうとしたが、凛が手で制した。

 

「桜は休んでいて。今夜は体力も魔力もかなり使っているはずだから」

 

「でも」

 

「いいから。これは命令じゃなくて忠告」

 

 桜は少し迷い、それから頷いた。

 

「……はい」

 

 士郎は桜を見た。

 

「何かあったら呼んでくれ」

 

「はい、先輩」

 

 庭に出ると、冬の夜気が頬を撫でた。

 

 衛宮邸の庭は広い。古い日本家屋に似合う、静かな庭だ。士郎にとっては見慣れた場所だったが、今夜は違って見えた。縁側の近くに白い神狼がいるだけで、庭全体がどこか神社の境内のような空気を帯びている。

 

 凛は庭を見回しながら、眉をひそめた。

 

「広いわね、ここ」

 

「ああ。管理は大変だけどな」

 

「結界を張るには悪くない。地脈の流れも思ったより素直だし、変な淀みも少ない。……ただ、魔術師の家としては防備が甘すぎるわ」

 

「魔術師の家じゃないからな」

 

「あなた、一応魔術師なんじゃないの?」

 

「一応な」

 

 凛はじろりと士郎を見る。

 

「その“一応”っていうの、後で詳しく聞くから」

 

「後でな」

 

 凛は庭の中心へ向かった。

 

 アーチャーは霊体化したのか、姿を消している。だが、気配はある。家の屋根の上か、塀の近くか。士郎には分からないが、見張っているのだろう。

 

 ライダーは桜のいる茶の間の近くに伏せていたが、凛が庭に術式を刻もうとした瞬間、静かに立ち上がった。

 

 凛が手を止める。

 

「……何?」

 

 ライダーは凛を見ず、庭をゆっくり歩き始めた。

 

 白い足が地面を踏むたび、草の先に淡い光が宿る。紅い隈取が月明かりに照らされ、背の神鏡が青白く輝く。士郎には、それがただ歩いているだけには見えなかった。

 

 何かをなぞっている。

 

 庭そのものに、見えない線を引いている。

 

 凛もそれに気づいたのか、息を呑んだ。

 

「ちょっと待って……これ、結界じゃない」

 

「違うのか」

 

「ええ。結界は外と内を分ける壁を作る。でもこれは……土地の流れを整えてる。害意や穢れが入りづらいように、場そのものを清めてるのよ」

 

 ライダーが庭の中央で立ち止まった。

 

 空中に、墨の線が走る。

 

 士郎は目を見開いた。

 

 筆などない。誰も書いていない。それなのに、夜空の下に太い墨の線が浮かび上がる。線はゆるやかな円を描き、その内側に小さな光を宿した。

 

 太陽。

 

 夜の庭に、小さな太陽が描かれる。

 

 けれど、それは地下室で見せたような強烈な光ではなかった。もっと柔らかい。朝日というより、障子越しに差し込む淡い陽のような光だ。

 

 続いて、もう一本の線が走る。

 

 今度は枝だった。

 

 墨で描かれた枝に、小さな蕾がつき、すぐに淡い花が咲く。光の花びらが、庭全体へ静かに舞い落ちた。

 

 士郎は、その花びらが地面に触れて消えるのを見た。

 

 すると庭の空気が変わった。

 

 冷たい冬の夜であることに変わりはない。だが、どこか柔らかい。暗さが薄れ、息をするのが楽になる。魔術のことは分からない士郎にも、ここが少し安全になったのだと分かった。

 

 凛は完全に固まっていた。

 

「……規格外にも程があるでしょ」

 

 屋根の上から、アーチャーの声がした。

 

「守りの陣地を作るのではなく、土地そのものを清めたか。これでは結界というより、聖域だな」

 

「簡単に言わないでよ。聖域化なんて、現代の魔術師がぽんとできるものじゃないわ」

 

「あれは現代の魔術師ではない。そもそも、魔術師という枠で測る相手でもないだろう」

 

「それはそうだけど!」

 

 凛は頭を抱えた。

 

 士郎は庭の中央に立つライダーを見た。

 

 ライダーは仕事を終えたと言わんばかりに、尻尾を軽く振っている。

 

「……助かる」

 

 士郎が言うと、ライダーはちらりとこちらを見た。

 

 その目は、どこか得意げにも見えた。

 

 士郎は小さく笑った。

 

 凛はそれを見て、またため息をつく。

 

「衛宮くん。あなた、状況の異常さに慣れるのが早すぎない?」

 

「そうか?」

 

「そうよ」

 

 凛は呆れたように言った。

 

「普通は、神様みたいな狼が庭を聖域化したら、もう少し驚くものよ」

 

「驚いてる。かなり」

 

「顔に出てない」

 

「そうか」

 

「そうよ」

 

 凛は肩を落とした。

 

 けれど、その表情には先ほどよりも少しだけ余裕が戻っていた。

 

 庭が清められたことで、最低限の安全は確保できたのだろう。凛は自分でも簡易結界を張り、ライダーの清めた場を壊さないように外周へ術式を置いていった。

 

 その間、士郎は手伝えることがほとんどなく、ただ凛の指示通りに庭の灯りを消したり、塀の周りを確認したりした。

 

 作業が終わる頃には、夜はさらに深くなっていた。

 

 茶の間に戻ると、桜は縁側の近くに座っていた。

 

 ライダーはその隣に伏せる。

 

 桜はライダーの毛並みにそっと手を置いている。その表情は疲れていたが、先ほどよりも穏やかだった。

 

「終わったのか」

 

 士郎が聞くと、凛は頷いた。

 

「ひとまずね。ライダーの清めた場に、私の簡易結界を重ねた。普通の魔術師なら、そう簡単には侵入できないはず。サーヴァント相手には気休めだけど、何もないよりはずっといい」

 

「ありがとう、遠坂」

 

「礼を言うなら桜に言いなさい。あなたの家がとんでもないものに守られることになったのは、桜とライダーのおかげだから」

 

 凛はそう言ってから、少しだけ気まずそうに桜を見た。

 

「……桜も、今夜は休みなさい」

 

「はい」

 

「明日、もう少し詳しく話すわ。聖杯戦争のことも、マスターとしての注意点も。それから……間桐の家のことも」

 

 桜は小さく頷いた。

 

 凛は何かを言いたげだった。

 

 だが、結局その場では言わなかった。

 

 士郎はそれに気づいたが、何も聞かなかった。凛と桜の間には、士郎の知らない何かがある。今それを問いただすべきではないと、なんとなく分かったからだ。

 

「遠坂はどうするんだ?」

 

「私は一度帰る。アーチャーに周囲を見張らせるし、何かあったらすぐ来るわ」

 

「帰って大丈夫なのか」

 

「私の家も放っておけないのよ。召喚したばかりだし、片づけなきゃいけないものもあるし」

 

 凛は少しだけ遠い目をした。

 

 士郎は何か壊したのだろうかと思ったが、聞かないことにした。

 

「ただし、衛宮くん」

 

 凛は急に真面目な顔になる。

 

「今夜は絶対に外に出ないこと。妙な物音がしても、自分だけで確認しに行かない。桜から離れすぎない。ライダーが反応したら、すぐに従う」

 

「分かった」

 

「本当に分かってる?」

 

「分かってる」

 

 凛はまだ疑わしそうだったが、それ以上は言わなかった。

 

 玄関まで凛を送る。

 

 門の外に出る前、凛は振り返った。

 

 視線は士郎ではなく、茶の間の方に向いていた。

 

「桜」

 

 呼ばれて、桜が顔を上げる。

 

「……また明日来るわ」

 

 それだけだった。

 

 けれど、桜は少し驚いたように目を見開き、それから小さく頷いた。

 

「はい。待ってます、遠坂先輩」

 

 凛は一瞬だけ唇を引き結び、すぐに背を向けた。

 

 アーチャーの気配もそれに続く。

 

 門が閉まる。

 

 夜の静けさが戻ってきた。

 

 士郎はしばらく門を見ていたが、やがて茶の間へ戻った。

 

 桜は縁側に座ったまま、庭を見ていた。

 

 ライダーはその隣に伏せている。背の神鏡には月が映り、紅い隈取が淡く光っていた。庭に描かれた小さな太陽はもう見えない。けれど、その名残のような暖かさが、衛宮邸全体に広がっている。

 

「桜」

 

 士郎が声をかける。

 

「部屋、用意する。布団も出すから、今日はもう休もう」

 

「……はい」

 

 桜は頷いた。

 

 だが、立ち上がる前に、ぽつりと言った。

 

「先輩」

 

「ん?」

 

「本当に、ここにいてもいいんですか」

 

 士郎は迷わなかった。

 

「ああ」

 

「迷惑じゃ、ありませんか」

 

「迷惑じゃない」

 

「危ないかもしれません」

 

「それでもだ」

 

 桜は士郎を見た。

 

 士郎はまっすぐ返す。

 

「桜がここにいたいなら、ここにいればいい。俺はそう思ってる」

 

 桜の瞳が揺れる。

 

 今度こそ泣くのではないかと思った。

 

 けれど桜は泣かなかった。

 

 ただ、胸元に手を当てて、小さく息を吐いた。

 

「……ありがとうございます」

 

 庭のライダーが、短く鳴いた。

 

 その声は、どこか満足げだった。

 

 士郎は少し笑った。

 

「ライダーも、桜を頼む」

 

 ライダーは士郎を見た。

 

 それから、当然だと言わんばかりに尻尾を一度だけ振った。

 

 その夜、衛宮邸は小さな朝を抱いた。

 

 聖杯戦争の夜は、まだ始まったばかりだ。七人のマスターも、七騎のサーヴァントも、これから互いの存在を知り、戦いへ向かっていくのだろう。

 

 けれど、少なくともこの家の庭だけは、間桐の地下室とは違う光に満ちていた。

 

 桜は縁側に座り、白い神狼の背を見つめる。

 

 戻らなくていい。

 

 その言葉が、まだ夢のように胸の奥で揺れていた。

 

 夜はまだ明けない。

 

 それでも桜のそばには、夜を終わらせる太陽がいた。





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