Fate/Divine Brush──桜花浄界──   作:一般ガス会社社員

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一夜限りの客人

 

 衛宮邸へ戻る道は、ひどく長く感じた。

 

 教会での戦いは終わった。

 

 キャスターの工房は崩れ、セイバーは取り戻した。葛木宗一郎とキャスターの姿は、崩壊する魔術の中に消えた。太陽の届かないはずの聖堂に朝を呼んだ白い神狼は、今はもういつもの姿に戻っている。

 

 だが、誰も軽い言葉を口にしなかった。

 

 セイバーは士郎の隣を歩いている。

 

 白いドレス姿のまま、足取りは少し重い。士郎との契約は凛の補助で応急的に繋ぎ直しただけだ。霊基は安定しきっていない。顔色も良くない。それでも、セイバーは自分の足で歩こうとしていた。

 

「無理するな、セイバー」

 

 士郎が言うと、セイバーは少しだけ首を横に振った。

 

「歩けます。マスターに支えられるだけでは、剣として情けない」

 

「今は剣とかそういうのじゃなくて、怪我人みたいなものだろ」

 

「怪我人ではありません」

 

「似たようなものよ」

 

 凛が後ろから言った。

 

「少なくとも、今夜は無茶禁止。帰ったらすぐ休ませるから」

 

 セイバーは少しだけ不満そうにしたが、反論はしなかった。

 

 アーチャーは姿を見せていない。

 

 だが、周囲には彼の気配がある。帰路の間、敵の残党や罠がないか見張っているのだろう。

 

 ライダーは先頭を歩いていた。

 

 白い神狼の背には、いつもの神鏡が戻っている。真経津鏡。八咫鏡ではない。勾玉も剣も、元の神威へ沈んでいる。

 

 それでも、士郎には分かった。

 

 今のライダーは消耗している。

 

 歩みは静かだが、いつもより少しだけ重い。白い毛並みの輝きも、どこか柔らかく弱まっている。桜の令呪一画を受け、全盛期の姿を一時的に顕現させた反動は、決して小さくない。

 

「ライダーも、帰ったら休ませないと」

 

 士郎が言うと、凛が小さく頷いた。

 

「当然。というか、今回一番無茶したのはライダーよ。あれは本来、今の聖杯戦争の枠に収まるような宝具じゃない」

 

「宝具……」

 

 士郎は教会で見た光景を思い出す。

 

 礼拝堂が朝に変わった。

 

 紫の糸が切れ、花が咲き、世界そのものが違う場所へ近づいた。

 

 あれは、ただ強い攻撃ではなかった。

 

 太陽が昇るという現象そのものを、戦場に呼び込んだようなものだった。

 

「ライダーは大丈夫なのか」

 

「分からない」

 

 凛は正直に答えた。

 

「サーヴァントとしての枠で考えたら、かなり無理をしたはずよ。しかも、桜の令呪一画を完全に使い切っている。今夜は特に注意した方がいい」

 

 士郎はライダーの背を見る。

 

 ライダーは振り返らなかった。

 

 ただ、いつものように前を歩いている。

 

 その背中が、今は少しだけ遠く見えた。

 

 ◇

 

 衛宮邸の門が見えてきた。

 

 士郎は少しだけ息を吐く。

 

 ようやく帰ってきた。

 

 桜が待っている。

 

 慎二も奥の部屋にいる。

 

 セイバーを取り戻したと、まず伝えなければならない。

 

 そう思った瞬間だった。

 

 アーチャーの気配が鋭くなった。

 

 凛も同時に足を止める。

 

「待って」

 

「遠坂?」

 

「屋敷の中に、知らない気配がある」

 

 士郎の体が強張る。

 

 セイバーも顔を上げた。

 

 消耗しているはずなのに、目だけはすぐに戦士のものへ戻る。

 

「敵ですか」

 

「分からない」

 

 凛は眉を寄せる。

 

「それがおかしいのよ。結界が反応していない。私の術式にも、ライダーの神域にも、アーチャーの監視にも引っかかっていない」

 

「そんなことあるのか」

 

「普通はないわ」

 

 凛の声は硬い。

 

「侵入されたなら反応する。けど、これは侵入じゃない。最初から内側にいたみたいな……いや、違う。屋敷の中で発生したような反応」

 

「発生?」

 

 士郎は聞き返した。

 

 凛は答えない。

 

 視線は屋敷の方へ向けられている。

 

 だが、その中で一人だけ、まったく警戒していない者がいた。

 

 ライダーだった。

 

 白い神狼は門の前で止まることなく、すたすたと中へ入っていく。

 

「ライダー?」

 

 士郎が声をかける。

 

 ライダーは振り返らない。

 

 まるで、そこにいる何かが敵ではないと分かっているように。

 

 凛は困惑した顔でライダーの背を見た。

 

「……ライダーが警戒していない?」

 

「じゃあ、敵じゃないのか」

 

「だから分からないって言ってるでしょ」

 

 凛は宝石を握り直す。

 

「でも、無警戒で入るわけにはいかないわ」

 

 士郎たちは慎重に玄関へ入った。

 

 家の中は明るかった。

 

 茶の間の方から声が聞こえる。

 

 桜の声。

 

 それから、聞き覚えのない声が二つ。

 

 一つは甲高く、勢いのある小さな声。

 

 もう一つは、芝居がかった、妙に軽やかな男の声。

 

「だーかーら! オイラは虫じゃねぇって言ってんだろ! 天下の旅絵師イッスン様だぞ!」

 

「オーウ、リトルアーティスト。そう怒るものではないよ。小さな器に大きな魂。実にチャーミングじゃないか」

 

「誰がリトルだ、誰が! てめぇは相変わらず何言ってんのか分かんねぇんだよ、ウシワカ!」

 

「ノンノン。言葉とは風のようなものさ。分かる者には届き、分からぬ者には笛の音に聞こえる」

 

「それが分かんねぇって言ってんだよ!」

 

「あ、あの……お茶、冷めてしまいますから……」

 

 桜の困った声が混じる。

 

 士郎たちは廊下で固まった。

 

 凛も固まっている。

 

 セイバーも、疲労を忘れたように目を瞬かせた。

 

「……何だ、これ」

 

 士郎が呟く。

 

「私に聞かないで」

 

 凛が返す。

 

 ライダーだけは迷わなかった。

 

 茶の間へ入っていく。

 

 士郎たちも慌てて続いた。

 

 そして、見た。

 

 茶の間の真ん中で、小さな人影が腕を組んで立っていた。

 

 いや、人影というには、あまりにも小さい。まるで親指ほどの小さな旅人。背には大きな筆のようなものを背負い、態度だけは異様に大きい。

 

 その隣には、笛を持った男がいた。

 

 長い髪。浮世離れした雰囲気。着物とも異国の衣装ともつかない姿。立っているだけで妙に芝居がかっていて、こちらを見た瞬間、にこりと笑う。

 

 桜は二人の前に座り、湯呑みを並べていた。

 

 かなり困った顔をしている。

 

 そしてライダーが入ってきた瞬間、小さな旅人が勢いよく振り返った。

 

「おっせぇぞ、アマ公!」

 

 茶の間の空気が止まった。

 

 士郎がライダーを見る。

 

 凛もライダーを見る。

 

 セイバーもライダーを見る。

 

「アマ……公?」

 

 士郎が呟く。

 

 ライダーは何も答えない。

 

 ただ、いつもより少しだけ気まずそうに見えた。

 

 小さな旅人、イッスンは腕を組んだまま、ライダーを指差した。

 

「こっちはなぁ、いきなり見知らぬ家に放り出されるわ、妙に丁寧な嬢ちゃんに茶を出されるわ、隣でこいつがわけ分かんねぇこと喋り続けるわで大変だったんだぞ!」

 

「オーウ、それは心外だね。僕はこの一夜の舞台を彩るため、華麗なる言葉を添えていただけさ」

 

「だからそれがうるせぇって言ってんだよ、ウシワカ!」

 

 ウシワカと呼ばれた男は、笑みを崩さない。

 

 むしろ楽しそうに笛をくるりと回した。

 

「久しいね、白き太陽。いや、今はライダーと呼ぶべきかな?」

 

 その言葉に、凛が一歩前へ出た。

 

「あなたたち、何者?」

 

 声は鋭い。

 

 桜が慌てて説明しようとする。

 

「あの、先ほど急に茶の間に……でも、ライダーさんの知り合いみたいで……」

 

「知り合い?」

 

 士郎はライダーを見る。

 

 ライダーは、イッスンの前に伏せた。

 

 それは敵意のない仕草だった。

 

 イッスンはふん、と鼻を鳴らす。

 

「相変わらず喋んねぇな、アマ公。ちったぁ説明しろってんだ」

 

「説明するなら、君の出番だろう。リトルアーティスト」

 

「リトルって言うな!」

 

 イッスンはウシワカへ怒鳴ってから、士郎たちを見た。

 

「いいか、よく聞けよ。オイラはイッスン。天下の旅絵師で、こいつの相棒だ」

 

「相棒……」

 

 桜が小さく呟く。

 

 イッスンは胸を張る。

 

「そうだ。アマ公が何も言わねぇ分、オイラがいろいろ喋ってやってたんだよ。つまり、こいつのすげぇところを世に知らしめた名案内役ってわけだ」

 

「自分で言うのね」

 

 凛が呟く。

 

「何か言ったか、ツインテの姉ちゃん」

 

「誰がツインテの姉ちゃんよ」

 

 凛の眉がぴくりと動いた。

 

 士郎は慌てて間に入ろうとしたが、その前にウシワカが優雅に一礼した。

 

「そして僕はウシワカ。月の調べに導かれし剣士、とでも名乗っておこうか。クラスは、どうやらフォーリナーというものらしい」

 

「ふぉ、フォーリナー?」

 

 凛の表情が変わる。

 

「ちょっと待ちなさい、何よそのクラス! 聖杯戦争にそんなクラス存在しない……普通じゃないわよ。基本の七クラスのどれでもないっていうの!?」

 

「オーウ、普通ではない。実に素晴らしい響きだね」

 

「褒めてないわよ」

 

 凛は額を押さえた。

 

「それで、そっちの小さい方は?」

 

「誰が小さい方だ!」

 

 イッスンが叫ぶ。

 

 ウシワカが笑う。

 

「彼はキャスターだよ。筆を持つ者、絵を描く者、そして神の姿を語り継ぐ者。なかなか似合いのクラスじゃないか」

 

「キャスターって言われてもなぁ。オイラ、魔術師ってガラじゃねぇぞ」

 

 イッスンは不満そうに頬を膨らませる。

 

「筆持ってりゃ何でもキャスター扱いかよ。まったく、この世界の仕組みは雑だな」

 

「雑じゃないわよ」

 

 凛はそう言いながらも、二人の霊基を探ろうとしていた。

 

 だが、すぐに眉をひそめる。

 

「……薄い」

 

「薄い?」

 

 士郎が聞く。

 

「霊基が仮組みなのよ。サーヴァントとしての形はある。でもマスターとの契約がない。聖杯戦争の正規召喚でもない。これは……ライダーの宝具の残響?」

 

 凛はライダーを見る。

 

 ライダーは静かに目を閉じた。

 

 否定はしない。

 

 ウシワカが微笑む。

 

「夜明けの余韻さ。白き太陽が呼び戻したナカツクニ。その光が、ほんの少しだけ、この家にも届いた。そこに縁ある者が形を得た。それだけのことだよ」

 

「外から侵入したわけじゃないのね」

 

 凛は小さく息を吐く。

 

「だから結界に引っかからなかった。外敵として入ってきたんじゃなくて、ライダーの神域の内側で発生したようなものだから」

 

「なるほど……って、納得していいのか、これ」

 

 士郎が言う。

 

「納得するしかないでしょ」

 

 凛は少し疲れた声で返した。

 

 教会でセイバーを取り戻した直後に、今度は小さな旅絵師と謎の剣士が茶の間にいる。

 

 普通なら頭が追いつかない。

 

 だが、今夜の一連の出来事を思えば、もう多少のことでは驚けない気もした。

 

 いや、やはり驚く。

 

 士郎はもう一度、イッスンを見る。

 

「あのさ」

 

「あん?」

 

「さっきから気になってたんだけど、その……アマ公っていうのは、ライダーのことなのか?」

 

 士郎が聞くと、イッスンは本気で不思議そうな顔をした。

 

「は?」

 

「いや、ライダーのことをそう呼んでるみたいだから」

 

 桜も遠慮がちに続ける。

 

「あの……イッスンさん。アマ公、というのは……ライダーさんの名前、なんですか?」

 

 イッスンはしばらく士郎と桜を見た。

 

 それから、信じられないという顔でライダーを見る。

 

「おい、アマ公」

 

 ライダーは視線を逸らした。

 

「お前、もしかして自分のこと何も説明してねぇのか?」

 

 ライダーは答えない。

 

 ただ、耳が少しだけ伏せられたように見えた。

 

「おいおいおいおい」

 

 イッスンは額に手を当てるような仕草をした。

 

「相変わらずにもほどがあるだろ。お前、飯の催促は目で訴えるくせに、そういう大事なことは黙ってんのかよ!」

 

「飯の催促……」

 

 士郎は思わず呟いた。

 

 心当たりが、ないわけではなかった。

 

 イッスンはふん、と胸を張る。

 

「いいか、お前ら。耳かっぽじってよく聞けよ」

 

 茶の間の全員が、自然とイッスンを見る。

 

 小さな旅絵師は、まるで自分の手柄を語るように得意満面で言った。

 

「こいつぁただの白い犬でも、そこらの英霊でもねぇ」

 

 イッスンの声色があがる。

 

「お天道さまそのもの、大神アマテラスさまだ!」

 

 茶の間が完全に止まった。

 

 士郎はライダーを見た。

 

 凛もライダーを見た。

 

 セイバーも、アーチャーも、桜も。

 

 全員の視線が、縁側の白い神狼へ集まる。

 

 ライダーは、ほんの少しだけ視線を逸らした。

 

「……」

 

 凛が、ようやく声を出した。

 

「……アマテラス?」

 

「日本神話の、あの?」

 

 士郎も呟く。

 

 桜は言葉を失っていた。

 

 セイバーの表情も変わる。

 

 騎士として、神という存在への敬意と驚きが混じっていた。

 

 イッスンはさらに得意げに鼻を鳴らす。

 

「そうだって言ってんだろ。天照大御神。太陽の神様。ナカツクニを照らすお天道さま。こいつはな、昔っからとんでもねぇやつなんだよ」

 

 士郎は言葉を失った。

 

 サーヴァント。

 

 英霊。

 

 そういう枠で考えていた。

 

 だが、目の前にいる白い神狼は、その枠の外にいた。

 

 神。

 

 しかも、この国で最も大きな名を持つ太陽神。

 

 凛の顔が引きつる。

 

「ちょっと待ちなさい。そんな存在が、普通に聖杯戦争のライダー枠で召喚されてたっていうの?」

 

「知らねぇよ、聖杯だのライダーだの」

 

 イッスンは肩をすくめる。

 

「オイラからすりゃ、こいつはアマ公だ。白くて、無口で、飯に弱くて、でも誰かが泣いてりゃ絶対走っていく、最高に面倒くせぇ太陽だよ」

 

 ライダーはイッスンを鼻先で軽く押した。

 

「うわっ、何すんだアマ公!」

 

「照れているのかな?」

 

 ウシワカが楽しげに言う。

 

「照れてんじゃねぇか、アマ公」

 

 イッスンもすぐに乗る。

 

 ライダーはそっぽを向いた。

 

 凛はまだ頭を抱えている。

 

「神霊級どころじゃないじゃない……。そんなの、本来なら召喚できるはずがないわよ。聖杯、何をどう解釈したの……?」

 

 アーチャーが、どこか諦めたように言った。

 

「規格外の理由としては、これ以上ないほど分かりやすい」

 

 セイバーは、静かにライダーへ向き直った。

 

「太陽神……。であれば、あの神威も納得できます」

 

 そして、少しだけ頭を下げる。

 

「改めて、感謝します。アマテラス」

 

 ライダーはセイバーを見た。

 

 だが、答えはしない。

 

 代わりに、短く尻尾を振った。

 

 桜は、まだライダーを見つめていた。

 

「ライダーさんは……アマテラス様、なんですか」

 

 その声は震えていた。

 

 恐怖ではない。

 

 あまりにも大きな名を知ってしまった戸惑いだった。

 

 ライダーは桜のそばへ歩き、膝元に鼻先を寄せた。

 

 それは、崇めろという仕草ではなかった。

 

 今までと同じ。

 

 桜のそばにいる白い神狼の仕草だった。

 

 イッスンはそれを見て、少しだけ笑った。

 

「様付けなんかしなくてもいいんじゃねぇか? こいつ、そういうの気にしねぇし」

 

「でも……」

 

「ま、好きに呼びゃいいさ。アマ公でも、ライダーでも、アマテラス様でもな」

 

 イッスンは腕を組む。

 

「大事なのは名前じゃねぇ。こいつが走る理由だ。こいつが守りたいと思ったのは、お前さんが偉い名で呼んだからじゃねぇ。お前さんが願ったからだ」

 

 桜の目が揺れた。

 

 右手の包帯に、そっと触れる。

 

 令呪を一画使い切った手。

 

 セイバーを助けてほしいと願った手。

 

「私の願いで……」

 

「ああ」

 

 イッスンは頷く。

 

「怖ぇって震えながらでも、誰かを助けたいって言った。だからアマ公は走った。それだけだ」

 

 ライダーは桜の手に、もう一度鼻先を寄せた。

 

 桜はその毛並みに触れる。

 

 相手が太陽神だと知っても、手触りは変わらない。

 

 そこにいるのは、自分のそばにいてくれた白い神狼だった。

 

「……ライダーさん」

 

 桜はそう呼んだ。

 

 ライダーは静かに目を細めた。

 

 ◇

 

 その後、凛は改めてイッスンとウシワカの霊基を確認した。

 

「クラスは……一応、片方は『キャスター』。だけど本当の仮組みね。問題はもう片方よ、『フォーリナー』こんなクラスのサーヴァント聞いたこともないわ。きっと聖杯のシステムがバグって未知のカテゴリーを吐き出してるのよ、そうよ、そうに決まってるわ……」

 

 凛のキャパはもう限界に近かったが、魔術師としての意地か、切り替えて話を進める

 

「両方ともマスターとの契約の軸もないし、聖杯からの供給も薄い。ライダーの宝具の余波と、衛宮邸に残った神域で一時的に形になっているだけね」

 

「つまり、いつまでいられるんだ?」

 

 士郎が聞く。

 

 イッスンは、あっさり答えた。

 

「夜明けまでだな」

 

 士郎は言葉を止めた。

 

「夜明けまで?」

 

「ああ。オイラたちは、アマ公の宝具の残り香みたいなもんだ。ナカツクニがここに重なったから、ちょいと顔を出せただけ。日が昇って、この世界が元に戻りゃ消える」

 

 あっさりとした言い方だった。

 

 だが、その言葉は重かった。

 

 桜が湯呑みに触れたまま、顔を上げる。

 

「消えてしまうんですか」

 

「そんな顔すんなよ、嬢ちゃん」

 

 イッスンは少し照れくさそうに頭をかいた。

 

「別に死ぬわけじゃねぇ。元の場所に帰るだけだ。まあ、この世界にゃもういられねぇってことだけどな」

 

 ウシワカも頷く。

 

「一夜限りの客人というわけさ。短い舞台ほど、残す言葉は選ばなければならない。そうだろう、マイ・フレンド?」

 

「てめぇの言葉はいっつも選びすぎて分かんねぇんだよ」

 

 イッスンはすかさず突っ込む。

 

 空気が少しだけ緩んだ。

 

 セイバーは静かに二人を見ていた。

 

 消耗しているため座布団に座っているが、視線は真剣だった。

 

「あなた方は、ライダーの過去を知っているのですね」

 

「過去ってほど昔話じゃねぇよ」

 

 イッスンはライダーを見る。

 

「なぁ、アマ公」

 

 ライダーは黙っている。

 

 その沈黙を、イッスンは当然のように受け取った。

 

「こいつはな、喋んねぇし、いっつも人の話聞いてんのか分かんねぇ顔してるし、腹減ったらすぐ飯の方見るし、たまにとんでもねぇ方向に走り出す」

 

 士郎は思わずライダーを見る。

 

 やはり心当たりがある気がした。

 

「でもな」

 

 イッスンの声が少しだけ柔らかくなる。

 

「こいつは、呼ばれたら行くんだよ。誰かが助けてくれって言ったら、どんだけ真っ暗でも走っていく。村が呪われてようが、空が闇で覆われてようが、相手がどんな化け物だろうが、関係ねぇ」

 

 桜は黙って聞いていた。

 

「人が祈る。誰かが信じる。そしたらこいつは、何度でも立ち上がる。そういう、面倒くせぇ太陽なんだ」

 

 ライダーはイッスンの頭を鼻先で軽く押した。

 

「うわっ、またかよアマ公!」

 

 イッスンが転びかける。

 

 だが、その声には怒りよりも懐かしさがあった。

 

 桜はライダーを見た。

 

「ライダーさんは……人の願いで、立ち上がるんですか」

 

「願いっていうか、信じる心ってやつだな」

 

 イッスンは言った。

 

「でも勘違いすんなよ。願えば何でもしてくれる便利な神様ってわけじゃねぇ。こいつは自分で決めて走る。だけど、誰かの声がないと、太陽だって届く場所を選べねぇ時がある」

 

 桜の指が、包帯を巻いた右手に触れる。

 

「私は……ライダーさんを無理に動かしたんじゃないでしょうか」

 

「ん?」

 

 イッスンは桜を見る。

 

 桜は少しだけ俯いた。

 

「怖かったんです。セイバーさんを助けたいと思ったのは本当です。でも、ライダーさんに無理をさせたんじゃないかって」

 

 茶の間が静かになる。

 

 士郎も凛も、すぐには口を挟まなかった。

 

 イッスンはしばらく桜を見ていた。

 

 それから、腕を組む。

 

「嬢ちゃん」

 

「はい」

 

「アマ公はな、嫌なら動かねぇよ」

 

 あっさりした言葉だった。

 

 桜は顔を上げる。

 

「え……?」

 

「令呪だか何だか知らねぇけどよ。たしかに、この世界の仕組みじゃ強い命令なんだろ。でも、あの時こいつが走ったのは、お前が命じたからだけじゃねぇ。お前が本気で助けたいって思ったからだ」

 

 イッスンはライダーを指差す。

 

「こいつはそういうのに弱ぇんだよ。怖ぇって震えながら、それでも誰かを助けたいって言う奴を放っておけねぇ。昔っからな」

 

 桜の目が揺れた。

 

 ライダーは静かに桜の手に鼻先を寄せる。

 

 桜はその毛並みに触れた。

 

「……ありがとうございます」

 

 その声は小さかった。

 

 だが、震えは少しだけ収まっていた。

 

 ウシワカが笛を手に、ゆっくりと茶の間を見回した。

 

「実に良い夜だ。剣は戻り、魔女の舞台は終わった。だが、まだ幕は下りていない」

 

 凛の目が鋭くなる。

 

「どういう意味?」

 

「聖杯という舞台装置は、まだそこにある。魔女が退場しても、物語は続く。影は形を変え、次の役者が現れる」

 

「予言みたいな言い方はやめて。具体的に言いなさい」

 

「ノンノン。すべてを語れば、舞台の味が落ちる」

 

「ほんと腹立つわね、この人」

 

 凛が低く言う。

 

 イッスンが大きく頷いた。

 

「だろ? オイラもずっとそう思ってた」

 

「おや、二人に同意されるとは光栄だね」

 

「褒めてねぇ!」

 

 士郎はそのやり取りを見ながら、少しだけ肩の力が抜けた。

 

 戦いの後だというのに、茶の間は騒がしい。

 

 セイバーが戻ってきた。

 

 ライダーもいる。

 

 桜は少し笑っている。

 

 凛は怒っているが、どこかいつもの調子を取り戻している。

 

 それだけで、士郎には救いだった。

 

 だが、すべてが軽くなったわけではない。

 

 セイバーは静かに自分の手を見ていた。

 

 白いドレスの袖。

 

 キャスターに奪われ、剣を向けさせられた記憶。

 

 その重さは消えない。

 

 イッスンはそれに気づいたのか、ぴょんと座卓の上に飛び乗った。

 

「おい、金髪の姉ちゃん」

 

 セイバーが顔を上げる。

 

「私ですか」

 

「他に金髪はいねぇだろ。……ああ、あっちの赤いのは髪じゃなくて服か」

 

 アーチャーの気配がわずかに動いたが、何も言わなかった。

 

「何でしょう」

 

 セイバーは真面目に返す。

 

 イッスンは腕を組んだ。

 

「あんた、アマ公に助けられたんだろ」

 

「はい」

 

「じゃあ、まず飯食って寝ろ」

 

「……は?」

 

 セイバーが珍しく間の抜けた声を出した。

 

 士郎も凛も目を瞬かせる。

 

「いや、だってよ。助かった奴がいつまでもしょぼくれてたら、助けた方が困るだろ。反省すんのは後でもできる。まず飯だ、飯」

 

「それは……」

 

「あなた、良いこと言うわね」

 

 凛がぽつりと言った。

 

 イッスンは得意げに胸を張る。

 

「だろ?」

 

 セイバーは少しだけ戸惑った顔をした。

 

 それから、士郎を見る。

 

 士郎は苦笑する。

 

「俺も同じ意見だ。まず休め、セイバー」

 

「……分かりました」

 

 セイバーは小さく頷いた。

 

 その表情はまだ晴れてはいない。

 

 けれど、少しだけ力が抜けたように見えた。

 

 ◇

 

 夜は少しずつ更けていった。

 

 凛はイッスンとウシワカの霊基を調べようとしたが、結局ほとんど分からなかった。

 

「本当に仮組みなのね。クラスは表示されるのに、契約の軸がない。聖杯のシステムに触れてはいるけど、登録されきっていない」

 

「つまり?」

 

 士郎が聞く。

 

「分からないってことよ」

 

「分からないこと多くないか」

 

「今夜の出来事は全部そうよ!」

 

 凛が怒る。

 

 イッスンはけらけら笑った。

 

「ツインテの姉ちゃん、苦労してんなぁ」

 

「誰のせいよ、誰の」

 

「オイラじゃねぇな」

 

「あなたも原因の一つよ」

 

 そんなやり取りの中、桜は台所で軽い食事を用意していた。

 

 士郎も手伝おうとしたが、桜に止められた。

 

「先輩も休んでください。今日は、本当に色々ありましたから」

 

「桜だって」

 

「私は、ここにいましたから」

 

 桜はそう言って、少しだけ笑った。

 

「怖かったですけど……でも、ここを守るって決めましたから」

 

 その言葉に、士郎は何も言えなかった。

 

 桜は確かに変わっている。

 

 怖いと言いながらも、逃げない。

 

 守られるだけではなく、自分の意思で誰かを送り出すことができるようになっている。

 

 ライダーの背を押したのは、桜だった。

 

 令呪を使ってでも、セイバーを助けてほしいと願った。

 

「桜」

 

「はい」

 

「ありがとう」

 

 桜は少し驚いた顔をした。

 

 それから、首を横に振る。

 

「私は、お願いしただけです。助けたのはライダーさんです」

 

「それでもだ」

 

 桜は少し困ったように笑った。

 

「……はい」

 

 茶の間では、イッスンがライダーの背に乗ろうとして、ライダーに尻尾で軽く払われていた。

 

「おいアマ公! 久しぶりなんだから乗せろよ!」

 

 ライダーはそっぽを向く。

 

「照れてんじゃねぇよ!」

 

 ウシワカはそれを見て、楽しそうに笛を回す。

 

「美しい友情だね。小さき筆と白き太陽。何度見ても、良い絵になる」

 

「お前が言うと胡散くせぇんだよ!」

 

 イッスンが叫ぶ。

 

 士郎はその光景を見て、ようやく思った。

 

 ああ、本当に知り合いなんだな。

 

 ライダーがこんなにも自然に誰かと同じ空間にいるのを、士郎は初めて見た。

 

 言葉はない。

 

 けれど、関係がある。

 

 旅があり、時間があり、信頼がある。

 

 ライダーは桜のサーヴァントだ。

 

 でも、それ以前に、彼女にも帰るべき場所や、共に歩いた者たちがいたのだ。

 

 そのことを、士郎は初めて実感した。

 

 ◇

 

 夜明けが近づいていた。

 

 空の色はまだ暗い。

 

 だが、窓の外の闇が少しだけ薄くなり始めている。

 

 イッスンとウシワカの姿も、少しずつ薄くなっていた。

 

 最初に気づいたのは桜だった。

 

「イッスンさん……」

 

「だから、さんはいらねぇって」

 

 イッスンは笑った。

 

「そろそろ時間みてぇだな」

 

 茶の間の空気が静かになる。

 

 ウシワカは縁側の方へ歩き、夜明け前の庭を見た。

 

「夜明けまでの舞台。短いながらも、なかなか悪くない役回りだったよ」

 

「最後まで芝居がかった言い方しやがって」

 

 イッスンは呆れながらも、どこか寂しそうだった。

 

 ライダーは縁側に座っている。

 

 その横に、イッスンが立った。

 

「アマ公」

 

 いつもの調子より、少しだけ静かな声。

 

「今回は大変だったな」

 

 ライダーはイッスンを見る。

 

「でも、ちゃんと走ってた。相変わらずだ」

 

 イッスンは笑う。

 

「今度の相棒、泣かせんじゃねぇぞ」

 

 そう言って、桜を見た。

 

「嬢ちゃん」

 

「はい」

 

「こいつを呼んだのは、お前さんの願いだ。だったら、胸張っとけ。怖がりながらでも、誰かを助けたいって言えたなら、それは立派なもんだ」

 

 桜の目が潤む。

 

 けれど、涙はこぼさなかった。

 

「……はい」

 

 イッスンは満足そうに頷いた。

 

 次に、士郎を見る。

 

「そこの兄ちゃん」

 

「俺か」

 

「そうだよ。お前さん、無茶しそうな顔してる」

 

「よく言われる」

 

「だろうな」

 

 イッスンは呆れたように言った。

 

「アマ公もそういうとこあるから、人のこと言えねぇけどよ。助けたいなら、まず自分が倒れんな。そこの剣の姉ちゃんも、嬢ちゃんも、ツインテの姉ちゃんも、みんな困るだろ」

 

 士郎は何も言い返せなかった。

 

 ただ、頷く。

 

「分かった」

 

「ほんとかぁ?」

 

「本当だ」

 

「まあ、信じてやるよ」

 

 イッスンは笑った。

 

 ウシワカは凛とアーチャーの方を見た。

 

「遠坂の娘。そして赤き弓兵。君たちの舞台も、まだ続く。魔女は退場した。だが、聖杯はまだ幕を下ろしていない」

 

 凛は眉をひそめる。

 

「またそれ? 何が来るの」

 

「影は、いつも光の後ろに生まれるものさ」

 

「具体的に言いなさい」

 

「ノンノン。未来とは、少しだけ隠れているから美しい」

 

「最後まで腹立つわね」

 

 凛は腕を組む。

 

 だが、本気で怒っているわけではなかった。

 

 アーチャーは静かにウシワカを見ている。

 

「フォーリナー、か」

 

「おや、僕に興味が?」

 

「警戒しているだけだ」

 

「メルシー。それもまた、関心の一種だよ」

 

 アーチャーはため息をついた。

 

 セイバーは、イッスンとウシワカの前に座った。

 

「あなた方の助言に感謝します。私は、まだ剣として未熟でした」

 

「未熟?」

 

 イッスンは目を丸くする。

 

「何言ってんだ、姉ちゃん。操られても戻ってきたんだろ。十分根性あるじゃねぇか」

 

「ですが、私は」

 

「反省は飯食って寝てからだって言ったろ」

 

 イッスンがぴしゃりと言う。

 

 セイバーは一瞬黙り、それから小さく頷いた。

 

「……はい」

 

 ウシワカが微笑む。

 

「剣は折れず、太陽は沈まず。ならば、次の朝へ進めばいい」

 

 夜明けの光が、庭の端に差し始めた。

 

 イッスンの体が、さらに薄くなる。

 

「じゃあな、アマ公」

 

 イッスンはライダーを見た。

 

「またな、とは言わねぇぞ。どうせお前は、誰かが呼べば走ってくんだろ」

 

 ライダーは静かにイッスンを見る。

 

 そして、短く尻尾を振った。

 

 イッスンはにっと笑う。

 

「へっ。分かってんじゃねぇか」

 

 ウシワカも笛を胸元へ当て、軽く一礼する。

 

「白き太陽よ。君の夜明けは、まだ終わらない。僕たちは少し先で、また風の音を聞いているとしよう」

 

 朝日が差す。

 

 その光の中で、イッスンとウシワカの姿は、墨が水に溶けるように薄れていった。

 

 最後まで騒がしかった小さな旅絵師の声も、芝居がかった月の剣士の気配も、静かに消える。

 

 残ったのは、朝の光と、茶の間の湯呑み。

 

 それから、ほんの少しだけ残った騒がしさの余韻だった。

 

 桜は縁側に座るライダーの背に、そっと手を置いた。

 

「ライダーさん」

 

 白い神狼が桜を見る。

 

「また、会えますか」

 

 ライダーは答えない。

 

 ただ、桜の手に鼻先を寄せた。

 

 それが答えなのか、約束なのかは分からない。

 

 けれど、桜は少しだけ笑った。

 

 夜明けの光が、衛宮邸の縁側に差し込む。

 

 一晩限りの客人たちは消えた。

 

 けれど、彼らが残した騒がしさと温かさは、確かにそこに残っていた。





ライダーの真名が判明しました

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