Fate/Divine Brush──桜花浄界──   作:一般ガス会社社員

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白野威

 

 その朝は、光だけではなかった。

 

 礼拝堂の床を走った墨の線が、紫の糸を押し退けるように広がっていく。長椅子の隙間に咲いた小さな花は、幻のようでありながら確かにそこに根を下ろしていた。黒く染まっていたステンドグラスには、朝焼けの色がひび割れるように差し込み、キャスターの工房に塗り替えられていた教会を、別の世界の理へと近づけていく。

 

 中津国(ナカツクニ)

 

 士郎たちはその名を知らない。

 

 だが、目の前の光景が、ただの魔術ではないことだけは分かった。

 

 キャスターの紫の糸は、まだ礼拝堂に張られている。だが、その一本一本が震えていた。まるで、ここにあってはならないものとして、世界そのものに拒まれているようだった。

 

 キャスターの顔から、笑みは消えていた。

 

「私の工房が……押し返されている……?」

 

 彼女の指先が震える。

 

 それは恐怖ではなく、理解できないものに触れた魔術師の動揺だった。

 

 凛も同じように息を呑んでいた。

 

「固有結界じゃない。結界で覆ってるんじゃなくて、この場所を神域に近づけてる……。キャスターの術式を壊してるんじゃない。成立する前提を、別の世界の法則で塗り替えてるんだわ」

 

 アーチャーは干将・莫耶を構えたまま、白い獣を見る。

 

「まったく、規格外にもほどがある」

 

 その声には、皮肉だけではないものが混じっていた。

 

 畏れ。

 

 あるいは、理解を超えたものへの警戒。

 

 礼拝堂の中央で、ライダーがゆっくりと一歩を踏み出した。

 

 足音はない。

 

 だが、その一歩で、床に残っていた紫の糸が焼けるように消えた。いや、焼けたのではない。墨で塗り直された世界の上に、魔女の糸が存在できなくなっている。

 

 キャスターが歯を食いしばった。

 

「まだよ……!」

 

 彼女が両腕を広げる。

 

 礼拝堂に残っていた紫の糸が、一斉にライダーへと向かった。柱から、天井から、祭壇の下から。工房の残骸が最後の力を振り絞るように、白い太陽を縛ろうとする。

 

 その瞬間、世界が一枚の墨絵になった。

 

 が、その瞬間には線を引き終わっていた。

 

 金色の筆跡が、礼拝堂全体を走り抜ける。

 

 一閃。

 

 ただし、それは一本の線ではなかった。

 

 金の軌跡が幾重にも走り、紫の糸をまとめて断ち切る。床を這う糸が裂け、柱に絡む糸が砕け、天井に隠されていた術式の節が切断される。

 

 もはや「一」閃ではない。

 

 礼拝堂そのものを対象にした、滅多切りに近い一閃だった。

 

 だが、白野威の刃はセイバーへ届かない。

 

 白いドレス姿のセイバーに絡みつく表層の糸は削られても、彼女の霊基の奥へ沈んだ契約線だけは残されている。そこを乱暴に斬れば、セイバー自身を傷つけると分かっているからだ。

 

 キャスターは、それを見逃さなかった。

 

「そう。そこだけは斬れないのね」

 

 彼女は笑みを取り戻そうとする。

 

「なら、まだ私の勝ち筋は残っている」

 

 キャスターの足元に紫の防壁が展開した。

 

 幾重もの膜。

 

 神代の魔術によって編まれた、アーチャーの矢ですら正面からでは貫きにくい防御。

 

 ライダーの背で、八咫鏡が深紅に燃えた。

 

 鏡面の炎を始点に、空間へ火の線が引かれる。

 

 紅蓮。

 

 火の線が防壁をなぞり、紫の外殻を焼いていく。

 

 キャスターがすぐに別の層を重ねる。

 

 だが、今度は火元などなかった。

 

 金色の筆跡が防壁の内側に描かれる。

 

 その形が、爆ぜる意味()を持った瞬間、紫の壁の結び目が内側から破裂した。

 

 爆炎。

 

 爆発は礼拝堂を壊さなかった。

 

 床を抉らず、柱を砕かず、長椅子を燃やさない。砕いたのは、キャスターの防壁を成立させていた術式の核だけだった。

 

「爆発の範囲を、術式だけに絞った……?」

 

 キャスターの声がかすれる。

 

 そこへ、葛木宗一郎が動いた。

 

 狙いは凛。

 

 アーチャーが即座に前へ出るが、葛木の足取りに無駄はない。キャスターの強化を受けた体は、教会の工房の内側でさらに安定している。拳が干将と莫耶の隙間を狙い、アーチャーの守りをすり抜けようとした。

 

 だが、ライダーは床にいなかった。

 

 壁に、いつの間にか現れた猫の像から、猫の足跡めいた墨跡が浮かぶ。

 

 白い獣は壁を蹴った。

 

 柱を駆け、礼拝堂の側面を走り、重力を無視するような角度から葛木の背後へ回る。

 

 壁足。

 

 葛木が振り返るより早く、八尺瓊勾玉が宙を巡った。

 

 白紫の光弾が、葛木の肉体に通された強化の線だけを撃ち抜く。続けて、白野威の体が白い残光となって礼拝堂を横切った。

 

 体当たり。

 

 それは獣の突進というより、空間を縫う光の連続だった。葛木の体は横へ弾かれ、床を転がる。だが、骨を砕くような衝撃ではない。戦闘不能にするための最小限の一撃だった。

 

 アーチャーが目を細めた。

 

「今の速度で、殺さずに止めたか」

 

 葛木はすぐに身を起こそうとする。

 

 だが、動きがわずかに鈍い。強化線を一部撃ち抜かれたせいだ。

 

「宗一郎様!」

 

 キャスターの顔が初めてはっきりと歪んだ。

 

 その隙を見て、凛が宝石を構える。

 

「士郎、見るわよ!」

 

「ああ!」

 

 凛が士郎の視界を補助する。

 

 世界の色がまた変わった。

 

 セイバーの周囲に絡みつく紫の糸が見える。

 

 白いドレスを縛る表層の糸。

 

 腕や足を支配する細い糸。

 

 そして、もっと奥。彼女の霊基に深く入り込み、キャスターの契約として固定されている太い線。

 

 その奥に、ほんのかすかな細い光がある。

 

 かつて士郎とセイバーを繋いでいた道。

 

「まだある……!」

 

 士郎は思わず声を漏らした。

 

 その時、キャスターが叫ぶ。

 

「私を守りなさい、セイバー!」

 

 白いドレス姿のセイバーが動いた。

 

 本人の意思ではない。

 

 キャスターから流し込まれる神代の魔力が、契約線を通じてセイバーの体を動かしている。さらに、その魔力は彼女の手元の風を強制的に起動させていた。

 

 風王結界。

 

 本来ならセイバー自身の意思と誇りによって纏うはずの見えない剣が、魔女の魔力で動かされている。

 

 セイバーの顔が苦痛に歪む。

 

「やめろ……私に、この剣を振るわせるな……!」

 

 それでも体は従う。

 

 不可視の剣がライダーへ向けられる。

 

 その瞬間、世界に二本の横線が走った。

 

 薄墨の霧が、礼拝堂へ降りる。

 

 霧隠。

 

 完全な停止ではない。

 

 だが、キャスターの命令がセイバーへ届くまでの流れが、霧の中で引き伸ばされた。

 

 セイバーの動きが、一瞬だけ鈍る。

 

 その一瞬で、礼拝堂の隅にある聖水盤の水が浮かび上がった。

 

 水は一本の線に導かれ、セイバーの足元へ流れていく。

 

 水郷。

 

 紫の糸に汚された床を、水がなぞる。セイバーの足元に絡んでいた表層の糸が、少しずつ剥がれていく。

 

 さらに、礼拝堂に雨が降った。

 

 恵雨。

 

 それは人を濡らす雨ではない。

 

 セイバーの上に塗り重ねられた魔女の色を、静かに洗い流す雨だった。白いドレスに付着していた紫の気配が薄れ、外側の拘束が弱まっていく。

 

 キャスターがすぐに再生を試みる。

 

 だが、八尺瓊勾玉が冷たい光を放った。

 

 勾玉から伸びた氷の線が、再生しかけた糸を凍らせる。

 

 吹雪。

 

 凍った糸は動けない。

 

 そこへ線が走り、凍結した拘束だけを砕いた。

 

 セイバーの腕が一瞬だけ自由になる。

 

 彼女は剣の軌道をわずかにずらした。

 

「マスター……!」

 

 士郎はその声を聞いた。

 

 まだ、セイバーの意思は消えていない。

 

 それどころか、外側の糸が剥がれるたびに、彼女は少しずつ戻ろうとしている。

 

「士郎! 見える!?」

 

 凛が叫ぶ。

 

「見える! でも、まだ深い!」

 

「表は剥がせた。次は命令系統を止める!」

 

 ライダーの背で天叢雲剣が雷光を纏った。

 

 剣を始点に、雷の線が祭壇へ走る。

 

 迅雷。

 

 キャスターからセイバーへ命令を送る中継線が、雷に焼かれて乱れる。

 

 キャスターはすぐに別の回路を繋ぎ直そうとした。

 

 しかし、今度は雷源がない。

 

 金色の筆跡だけが天井へ描かれた。

 

 その線が雷を呼ぶ。

 

 雷光。

 

 細い稲妻が礼拝堂の上から落ち、キャスターの命令線だけを正確に焼いた。

 

 セイバーの瞳が、わずかに澄む。

 

「シロウ……」

 

 久しぶりに、自分の意思で呼ばれた気がした。

 

 士郎は前へ出そうになる。

 

 だが、まだだ。

 

 まだ届かない。

 

 ここで走れば、また壊す。

 

「俺はここにいる!」

 

 士郎は叫んだ。

 

「だから戻ってこい、セイバー!」

 

 セイバーは苦しげに息を吐く。

 

 それでも、彼女の瞳は士郎を見ていた。

 

「はい……マスター……!」

 

 その瞬間、細い光が強くなった。

 

 キャスターの紫の契約線の奥。

 

 士郎とのパスの痕跡が、一瞬だけはっきりと浮かび上がる。

 

 凛が叫ぶ。

 

「そこよ! その線なら切れる!」

 

 キャスターの表情が凍る。

 

「させない!」

 

 礼拝堂の奥、地下へ続く扉の向こうから、再び紫の光が湧き上がった。

 

 太陽封じの核。

 

 まだ完全には消えていない。

 

 キャスターはその核を最後の支えにし、白野威の神気を沈めようとする。

 

「地下!」

 

 凛が叫んだ。

 

「まだ核が残ってる!」

 

 ライダーの前に、光の玉が現れた。

 

 輝玉。

 

 だが、それは以前のものとは違う。朝日を閉じ込めたような輝きがあり、内部には浄化の神気が渦巻いている。

 

 そこへ、筆跡が重なる。

 

 爆炎。

 

 火元はない。

 

 描かれた形が、爆ぜる意味を与える。

 

 輝玉は床を壊さず、地下へ沈むように落ちた。

 

 次の瞬間、地の底で轟音が響く。

 

 教会は崩れなかった。

 

 壁も柱も壊れない。

 

 だが、太陽封じの核だけが内側から吹き飛んだ。

 

 夜の底を維持していた紫の術式が、完全に決壊する。

 

 礼拝堂にあった重さが、剥がれ落ちた。

 

 キャスターが後ずさる。

 

「そんな……私の工房が……」

 

 彼女は両手を広げ、最後の防壁を展開する。

 

 ライダーとセイバーの間に、紫の膜が何重にも重なった。

 

 だが、風が吹いた。

 

 最初はただの風だった。

 

 次の瞬間、三本の横線が空間に刻まれる。

 

 風は柱のように巻き上がり、紫の防壁へ食い込んだ。

 

 竜巻。

 

 壁を押し潰すのではない。

 

 壁を作っている結び目を、内側からほどいていく風。

 

 キャスターの防御が一枚、また一枚と剥がれていく。

 

「外から壊しているのではない……防御の組み目をほどいている……!」

 

 キャスターは歯を食いしばる。

 

 そして、最悪の命令を下した。

 

「セイバー、私の前に立ちなさい!」

 

 セイバーの体が動く。

 

 白いドレス姿のまま、キャスターの前に立ち塞がる。

 

 不可視の剣を構える。

 

 キャスターは、セイバーを盾にした。

 

 士郎の喉が詰まる。

 

 ライダーはセイバーを傷つけられない。

 

 凛も、アーチャーも、今ここで無理に撃てない。

 

「さあ、どうするの」

 

 キャスターの声は震えていた。

 

 それでも、まだ笑おうとしている。

 

「救いたい剣が、私を守っているわよ」

 

 士郎は歯を食いしばる。

 

 見る。

 

 今こそ、見る。

 

 セイバーの前にある剣ではない。

 

 白いドレスでもない。

 

 表に見える糸でもない。

 

 霊基の奥。

 

 キャスターの契約線が、かつてのパスの痕跡を上書きしている場所。

 

 背中ではない。

 

 胸の奥でもない。

 

 士郎とセイバーの間にあった道の跡。

 

 そこを、キャスターが利用している。

 

「見えた」

 

 士郎は言った。

 

 凛が即座に反応する。

 

「どこ?」

 

「俺との線を上書きしてる場所だ。そこだけが違う。キャスターの糸が、俺とセイバーの跡を使って繋がってる」

 

 凛の目が鋭くなる。

 

「そこを切れば、セイバーは戻る。でも、外したら霊基を傷つける」

 

「外さない」

 

 士郎はセイバーを見る。

 

「セイバー!」

 

 セイバーが顔を上げる。

 

 苦しみに耐えながら、士郎を見た。

 

「俺はここにいる。だから戻ってこい。俺のところに」

 

 セイバーの瞳が揺れる。

 

 命令に縛られた体は、まだキャスターの前に立っている。

 

 だが、その奥にいる彼女自身は折れていない。

 

「はい……」

 

 セイバーは、声を絞り出した。

 

「私は、あなたの剣です……!」

 

 その瞬間。

 

 士郎とセイバーの間に残っていた細い痕跡が、確かに輝いた。

 

 凛が叫ぶ。

 

「今よ、ライダー!」

 

 ライダーが動いた。

 

 三神器が一瞬で切り替わる。

 

 八咫鏡がセイバーの不可視の剣を受け止める。

 

 八尺瓊勾玉が、キャスターの妨害糸を撃ち抜く。

 

 そして、天叢雲剣が振るわれた。

 

 世界が墨絵になる。

 

 だが、今度は無数の線ではなかった。

 

 一本。

 

 たった一本の線だけが、世界に引かれる。

 

 本当の意味での、一閃。

 

 金色の筆跡は、セイバーの白いドレスを裂かなかった。

 

 肌を傷つけることもない。

 

 霊基を削ることもない。

 

 ただ、彼女の奥に食い込んでいた紫の契約線だけを選び、音もなく断ち切った。

 

 キャスターの目が見開かれる。

 

「そんな……」

 

 セイバーの体から、紫の糸が弾けた。

 

 風王結界がほどける。

 

 キャスターの魔力で強制的に起動させられていた風が消え、不可視の剣は静かに本来の在り方を取り戻していく。

 

 セイバーは膝をついた。

 

「セイバー!」

 

 今度は、士郎は走った。

 

 誰も止めなかった。

 

 止める必要がなかった。

 

 士郎はセイバーのそばに膝をつき、その手を取る。

 

 冷たい。

 

 魔力が不安定になっている。

 

 キャスターとの契約が切れたことで、セイバーの霊基が宙に浮いたようになっているのだ。

 

「凛!」

 

「士郎、繋ぎ直して!」

 

 凛が叫んだ。

 

「痕跡が残ってる今なら間に合う。痛みに頼らないで。無理やり回路を作らない。セイバーとの道を探すの!」

 

「分かった!」

 

 士郎は目を閉じる。

 

 体の中に針を通すような痛みを探そうとして、やめた。

 

 違う。

 

 それでは駄目だ。

 

 今までと同じことをすれば、また壊す。

 

 探すのは痛みではない。

 

 かつてあった道。

 

 細くても、確かに存在した繋がり。

 

 セイバーの手を握る。

 

 その向こうに、彼女の気配がある。

 

 遠い。

 

 けれど、届く。

 

「セイバー」

 

 士郎は呼んだ。

 

「戻ってこい」

 

 セイバーが目を開く。

 

 疲れた顔だった。

 

 それでも、その瞳には確かな光があった。

 

「はい……マスター」

 

 その言葉と共に、細い道が繋がる。

 

 完全ではない。

 

 脆く、不安定で、凛の補助がなければすぐに途切れそうな道。

 

 だが、繋がった。

 

 セイバーは、士郎のサーヴァントとして戻ってきた。

 

 凛が大きく息を吐く。

 

「応急処置だけど、戻ったわ」

 

 士郎はセイバーの手を握ったまま、肩の力を抜いた。

 

「よかった……」

 

 セイバーは悔しそうに目を伏せる。

 

「申し訳ありません。私は、あなたに剣を向けました」

 

「戻ってきた」

 

 士郎は言った。

 

「それでいい」

 

 セイバーは何か言おうとして、言葉を飲み込んだ。

 

 その間にも、戦いは終わっていなかった。

 

 キャスターは後ずさり、崩れかけた祭壇に手をつく。

 

「返しなさい……!」

 

 声が震えている。

 

「それは、私が奪ったものよ……!」

 

 キャスターが残った糸を集める。

 

 だが、もう工房は保たない。

 

 ナカツクニの夜明けによって、教会の術式はほとんど崩壊している。さらに、太陽封じの核を失ったことで、魔術の流れは逆流を始めていた。

 

 キャスター自身が張った糸が、彼女へ反動を返している。

 

「キャスター」

 

 葛木が、彼女の前に立った。

 

 アーチャーは双剣を構えたまま、動かない。

 

 ライダーも、追撃しなかった。

 

 キャスターは葛木の背を見て、目を見開く。

 

「宗一郎様……下がってください。まだ、まだ私は」

 

「もういい」

 

 葛木の声は静かだった。

 

「負けたのだろう」

 

 その言葉に、キャスターは一瞬、何も言えなかった。

 

 負けた。

 

 その事実を、彼女自身が認められずにいた。

 

 セイバーを奪った。

 

 教会を奪った。

 

 太陽の届かない場所を作った。

 

 それでも、白い荒神は夜明けを連れてきた。

 

 自分の工房は崩れた。

 

 契約は断たれた。

 

 もう、何も残っていない。

 

「私は……」

 

 キャスターの声が揺れる。

 

「また、奪われるの……?」

 

 葛木は振り返らなかった。

 

 ただ、彼女の前に立っていた。

 

「君の望みは、私には分からん」

 

「……そうでしょうね」

 

 キャスターは、かすかに笑った。

 

 それは、今までのような冷たい笑みではなかった。

 

「あなたは、いつもそうでした」

 

 崩壊する工房の糸が、キャスターへ絡みつく。

 

 彼女自身が張った魔術が、反動となって霊基を削っていく。

 

 葛木もまた、その反動の中に立っていた。

 

 アーチャーが低く言う。

 

「下がれ、凛。巻き込まれるぞ」

 

 凛は頷き、士郎とセイバーを支える。

 

 ライダーは動かなかった。

 

 追撃しない。

 

 必要がなかった。

 

 この戦いの目的は、奪われた剣を取り戻すことだった。

 

 そして、それは果たされた。

 

 キャスターは最後に、ライダーを見た。

 

「太陽……」

 

 その声には、憎しみだけではない何かが混じっていた。

 

「本当に、不愉快なほど眩しいわ」

 

 紫の糸が弾けた。

 

 礼拝堂を覆っていた魔女の工房が、音もなく崩れていく。

 

 キャスターと葛木の姿は、その崩壊の中へ消えていった。

 

 ◇

 

 静けさが戻った。

 

 いや、戻ったというより、残された。

 

 礼拝堂に張り巡らされていた紫の糸は、ほとんど消えていた。長椅子の隙間に咲いた花も、少しずつ光に溶けていく。墨の線も薄くなり、朝焼けの色を帯びていたステンドグラスも、夜の暗さへ戻り始めている。

 

 宝具の時間が終わろうとしていた。

 

 白野威の体から、強い光が少しずつ抜けていく。

 

 八咫鏡が真経津鏡へ。

 

 八尺瓊勾玉が足玉へ。

 

 天叢雲剣が都牟刈太刀へ。

 

 三神器が元の姿へ戻り、白い獣の体躯も、いつもの神狼の姿へ近づいていく。

 

 ライダーは一歩だけ足を引いた。

 

 その瞬間、わずかに体が揺れる。

 

「ライダー!」

 

 士郎が声を上げる。

 

 ライダーは倒れなかった。

 

 だが、明らかに消耗している。

 

 令呪一画の補助を受けたとはいえ、神霊としての全盛期を一時的に顕現させ、この世界を中津国に近づけた。その負担は小さくない。

 

 セイバーは士郎に支えられながら、ライダーを見た。

 

 白いドレス姿のまま、彼女はゆっくりと頭を下げる。

 

「感謝します、ライダー」

 

 ライダーはセイバーを見た。

 

 それから、短く尻尾を一度だけ振った。

 

 誇るでもなく、恩に着せるでもなく。

 

 ただ、桜の願いを果たしただけだと言うように。

 

 凛が礼拝堂を見回す。

 

「ここはもう使えないわね。キャスターの工房は崩れた。けど、教会が安全地帯に戻ったとも言えない」

 

「言峰は」

 

 士郎が聞く。

 

「……分からない。けど、今は戻る方が先ね」

 

 凛はセイバーを見る。

 

「契約は応急処置よ。屋敷に戻ったら、ちゃんと調整する。無理に動かないこと」

 

「承知しました」

 

 セイバーは頷いた。

 

 声は弱い。

 

 だが、そこには彼女自身の意思があった。

 

 士郎はその声を聞き、ようやく胸の奥で息ができた気がした。

 

 奪われた剣は、戻ってきた。

 

 戦いは終わっていない。

 

 解決していないことも山ほどある。

 

 それでも、セイバーはここにいる。

 

 士郎の隣に、戻ってきた。

 

 礼拝堂の扉を開けると、外はまだ夜だった。

 

 朝など来ていない。

 

 冬木の街は、変わらず闇の中にある。

 

 けれど、士郎たちの背後で、太陽の届かないはずの聖堂には、確かに一度、朝が来た。

 

 ライダーは最後に一度だけ礼拝堂を振り返った。

 

 魔女の糸は消えている。

 

 セイバーを縛っていた紫もない。

 

 白い神狼は静かに前を向く。

 

 桜の願いは、果たされた。

 

 そして士郎たちは、奪われた剣を連れて、夜の教会を後にした。

 





キャスター陣営、撃破!

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